知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

ゆらぎが自然崇拝の原点の話

       日本古来の楽器に、尺八があるのですが、なんでこんな楽器が定着したのかを考えてみると意外と面白かったと言う話です。色んなことに日本風という事が出てくるのですが、日本風って何、西洋風でも中華風でもないってどんなことと問われると意外にこうだと言う特徴を語るのは難しいと思うのです。実際、中華風と言っても時代で大きく変わっています。唐や漢などと言う時代には男性も長く髪を伸ばしていますが、清の時代は辮髪と言う独特のものです。西洋風と言ってもイギリス風もフランス風もドイツ風もイタリヤ風もと言われたら何が西洋風なのか結局ぼんやりとしか分からないという事もあります。ところが、この尺八の歩みを見ると日本風の傾向が見えてくるように思えるのです。尺八は管楽器に現代では仕分けられます。尺八と同じ管楽器はフルートとなりますがこの違いを見ると実に分かりやすいのです。西洋の笛の原点は、動物の骨と言われています。骨の空洞を利用して遊んだのだと言われ、穴の開いた動物の骨も遺物として発見されています。さらに、骨だけでなく、リコーダーとして植物の葦を利用したり、オカリナのような形状の石笛(いわぶえ)や土笛もあったそうです。東洋では、竹がありましたから、楽器としては簡便な竹の活用が多く見られます。陶器は、東西でも楽器としては大きな発展をしませんでした。日本でも、竹がありましたから骨を使用する事はありませんでした。ここで日本が独自になっていくのは、西洋が、全音であれ半音であれ、一つ一つの音が正確に出るための工夫を追及していったという事です。音を正確に出すための穴の数も直指だけでは出来ない穴を器具によって可能にする工夫が進むのです。始まりの、フルートの穴は、5~7個から始まるのですが、どんどんと増えていき穴を制御するためのキーがどんどん増えて今のフルートのようになっていったという事です。一方尺八は、中国の唐から雅楽の楽器として奈良時代に日本に伝来しました。正倉院には当時の尺八が残されています。この頃の尺八の手孔は6つで、現在の尺八より1つ多くあったのです。複数の音を出す為には、穴の数は重要です。少ない穴では、押さえる指先で微妙な調整が必要になりますから、よほど熟練しないと音の調整が難しくなります。にもかかわらず尺八は、穴を一つ減らしてしまうのです。つまり、音が不安定になるにもかかわらず敢えて不安定の中に音を見つけようとするのです。その求めた音が「ゆらぎ」というのだそうです。この「ゆらぎ」は日本独特の感性だと言われ、日本風そのものだという事が出来るという事です。「ゆらぎ」と言うのは、ある量の平均値からの変動をいうという事で、簡単に理解するとドの音の周辺もドに含まれると考える事だといわれます。ですから正確なドではないという事です。当然不正確な音が含まれているのですから音は濁った状態になります。一音だけならそれもいいでしょうが和音としてドミソが一時に流れればいわゆる汚い音になるという事です。ではどんな事が「ゆらぎ」なのかと調べると、星の瞬き、ろうそくの炎の揺れ、川のせせらぎ、木漏れ日、蛍が放つ光、小鳥のさえずり、 心臓の鼓動規則正しさの中にある若干の不規則さ、 この両方があってゆらぎと言えるのだという事です。つまり、正確な音と不規則な音が混ざり合っていながら「きれい」「美しい」と感じることが「ゆらぎ」という事らしいのです。言い方を変えれば、より自然に近い音の追及で、正確な純音は自然にはないと言う考え方かもしれません。これは、とてつもない事です。単音の追及は出来ますが複数音の統合は簡単ではありません。しかも、偶然に出来上がっている、意志をもたずにあっちにこっちに揺れることではなく、意志を持ったうえで統合して自然の物まねではなく、人工音でありながら「きれい」と感じさせることは至難の業としか言いようがありません。私なりの理解では、自然の中には鉄鉱石はあっても鉄は無いと言う考え方だと思うのです。自然の音に近づける努力ではなく、人が出しても自然の物であるという事を実現したいという事だと思うのです。「ゆらぎ」は、自然の物まねではなく、自然と調和するという事ですから、日本風と言うのは、人工物であっても自然と調和する事ではないかと思うのです。ですから、フルートは同じものは作れますが尺八には出来ません。自然には同じものは無い中で、自然に調和する音を出す。これは、崇拝としか言いようがありません。