知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

話したってわからない人ほど話し合いを求めるの話

   相手の話をよく聞こう、聞く耳を持ち、小さな声も聞くべき、と色々な教育者が繰り返し話しますが、ではそう語っている教育者自身が、当事者となったときにはどうするんだろうと誰でもが思います。話し合いで解決できないから司法があるように、話を聞いた後何をするかが問題です。つまり、双方が同意できていることは話し合いなど必要ありません。不同意ですから、話し合ったってどっちかが相手に歩み寄らない限り話し合いでの解決などある訳がないのです。小説ではありませんから正義と悪役が分かるなんてこともありません。どっちも正義ですし、どちらも悪役でしかないのです。ですから、最終的には、力関係で決まるのです。多数決だって多数という力です。軍隊や警察だってただの暴力装置ですし、力そのものです。軍事力の強弱で正義を決めるという事も普通で、軍事クーデターが無くなった世界ではありません。つまり、話し合いは双方が合意できなければ力づくでも押し付けなければ平行線で解決は出来ません。大きな話をするなら世界の情勢なんて軍事力と平行線の話に満ち溢れています。カウンセリングの基本には傾聴が最も大事ともいわれます。でもこの発想は、相談者を下にみてしているからにすぎず、与える側が、教え導くに近く、聞くだけ聞けばストレスが低下する程度の場合の方が多くみられます。つまり、話し合いが必要だという事は対立したものがあるという事ですから、どちらかの意志をくじかなければ決着などするわけがありません。合意していない、不満だという両者を黙らせるか、一方を譲歩させるか、話し合いとはそういうものだと言えます。話し合いをしようと言うのは、譲歩が強いられるということでもあり、話し合わなければならない事があること自体が揉めていることなのです。学校で言う教師の主導する話し合いを話し合いだと勘違いさせている教育が間違えています。そして、多数決に任せる民主主義では、多数の意見が決定の要素になりますから、少数者の意見を尊重しようというのは形式以上に意地悪なのです。つまり少数者の気持ちも組み込んだという証明書が必要だから、話し合いが行われたという事実を必要としますが、初めから少数意見を尊重していたなら話し合いの必要などありません。合意しているのですから。問題は、話し合えば自分の意見が通ると勘違いしている人です。自分の意見は正しくて周りはわからずやばかりだとしか思えない人がいることです。こんな人は、調べるという事が出来ません。調べるときも自分に有利な事しか調べませんし、一点でも自分に有利なことがあるとそこにしがみ付いて広くは調べず、自分に不利なことは認めません。一つでも自分に有利だと思うと、周辺の事項同士を関連付けることはしませんから、9割否定されても1割だけで強気でいられます。しかも又聞き的な推測発言が多く、話した人の真意をその場では確認できないようなことを真実のごとく話します。実行できそうもない事でも、頑張るの一点張りで突破しようとします。その他にも、想定・見込みが出来ませんから論議がかみ合わなくても平気ですし、話がすぐに飛び、枝葉に移って一つの事を集中してまとめるつもりもありません。何でも聞きたがり知りたがるのですが、自分に有利なこと以外は受け止める気など全くありません。そしてこんな人は、依存が当たり前で、依存も権利と勘違いしています。話しても分からない人は、話し合いが自分の主張が理解されて賛同を得るチャンスだと思い込んでいます。だから自己主張はしますが相手の言っていることを聞く気も分かろうとする気持ちもありません。一方通行しかありません。何故なら、話が分からない人が話し合いたいと言うのは、相手にわからせることが目的で、相手を理解しようと言うことなど初めからないのです。当然自己主張に満ち溢れていますから、相手が何を言い出すかの想定なんかしません。自分が言う事だけを繰り返してくるのです。だから、わからないのではなく自分の主張以外は何も受け入れる容量はないのです。そこには、駆け引きも交渉もありません。ことごとく論破されてもそれが理解できません。何故なら自分の主張に問題があるではなく、何度言っても相手が自分の考えが理解できない愚か者であり、わからずやと思い込んでいるからです。そのような状況になると、むしろ被害者意識が高くなって、相手の言葉尻どころか、言葉から連想して事実と反する事さえ妄想して攻撃性が高まります。話せばわかるは幻想で、話したってわからない人は現実にいるのです。そして、話したってわからない人ほど手段になってしまった話し合いを求めるのです。