知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

トラップを仕掛けてでも、仮想敵を作りたい被害妄想の話。

 人間は誰にでも被害妄想はあります。簡単に言えば、他者を「疑る」という事ですし、猜疑心やひがみ、杞憂、嫉妬、錯覚 様々ありますが、そのほとんどは、諦めとか妥協とか、忘却とか何らかの処理方法で埋めてしまうと言うものだと思うのです。ところが現実社会の中で被害妄想に至る事実もないのに自分から仕掛けてでも被害妄想を演じたい人がいるのです。普通、被害妄想だけなら、多くの人が心配事として相談にも乗りますし、応援もしますし、おせっかいもしてくれますが、このタイプの人は、自分で仕掛けてでも相手の言動が自分に対して攻撃的だと訴えるのです。つまり、トラブル状態でないと自分の存在を肯定できない人がいるという事です。そんな人を淋しいからだとか、かまってちゃんだとか承認要求にすぎないとか、知った風の説明をする人もいますが、穏やかな水面に顔を付けて息を吹きかけてでも波を起こしたい人は関わってくれる人が欲しいのではなく自身の気分の高揚を求めているのです。自分の息で波が出来たことで視覚的に自分が作り 出した波だと確信できなければなりませんし、他者にその波が届くことが確認出来る事で自身の気分が高揚するのです。そして、そんな確認の相手に選ばれてしまうのが、とてもいい人で、思いやりのある温かく、且つ気が弱い人なのです。標的にしたとしても反撃して自分へ挑んでくるような人には波は送らないのです。間違えて波が複数に届き、反撃される事があると、真っ先に逃げ出してしまいます。一方、対応してくれる相手には、威勢のいい事、かっこいい事を並べ立てますが、何一つ実行する気などありません。何故なら被害妄想と同様に勇者妄想に突入しているので、現実に自分が実行したこともない「全力を尽くす」や「命を懸けて」などと言う言葉が簡単に吐き出されてくるように本人は現実社会では全力を尽くすとはどんなことかの想定も出来ていないからです。そして、少しばかりの否定を届けると「死」を匂わせます。そんなときも、識者は、自分が存在している事を確認したいだけという事がありますが、人間「死んでやる」と叫ぶ相手程対応が困難なものはありません。自分の一番大切なものを平気で晒し、対人交流のアイテムにすることで自己を有利にしようとするやり方は、相手には響かないだけでなく、交流相手としても危険で避けたい相手と思われるだけです。それだけでなく、人間は社会的で孤独との戦いはつらいと宣伝されていますがそれは正しい認識ではなく、孤独を好む人も多くいる事を知るべきで孤独は人間的でもあるのです。ですから他者と交流すると言うのは、どんな形であれ自立していなければならないという事で、他者に依存するという事ではありません。淋しいにしろ、かまってほしいにしろ他者に自分の感情を癒してほしいと言うのは依存であって依存は生きるために必要ですが、命を担保にして依存してはならないと思うのです。そんなことをすると、周りの好意ある人でさえ出来れば関わりたくない人になってしまいます。すると今度は、無視されたと言う因縁をつけて、自分から被害妄想に至るのです。それだけではありません、たとえば、壊れやすい物、変化があるものを自分の周囲に置きそれらが何かで傷つくと、自分はどれだけ癒されていたかとか、活力を貰っていたのにと被害者になりきります。他人からすると他者と共に仕事や生活をする場に、壊れやすい物を持ち込むこと自体がマナー違反だし、まるでトラップでもあるかのようにしか思えません。孤独を苦としていない人は、防衛を必要とする自分のテリトリーを必要としません。それは、どんなに社会的地位があっても、どんなに腕力が強くても、どんなに戦略が強くても完全な防衛など出来ないし他人と関わらなければならないからです。むしろ他者のテリトリーであろうとふあふぁと通り過ぎながら自己を満足させる見聞を拾い集め自分の世界を楽しむほうが気楽です。しかし、被害妄想のタイプは、他者がいなければ被害者になれませんから、何が何でも他者を巻き込まなければならないのです。敵対的な言葉や自殺的な言葉で刺激してでも巻き込みたいのです。そして、それこそが自身への高揚感になるのです。他者を傷つける事さえも自己の高揚感に結び付いている人がいるのです。人は本来、孤独を楽しむことの出来る動物だという事を知らない人がいるのです。人は、孤独に耐えられないと言う、社会的な動物だと言う嘘の刷り込みから解放されたなら、もっと自由になれるのです。自分の思う世界で自由になれば、他者をトラップ仕掛けで巻き込まなくても自由に息が出来る事を経験したなら被害者意識なんて埋めてしまえるものだと思うのです。