知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

志木の学校に行く子供たちの列。安全確保は警察がすべきの話

    宗岡4小に行くには、志木大通、本町通、枝通り3本の道路が根っ子道のように交わり複雑な合流交差点を通過して、左手に建築中の市役所を見ながら柳瀬川の橋を渡るとふじみ野朝霞線の道路が合流する交差点まで進み、それを乗り越えて柳瀬川と新河岸川の合流点を右に見ながら新河岸川の橋を渡っていかなければなりません。偶然に朝の通学時に出くわしたのですが、この状態が仮にいつもの事なら行政の怠慢としか言えません。この区間の距離は長くもないのに、入り組んでいる事から信号の変わる時間が長いのには単純な四つ角の様に信号の感覚かの繰り返しではなく、レぞれの信号時間は短くてもそ複数の信号合調整をするために、自分の信号時間は短いと来ていますから、小学生の朝の集団登校で歩道一面に子供たちが溢れて閉まっているのです。交通誘導の大人たちが懸命に誘導しているのですが信号の時間では長い行列は渡り切れませんから、大忙しで列を切っていますが、集団登校のグループが分断されると別問題となりますから子供たちはグループに引っ付いていようともします。車はと言うと渋滞のような感じですから黄色でも無理やり侵入する車もいてとても子供たちにやさしい環境とは思えません。時間帯としても、通勤者、中学生、高校生も加わりますから、こんな中で一台でも暴走すれば何人もの子供たちが巻き込まれるのは当然の事としか思えません。これがいつもの事だとしたなら行政の怠慢としか言えません。何故なら、集団登校を推し進めているのは教育委員会であり行政です。その基本は、通学時の安全ですから、こんな風に集団にすることで返ってまとめて事故にあう可能性は格段に高くしている事を認識すべきです。集団登校を始めたことは別の理由があったかもしれませんが、今日では集団にすることがかえって危険な場合もあります。保護者も交通整理に協力しているようですが、これだけまとめた場合には、学校の中に入るまでの安全対策が実行されなければ事故になった途端に大惨事になってしまいます。この現場には、本来警察官の動員による抑止交通整理をすべきです。登校の時間ですから、警察官が交通整理をしたところで時間は、30分程度の事です。運転者への警察官の抑止力は非常に高く無謀な侵入や運転はかなり制御されます。信号機の規則的な流れより警察官の応用力による流れの制御の方がよっぽど効果が期待できます。集団登校で子供たちの安全を求め教育委員会が指導しているのなら、一定の人数がまとまったところからは行政が責任を持って安全確保を担い学校へ導くべきです。その手段として警察を行政は持っているのですから警察力によって子供を守るべきです。集団登校が子供たちの安全を求めるために始めたのなら本来の安全確保が学校到着まで確保されているかを点検するなら、現代の交通事情をきちんと検討し対応すべきです。保護者はどんなに頑張っても無謀な自分勝手な運転手とわたりあえません。警備員では違反慣れしているような車に乗ったらガンダムにでも乗った気分で急に強気になっている運転手と対抗など出来ません。そしてこんな状態では、集団になっている子供たちを無謀運転の車から守れません。まとまっているほど被害が大きくなるという事に最大限配慮するなら強い抑止力のある警察を配備すべきです。

比喩のつもりが「何のこと」と問われる時代の話

 物のたとえのことを比喩表現と言いますが、現代社会ではこの比喩表現がとてつもなくリスクが高まっています。ですから、販売目的でわが子の様に育てた製品なんて言い方をすると、子どもを売り飛ばすのかと言う非難になってしまいますし、それほど手を掛けたと言う意味であっても、子育ては一方通行ではありませんから、親のそんな思い込みが子供にとっては迷惑ともなっているとも非難されます。比喩表現(ひゆひょうげん)と言うのは、物事を類似または関係する他の物事を借りて表現することですが、自分の考えを相手に分かりやすく理解していただかなければ無駄そのもので、間接的な言い方でなく、単刀直入に言えばいいだろうと言われてしまいます。つまり、言語表現として誰もが思い浮かべる物事や事象でないと、何を言っているのかわからなくなります。相手次第でどうにでも考えることが出来るという事になってしまえば比喩表現が逆に問題となってしまう事さえ出てしまいます。例えば「竹を割ったた様な性格」など相手を誉めたつもりで使えそうですが、竹割の前提である薪割の時に斧を振るい落としても真っ直ぐに割れない木もあるからいつでも真っ直ぐに割れる竹の例を使用したものですが、薪割経験さえない人が聞いても、竹割まで行きつくことは難しい時代です。それに性格の表現として、真っすぐに割れない性格はだめだと言う意味に取られてしまうと差別と言われかねません。さらに、日常経験に斧や鉈(なた)なんて見ることさえなくなってきましたし、子供に包丁さえ危ないと言う時代の親にとって斧や鉈なんて凶器そのものです。それほど身近で無くなったものを比喩として使用しても伝わり方は複数で真逆にもなりかねないという事にもなります。同じように、歌の「北風小僧の貫太郎」は誰でもが口づさみますが「小僧さん」など見た事もないでしょうし、「丁稚奉公」なんて、児童労働や児童虐待として非難されるべき事項に入っています。児童書であっても、昔話裁判があるように必ずしも昔のように受け入れられているわけではありません。もっと言うと、比喩表現などは日本語の優秀性として語る人もいますが、過去の日本語には「緑」の表現がなくて「青」でした。だから今でも、「青信号」は緑色と様々な人に言われたりもしています。つまり、言葉と言うのは、過去の事を活用する事はあっても、今生きている人間同士の会話や文章が優先され、変化していますから、現代風の比喩表現を工夫していかないと通じないだけでなく、差別やハラスメント表現として非難されてしまう事になってしまうのです。日常会話であれ、比喩表現はそこら中に溢れていますし誰もが使っていますし、コミュニケーション術や会話術の講師は非常に有効な方法として紹介しますが、言葉の失敗の一番危険な表現ともなってきています。仲間内なら問題ないものが今はどんどん公開的に表現される時代になり、そんなつもりではなかったと簡単に取り消すことが出来ない時代でもあります。言葉の表現もカタカナが多くなり標準語の様で特定の人たちの共通語だったりすることも増えました。過去には隠語と言う言葉表現もありましたが、なんとなく犯罪的で今ではあまり聞かれません。変わって芸能などの 業界用語が使われた時代もありました。近年は、インターネットからの表現が多くなっている言葉の世界ですが、比喩と言うのはなんとなく高尚で、文学的に思えますが、読み解く力がなければ通じないという事にもなってきています。価値観から解釈迄多様化が進み、個性と言う個別対応は、比喩表現のような表現をだんだんに狭める感じがしています。新聞でも、「きな臭い」と言って戦争だけでなく、政争などを予感する時に書かれますが、何か事件が起きそうな雰囲気と予測して読んでくれるのは新聞を読みなれている人で、焦げる匂いにあまり接することが無くなった現代では、焦げくさいが火事になるかもしれないと結び付けるのは難しくなっていますから、適切な表現とは言えない感じになってきました。ただならぬ空気、虫の知らせ、不穏な空気、などもなんとなく慣れていてそういう事だろうなと理解してもらえそうですが、どうしてと聞き直されたら簡単には説明が出来ない言葉になりつつあります。ですから、比喩のつもりがすり替えられて解釈される悪意を持って広報されれば言いたかったことどころか指弾されることにもなり兼ねません。最近の事例では、ごはん論争と言うものがありましたが、相手に伝える高級な言語コミュニケーションに比喩表現があるなどとどこかで格好よく話したつもりが足をすくわれかねない時代になったという事です。そして、本人は比喩のつもりが相手からは揶揄と解釈されて、非難される時代にもなっています。

 

「行き過ぎた指導」と「適切な指導」なんかその時の状況次第の話

  東京都内の公立小学校で、体育用の紅白帽を忘れた児童に対し、担当教諭が体育の授業に4回続けて見学させるというのは「行きすぎた指導だ」として、小学校が所在する区の教育委員会が学校側に改善を指示していたという記事が新聞に載りました。知ったかぶりの専門家は「学習活動をさせない指導方法は、適切とは思えない」と指摘し、日本生徒指導学会長の東京理科大大学院教授は「子どもの教育権や人権に配慮すれば、こんなルールを設けるとは思えない。教員の指導内容を管理職が知らなかった点も、学校運営として課題がある」と指摘しました。区教委は「児童にもっと寄り添った対応をすべきで、行きすぎた指導だ。体育の見学も、児童が学習に参加する権利を奪うことになりかねない」と学校に改善を促し、区内の公立校にも注意喚起しましたという事です。が、通常学校では、見学も学習活動と認められていますから、現場としたなら今更何をと言う感じだと思うのです。たぶんこの指示に対して、現場は混乱しないし、反応もしないと思うのです。結局、何言ってるんだ程度で、指導は顧みられることなく埋もれていくのだと思うのです。また、「教員の指導内容を管理職が知らなかった点も、学校運営として課題がある」と指摘していますが、この教授は日本生徒指導学会長としても、全く現場を理解していないと言えます。今回の内容は、学校管理職だけでなく、教育委員会も知っていたことと考えるのが普通と思われます。その根拠は、学校教育法第11条に教員は、児童生徒に懲戒が出来ると規定されその具体的内容も、学校教育法施行規則に示されており、その範囲と思われる懲戒は通常の学校に普通にあり教育委員会も学校も容認していたはずなのです。「学校教育法 2 児童生徒の懲戒と体罰禁止 第11条 校長及び教員は,教育上必要があると認めるときは,文部科学大臣の定めるところにより,児童,生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし,体罰を加えることはできない。」そして、「(学校教育法施行規則)の中で、懲戒の例として、 ・放課後等に教室に残留させる。・授業中、教室内に起立させる。・学習課題や清掃活動を課す。・学校当番を多く割り当てる。・立ち歩きの多い児童生徒を叱って席につかせる。・練習に遅刻した生徒を試合に出さずに見学させる。」となっているのですから、帽子を忘れた児童に、「頭部を守る紅白帽を持ってないのだから見学は当たり前」は教育委員会も学校も常識だったはずなのです。教育委員会には、行政職員と同時に現場教員や学校長経験者が勤務していますから、どこにでもあることとしか認識しなかったはずです。推測ですが問題となったとしたら、家族と情報を共有していなかったことで、家族の了解なしに、4回も見学させたことが家族から教育委員会に強い苦情として訴えら無責任な教育委員会が現場に責任を押し付けただけだったと思うのです。大事なことは、教員の懲戒権は法律で認められているといっても時代でその基準は動いていると言う事を認識し、職場の常識も社会の趨勢に適応しているか照合する必要が出てきたと言う事だと思うのです。特に、家族との関係はますます重要だという事です。家族は非常に過去とは違った意味で関心が深くなっています。今日では、現場の暗黙の常識がトラブルになると突然社会にさらされ簡単に一方的に否定されるという事が繰り返し起きているという事です。ですから、前はこうだった、先輩からこう教わった、学校時代の本に書いてあったを根拠にしていると、突然に足をすくわれるという事になりかね無いという事でもあります。逆、暗黙の常識に通り一片の指示を出したところで、その指示は考慮されることなく現場が素通りしてしまいかねないという事でもあります。上部が責任を取らない通り一遍の指示で済ます体質の中では、事案が発生すると個人の責任に転嫁することが普通になりつつある今日では、今回の事例のように校長も教育委員会も知っていたことなのに教員個人が標的なっています。「なんで俺だけ」とスケープゴートになる事にもなり兼ねません。こんな中で、育成される教員も可哀そうだと思うのです。

 

うさぎ跳びを強制した指導者は反省していないの話

 空手の東京五輪組手女子61キロ超級代表の植草歩(28=JAL)氏は、全日本空手道連盟全空連)の香川政夫強化委員長(65)と長い師弟関係ですが、竹刀を使った練習で目を負傷したと公にすることでやっと竹刀を使用する練習の中止が出来ました。同時に、全空連は、強化委員長解任と理事の辞任を決め、剣道連盟に謝罪文を送ったという事です。しかし、香川氏は竹刀の使用を認めつつも「故意にやったことは決してありません」と竹刀を使用したことが悪い事とは全く思っていません。何故なら、この竹刀で行う練習方法が最適だと選手が怪我しても信じて疑う事がないからです。香川氏が、強化委員長になれたのも、この竹刀練習法で植草氏がメダルを取れるほどになった事で指導者としての手腕が評価されたからです。ですから、選手を道具にして、弟子を踏み台にして、メダルさえ取れれば指導者と評価されて、その部門での地位が得られると言うスポーツ界の生き残り構造が根底にありますから、現役を引退した後にスポーツで生活するには現役選手を如何に取り込むかは重要で、スポーツの関係者はこの仕組みの根底の批判はしないし、否定もしないのです。指導者として連盟などに残れた人は、その流れの中で今の地位を得ているのですから自己の身分を否定しかねないようなことなどしません。本当に狭き門なのですから。その証として全空連も竹刀を使用した練習に対して「意図的なのか、たまたま当たったのか。事実確認に限界があった」などと言い、剣道の竹刀を使用したことを剣道連盟に謝罪しているにもかかわらず、意図的であろうと偶然であろうと、練習方法そのものを否定しなければならないのに、否定はしないのです。そして否定しないのは、この方法が効果があると思っているからでもあります。外国人相手の試合では、このアイデア方法が効果があったので代替品を使用してもいいから温存しようと言う欲があるからです。逆にいくら科学的な方法でも、外国では普通と言われる方法でも、選手が勝てなかったら採用はされませんし、簡単に放棄されるのです。そして、さんざん選手に強制していた方法を、突然否定しても検証もされずに、誰も責任を取らないのがスポーツ界なのです。科学的なトレーニングとしてスポーツ科学なんてことを言いますが、日本のスポーツ界では所詮根性論の域を超えることはありません。そして、どんな方法だろうと勝てばいいのですが、負ければやっぱりあっちの方が良いとアイデア頼みと流行にふらふらしているのです。そこには、どうして、世の中には強い選手が居たり、どうすれば勝てるのか本当はわかっていないからなのです。素質もあり技能もある選手が勝てなければメンタルが弱いと選手の性にして、指導者の指導方法を問わないのはどうしたら勝てるか分かっていて指導しているのではなく、たまたま天性で勝った選手の練習方法と監督が持ち上げられているからにすぎないからです。例えば、オリンピックのマラソンで金メダルを獲った高橋選手に監督は誉めるやり方で伸ばしたと言いましたが、その監督の元で金メダルを次々と獲得するという事にはならず結局高橋選手だけの一発屋みたいな状況でもありました。メダルが取れるような天性の機能と運のいい選手に出会った監督が連盟や組織に残り生活の保障があるという事でしかありません。スポーツを競技として行う人は沢山いますが、その競技でお金が生み出されなければ補助金頼みの組織に残らなければ生活費と活動環境の給与や特典を貰うことは出来ずスポーツを継続していくことさえ出来ないからです。スポーツは群れて補助金やスポンサーを確保しないと結果は趣味として継続するほかには手立てがないのです。だから、学校等の教員になるか、民間のスポーツ施設の指導員として頑張るかでなければ生活費を稼ぐことはスポーツには難しいのです。昔、小学生のころ、その辺にある日本薄荷、今でいうミントの葉を磨り潰して足に塗ると早くなると言う伝説があってメンソール効果で足がスースーして早くなるような気がしたものですが、小学生ですから隠れて塗るのではなく皆で並んで塗っているので、やっぱり現実は天賦の能力のままなのです。運動機能は身体機能として天賦の物です。練習によって最大限にその機能を活動させることは出来ても、それ以上にはなりません。元々の才能がなければどんなにいい方法でも限界はあるのです。監督の方法がどんなに素晴らしくても、逸材に出会わなければ、オリンピック級の功績など残せないのです。ですから、高校野球を見ても、全国の中学の逸材を集めた高校が優勝するとは限りません。それを筋書きのないドラマなどと持ち上げますが、同じ学校で何年も監督をしている人が学生に合わせて指導方法を変えたりなどしていません。監督は同じ方法に拘って指導していますから、そこに天賦の才のある学生がたまたま転がり込んでくれば勝てると言うだけの事です。日本のスポーツ組織が単なる運動好きのおじさんの過去の偶然による栄光にすがった生活事業になってしまうのは、現役を引退した人たちの生活の糧として利権をむさぼっているからにすぎません。そんなスポーツの指導者面をしたおじさん、おばさんは、過去にうさぎ跳びを信じて散々させられて否定された経験があるはずなのに、うさぎ跳びを階段で迄させて膝を壊してしまった沢山の選手たちに謝罪もしない体育の指導者の様に、今の指導法で選手が怪我をしても謝るなんて反省は絶対にできないのです。

豊田章男社長、足元ちゃんと見ていますかの話

トヨタは、行動指針の取り組みを通じて、より大きく進化した価値を社会に提供し、事業を通じてSDGsの達成に貢献したいと考えています。そして、信頼される企業市民をめざしてこれからも積極的に社会貢献活動を推進していきます。」とか「また、SDGsの目指す持続可能な社会の実現には、人権やダイバーシティなどのESG課題への取り組みも必要です。」と建前をトヨタは語ります。まあ、そうは言っても理想であり目標ですから、現場でどれほど実現出来切るかと言えばなかなか難しいと言い訳されるでしょうが、物事には、高い理想と同時に自分の足元も確認しろと言うえことがあります。高邁な理想なくして前進がないように、現実の自分を適正に評価し改善することも同時に行わなければ前に進むたびに現場のほころびが本体を蝕んでいきます。

先日、車の左側の窓ガラスの上下動が出来なくなりました。数年前に右側が動かなくなった時に販売会社であるトヨタと大いに揉めました。最終的に費用を払って修理したのですが、この時も欠陥ではないかと訴えましたが退けられました。そんなことがあったので車検や点検も任せしているトヨタ売店では面倒くさいやつと思われていると引き継がれていたと思っていましたからまともな説明を受けられると思っていたのですが、整備士の回答は、実に不愉快なものでした。だから、なんでと聞き返してしまいました。故障内容はこうです。車の窓ガラスは上下するように出来ていますが、それを行っているのはモーター付きの伸縮装置で上げたり下げたりしています。前回はこの装置の骨が弱くて折れてしまったと言うものでした。その時も強度試験をやっているのだから通常では折れたりしないものではないか、子供が首を挟むほどのパワーがあり劣化したとしても購入して数年で折れるのはおかしいと言うものでした。今回は、その装置のアームと窓ガラスをつなぐ役割の硬質プラスチックの部品が折れたと言うものです。簡単に言えば窓ガラスと駆動装置とのジョイントでドアで言えば蝶番が壊れたという事です。接続部分は劣化もしますから折れるという事は誰でも理解は出来ます。しかし、トヨタの回答は、窓ガラス一枚と窓枠のゴムの取り換えが必要だと言うのです。窓ガラスは、ガラスで、ジョイントは硬質プラスチックですから、一体成型で製造するものではありません。ガラスとプラスチックは別々に製造されているのですから、部品取替えでいいではないかと言うと、窓ガラスに特殊な接着剤で部品を取り付けているので部品だけの取り換えは出来ないと言うのです。考えても見てください、窓ガラスは強化ガラスですから何千円もして作られています。それは全く傷ついてはいないのです。ジョイントは硬質プラスチックですから原価は100円もしないものです。たぶん過去ならこのジョイントは金属でガラスに穴をあけてボルトで止めていたと思うのです。だから、金属のジョイントの方が強くて接合部分のガラスが割れたりしてガラスを取り換えるのは普通だったと思うのです。その改善としてガラスの割れない硬質プラスチックにしてボルトを省いて接着剤にしたら、今度はジョイントの方が弱くなりました。だから高いガラスが割れないで安いプラスチック部品の取り換えが必要ですとなるかと思いきや、ガラスは守ったけれどやっぱり捨てることにしましたという事です。どうせ部品を買うのは消費者で、その方が会社としての儲け幅は広がるのですから。結局、無傷のガラスは、交換回収した挙句に、産業廃棄物として廃棄されるという事を継続するだけで何の改善にもなっていないのです。こんな無駄はありません。ガラス製品を作るには、電気も大量に使います。豊田会長の胸にはSDGsのバッジが付けられていると報道されていましたが、SDGsとは程遠い大量消費時代の考え方そのものです。会長は「あの頃の大人たちは何をやっていたんだ、と言われないように行動することが、持続可能な社会の実現を目指すSDGsの視点でもあり、私たち大人が今、何をすべきかミッションを問われているのかもしれない」とも語っていますが、足元では金儲けの為には、壊れていなくてもより高い部品を買わせることが推奨されていることを知るべきです。豊田会長はパワハラで自殺した職員の事が報告として挙がっていなかったと嘆いていましたが、リアルな現場を、リアルに確認し、リアルなSDGsに、リアルに取り組むべきだと思うのです。

 豊田章男社長に於かれましては、足元ちゃんと見えていますか。

 

人の不幸が金になるの話

 福祉の制度に、株式会社も参入出来るようになって随分経ちました。福祉に営利は向かないと大反対がありましたが、社会福祉法人が独占し胡坐をかいている現状を打破し福祉の向上が必要だと広報されることで実現しました。では、目標は達成されたかと言うと全く問われてもいません。つまり、結果の検証は誰がしているのかと言うと誰もしていないのです。しかも、障害者は金になるという事が広く知れ渡り審議会や福祉の専門家が想定した事とは全く違ったアプローチで障がい者の利益が食い物にされていると言うことを福祉の御用学者は、反省もしていません。何故なら偉い人も、教授たちも、たとえ民間企業であっても悪意で参入することはなく善意で参入するのだから社会福祉法人との競争が福祉サービスを向上させるキーマンになる程度にしか考えていないからです。福祉サービスもサービスなのだから競争の原理が必要だと多く語られ、社会福祉法人に競争の刺激を与える為には、民間企業の導入が必要だと繰り返し広報されましたが、結果は双方が競争するなんてことは起きませんでした。民間企業は、福祉の刺激者にも福祉の牽引者にも、社会福祉法人の競争相手にもなりませんでした。福祉に関わる大学教授たちも審議会なんて専門家面している人たちも民間企業の言う「競争」と福祉サービスで行われる「競争」は異質なものでぜんぜん違うという事さえ分かっていなかったという事です。民間企業は、社会福祉法人など相手にもせず、ひたすら利益の出る制度の活用だけに注視し参入しました。利益が出るならそこに投資し出ないなら撤退するごく普通の活動しかしませんでした。障害福祉の就労Aと言う制度が儲かるとなると爆発的に参入し、制度変更されるとさっさと手を引いていきました。今、ネットの中では福祉事業所の売買が何十件と明示されています。障害者が自分の利用する事業所が売りに出されている事さえも確認できるようになりました。障害者の事業所が売買されていると言うだけでも刺激的なのに、自分が利用する事業所の経営者や職員がいつ突然のように変わるかもしれない刺激を障害者自身に向けるのです。最近では、住宅大手が新しく参入してきました。住宅業界でサブリースと言うのは普通の事で、簡単に言えば又貸しですが、先ごろシェアーハウスで、するが銀行が問題を起こしましたし、大東建託が、地主のアパート経営でも問題を発生させて話題ともなりました。中身は、地主に地主の資金でアパートやシェアーハウスを建てさせそれを20年とか30年問一括借り上げして家賃を保証すると言うものです。ところが、安定した借主が確保できないと、途中で契約の解消などにより地主の負債だけが残るなどと言うトラブルが発生していました。ここで紹介するのは大手の大和ハウスです。ダイワハウスの営業マンは、まず空き地を探し、その地主に障がい者グループホーム建設を持ちかけます。地主は障害者なんか知りもしませんから拒否的になりますが、そこで次に紹介するのが株式会社の福祉事業者です。グループホームはこの会社がやりますのでご安心をとなります。地主は土地に自己資金でグループホームダイワハウスに発注して、ダイワハウスは福祉事業者につなぐのです。福祉事業者としては賃貸で事業所が確保できれば自己資産として運用するよりも楽で、地域の説明会だって地主がやればそれですみます。地主は、一括借り上げで何年も安定した借主が確保できますから、安心です。20人定員の障害者のグループホームなら、木造2階建て建物で5・6千万は掛かりますが一般アパートのような競争はありませんし、障害者だから設備投資は必要最小限で済みます。一括借り上げとして、20部屋×3万円(実際はもっと高いが)でも月額60万円、年間で720万円、10年で建築費は賄えます。過去には社員寮として貸し出すという事もありましたが、一括で貸せれば経営としては実に楽です。福祉事業と言っても貸すだけで面倒くさいことはありません。アパート経営では、空き室リスクや管理業務が発生しますが、から福祉事業者が行います双方にメリットがあります。今民間企業の福祉事業者としては、グループホームはちょっとしたねらい目です。ですから、このグループホームは障害者集めのために身体障害者対応とチラシで謳いながら、大和ハウスの安物アパートコピー設計施工で仕上げますから、障害に対する配慮なんて感じられません。一例では、手洗いに車いすでは真っすぐ入れないし、風呂場にはリフトもない普通のものです。そんな事例に接しながら見た新聞記事は「介護もうかる 群がるファンド」という物です。今度は、ファンドです。ファンドというのは、投資家ですから社会福祉法人に投資など出来ませんから想定されるのは、株式会社の福祉事業です。望みもしないのに障害になって、苦労して福祉がよくなってきたかなと思ったら、望みもしないのに障害者は金になると民間企業が寄ってきました。記事のサブタイトルは「М&Aで規模拡大効率化し増す収益力」となっているように売買の出来る福祉とは、障害者が売買されているようなものです。何故なら、福祉法人は、儲かる事業と赤字事業を同時に行わなければなりませんが、民間企業は収益の高いものだけ実施して、赤字になるような面倒な障害者や事業は排除してしまい結果として売れ残りの障害者は路頭に投げ出されてしまうのです。福祉のお金の効率的な仕様を考えるなら民間企業の導入は人の不幸が金になるを実現しただけにしか思えないのです。

〝私の〞〝私の〞〝私の〞の欲と呪いと復讐の話

一つの事業開始のために、全権を委任されて二年間に渡って対応してきました。そして、自分の城が出来るまで、あと三か月という所で本部の方が「何してるのだろう」「なんか変だな」て感じさせる言動をしてしまいました。本人は、自分の準備に自信を持っていますから、「間違がっていませんか」などと指摘されることなど想定だにしていませんし、事業では途中の修正もあるという事すら全く眼中にありません。ですからこの期に及んで指摘する相手に対して、「これでいいのにこいつ何を言っているんだ」「日本語を話せ」位にしか受け止めません。目前になっての修正など聞く気もありませんから何度話し合ったって話は噛み合わず、指摘するリスクと問題に対しても始めてしまえば何とかなるとしか返答もしません。事業開始の時間が迫っているからどうしても畳みかける様に働きかけますと、本人の反発は益々ひどくなり、指摘する相手は最低の人間にしか見えてきません。リスク回避のどんな提案さえも選別する事さえ出来なくなり、自分のやってきたことすべてを抱え込んで指一本触れさせたくないと、説明する事よりも守る事だけに専念し始めます。こうなると人の話など何も聞きません。何故なら、聞くことは騙されることと本人は思い込み始めますし、一つでも譲歩すると次々に奪われてしまうと言う被害者意識に覆われていますから、人の意見を聞いて選択するなどという事は出来なくなっているからです。そして、後は全て拒否という手段で、自分が抱え込んでいる全ての事項を防衛バリアーを張って籠ってしまいます。事業を失敗させるわけには行きませんから、一枚ずつ引きはがさなければなりません。すると今度は、手を引くと言う捨て身攻撃を始めます。芸術的な事では創造していく過程で、自分の中での肯定と否定、評価と破壊が繰り返されて昇華していきますが、事業ですから、自分の中で解決する事よりは他者との関りの中で解決しなければならない事が多いのに本人だけが捨て身行動をされても孤立するだけで回りは唖然としてしまいます。しかも、捨て身の最も基本は、自分を必要としている、自分でなければならないと相手が感じているかどうかを推し量ってその度合いに応じて言動しなければ、ご自由にどうぞとなってしまいます。私は辞めますと言った途端に、どうぞと言われる状態なのか、待ってくれと言われる状態なのかは、賭けに近いし、自尊心と業務評価の最終判断そのものとなってしまいます。その事業に自分が必要と思われていれば引き止められますが、不要と思われていたなら丁度良かったという事にしかなりません。そんな重要な言葉を感情的に興奮して発することも3度にもなれば、分かりましたどうぞお引き取り下さい、という事にもなります。でもそんな言動をする人に限って一時間もすれば熱は冷めて、「撤回します。すみません」と謝罪しにきます。一身を掛ける気概がないのに、「うぬぼれちゃいけないよ」とばかりに対応されて初めて「しまった」と思う人の良くある言動とも言えます。事業の展開は「我慢と辛抱」しかありません。出来上がった城に兵糧を入れて入城して門を閉めるまではただただ頭を下げ続けることしかありません。同じ捨て身になるのなら城に入ってから、籠城戦をして負けたとしても自分の好きにさせてもらいますと宣言できるまでは、「我慢と辛抱」を繰り返すしかないのです。事業の展開では、短気は損気と言われ、自分の陣地を築くまでは反撃なんかしていたら一度にひっくり返されてしまいます。堅牢ではなくても自分の陣地が出来るまでは守備一徹、攻撃はひたすら我慢するしかないのです。しかし、この方はそうではなかったのです。方針の修正でさえ反撃するし不貞腐れるし報告はしないし、情報を隠すわと様々な抵抗をするのです。そうなると、任せきっていた業務内容まで確認しなければならなくなり、芋ずる式に不備が見つかりますからどんどん追及と指示命令が細かくなっていきます。そして恨みつらみを満タンにして本当に身を引かなければならない事態を引き起こすのです。こうなると残されている手段は、脅しの呪いと復讐しかなくなって自分が事業を始めたときの高邁な思いよりも破壊の方が強くなってきます。お前たちには、絶対に成功させない、事業そのものが潰れてしまえばいいと言う思いになりますから、何かしら妨害行為が出来ないかと、何でもかんでも思い出すように仕掛けてきます。私の城、私の物、私の職員、私の努力、私の協力者、私の関係者にその不当を訴え少しでも取り戻そうとし、出来ないものは奪われてしまったと風評を流します。何もかも騙されて、私を追い詰めるための罠だったぐらいに言わなければ気が済みませんし、怨念しか残っていないと言う事でもあります。事業の展開は人生ではありませんから修正も回復もやり直しも出来ます。その時は素直に従ってくれれば良かっただけのことが、意地と自己利益ばかりに拘わっているうちに最悪の結果を招きました。何とかしなければならないから、押っ取り刀でその方が、準備してきた事業の蓋を開けてみると、他力に頼った事業であったのに、自己の利益本位に組み立てていた構造も明らかになって、再建する方が新設するより大変だと言う展開になりました。後を引き継いだ者として、いつもなら去った人にでも事業を始める初心に戻って帰ってきたらと声かけるところですが、精査するほど初心から私利私欲だったとしか思われない事業経過に驚いてしまいました。事業の目的よりも自分の利益しか考えていなかったのかと考え込んでしまう状態に悩んでいたのに、「私からここを奪い取った。絶対に許さない」と怒っていると言う伝聞が流れてくると、もともと公的お金が投入されて、他人の褌で事業を始めたのですから、私の物など何もなかったことになぜ気づけないのか不思議です。どんなに苦労しても組織の一員として働いている限り、「私の物」になるはずがないという事すらわからない社会感覚も不思議です。