知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

うさぎ跳びを強制した指導者は反省していないの話

 空手の東京五輪組手女子61キロ超級代表の植草歩(28=JAL)氏は、全日本空手道連盟全空連)の香川政夫強化委員長(65)と長い師弟関係ですが、竹刀を使った練習で目を負傷したと公にすることでやっと竹刀を使用する練習の中止が出来ました。同時に、全空連は、強化委員長解任と理事の辞任を決め、剣道連盟に謝罪文を送ったという事です。しかし、香川氏は竹刀の使用を認めつつも「故意にやったことは決してありません」と竹刀を使用したことが悪い事とは全く思っていません。何故なら、この竹刀で行う練習方法が最適だと選手が怪我しても信じて疑う事がないからです。香川氏が、強化委員長になれたのも、この竹刀練習法で植草氏がメダルを取れるほどになった事で指導者としての手腕が評価されたからです。ですから、選手を道具にして、弟子を踏み台にして、メダルさえ取れれば指導者と評価されて、その部門での地位が得られると言うスポーツ界の生き残り構造が根底にありますから、現役を引退した後にスポーツで生活するには現役選手を如何に取り込むかは重要で、スポーツの関係者はこの仕組みの根底の批判はしないし、否定もしないのです。指導者として連盟などに残れた人は、その流れの中で今の地位を得ているのですから自己の身分を否定しかねないようなことなどしません。本当に狭き門なのですから。その証として全空連も竹刀を使用した練習に対して「意図的なのか、たまたま当たったのか。事実確認に限界があった」などと言い、剣道の竹刀を使用したことを剣道連盟に謝罪しているにもかかわらず、意図的であろうと偶然であろうと、練習方法そのものを否定しなければならないのに、否定はしないのです。そして否定しないのは、この方法が効果があると思っているからでもあります。外国人相手の試合では、このアイデア方法が効果があったので代替品を使用してもいいから温存しようと言う欲があるからです。逆にいくら科学的な方法でも、外国では普通と言われる方法でも、選手が勝てなかったら採用はされませんし、簡単に放棄されるのです。そして、さんざん選手に強制していた方法を、突然否定しても検証もされずに、誰も責任を取らないのがスポーツ界なのです。科学的なトレーニングとしてスポーツ科学なんてことを言いますが、日本のスポーツ界では所詮根性論の域を超えることはありません。そして、どんな方法だろうと勝てばいいのですが、負ければやっぱりあっちの方が良いとアイデア頼みと流行にふらふらしているのです。そこには、どうして、世の中には強い選手が居たり、どうすれば勝てるのか本当はわかっていないからなのです。素質もあり技能もある選手が勝てなければメンタルが弱いと選手の性にして、指導者の指導方法を問わないのはどうしたら勝てるか分かっていて指導しているのではなく、たまたま天性で勝った選手の練習方法と監督が持ち上げられているからにすぎないからです。例えば、オリンピックのマラソンで金メダルを獲った高橋選手に監督は誉めるやり方で伸ばしたと言いましたが、その監督の元で金メダルを次々と獲得するという事にはならず結局高橋選手だけの一発屋みたいな状況でもありました。メダルが取れるような天性の機能と運のいい選手に出会った監督が連盟や組織に残り生活の保障があるという事でしかありません。スポーツを競技として行う人は沢山いますが、その競技でお金が生み出されなければ補助金頼みの組織に残らなければ生活費と活動環境の給与や特典を貰うことは出来ずスポーツを継続していくことさえ出来ないからです。スポーツは群れて補助金やスポンサーを確保しないと結果は趣味として継続するほかには手立てがないのです。だから、学校等の教員になるか、民間のスポーツ施設の指導員として頑張るかでなければ生活費を稼ぐことはスポーツには難しいのです。昔、小学生のころ、その辺にある日本薄荷、今でいうミントの葉を磨り潰して足に塗ると早くなると言う伝説があってメンソール効果で足がスースーして早くなるような気がしたものですが、小学生ですから隠れて塗るのではなく皆で並んで塗っているので、やっぱり現実は天賦の能力のままなのです。運動機能は身体機能として天賦の物です。練習によって最大限にその機能を活動させることは出来ても、それ以上にはなりません。元々の才能がなければどんなにいい方法でも限界はあるのです。監督の方法がどんなに素晴らしくても、逸材に出会わなければ、オリンピック級の功績など残せないのです。ですから、高校野球を見ても、全国の中学の逸材を集めた高校が優勝するとは限りません。それを筋書きのないドラマなどと持ち上げますが、同じ学校で何年も監督をしている人が学生に合わせて指導方法を変えたりなどしていません。監督は同じ方法に拘って指導していますから、そこに天賦の才のある学生がたまたま転がり込んでくれば勝てると言うだけの事です。日本のスポーツ組織が単なる運動好きのおじさんの過去の偶然による栄光にすがった生活事業になってしまうのは、現役を引退した人たちの生活の糧として利権をむさぼっているからにすぎません。そんなスポーツの指導者面をしたおじさん、おばさんは、過去にうさぎ跳びを信じて散々させられて否定された経験があるはずなのに、うさぎ跳びを階段で迄させて膝を壊してしまった沢山の選手たちに謝罪もしない体育の指導者の様に、今の指導法で選手が怪我をしても謝るなんて反省は絶対にできないのです。