知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

ゴーォーンゴーォーンの遠吠えの鐘の音の話

 ゴーンさんが逃亡して遠くのレバノンから遠吠えのように日本を非難しています。多くの人はこのことに冷ややかで呆れているという事が見られます。ゴーンさんがレバノンに逃れて話した言葉には、フランス語、英語、スペイン語アラビア語と多彩でしたが、日本語はありませんでした。20年も日本の企業のトップにいて、語学が堪能な能力を持っていたのに日本語は学びたくなかったということですから、本当は短期腰掛のつもりでちょっと赴任しただけの異国に、ずるずると長引いてしまったというのが、本音の様な気がします。もっと言えば、日本なんて嫌いな国だったと思うのです。だから日本人が歯向かえば、こんなところにいられるかと、お金にものを言わせて逃げ出してもおかしくはないと思うのです。つまり、ゴーンさんの立身出世はヨーロッパで上位になることであって、日本のトップになる事が目的ではなかったということでもあると思うのです。日本の企業を踏み台にしてヨーロッパの上流階級に加われるチャンスに遭遇しそうだったから日産から離れなかっただけだと思うのです。ヨーロッパのルノーのトップの方が日産のトップよりはるかにヨーロッパでは階級は上です。嫌な日本で20年も我慢して頑張ってやっとフランスの凱旋門を通り抜けることが出来そうだという直前になって、足元をすくった日本人は卑怯なやつらで、本人にしてみたなら、このままでは、再就職もままならないと怒り心頭してもおかしくはないと思うのです。嫌々地方に飛ばされた会社員が、嫌われてもリストラして支店の再建と規模拡大を実現して、鳴り物入りで本社に凱旋しようとする寸前に内部告発した田舎の社員に向かって、だから田舎もんは嫌いなんだと叫んでいる構図がちょうどいいと思うのです。そう思うとゴーンさんに日本は、初めっから嫌われているのですから、逃げ出したとしても、あばよもう二度と来るなデいいと思うのですが、ゴーンさんとしては、次の自分のステップの為の利権を奪還することが正当なことだと考えているでしょうから、日本を悪者にしなければなりません。日本人的感覚では、20年もお世話になったんだし、逃げだした時点ですべて放棄したんだから後足で砂を掛けるような行為は見苦しいとなるのですが、ゴーンさんは全く反対で、自分の権利としての取り分を遠くからでも手繰り寄せたいと思っていると思うのです。そこで考えたいのは、経済・政治の識者と言われる人たちが、世界を股に掛けるグローバル戦略を言い続け、企業のトップが多国籍であることは普通だと語り続けていることです。ゴーンさんのように、日本が嫌いでも日本の企業のトップに成れるという事をどう考えているかと言うことです。グローバルを語る人にとっては、いわゆるアイデンティティーとしての帰属意識については、経済人としてとか、地球人としてとか言う言い方で情緒的と避けていますが、現実社会では、この帰属意識が大きな意味を持っています。商売そのものは、相手を差別も、偏見も持たないと公平・平等のように言いますが、商売相手の感情は大きなものです。商売相手の国の自尊心を損なうような態度は、結果として恨みつらみを含めて残すものになると言えます。現実に、ゴーンさんはリストラは出来たけれど、経営者としての実力はなかったと言う評価が挙がっています。だから、逆にもっと大きな企業や本人の望む欧米からのヘッドハンティングにならなかったとも言えます。本人が渇望する、欧米の大企業は、彼を経営者として評価していなかったとも言えます。日本には、欧米を崇拝して欧米的方法が基準でグローバルと唱える人たちがいますが、過去にもそんな人たちによって、日本は、結構欧米に食い物にされてきた歴史があります。一例として、日本の銀の事があります。世界史でいう大航海時代からスペイン銀貨ピース・オブ・エイトは、19世紀まで事実上の世界通貨として流通しました。しかし、ヨーロッパではドイツの一部からしか、銀は産出せず、スペインが南米から持ち込んだ銀と日本の銀が世界に流通していたことがあるのです。日本の銀が大量に海外へ運ばれたのは、スペインや続くオランダに騙されていた様なもので、1600年ごろには、日本銀が実に世界の銀の3分の1を占めていたぐらい、日本から産出された銀の4分の3をヨーロッパに輸出する国だったのに国力にはならなかったのです。同様の事が、日米和親条約でもあって、明治維新後も十分の一ぐらいの価値で金が流出しています。それは、よく和人がアイヌとの交易で数を騙していたという話と重なっています。そして、戦後も大損をしていることは隠されています。歴史的にも働いて働いては、海外貿易と言う一部の人の利益のために、不当な価値操作で大損をしているのに、欧米に食い物にされているのに耐えてきた日本ですから、ゴーンさんに食い物にされても仕方がないということにもなるのですが、欧米崇拝のグローバル専門家たちが、露払いすることで次々と経営者として送り込まれる人材に騙されないことを、遠吠えの中から警鐘の鐘を聞くべきだと思うのです。

おーい中村くん、アッラーのため息の話

 憎悪の対象に、いい人はならないということはありません。アフガンで殺された中村医師に関して美談として繰り返し報道されていますが、体制対立をしている国の中で、どちらにも付かない国民の味方なんて立場を自分が思いこむことは出来ても、現地の人みんなが同意してくれるなんてことはありません。特に、イスラムと言う宗教が生活に浸透している国に於いて、短期滞在者がお金を持っていくなら、イスラムでなくても客人として迎えられても、20年近くもイスラムの中で暮らしながらムスリムではない事は同質にならないと宣言しているようなものです。私は、中村氏の事は死亡事件があって初めて知りました。海外特にアジアで活躍している医師などの多くの人は、使命感を持った意志の強い人ばかりですが、裏返すと頑固で自分の行為に酔いやすい人とも言えます。また、そのような活動をしている人にはクリスチャンが多く紹介されています。中村医師もクリスチャンの様ですが現地の人々の信仰や価値観に最大限の敬意を表しながら活動を続けていたと資料にはありました。でも、ムスリムではありません。異教徒が人助けしているだけなのです。さらに中村医師の、武器など絶対に使用しないで、平和を具現化するとしているので、政府側も反政府側も、タリバンだって我々には手を出さないと言い、敵を作らず、平和な信頼関係を築くことが一番の安全保障だとも言っています。しかし、実際は一緒に死んだ中には護衛もいて、護衛を引き連れていなければ危険だと認識されていたことの証明と言えます。現地を良く知る人は、日本にいる様な感覚で批判するべきではない。強盗を含めて治安が非常に悪いのだから、特に外国人は。現地での警護は必要だと言います。

でも、護衛を雇用できることが既に金持ちであるという証明でもあります。日本の会社員が東南アジアに駐在すると同じ日本の給与でも広い家でメイドが雇えると言われます。それは、メイドの仕事しかない経済事情の国に金持ちが行って金で雇用していることです。仕事がなくて強盗をするか警備員をするかの社会に行って治安が悪いから警備員を雇うというのは実際は金持ちであると言っているのと同じです。葬儀の時棺桶の隣に、現大統領が寄りそったり、現大統領から表彰されているのに、自分は中立だというのは、手前みそだと思うのです。同じ宗教でも宗派が違うというだけで戦いになるという環境の中では、敵と味方の線引きは厳格で中立なんて傍観者でなければ出来ません。現地で灌漑を行っても、小麦を植えるか芥子を植えるかだって利権に繋がります。現地の人々がその利権をどう評価することによっては、自分は中立と言い続けていたとしても、相手がお前は向こう側だと思い込めばそれで中立ではなくなるのです。生死を掛けた戦いを日々しているところに、公平な審判など存在できません。理論や理屈ではなく、人ではないアッラーが何を望んでいるかと言うことを人間が推測して実行している社会で、神が喜ぶことを行うことが信仰だと言われる社会においては、貧しくとも異教徒の施しは受けないが厳然とあります。日本式なら、武士は食わねど高楊枝であり、人様の施しを受けるほど落ちぶれてはいないの世界です。同じ行為であっても、神の恵みと受け取るか異教徒の施しと受け取るかは、現地の人の宗教心の違いです。その地で有名になればなるほど同胞ではない人の行為を原理的には良いことだとは考えない人も増えるという事に気が付いていたはずです。良いことなら、必ず分かってくれるという事が幻想であることも分かっていたはずです。しかし、頑固な中村医師には、それが自己中だと思わなかったと思うのです。アッラーはあなたを受け入れないと感じる聖職者が居れば、あなたは敵なのです。イスラム教で内乱の起きている国のアッラーは過激なことも容認するという事を忘れるべきではないと思うのです。有史以来、沢山の宗教が生まれては消えた中で現代へ残っているということはそれを信じる人がいるからで、どんな生活をしようと余計なお世話と言う気持ちが湧いてきたなら、その人たちからは敵でしかありません。そんな情況の中、アッラーが溜息をついて憂慮しても、その遠い遠い弟子たちは今の状況を改善することが出来ないでいるのです。中村医師を英雄視して褒めたたえることは、アッラーのため息を増すだけだと思うのです。異国で己だけを信じて思いのままに生きて死んだ自由人の魂は現地に埋めて後を継ぐ者なしで良いと思うのです。

ストリートミュージシャンスピーカー使うなの話

 多くは人の行き交う駅前で行うのが、ストリートミュージシャンと言われる人なんでしょうが、中には間違っていると思われる人もいます。バスから降りると駅の広場でスピーカーから得意げに歌う声が聞こえてきます。実に大きな音です。数人の人だかりが出来ていて、疑り深い私にはサクラかとしか思えません。性能のいいアンプにスピーカー、そしてマイクにミキサー。ご機嫌な本人たち。酔っぱらいとなんの代わりもないほど上機嫌で回りの人もみんな賛同していると思いこんでいます。これだけ機械を揃えていれば、音痴だって適当に見栄えよく作り上げることも可能です。でも、それほど機械を持ち込まなければならない程度のミュージシャンはライブハウスで金払って自己満足の最高峰へ行けばいいと思うのです。通行しなければならない人にとっては、騒音でしかありません。本当に聞いてほしいなら、垂れ流し的ではなく伝えたい人に伝わる環境づくりで良いと思うのです。昔は、ただ大声を上げる事をがなり立てるなんて表現しましたが、ただ大声を上げるために機械まで動員しなければならない程度なら、所詮、自己満足程度で周りへの浸透なんて出来ません。ストリートミュージシャンの良いところは、将来スターになり何万円払ってもコンサートに行けないような人の歌が生でしかも無料で聴けるかもしれないという醍醐味だとも思うのです。また、派手な芸能の世界ではなく、純粋に音楽が好きで楽しんでいる方のお裾分けのような清涼感だと思うのです。仕事を終えた疲れた通勤途上に出会う音楽を含めたパフォーマンスに急いでいるのに立ち止まって聞いてしまう見てしまう一服の癒し効果があると思うのです。アジ演説の様な押し付けは、疲れた感性に鞭打つようなものだから、騒音にしか聞こえないのです。ライブハウスで勝手にやってくれとしか思えないような機械音に酔っている人たちを見ると、売れないなとしか言葉が出ないのです。ライブハウスは有料でお金を払ってミュージシャンに会いに来てくれるファンがいます。路上は無料ですが未知のファンがいます。そこに価値を見出すようなパフォーマンスでなければ通りすがりの騒音です。サクラの様なお仲間集めて、聞きたくないやつは聞かなくていいと思っているならストリートなんてやるべきではありません。アピールするのは、知らない人なのですから、知らない人の足を止めさせるというのがストリートなのに、聞きたくないやつはさっさと行ってしまえ的な対応をするなら、そこでやるなと言うことになります。販売をするときも、店頭を通り過ぎる人がどんなに大勢いても売れません。素通りさせず足を止めさせることが販売の始まりです。どんなに良いものでもアピールする機会がなければ販売は出来ません。足を止めさせてこそアピールのチャンスがあるのですから、足早に通り過ぎたいと思うような騒音では出会いはありません。そして、騒音と思う奴は聞かなければいいと高をくくっていると、騒音として警察に排除のために届けるという手段に移行してしまうことを忘れるべきではありません。その繰り返しが、規制と言うことになってしまいます。音楽は文化ですが、今日は市民文化でなければ生き残っていくことはできません。大衆と言う広く浅くの人々から支援や収入を得る方法を取らなければ自己資金だけでは永続できませんし拡大もしません。ストリート文化は、己の欲望を満たすかの如く行うのではなく、後に控えるミュージシャンがやりやすくなるようにやるべきだと思うのです。地声で他者に届ける力もないのなら、地声で、生歌で声が届かない程度の力しかないから、機械の拡声に頼ることしか出来ないのなら、止めろと言いたい。機械で喚き散らすのは騒音でしかありません。こんなことを言うと若い人の音楽についていけない年寄りのやっかみのように感じる人もいるかもしれませんが、大衆が受け入れた歌を過去に戻って調べていただければわかりますが、ジャンルではありません。はやり歌は、年齢や生活感ではなく人間に何故か浸透しているものです。

 

戦場の槍の話

 なんとなく日本刀は有名で、名刀村正など知っている人も多いので、日本の武器の主役は太刀・刀のように思われていますが、そんなことはなく戦乱時代の戦場の主力武器は、弓であり、槍です。しかし、名のある弓や槍など聞いたこともないというのが普通で、武将の名前なら知っているけれど、足軽の名前なんて誰も知らないよと言うのと同じ感じです。実際の戦いでも、武将よりも足軽の集団戦が主役ですし、太刀・刀を振り回すより槍を振り回した方が有効だったのですが、どちらも消耗品でしたから名は残っていないだけです。狩猟を考えれば分かりますが、古代でも太刀で狩猟はちょっと困難です。石器の時代でも、こん棒や石斧などは接近した時には利用したと思うのですが、弓矢や槍を投げることの方が狩猟としては有効だったと思うのです。青銅器や鉄器が入ってきても、矢じりや槍先に使用する分より多く貴重な金属を個人用として使用する太刀は、権威の象徴であり偉い人しかなかなか持てなかったものと思われます。鉄の太刀が普及していても、京の都の警備武士の絵姿では弓矢を持っていますし、乙巳の変の図でも弓を使用しています。かぐや姫なんかでも警備人は弓矢装備です。ですから、太刀の様な接近戦でしか使えない武器よりも、少しでも相手から遠いところから攻撃ができる武器で仕掛けて、探り合い、相手の戦意を失わせ撤退させる事が戦略としては最も出来の良いことだったのです。それに、日本式戦いは、将棋と同じで勝てばこっちの駒となって使えるのですから、民族的敵意もありませんから絶滅させる必要もなく、お互いに被害は少なくて自分のものになれば一番いいことなのです。近年のスポーツとしての剣道を含めた武道では「礼に始まり礼に終わる」などと言って日本の武道では「精神性」が大切なように言っていますが、それは生死が関わらないスポーツとしての武道の時代だからです。歴史を調べていくと分かるのですが、戦闘では勝つためには何をしても良いというのが基本で、礼などしていると後頭部に矢が落ちてきます。戦争は、大義名分を持って始めますが、実際の戦闘ではどんな卑怯な手を使おうと、ずるをしようと勝ったほうが正義となります。それは、現代でも同じです。特に戦闘員の死への恐怖や流血への罪悪感などが少ないほど強い軍隊となります。ですから、現代では、相手の顔が見えない飛び道具で兵士がゲームのように戦争を遂行できるようにもしています。爆撃機で爆弾を落とす人には、その爆弾で死ぬ人の顔を見ることはないということですし、ミサイルのボタンを押す人も画面で状況を確認していても吹き飛ぶ家や人を実際に見ることはありませんから、映画やゲームのシーンのように操作していても人として人間として異常ではないのです。さらに進んで、ゲームの如く無人機が遠隔操作により人を殺害したり、建造物を破壊したりもしています。実際に中東では米国が自由に実践実験を繰り返していますから、無人攻撃機の性能はアメリカが一番なのです。結果、攻撃する方は被害者に全く会うことなく加害できるというのが今日の優良兵器そのものでもあります。過去の戦いでも飛び道具は有効で、矢合わせなどと言う儀式もありましたが、歴史が進むにつれ、開始の儀式もなく弓の打ち合いが始まるようになりました。そんなところへ太刀で出ていったらどんな鎧を着ていても矢だらけになってしまいます。さらに、太刀で戦うほどの白兵戦になったとしても、名刀一本で戦い続けることなど困難だったと多くの書物では指摘しています。武将になると、騎乗していることも多いので、馬の上からいくら太刀・刀を振り回したとしても、敵が余程近づかなければ刃先は届かず戦えません。まして相手は長い槍を振り回したなら、危なくて近づくことも出来ません。むしろ無防備な馬に槍でも突きつけられたら馬が飛び上がって振り落とされかねません。ですから先ずは、相手の陣地に近くなったら、弓矢の攻撃を始めるのですが、的を目掛けて真っ直ぐ飛ばすなんてことではなく、やたらと打ち込んで下手な鉄砲数打ちゃ当たる方式で打ちます。弓の性能として相手の認識が出来る程度に近づいてはいても、まだまだ恐怖感はなくて済みますからお互いに飛んでくる矢に当たらないように気を付けて行動していればいいのです。次に前進となったらみんなで並んで槍で進みます。並んで進んでくる槍の長さに対して刀では集団の横腹にでも回らなければ相手を傷つけることは出来ません。いくら剣豪武蔵でも何十本もの進んでくる槍に向かって槍をすぱすぱと切ったりは出来なかったのです。一時期の織田軍の槍は6mもあったということですから、持っているだけでも相当の力がいります。槍隊同士が戦うことになったら長い方が有利なので戦国末にはこんなに長くなったようです。集団戦でなかったら、もちろんこんな長い槍の方が不利に決まっています。騎馬などに対しては、槍の端を土に付けてやや斜めに構えてずらりと並んで防御したということですから、刀なんか振り回して突進していったら一発で殺されてしまいます。戦闘は、負ければ死ですから、現代の日本人が考えるよりもっと不安と恐怖の中で武器を握りしめていた足軽にとっては、みんながいて槍が長いほど恐怖感はずっと少なくて済んだと言えます。ベトナム戦争では、何人殺したかを誇示するために、耳を切り落として集めたとか、鼻を切り落としたとか言われています。日本では、首を切り落として腰に縛って持ち歩いたということですから、当時の戦場シーンを映像化できるなら、戦国武将はカッコいいなんておとぎ話はなくなると思います。古代を含めて戦闘ではその時落命しなくても傷を負うことで後日死亡することや農民であり戦闘員であることの機能を失うことは死と同じですから、血が流れることを前提とした戦闘では、傷つかずに相手を傷つけることが重要でした。だからこそ、出来るだけ近くに寄らずに戦える武器が優先的に使用されたのです。ですから、刀は意外と象徴的な部分が重要だったのです。江戸時代の様な集団での戦闘行為がなくなるにつれ、個人技としての剣道が持てはやされて、英雄しされやすいのですが、集団戦では、刀は、不利な武器以外の何物でもありません。まして、鉄砲が出てくると、刀で突撃なんかしていたら負けてしまいます。集団戦では、陣形を組みますから、全体を潰すということよりも、その中の弱い一角を突破できれば、全体が崩れるということも多く、関が原でも互角に戦っていたのに、小早川の部分が崩れたことで一気に西軍総崩れなどと表現されています。戦いでは、出来るだけ相手の、顔や目と合わないことが大事だと言われています。なぜなら、お互いに人間になり恐怖になり、人を殺すことへの厭戦心を高めてしまうからとも言われています。戦うたびに人間は、勝つために武器の工夫をしてきました。ショーウインドーには、戦場では用途の低い太刀や刀を並べながら、裏では無人攻撃機のカタログを置いているという時代になりました。

 

引き籠りという贅沢な依存の話

 引き籠りとは、総括的な言い方ですから、色々な背景や、様々な形態、多様な状況が個別にあるのに、大まとめ的な言い方だと、関係者は見ているでしょうし、人権を含めた人々からは社会の現状や本人の思いを全く無視した言い方と言われるかもしれませんが、私は贅沢な依存だと思うのでこの言い方を使用します。私は、災害募金などに対しても批判的立場を持っています。なぜなら募金の中から、経費を差し引くことが往々にして見られるからです。募金している人の交通費だ、事務経費だ、ばかりではなく、人件費まで消えてしまうことさえあります。さらには、駅前等の募金活動が宗教活動資金だったり、本人自身の生活費だったりと言う詐欺まがいのことも過去には実態としてありました。公務員が関与していたり、学生が行っている募金は、全額寄付されると言われますが、それだって直接被災者に渡されるわけでもなく、途中の機関や組織にピンハネされていても誰もわからないのです。NPO法人を含めて不明朗会計なんていくらでも出来ます。その時の言い訳は、募金活動をする人にも、生活があるでした。つまり人間は生きていくだけで、金額の多少に関わらず生活費と言う必要経費が掛かっています。どんなに良いことをするにも、社会に貢献するのにも、自分の生活が成り立っていなければ、他人のために何もすることは出来ないと言えます。ボランティアであっても自分の生活は自立していて、活動に関わる経費も自前、手弁当で出かけられる人でないと、交通費や食事代などの活動費を含めて誰かが負担しなければならないのです。つまり、義援金活動だって経費が掛かると言い出す今日、ボランティア活動に日当や交通費だけでも出せないか、有償ボランティアはどうなんだという論議さえもう過去のこととなりお金を貰うことも罪悪感を感じない時代になりました。こんな時代に生きているのに、社会との接点を拒否しても生活が困らない人は資産があって収入が確保できるか、誰かに依存しているかという事に整理してもいいと思うのです。本人が望む生活に見合った収入手段を持っているなら、依存しなくても生活は成り立つでしょうが、今日では収入がなければ生活は出来ません。収入があるなら、世捨て人として山の中に住み生活に必要なものはネットで購入して配達してもらえば可能です。しかし、収入がなければ、ホームレスの様な生活をしても食べ物を得るために社会と接点を持たなければなりませんし、農地があって自給自足と食べ物を作っていても、衣類や生活用品を手に入れるには、余剰の野菜を生産して物々交換をしなければ入手できません。それに、自給自足の農地を持っていただけでも税金はかかりますから現金を稼ぐためにはやはり社会との接点は必要です。また、どんなにボロ屋と言っても住むところがあれば、固定資産税は付いてきますし、電気・水道の基本料金はかかりますし、ごみ一つだすにも費用が掛かる時代に生きているのです。つまり、生きているだけで必要経費として、食べ物だけでなく様々な負担が付いて回る時代なのです。現代を生きるということはすべからく、現代社会との接点が必要で、接点を通じて、収入を得るための行為を行わなければ生活が成り立たない時代でもあるのです。こんな時代に、収入もないのに部屋に閉じこもっていられるのならそれは依存した生活と言うべきだと思うのです。そして、最低の生活であろうと依存できる相手がいることが贅沢だと思うのです。昔は、食客とか居候と言う言葉がありましたように、誰かに依存して、労働力を提供したり、自分の好きな事を行うということも一つの生き方としてありました。師匠の家に住みこみ,雑用をしながら食事と勉学の機会を与えられる職業関係や書生などと言う食客なんてこともありました。芸術かなんかはパトロンと言う依存がありました。ですから、誰かに生活の糧を依存をすることは、問題があるわけではありません。しかし、これらには社会の制度や他人を巻き込んだ双方の互恵関係によって、成立しています。単純に、家族に依存しているだけではありませんでした。今言われている引きこもりは、その多くが一方的に家族に依存しているということです。しかも家族が心配して、時には、引きずり出す業者に何百万円も払ったと報道されているように引きこもりに対応するだけで家族からお金を引き出せる時代にもなりました。働かなくても生活が出来るという引きこもりの人たちの必要経費を家族が支払っているのならそれは依存していると言ってもおかしくはないと思うのです。そして、そんな贅沢ができる金持ちの国に生きていることを知らなければならないと思うのです。「働けど働けどわが生活(暮らし)楽にならざりじっと手を見る」の現実は、50年程度前の日本のことでしかないのです。引き籠ることさえ出来なかった過酷な社会だった日本が、人間らしい生活を求めて努力した結果引き籠ることも出来る国になりました。そして、引きこもっていても食べていける日本の豊かさは、実は他国の貧困の上にあることも知ってほしいことです。今日の状況は、家族の絆と心配の上に乗っかって、衣食住を依存しているのが引き籠りではないかと思うのです。確かにいじめられたり社会との接点が、本人を拒否し否定し理不尽な一方的攻撃にさらされたという状況はあったとしても、それを家族が受け止め支えなければならないというのも違うと思うのです。そして、社会から被害を受けた引きこもりの人に加害者かもしれない社会から手を差し伸べるべきだというのも違うと思うのです。誰もが強くはありませんから小さな戦いを起こすべきだとも思わないのですが、接点は作っていかなければ依存しているだけでそれは自分をいじめているだけだと思うのです。もがいた手足に出会った接点に依存とは違う生活があるかもしれないと動かしてみてほしいのです。

測定不能ではなく分からないが本当ではの話

 川は、太古からただ普通に流れています。雨が多くなれば太く、少なければ細く何の不思議もないことです。台風で被災した方には申し訳ない話ですが、川があふれたのは人間が作った堤防からで、川は、過去にも流れただろう場所を流れたにすぎません。むしろ川が蛇行し様々な流れ方をしたことで、平野が出来たり扇状地が出来たことは、学校の地理で習っていることでもあります。川が作った平地に後から来た人間が勝手に住みついて、川にここは俺が住んでいるので勝手に流れることは許さないと、堤防を作って川を隔離したにすぎません。そんな人間の押し付けに文句も言わず、川は、初めの一滴から始まって、ちょうど逆さまの木の根のごとく、小さな川の水を集めて、海へ向かって流れているだけです。ですから、逆さまの木の根の小さな川が、溢れてくれば大きな川も溢れるのは当然です。降った雨の水量に合わせて川はその量を下流に流しているだけで、その水量が少ない時に勝手に人間が住みついたとしか言えないのです。繰り返しますが、川は普通に流れていて、大雨になれば流れ込んだ水を下へと流しているだけで、人工物に挑戦しているのでも、牙をむいているのでもないのです。単なる物理的に、人間が想定して作った容器から溢れ、雨が止めば、いつもの川に戻ってしまうというだけのことです。同様に、クマが住んでいたところに人間が住み、追い出されたクマが生活の居場所を失って人間に取り上げられた場所にちょっと出てくると、人間が驚いてすぐに殺されているのです。イノシシなんて、体で土をほっくり返してミミズを食っているのにコンビニ弁当の残りを食べてしまったならもう、ミミズなんて食べられなくなって新しい食物を探しに来るのです。川が流れていたところに人間が住むためには、治水と言って堤防を作ります。昔から水を制するものは天下を制するなどと言われ、水との戦いだ自然との闘いだと言っていますが、それは人間の一人相撲で、みんなの人気を取るために言い出した政治的誤魔化しであって、自然が人間に挑んできたことなどありません。堤防で川を制御しようとするから溢れただけで、それは予測不能ではなく、人間の見積もりが間違っていただけなのです。大地は、雨によって削られ、流され、その恩恵によって植物が生え、動物が生えています。最後に来た人間がそんなに欲張りに独り占めしなくてもいいのではありませんかと、雑草がいってもおかしくない今日なのです。人間が作りだした機械・重機が、洪水や干ばつを繰り返してきた自然に対抗出来るような錯覚に貶めていることが、川でもなんでも予測ができると驕り切っているから測定不能などと言い訳をしなければならないと思うのです。異常気象ということで、台風が来て、電柱が倒れて、停電となり、堤防を超えて洪水となったということで、あたかも台風や川が悪人の如く言われています。古来の日本では、これらのことは神の怒りと考えていましたから鎮まるまで、じーっと待っているだけです。祈祷の様な今日では非科学的で根拠のないものとして、否定される様な事をクドクドと行って待っていました。今日では、天気予報を見ながら、自然との闘いに勝ったかの如く堤防を含む人工物に頼り切って満足できないと人間同士で非難し合い挙句に予測不能だったと言い出します。盛りだくさんの人工物を作らなければならなかった主たる原因は、人口が増えたという事だと思うのです。科学は、人口増に対して素晴らしい力を発揮して衣食住を提供しました。結果、災害が起きるところにも人間が住むようになったという事や災害が起こるべき原因の人工物を作ったという事だとも思うのです。ただ、それは自然への挑戦としてではなく、人間同士の経済・政治の戦いの中で弱者を作り出して追いやったというのが本質です。つまり、人間と自然の闘いの中で人間の科学が、自然に勝ったという嘘に乗せられて、人間の科学の誇示や横柄な態度の言い訳に弱者が追いやられて行っただけです。川は人間が住む前から自由に流れていたのです。後から来た人間がここしか流れてはならないと柵を作ったのが堤防です。家畜の如く扱えると思ったのが堤防です。風は自由に吹いていました。人間が電気を使うために電柱を立てました。人間が通り易いように道路を掘削しました。でも科学で、気象を自由に出来る時代は、やってきません。なぜなら地球も生きていて、全部にバランスのよい気象などあり得ないからです。測定不能は、驕りだと思うのです。自然を予測できることと思う事が間違いだと思うのです。地震の予測は出来ないと地震予知を諦めたことは賢明です。人間が予測できることは占い並みだというぐらいに自然と接することが大事だと思うのです。災害はやってくるだから自分が住むところが一体どんな地理的な歴史を重ねてきたかを学習する機会を持つ必要があると思うのです。

 

丸見えになるキャシュレスの話

 今や時代は、キャッシュレスになると言われています。でも、考えてみるなら、カードだろうとスマホだろうと、購入したという根拠が無ければ口座からお金を徴収することが出来ませんから、何月何日何時に何を幾らでどの店で購入したとの明細が記録されなければなりません。そして、その記録は、自分自身が保管できるのではなく全く知らないどこかのサーバーに蓄積されるということです。あの有名なフェイスブックだって個人情報が漏れたように大きなコンピューター会社同士が情報の売買や共有化を図ったとしても絶対に公表されずに行われてしまう可能性が高いのです。なぜなら、今の法律よりコンピューター世界はどんどん勝手に進んでいき、利益が上がる方法に幾らでもルールなしに取り組むことが出来る環境にあるからです。キャッシュレスになって貨幣を持ちあることがなくなる方が便利なように見えますが、現代の私たちの生活は、自己生産は何もしていませんから、生活の全てを購入という行為によって支えています。この購入の軌跡を確認すると、生活感だけでなく、性格や生活行動、ひいては思想信条まで類推することが可能となります。その記録を分析すれば、あなたが購入したいものがいつ行っても必ずあるという環境など、簡単に作ることも出来ます。今は、色々な会社がやっているから、バラバラなカードにしておけばそんなことは起きないと思っていたら、気がついたときには会社同士が情報交換していたとか、統合されていたということぐらいとても簡単に起きてしまう世の中になっています。今までは、現金もあれば、信販会社の違い、各種の銀行口座の違いと、幾種の方法でしたから、個人の生活の一部は掌握できても、全体像までは掴めませんでした。しかし、全ての購入が、AIに処理されてしまうと、自分たちが知らない間に統合されていて丸見えにされて、誰かが覗いていてもわからないという危なさが迫っているという事でもあります。沢山の監視カメラと キャッシュレスの軌跡を合わせれば、行動の軌跡は、ナビのように出来上がってしまうということです。自動販売機の飲み物購入だけでも行動が推測できるのに、キャッシュレスになれば、現金の様な不明記録はなくなり、一円でも使用すれば記録として蓄積され、一瞬にして統合されて、家計簿以上の個人記録が作成されてしまいます。国民ナンバー制でお金を管理しようとした目論見は、強制できずに金ばかり掛かっていますが、今や国民自らがキャッシュレスという方法で、自分のお金の動きを正確に明示しようとしています。会社が違えば大丈夫などと思っていたら、民間会社が結託することは、可能ですし、株式会社なんて簡単に売買できるのですから、その会社が持っている情報が資産として売買される時代が来ていると言うことです。現代では資産が土地建物などより遙かに情報の方が高価になっているのです。法が整備されて、自分の情報保護が確立されているなら同意なしには大丈夫ということもありますが、今法律はありません。例えば、スイカ使用の記録は誰のものですか。携帯電話の通話記録もそうですが、請求すれば詳しい記録が明示されるあの記録は、誰のものといえますか。リクナビが起こした就活学生の分析情報の転売は最近のことですが、この事件をヒントに情報とその分析によっては売れるという事が明確になりました。しかし、罰は無いのです。これからは、個人情報を買うのは詐欺的犯罪者ではなく、社会的な普通の会社が、マーケッティングの一つの手段として購入することが現実に行われる可能性が高まっています。便利である向こうで虎視眈々とみぐるみ剥がされることになりかねないのです。宮沢賢治注文の多い料理店は、町の裕福な上流階級を裸にしていくという物でしたが、現代のキャッシュレスレストランは、便利だと派手に宣伝して、個人の警戒心をどんどん落として、防衛できない裸にしてしまうのです。キャッシュレスの向こうにあるのは、管理された社会ではないかと思うのです。