知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

引き籠りという贅沢な依存の話

 引き籠りとは、総括的な言い方ですから、色々な背景や、様々な形態、多様な状況が個別にあるのに、大まとめ的な言い方だと、関係者は見ているでしょうし、人権を含めた人々からは社会の現状や本人の思いを全く無視した言い方と言われるかもしれませんが、私は贅沢な依存だと思うのでこの言い方を使用します。私は、災害募金などに対しても批判的立場を持っています。なぜなら募金の中から、経費を差し引くことが往々にして見られるからです。募金している人の交通費だ、事務経費だ、ばかりではなく、人件費まで消えてしまうことさえあります。さらには、駅前等の募金活動が宗教活動資金だったり、本人自身の生活費だったりと言う詐欺まがいのことも過去には実態としてありました。公務員が関与していたり、学生が行っている募金は、全額寄付されると言われますが、それだって直接被災者に渡されるわけでもなく、途中の機関や組織にピンハネされていても誰もわからないのです。NPO法人を含めて不明朗会計なんていくらでも出来ます。その時の言い訳は、募金活動をする人にも、生活があるでした。つまり人間は生きていくだけで、金額の多少に関わらず生活費と言う必要経費が掛かっています。どんなに良いことをするにも、社会に貢献するのにも、自分の生活が成り立っていなければ、他人のために何もすることは出来ないと言えます。ボランティアであっても自分の生活は自立していて、活動に関わる経費も自前、手弁当で出かけられる人でないと、交通費や食事代などの活動費を含めて誰かが負担しなければならないのです。つまり、義援金活動だって経費が掛かると言い出す今日、ボランティア活動に日当や交通費だけでも出せないか、有償ボランティアはどうなんだという論議さえもう過去のこととなりお金を貰うことも罪悪感を感じない時代になりました。こんな時代に生きているのに、社会との接点を拒否しても生活が困らない人は資産があって収入が確保できるか、誰かに依存しているかという事に整理してもいいと思うのです。本人が望む生活に見合った収入手段を持っているなら、依存しなくても生活は成り立つでしょうが、今日では収入がなければ生活は出来ません。収入があるなら、世捨て人として山の中に住み生活に必要なものはネットで購入して配達してもらえば可能です。しかし、収入がなければ、ホームレスの様な生活をしても食べ物を得るために社会と接点を持たなければなりませんし、農地があって自給自足と食べ物を作っていても、衣類や生活用品を手に入れるには、余剰の野菜を生産して物々交換をしなければ入手できません。それに、自給自足の農地を持っていただけでも税金はかかりますから現金を稼ぐためにはやはり社会との接点は必要です。また、どんなにボロ屋と言っても住むところがあれば、固定資産税は付いてきますし、電気・水道の基本料金はかかりますし、ごみ一つだすにも費用が掛かる時代に生きているのです。つまり、生きているだけで必要経費として、食べ物だけでなく様々な負担が付いて回る時代なのです。現代を生きるということはすべからく、現代社会との接点が必要で、接点を通じて、収入を得るための行為を行わなければ生活が成り立たない時代でもあるのです。こんな時代に、収入もないのに部屋に閉じこもっていられるのならそれは依存した生活と言うべきだと思うのです。そして、最低の生活であろうと依存できる相手がいることが贅沢だと思うのです。昔は、食客とか居候と言う言葉がありましたように、誰かに依存して、労働力を提供したり、自分の好きな事を行うということも一つの生き方としてありました。師匠の家に住みこみ,雑用をしながら食事と勉学の機会を与えられる職業関係や書生などと言う食客なんてこともありました。芸術かなんかはパトロンと言う依存がありました。ですから、誰かに生活の糧を依存をすることは、問題があるわけではありません。しかし、これらには社会の制度や他人を巻き込んだ双方の互恵関係によって、成立しています。単純に、家族に依存しているだけではありませんでした。今言われている引きこもりは、その多くが一方的に家族に依存しているということです。しかも家族が心配して、時には、引きずり出す業者に何百万円も払ったと報道されているように引きこもりに対応するだけで家族からお金を引き出せる時代にもなりました。働かなくても生活が出来るという引きこもりの人たちの必要経費を家族が支払っているのならそれは依存していると言ってもおかしくはないと思うのです。そして、そんな贅沢ができる金持ちの国に生きていることを知らなければならないと思うのです。「働けど働けどわが生活(暮らし)楽にならざりじっと手を見る」の現実は、50年程度前の日本のことでしかないのです。引き籠ることさえ出来なかった過酷な社会だった日本が、人間らしい生活を求めて努力した結果引き籠ることも出来る国になりました。そして、引きこもっていても食べていける日本の豊かさは、実は他国の貧困の上にあることも知ってほしいことです。今日の状況は、家族の絆と心配の上に乗っかって、衣食住を依存しているのが引き籠りではないかと思うのです。確かにいじめられたり社会との接点が、本人を拒否し否定し理不尽な一方的攻撃にさらされたという状況はあったとしても、それを家族が受け止め支えなければならないというのも違うと思うのです。そして、社会から被害を受けた引きこもりの人に加害者かもしれない社会から手を差し伸べるべきだというのも違うと思うのです。誰もが強くはありませんから小さな戦いを起こすべきだとも思わないのですが、接点は作っていかなければ依存しているだけでそれは自分をいじめているだけだと思うのです。もがいた手足に出会った接点に依存とは違う生活があるかもしれないと動かしてみてほしいのです。