知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

人の人生に関わる仕事で自己満足している人たちの話

 福祉を生業としている人たちの中には、自分の仕事に酔っている人がいます。福祉では、本人の事だけではなく、家族のプライベートまで支援者の知るところとなります。更に人生の方向性までも支援サービスと言って関連付けて口出すこともおおくなり、相談支援者や施設の職員は、家族でも出来ないことを自分のお金でもないのに可能にすることもあります。すっかり馴染んでしまうと、家族からは感謝され、自分がいないとあの家族は大変なことになるぐらいに思いこむことも出来ます。そして、同業者同士が集まると、困難な事例を自慢しながら、自分が如何に働いているかを得々と並べるのです。でも、あなたがそうしなければ、相手はもっと良くなっていたかも知れないなんてことは絶対に誰も言いません。何故なら、上手くいかないのは障がいがあるからで済ませてしまえるからです。つまり成果があったら私の支援があったから、失敗したら障がいがあるからと言い切ることが出来るのです。これが中毒になる陶酔できる原因でもあるのです。上手くいったら神様の思し召し、上手くいかなかったら信心が足りないとちっとも変わりません。結果がどうなろうと私は努力しあなたのために尽くしているという思いこみと周りの頑張っているという福祉的称賛で仕事に酔ってしまえるのです。だから、あなたの支援サービスで悪化したのではないですかと言うと本当に落ち込みます。そして、辞めると言い出します。国が人の人生に口出しするのは、関与しないと社会全体の安定に亀裂が生ずることが歴史上あったからです。その教訓として福祉の制度はあるのであって、本当に弱者のためではありません。もしも、本当に政治が弱者をなくそうと考えているのなら福祉は不要な政策です。ですから競争社会の歪として生ずる弱者対策の一つにすぎない現在の福祉施策は、社会安定維持装置の一部分でしかありません。どんなに格好つけても、福祉施策の末端で働く福祉サービスの職員は、現代の福祉の施策の片棒を担いでいるだけです。福祉の施策は、万全でも、最良でも無いのですから、その手先に出来ることは当面のことであって、人生の羅針盤みたいなことは本来出来ないということを自覚しなければならないのです。困っている人を助けるということは、自己満足度の非常に高い行為です。でも、自分が、困っている人を作り出している社会の一員でもあるということにも気付き、その社会の悲哀を緩和する役割を、自分の生活の糧にしているということに思いを寄せるべきです。仕事として報酬を貰うなら、その行為は当然のことをしただけだし、責任を果たしただけであっても、相手からの感謝の言葉や社会的な評価があると自己満足度を上げます。医師は、昔から高い評価を受けていますが、人の不幸で食べている人と言う言い方もされます。しかし、医師は、困難な国家資格であり望めば就業できるものではありません。それに比べると、福祉関係は案外簡単に就労できます。しかも、生活と言う最重要な課題に直接関わることが出来る仕事ですが、技術的に優れていなくても出来ます。自費で行っているわけでもなく、仕事として税金を使っているだけにすぎませんが、弱者救済という社会評価を得られる反動なのか、自分の思い通りに行かないと「こんなにやってあげたのに」「こんなにもこんなにも、頑張ったのに裏切られた」となって、恩を押し売りするかの様な愚痴を言い出します。つまり、自分の満足感が満たされないと、反面で弱者攻撃の原点になったりもします。仕事に、陶酔できるのはとても良いことです。しかし、他人相手の仕事で自己陶酔されてしまうと、自分の思いこみが強くなって押し付け的な対応がどんどん強くなっていきます。私が本人を支えている、私がいなければ障害者が困ると自分が思いこんでいますから、検証は勿論批判も受け付けません。善意の装いをした押し付けほど始末が悪いものもありません。福祉は、淡々と業務を遂行していると冷たい感じがすると言われ、実務が出来なくとも明るい熱意が感じられる方が評価される職場ですが、酔ってしまってはならない職場でもあるのです。

精神的に病んでいるとしか思えない人が職場にいたらの話

 職場の対人関係において、みんなとはちょっと違うかなと思う、反応だけでなく、そこに何故拘るのかという行動をする人がいても今日では差別や人権問題がありますからうっかりとしたことは言えないので、みんな言葉にはしません。でも本人以外は、困ったなという事では共有しているという環境の職場があったとします。少し前なら「空気が読めない」「鼻つまみ者」「お荷物」などと陰口をたたかれ、時にはいじめにもあっていましたが今日では過去の様な誰もが分かるような表現や対応はせず、放置する、出来るだけ関わらないという風にして「触らぬ神にたたりなし」と決め込んだ方が大人の対応となってきました。しかし、周りが如何に関わりを減らしたところで、本人は透明人間ではありませんから、当然向こうの方からやってきます。そして、みんなの態度に益々職場の自分への対応が、不条理だと感じるのです。そう、双方が相手の行動を、不条理だとも、理不尽だとも感じ合うのです。そして、孤立する協調性のないと言われる人は、徐々に、被害者意識に包まれていき、自分の非は、絶対に認めない人になっていきます。そのことが周りからの誤解が増幅する原因にもなります。周りみんなが自分に対して攻撃的だと思いこんでいる人にとって、非を認めることは制裁を受ける可能性があるという不安がありますから、非を認めないことは、自己防衛そのものとなっています。そして、自分が攻撃されたと思う相手には、しっこく騒ぎ立て、時間も相手の都合も関係なく離れず抗議し続けるのです。こんな職員には、職場としては辞めてくれたらと望んでも、今どきは簡単に解雇なんて出来ません。特に、関係しなければならない職員は、出来るだけ本人との関わりを拒否しがちですからチームを組むことが困難になり、業務の範囲も狭まります。にもかかわらず、被害者意識が高まっている本人は、辞めるという選択肢をさらに遠ざける思いこみに入っていきます。それは、辞めることは逃げであり、負けることだから、なんで正しい自分が排除されて、悪が蔓延るのかと言う思いが強くなっていくからです。自分が頑張っていることが、正義と職場を守っている自らが防波堤となっているとの使命感すら育てていくからです。ちょっとしたドラマのヒーローストリーに類似していると思いこむことが可能だからです。ですから繰り返されるわけのわからないと思われる抗議も、正義の戦いなのです。いじめの加害者が社会の求める反省が出来ないのも、自分は加害者ではなく被害者だという確信した思いがあるからです。多様化の時代は、柔軟だったり、浮遊的な人には自由と感じるかもしれませんが、固定的、信念的な考え方の人にとっては、拠り所のない、基準の不安定な社会そのものです。もっと言うと、普通が一番難しい時代に、バランスを取り続けた結果、バランスに困惑した挙句に、頑なになってしまってしまった人がいるのです。そして、本人はブレないように必死に自分を守っているのですがそのことが周りとの接点を狭めていきます。そして、弱い人ならいじめに会いますが、いじめにも負けず、自己防衛に専念する行動は、周りも困らせていくのです。誰もが、辞めてくれればいいのに、今どき就職先などいくらでもあるのにと不思議に思うのですが本人の使命感は強く、辞めさせようとしている管理者はすべからく悪の手先でしかありません。そして、ミスをすると辞めさせられると信じ込んでいますから、型通りの安全業務と本人が思いこんでいることしか行わず、時に指示される応用的なことの業務も罠としか考えられません。一方で、日常業務は本人の中で完璧に出来ていると確信していますから、何か指摘されると、猛然と反撃しミスは認めません。ミスがあるとしたなら、陰謀によって陥れようとしているとしか考えません。それでも好意的な人は、非難しながらも、病気なんじゃないのと同情的になってきます。その同情的な対応も、自分に対する攻撃と一つとしか思いません。それは、病気にして辞めさせようとしているです。本人は、もし、病気で辞めたなら、再就職はもとより、ここでの自分が否定されてしまうことになってしまう。としか感じませんから、自分への同情者すら、自己防衛の対象となってしまいます。孤独なのです。過去には「空気が読めない」「鼻つまみ者」「お荷物」などと言われた人は、自己否定を強要されましたが、今日では、関わりたくない困った人になっています。職場は、自分を無視し、監視し、攻撃しようとしているとしか思えなくなるほど、精神的に病んでいるとしか思えない人が職場にいても今日の風潮では、誰も、関わることが出来ません。遠巻きに様子を見ているだけです。その中で、被害者意識だけが、どんどん増幅していくのです。

教団に所属しない仏教徒たちの話

 学校で、歴史を習うと栄枯盛衰を羅列したように説明されるのですが、その栄枯盛衰の原因や見解は人によって大きなずれがあるだけでなく、見当違いなことや、後年になって逆転されてしまうことも多くあります。しかも歴史上の人物であっても、記録を残す習慣などありませんし、紙はとても高価で、燃えやすく、水に弱く、さらに何度もリサイクルされていることも多いことから、記録が残ることの方が不思議なぐらいなのです。あの有名な源氏物語だって原本はないのです。さらに、栄枯盛衰では勝者の正当性が宣言できればいい程度の足跡しか記録として残りませんから、歴史では、推測や妄想がひしめきあっています。実際、歴史として知りたいことは、結果よりも背景や情勢・状況なのに、そんな資料は残されていず、歴史は見てきたような嘘をつくぐらいの勢いで言う人の話が真実のように見えてしまうのも事実です。戦前は、神話さえ歴史と権威ある学会から大学までもが教えていたように、不適正な解釈や間違いとは言えないが疑わしい解釈が沢山ある中で、権威の競い合いをしていますから、絶体視して信じ込まないことが無難と言えます。権威がありそうな考古学でも、大量の生活用品の中で遺物として残っているのは極ほんの一部です。縄文時代なんて一万年もあるのにその遺跡にのこっているのはほんの少しで、ほとんどの生活用品は土に帰ってしまい異物としては残っていません。つまり、歴史学は残された物で何とか理解しようとしていますが、言葉や行動、表現などの人間社会の中で一番重要で一番変化してきたものは何も残っていないので分からないのです。そして、歴史の半分は政治経済ですが、半分は宗教が深く関わっていたといえるのです。しかし、日本の戦後歴史教育では、宗教を学ぶことはご法度で、せいぜいが、誰がどんな宗派を起こした程度としていますが、象徴天皇が行っている重要な行事は、宗教行事でしかありません。ですから、学校教育で世界史を習って何故ユダヤ人が虐殺されたかも、イスラム教が何でキリスト教と対峙することになったのかも理解することは出来ないのです。ユダヤ教から派生したキリスト教イスラム教が源流は同じなのに政治を動かしなぜ戦っているのか分からないことが多すぎるということになるのです。日本で言えば、比叡山の焼き討ちが意味するところも単なる抵抗していたからではなく、政治の栄枯盛衰の裏側の重要な主役であることを学ばないと分からないことなのです。そんな宗教とは何かを一切学ぶことなく、大人になって宗教には無関係・無関心でいたのにいきなり関わらならなければならないのが、葬式です。ある程度の年齢になると、葬式と言う儀式に行かなければならないことが発生してきます。当然葬式の作法は、その宗教によりますし、宗教の宗派にも影響されます。もっと言えば死生観によって死への考え方は大きく違いますから、死者への礼節を生きるものとしてどのように対応してけじめをつけるかと言うことが葬式の儀式方法になると思うのです。その時になって初めて「うち何宗だったけ」と聞いて、そのまま教義も聞くことなく、その宗派であることに安堵してしまう人であっても、その宗教の生に対して、死に対してどう考えているのかだけでも確認すべきですが、当面、焼香はどうするか、線香はどう扱うか、葬式で恥をかかないためにはどうしたらいいかぐらいを確認できれば良くて、坊主のお経なんてどうでもいいことになってしまいます。そんな葬式の時だけ仏教徒が増えたのは、日本の仏教が観光地と葬式で生活して布教しないからです。教団の基本は、布教による信者の増加と信者から吸い上げる資金による勢力拡大です。そのことがより多くを救うことであり、布教は人類救済という使命の実践であり、教団はそのサポート組織として資金を集めるのです。インドで仏教が大きく組織化しなかったのは、在家信者を認めず、教団を組織しなかったからです。日本では、逆に国家仏教に始まって、基本が在家信者の組織化を目論む布教をしますから、宗派とは教団とも言える状態なのです。そして、教団は、布教によって信者獲得をするほどに、信者から資金が集められ、その資金に目がくらんで堕落していくのです。そんな宗教でも歴史を動かしてきましたし、マルクスらは宗教を毒とまで言いましたが、生活の道徳観にまで大きく影響を及ぼします。それは、政治が現世であることに対して、宗教は、前世、現世、来世という人間の歴史の中で常にテーマとなっていることに回答しているからです。中国の儒学では、現世しかありませんから、宗教として広がらないのです。宗教は、どこからきて、どう生きて、どこへ行くかと言うことを明示します。その教えが正しいと思わせるために、壮大な仕掛けとしての儀式や建造物・彫像物を作り出します。葬式仏教と言われた、日本の仏教は、日常生活から遊離してセレモニー業者の請負人になりつつありますが、本当は、宗教を学ぶことなく歴史を学ぶことは歴史の栄枯盛衰の真の動機を探り当てられないことになるのです。どんなに歴史の学習をしても宗教という側面が欠落していると理解は半減するのです。その意味で、今の日本の無関係・無関心は宗教を冷静に学ぶ絶好の機会と考えられます。もし自分が信じる宗教を持っていると歴史もその宗教の持つ視点からしか学ぶことが出来ません。逆に、無宗教と言う人ほど冷静に見られるのですから、宗教を学ぶには良い機会だと思うのです。宗教を信者の視点では無く学んだ上で歴史を学ぶと点と点が結びついていくと思うのです。歴史はその方がずっと分かりやすくなるのです。すると逆に、教団に利用されていない自分流の仏教徒になるかも知れません。

 

安全管理が出来ない見世物の組み体操、やりたい大人は責任を取れの話

 神戸市内の市立小中学校で今年度、組み体操の練習中に66件の事故が起こり、うち6人は骨折したと市の教育委員会が発表しましたが、何の謝罪もありません。神戸市長が、自身のツイッターで組み体操の見合わせを呼びかけていましたが、その要請も無視して事故を起こしているのですから普通は謝罪だけでなく、責任も問われて良いのですがみんな何も言いません。この事からも怪我した子供の痛みを感じられない組体操の事故は、見世物に陶酔したい大人の犠牲でしかありません。そもそも、組体操自体が悪いわけではありません。授業の中でやることにも問題はありまあせん。問題なのは見世物としてやるからです。運動会と言う舞台で大人が感動したいという欲望でやらせるからです。例えば、運動会で、組体操ではなく個人体操だって、ダンスだって、問題はないのですが、それでは見せ場がないと思いこんでいる人がいるだけなのです。チヤリーディングでは3段ピラミッドなんて普通にやっていますが、それは、やりたい人が、指導できる人の元で訓練によって出来ています。運動会でやるとなれば授業ですから、やりたくない子供も、運動が苦手な子も参加しなければならないのです。昔は肩に荷物を背負うということは一般的でしたから肩に重い加重を掛けることには慣れている子供も沢山いました。しかし、現代では、ランドセルより重いものを肩に掛けない子供たちの肩に片足しか乗らなくても20キロ近い負荷が掛かって2段です。分散するといっても滑車を使っているわけではありませんから、土台の子供の方には、40キロ近くの負荷が肩に掛からないと3段にはなりません。体というのは生活に密着して成長しますから骨格であっても現代の子どもの体や肩に、重い負荷を支えるようには出来ていないのです。運動会は、昔の地域のお祭りではなくなりました。大人がいつまでもしゃしゃり出てプログラムに関わる必要はもうありません。純粋に子供たちの楽しい一日として子供たちに返すべきなのです。親が見たがり、教師が調教師の如く子供たちに演技をさせる見世物的組体操にはなんの教育的効果もありません。第一普通の親は、自分の子どもが走っているだけでも嬉しくてビデオを回しています。一番でなくても、転んでも、失敗しても、自分の子が可愛いのですから、組体操練習中に事故にあって運動会に出られない方がよっぽど悲しいと思うのです。そして、もう一つ、組体操になったら、体の大きい子は何時も土台です。これは明らかに体格による選別と同じです。さらに、よく言われる、「スポーツには怪我がつきもの」ということを言い訳に、実施している教師がいたのなら、事故に対して、業務上過失致死傷の罪や傷害罪を問うべきだと思うのです。予見できず、対策をしたにも関わらず起きたことは事故かもしれませんが、怪我はあるということが予見されたなら、その対策をして安全確保を行うことは指導者の責任です。大義の為なら犠牲もある様な感覚で行うのは、大人の自己責任2は通じますが、子供は守られるべきで、大人には保護責任があります。事故後に子供本人の自己責任など求めて逃げるぐらいなら初めから組体操を見世物として行わなければいいのです。見世物では無く、日常授業の一つとして、取り組めばいいのです。人にお披露目しようとするから個人の気持ちを汲むことも、一人一人の身体事情に配慮することもなく、集団行動として無理を子供に強いているのです。虐待状態紛いの圧力を子供に掛けていることに気が付かないのです。組み体操では、協力してやり遂げる満足感を得られる等と理由をつける教師もいますが、いじめと同じで、危険行為に怖い思いをしている子供や重さにつらい思いをしている子供にとっては、とにかく我慢しているだけだということが分からないだけです。いじめがあれば、教育委員会と学校が結託して隠ぺいすることもあるぐらい密接なのに、組み体操になったとたん教育委員会が判断することではないと言い出し、市長の提案も無視する教育委員会は、各小中学校の自主判断によらなければ止められないと逃げて、各小中学校の自主判断としているのに、その学校の責任者の公表もしません。そこには、教育者として、いつも説教する話あって決めるという姿勢などありません。やりたいだけのメンバーで強行しているのです。正に日本式で、誰か死ななければその危険に向き合おうとしないのです。事故が起きてからでは遅いという認識が欠如しているのです。組体操の、高所から転落すれば、重大な後遺障害を伴う怪我が発生するだけでなくいつか死亡事故が発生してもおかしくないのです。なぜなら、安全対策と言ったって教員が側に立っているだけで、崩れ始めたら、男子教員でも抑止することなどは簡単に出来ません。潰される土台となっている子供の負担は非常に大きいのです。日常、クラブ等で訓練もしていない子供たちや運動が苦手な子も含めた集団で行うのですから、重大な怪我をしないような安全配慮などできるはずもありません。保護者が拒否するという選択肢もありますが、特定宗教で授業を拒否した事例でも、子供が授業から外されて子供集団から疎外されるだけになってしまいます。これは強制なのです。こんな見世物組体操を子供にやらせたい人たちは、案外男らしさや男としてと言う性の強調に酔ってしまう人たちで、誤った観念による男性像に憧れている人たちなのです。組体操の危険も男の子には大事だと信じ込んでいますが、歴史を正しく学べば、作られた男性像に振り回されていることが分かります。勇猛果敢とは、自己陶酔と感情興奮することではないのです。

 

トロッコ問題で覗きこんではならない心の話

 トロッコ問題を小・中学生に出したとしてテレビで話題となりましたが、そもそも論で言えば、クイズ感覚で奇抜な問題を出した非常識な話だったと思うのです。つまり、質問を作る、質問をするということは、どんな回答を求めているかという想定によって設定するものです。そうでないと何のために問うのかが全く不明になってしまいます。問うと言う事は、明確な目的や想定される回答を求めて行うものです。しかも問い方によって相手の反応も、回答内容まで誘導することも可能です。単純なアンケートで、反対意見を集めたいのなら、質問項目は、「賛成ですか」と聞くよりも「反対ですか」と聞く方が効果的です。ですから、質問者は、どんな結果を世目論んでいるかの想定だけでもしていなければならず出たとこ勝負なんて質問をしてはならないのです。そんなことをしたら答える方が混乱して、結果として場違いな回答や誤った回答へ誘導してしまい集計の意味さえ失われてしまいます。では、そんな視点でこのトロッコ問題を考えてみたいのです。トロッコ問題の主訴は、簡単に言えば、誰かの犠牲で誰かが助かる方法に遭遇したらどうするかという質問で、哲学、道徳、倫理の面からの回答が欲しいので、それた回答とならないように、絶対にトロッコは止まらないとか、一人が死ぬか、多数が死ぬかのどちらかの選択をあなた自身が決定しなければならないという限定条件の中での回答を求められます。生命の大切さの為の多様な発想が許される条件はありません。むしろ、長年人間とは何かを問い続けている人に対する禅問答の様な問いと考えるべきだと思うのです。しかも、この問いの深いところは、現実の社会の中に、常に存在して、実際は案外緊急時に考えもせず判断されている多くの事例に対しての問いとも言えます。例えば、「ハイジャックされたとき人質を救う場合、人質の中に犠牲者が出ても多数が救われるならその手段も正当になる」「原爆を落としたことで、戦争が終結し何百万の命が救われた」「ヒーローものは、みんなのために悪を殺し悪は退治されても良い」等々でここには日本的感性は関係ありません。つまり、正義のためなら多少の犠牲は許容されるかという問いでもあります。それをもっと詰めていくと、民主主義の多数決の原理だって、多数のために少数が犠牲になるということは往々にしておきます。それは、正しいのかという事になれば意見は全く様々になりますが、この問題は様々な意見を求めることで論議していこうというもので正解は見つかっていません。ですから、回答が無いような質問を、小・中学生に問うのは意味のないことだということがここでもはっきりしています。さらに、問題の目的も、問題の意図も全く理解も出来ない回答者が出す、回答自体が適切ではないだけでなく、統計的にも処理が出来ず、集団に問う問題としては全く適さないからです。それでも、子どもたちに問うてみたいというなら、条件を外して、子供たちの自由な発想でどうしたら命が救えますかと問いかけてみるなら少しは意味を持ってきます。大人が考える正義的なこととは関係なく、命は守れるかと聞いたなら子供たちは素晴らしい発想で考えてくれると思うのです。大人なら、単純に小説の「塩狩峠」のテーマにある、自己犠牲によって列車の乗客を救った話のように線路に身を投げ出してみんなを救うということもありそうですが、子どもたちなら、自分も助かりみんなも助かる方法を奇想天外に考えられますから、トロッコぐらい線路に石を置いて脱線させればいいということから始まるかもしれません。素早く縄を解くなんてことも考えられますし、大声で本人たちに知らせるとか、トロッコに飛び乗ってブレーキを掛けるとか、飛び乗ったトロッコをわざと脱線させるとか、子供ならではの発想の面白さが出てくると思われます。ところが、この問題を出したというスクールカウンセラーは、授業でこの問題を使って、「選択に困ったり、不安を感じたりした場合に、周りに助けを求めることの大切さを知ってもらう」のが狙いだったと言っているのです。その目的でこの問題を使うとしたなら、心理職でありながらこの問題のテーマも知らなかったのかと笑われてしまうようなことです。子供たちは何時も正解のあるテストを受けて、テストに関して分からないから他者に聞くなんてことは反射的にも出来ない訓練を受け続けています。だから、紙ベースで問えば、正解を求めてしまうのが当然でそんな認識もなく子供たちの前に立ってしまうことが問題です。譲って、スクールカウンセラーが言う事を信じたとしても、この問題には周りには誰もいません。自身で判断することが求められています。ですから、この問題で周りに助けを求めることを学ぶことは絶対に無理です。こんな問題で子供の倫理観を覗いてみようとしたのなら、悪趣味としか思えません。心理職にとって大切なのは、相手の心を覗き見る事ではなく、必要な課題に対して本人の持てるパワーを引き出して自らの力で解いてみようとする気持ちにさせる事だと思うのです。逆に、試されていると感じる子供たちからは、自分の気持ちに素直に感じたままで表現することは危険だ、相手が信用できない、この問題は罠だとしか考えられないような、不適切質問と言えます。質問は、相手を評価することが主目的になってはならないのです。スクールカウンセラーの言う、必ず応援する人がいるから表現してくれと言うことなら、子供の思考発達段階に、応じた他に事例も、質問も、課題も、いくらでもあることを学習すべきだと思うのです。つまり、トロッコ問題は、人を試す問題でもあるのですから、安易に興味本位に行うべきではないのです。他人の家に訪問して、奧を覗きこむような感覚で人の心を覗いてはならないのです。

 

自立は、関係者の利害の話

 心地のいい言葉に自立があります。聞くだけなら素晴らしいひびきですが、それが強制されるということなら自立を求められた本人にはつらいことです。関係者は、自立は素晴らしいことで人間として当然であり自然なこととまで言い、自立は本人のためと力説しますが、実際には、自立のゴールが一体何なのかを説明することがありません。さらに、関係者は、本人には十分な自立の可能性があると強調しますが、その根拠は言葉ばかりで実態を説明することはありません。にもかかわらず、自立を奨められた本人は、関係者の期待に合わせた成長をしなければならないのです。ですから、自立とは何かを具体的に明示してどんな行動をしたらよいかを具体的に云っていただかないと本人には、ゴールが全く見えないのに進めとばかり言われることになるのです。例えば、働いて生活の出来る給与が得られていれば経済的自立だとすると、働いているのに給与が低くて生活に困窮している人は自立出来ていない人となってしまいます。社会的ポジションもありながら親が大好きで親と暮らしている人は精神的に自立していない人となります。と言うことをグダグダと考えていくと、少しでも他人に依存することがあると自立していないとされるわけで、究極には一人ぼっちで孤独な生活でもしていないと自立しているとは言えないなんてことにもなってしまうぐらい、自立と言う言葉は、現代社会では曖昧な言葉なのです。にもかかわらず、様々な場面で相手に説教するときに自立を目指せと言えば、済んでしまうような魔法の言葉でもあるのです。他にも、相手が出来ないことを延々と求める言葉に、勉強しろということもあります。何を一体どれほど勉強すればいいのかはとても不明です。この様な抽象的で後でどうにでも言い訳の出来る言葉は、本当の実態や実情を知らないか、知っていても解決すべき具体的内容を持たない人が発することが多いのです。福祉の世界では、障害があって出来ないから福祉サービスがあるのですが、実際は自立を目指さなければサービスを受けることは出来ないのです。

 現在の障がい者のための法律は、正式には、「障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律」で、略して「障害者総合支援法」というのですが、この法律を利用するには、計画相談という手続きで、サービス等利用計画の作成が必須ですし実施後はこの計画に基づいて、サービス等の利用状況の検証(モニタリング)も必須です。この必須条件の書類の記載事項には、本人のための長期目標、短期目標、解決すべき課題、支援目標、達成時期、課題解決のための本人の役割、評価時期、があるのです。もし、法律の理念通りなら、サービスの利用なのですから、利用に当たって、目標や課題解決や達成時期なんて全く必要などないはずです。普通の人でも、役所へ行って必要書類を受け取るサービスを受けとるために、目標設定などしませんし、コンビニに行って選んだ接客サービスの実施目標など書類に記載して許可を求めなければならないなんてことはありません。しかし、この支援法では、本人がサービスを購入するのだと説明しながら、そのサービスを購入して、課題を解決しなければならないとしているのです。つまり、支援サービスを購入して課題を克服して自立しなさいというのです。既に成人した方が、支援サービスを受けるためには、目標を立て、解決すべき課題を整理し、達成時期を計画し、課題解決のために自分がどうしたらいいかを考えて行動しているかが、時期的に評価されるというものなのです。法の目的が、自立を支援するものである生活保護ではこんな個別支援計画の策定や評価などはしていません。なのに、障がい者には、こんな条件を付けているのです。生活に必要なサービスなのですから、本人に条件を付けずに提供すればいいのです。むしろ、支援サービスを提供者に対して本人が、評価したものが必要だと思うのです。こんなことを求める根底には、障がい者への偏見があると思うのです。つまり、税金で、保護されているのだから本人も努力して頂くのは当たり前、常に目標を持って生活させる事が、成果効果を上げる事が必要であると考えているからこんなことになるのです。行政監査では、この個別支援目標とその記録や評価、そして課解決すべき課題のための関係者の会議まで記載されていないと指摘事項にされるほど重要な内容になっています。障害があると行政も認定しているのにその障がいの為のサービスを受けるには個別の目標を立てて努力しろというのは、少しでも出来るようになれという、自立の強制・強要だと思うのです。税金を無駄に使用していません。一生懸命努力していますという証明が必要と誰が思っているのでしょう。一体誰に向かって、長期・短期の目標を立てて頑張りますから、支援サービスを認めてくださいと言わなければならないのでしょう。本人がなりたくて持った障がいではありません。個別支援計画を支援するとして、サービス管理者を義務設置していますが、結局本人の欠点や短所、出来ないことの克服が努力目標とされています。税金で支援される以上は、一生大人になっても、目標を持って生きろと強制されているのが、現状です。その言い訳に、自立と言う言葉が使われているのです。障がいを持つ人には、目標のゴールもなく、努力目標設定であったとしても、いつになったらどこまでできたら、目標設定しなくてもサービスを受けられるようになるのか、明示しなければ障がい者自身が何に向かって努力せねばならないかさえ分からなくなります。障害福祉の特殊性は、長い人生に関与することと、成果・効果を計測できないということです。本来は、個別支援計画ではなく、個別支援サービス提供書が、事業所と職員に課せられるべきです。サービス商品としての支援内容を並べて選択していただきその商品を手渡すことが職員の仕事だと思うのです。今や指導訓練ではないのですから、どんなサービスをどれだけ提供するか計画を立て本人が承認し、本人が評価するのが原点なのに、関係者が本人を評価する体制が今も延々と続いているのが障がい者支援サービスの実態なのです。

 

辞めないことに感謝する時代の人材育成の話

 障がい福祉の人材育成は、業務評価を含めた、スキルアップ、キャリアアップなどを

主軸として、福祉の理念、理論、技能方法向上を如何に成し遂げるかという研修プログラムが今も行われています。しかし、今日の障がい者福祉の現場においては、基礎部分さえ不明な方の就労が普通になってきました。つまり、福祉業界には異業種からの参入が増えて福祉関係者の常識は通じなくなってきました。さらに、過去に労働環境の悪さとして云われた「休日がなくて、ボランティア残業だらけで、給料が安い」もそれほど改善されていず、精神的にきつい状況に追い込まれるケースも多い現場であるということもあり福祉は特殊な職場と言う感覚も一般的に続いています。この様な変わらない労働環境をさらに悪化させているのは、社会的な人手不足で中間的な経験者の不足は事業運営に影を落とすまでになっています。その一方で、福祉業界への企業の進出は、新しいサービスを実施したり、特定のサービスに特化したりと、社会福祉法人が必要としてきた人材ではなく、福祉に拘らない人材によって対応しているという事か始まっています。今後も労働環境が厳しい状況は変わらず、人手不足が続く中、障がい福祉の人材育成が、今までの様な、スキルアップ、キャリアアップなど中心でいいのかと言う懸念があります。そもそも、福祉の業界は、福祉の理念なり理論から派生する「やりがい」に依存してきた感があります。福祉を理解さえすれば、「やりがいある仕事」なのだから、誰もがスキルアップ、キャリアアップを求めると考えてきました。そして、「やりがい」に依存して、労働環境の他業種との遅れを放置してきました。福祉なんだからこれぐらいは当たり前、障がいある人が困っているのだから仕方がないだろう方式で、職員の善意を引き出して依存してきました。つまり、職員の「やりがい」は職員の「善意」を引き出す手段になり、労働との関係を二の次としてきました。結果、現在では「やりがい」を感じる前に退職する一方、福祉の理念や理論が門前で嫌悪されてしまう事が往々にして起きています。なぜなら「福祉を理解すること」や「やりがいを感ずること」が、ボラ勤、長時間労働、低賃金の温床であったり、「障がい者のためなんだから」が自己犠牲もありうる労務環境を維持している現状があるからです。入職動機そのものが福祉に関心があるということ程度である職員に、キャリアアップやスキルアップと訴えても、研修を実施しても、本人が望まないポジションや業務への通過儀礼のようにとられ、時間になったら帰れる程度のキャリアで結構ですという状況も出てきています。そこには、福祉は特別な分野、精神的意識が必要な分野と思いこんでいる過去の感覚に囚われている管理・経営者に対して、福祉は対人サービスの一つにすぎないという意識に基づくキャリアがあれば十分と言う職員との意識の違いとなって広がっています。福祉の主たる役割は、生活であり日常性であることから、一定の技能水準が満たされれば、誰もが働くことが可能な職種であり、評価が標準化できず、個性が最も大事にされる職種で、働きかけ一つをとっても、標準化、マニュアル化に最もなじまない職種だからです。福祉の人材養成では、対象者への支援や介護の専門性を追求することに基本が置かれていますが、それを求めることが困難な人材をも活用しなければ現場が回らない時代に遭遇しています。数年で離職する、資格を取得したら転職する等の環境の中で、キャリアアップやスキルアップと訴えていても、離職を食い止めることに繋がるとは思えません。一方、民間企業の参入が可能となったことで、福祉のプロとは何かが問われています。これまでの理念的なことより、サービス提供機能が問われています。サービス提供のプロとは何かが今問われる時代に入りました。にもかかわらず、株式会社のサービスと福祉法人のサービスの違いを、差別化することでの意義付けをすべき作業も行うことなく社会福祉法人は、株式会社の悪口を述べる程度の対応しかせず安穏としています。それが、人材の育成にも大きな影響を与えています。サービスの具体的内容の水準・標準化された内容もありません。つまり、キャリアアップやスキルアップを叫びながら、その水準も、ゴールも設定されていないのです。だから辞めないことに感謝する時代に入ったのです。だからと言って、辞めないだけで感謝していても事業運営が出来るものではありません。福祉は人材頼みである事から従前とは違う人を育てる方法が求められていることに社会福祉法人は気が付くべきです。もう、誰も支援してくれない時代が来ていることに社会福祉法人は気が付かなければなりません。人事評価制度も、給与などへの反映を構築することが出来ず、結果として、職員のモチベーション維持が「福祉のやりがい」に転嫁され、人事評価は根拠さえ失って、利用者支援のサービス向上に繋がるはずやその職員の成長の手助けとなるなどは達成できていないのが現実です。福祉のプロとは何かを、支援プログラムの水準や基準を明示出来ない社会福祉法人は淘汰される時代が来ています。