知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

ストリートミュージシャンスピーカー使うなの話

 多くは人の行き交う駅前で行うのが、ストリートミュージシャンと言われる人なんでしょうが、中には間違っていると思われる人もいます。バスから降りると駅の広場でスピーカーから得意げに歌う声が聞こえてきます。実に大きな音です。数人の人だかりが出来ていて、疑り深い私にはサクラかとしか思えません。性能のいいアンプにスピーカー、そしてマイクにミキサー。ご機嫌な本人たち。酔っぱらいとなんの代わりもないほど上機嫌で回りの人もみんな賛同していると思いこんでいます。これだけ機械を揃えていれば、音痴だって適当に見栄えよく作り上げることも可能です。でも、それほど機械を持ち込まなければならない程度のミュージシャンはライブハウスで金払って自己満足の最高峰へ行けばいいと思うのです。通行しなければならない人にとっては、騒音でしかありません。本当に聞いてほしいなら、垂れ流し的ではなく伝えたい人に伝わる環境づくりで良いと思うのです。昔は、ただ大声を上げる事をがなり立てるなんて表現しましたが、ただ大声を上げるために機械まで動員しなければならない程度なら、所詮、自己満足程度で周りへの浸透なんて出来ません。ストリートミュージシャンの良いところは、将来スターになり何万円払ってもコンサートに行けないような人の歌が生でしかも無料で聴けるかもしれないという醍醐味だとも思うのです。また、派手な芸能の世界ではなく、純粋に音楽が好きで楽しんでいる方のお裾分けのような清涼感だと思うのです。仕事を終えた疲れた通勤途上に出会う音楽を含めたパフォーマンスに急いでいるのに立ち止まって聞いてしまう見てしまう一服の癒し効果があると思うのです。アジ演説の様な押し付けは、疲れた感性に鞭打つようなものだから、騒音にしか聞こえないのです。ライブハウスで勝手にやってくれとしか思えないような機械音に酔っている人たちを見ると、売れないなとしか言葉が出ないのです。ライブハウスは有料でお金を払ってミュージシャンに会いに来てくれるファンがいます。路上は無料ですが未知のファンがいます。そこに価値を見出すようなパフォーマンスでなければ通りすがりの騒音です。サクラの様なお仲間集めて、聞きたくないやつは聞かなくていいと思っているならストリートなんてやるべきではありません。アピールするのは、知らない人なのですから、知らない人の足を止めさせるというのがストリートなのに、聞きたくないやつはさっさと行ってしまえ的な対応をするなら、そこでやるなと言うことになります。販売をするときも、店頭を通り過ぎる人がどんなに大勢いても売れません。素通りさせず足を止めさせることが販売の始まりです。どんなに良いものでもアピールする機会がなければ販売は出来ません。足を止めさせてこそアピールのチャンスがあるのですから、足早に通り過ぎたいと思うような騒音では出会いはありません。そして、騒音と思う奴は聞かなければいいと高をくくっていると、騒音として警察に排除のために届けるという手段に移行してしまうことを忘れるべきではありません。その繰り返しが、規制と言うことになってしまいます。音楽は文化ですが、今日は市民文化でなければ生き残っていくことはできません。大衆と言う広く浅くの人々から支援や収入を得る方法を取らなければ自己資金だけでは永続できませんし拡大もしません。ストリート文化は、己の欲望を満たすかの如く行うのではなく、後に控えるミュージシャンがやりやすくなるようにやるべきだと思うのです。地声で他者に届ける力もないのなら、地声で、生歌で声が届かない程度の力しかないから、機械の拡声に頼ることしか出来ないのなら、止めろと言いたい。機械で喚き散らすのは騒音でしかありません。こんなことを言うと若い人の音楽についていけない年寄りのやっかみのように感じる人もいるかもしれませんが、大衆が受け入れた歌を過去に戻って調べていただければわかりますが、ジャンルではありません。はやり歌は、年齢や生活感ではなく人間に何故か浸透しているものです。