川は、太古からただ普通に流れています。雨が多くなれば太く、少なければ細く何の不思議もないことです。台風で被災した方には申し訳ない話ですが、川があふれたのは人間が作った堤防からで、川は、過去にも流れただろう場所を流れたにすぎません。むしろ川が蛇行し様々な流れ方をしたことで、平野が出来たり扇状地が出来たことは、学校の地理で習っていることでもあります。川が作った平地に後から来た人間が勝手に住みついて、川にここは俺が住んでいるので勝手に流れることは許さないと、堤防を作って川を隔離したにすぎません。そんな人間の押し付けに文句も言わず、川は、初めの一滴から始まって、ちょうど逆さまの木の根のごとく、小さな川の水を集めて、海へ向かって流れているだけです。ですから、逆さまの木の根の小さな川が、溢れてくれば大きな川も溢れるのは当然です。降った雨の水量に合わせて川はその量を下流に流しているだけで、その水量が少ない時に勝手に人間が住みついたとしか言えないのです。繰り返しますが、川は普通に流れていて、大雨になれば流れ込んだ水を下へと流しているだけで、人工物に挑戦しているのでも、牙をむいているのでもないのです。単なる物理的に、人間が想定して作った容器から溢れ、雨が止めば、いつもの川に戻ってしまうというだけのことです。同様に、クマが住んでいたところに人間が住み、追い出されたクマが生活の居場所を失って人間に取り上げられた場所にちょっと出てくると、人間が驚いてすぐに殺されているのです。イノシシなんて、体で土をほっくり返してミミズを食っているのにコンビニ弁当の残りを食べてしまったならもう、ミミズなんて食べられなくなって新しい食物を探しに来るのです。川が流れていたところに人間が住むためには、治水と言って堤防を作ります。昔から水を制するものは天下を制するなどと言われ、水との戦いだ自然との闘いだと言っていますが、それは人間の一人相撲で、みんなの人気を取るために言い出した政治的誤魔化しであって、自然が人間に挑んできたことなどありません。堤防で川を制御しようとするから溢れただけで、それは予測不能ではなく、人間の見積もりが間違っていただけなのです。大地は、雨によって削られ、流され、その恩恵によって植物が生え、動物が生えています。最後に来た人間がそんなに欲張りに独り占めしなくてもいいのではありませんかと、雑草がいってもおかしくない今日なのです。人間が作りだした機械・重機が、洪水や干ばつを繰り返してきた自然に対抗出来るような錯覚に貶めていることが、川でもなんでも予測ができると驕り切っているから測定不能などと言い訳をしなければならないと思うのです。異常気象ということで、台風が来て、電柱が倒れて、停電となり、堤防を超えて洪水となったということで、あたかも台風や川が悪人の如く言われています。古来の日本では、これらのことは神の怒りと考えていましたから鎮まるまで、じーっと待っているだけです。祈祷の様な今日では非科学的で根拠のないものとして、否定される様な事をクドクドと行って待っていました。今日では、天気予報を見ながら、自然との闘いに勝ったかの如く堤防を含む人工物に頼り切って満足できないと人間同士で非難し合い挙句に予測不能だったと言い出します。盛りだくさんの人工物を作らなければならなかった主たる原因は、人口が増えたという事だと思うのです。科学は、人口増に対して素晴らしい力を発揮して衣食住を提供しました。結果、災害が起きるところにも人間が住むようになったという事や災害が起こるべき原因の人工物を作ったという事だとも思うのです。ただ、それは自然への挑戦としてではなく、人間同士の経済・政治の戦いの中で弱者を作り出して追いやったというのが本質です。つまり、人間と自然の闘いの中で人間の科学が、自然に勝ったという嘘に乗せられて、人間の科学の誇示や横柄な態度の言い訳に弱者が追いやられて行っただけです。川は人間が住む前から自由に流れていたのです。後から来た人間がここしか流れてはならないと柵を作ったのが堤防です。家畜の如く扱えると思ったのが堤防です。風は自由に吹いていました。人間が電気を使うために電柱を立てました。人間が通り易いように道路を掘削しました。でも科学で、気象を自由に出来る時代は、やってきません。なぜなら地球も生きていて、全部にバランスのよい気象などあり得ないからです。測定不能は、驕りだと思うのです。自然を予測できることと思う事が間違いだと思うのです。地震の予測は出来ないと地震予知を諦めたことは賢明です。人間が予測できることは占い並みだというぐらいに自然と接することが大事だと思うのです。災害はやってくるだから自分が住むところが一体どんな地理的な歴史を重ねてきたかを学習する機会を持つ必要があると思うのです。