知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

歴史に悪役はいないの話

 歴史は、一方的な好みで見た方が面白いのですが、その見方で歴史から教訓を捉えようとするなら、絶対に間違えます。歴史に、もしもが無いように、歴史の中には教訓はありません。その時その場所その人だからそうなったのであって、必然無き存在はないからです。例えば、井伊直弼は、確実に悪人と言われています。最悪の評判は、日米修好条約に始まって、安政の大獄等々国に被害とろくでもないことをしています。ところが、彼が行った海外貿易の許可が、各大名家の海外貿易を促進し、それが討幕の資金になったことからすれば、案外会社のリストラを進め、不利益な取引をした取締役のせいでみんなが奮起して会社が再建されたという言い方も出来ます。信長は、比叡山を焼き討ちしたので無神論者で信心もない人間と思われますが、そうではなくて、神仏は信じていたけれど、神仏の使いという人間たちを信じていなかったという解釈をすると見方は変わります。この時代、戦いの時の本陣は、野営よりも門や塀があり、敷地が広い寺社に置かれるのは普通です。だから敵を攻めるという事は、本陣のある寺社であることも多く、信心深いという上杉謙信でさえ、敵領国の何百という寺社を焼き討ちしています。一揆を起こすときも寺に集まってからというのはよくあることで、寺社は争いの時の砦的役割を持たされてもいました。ですから、その大親分筋であった比叡山を焼き討ちすることに関しても織田軍団としてそれほどの悩みも異論もなく出来たと思うのです。今の宗教と当時の宗教の違いを認識できなければ大変なことのように見えますが、政治と宗教が密接だった時代では、宗教も政治勢力の一つにすぎなかったのです。ただ、それまでは特権を持ち勢力が強すぎて武士ごときが手を出せなかったという事情があることは否定できません。ですから、叡山焼き討ちが明智光秀の義憤に繋がったというのも間違いだと思っています。それに、宗教は他宗教に対して残虐で、自派しか認めませんから、一向一揆を含めて権力の一翼に参加していたなら織田信長てなくとも覇者との戦いは避けられなかったと思うのです。それは、当時も今も、宗教の存在は認めても、宗教を生活の糧としている人間が必ずしも信じられないということは続いており、自分に対して敵対しているのは、生身の人間であり神仏ではないと確信できれば、戦うことは何の不思議もないことと言えます。現在の日本では、対立は否定されみんな仲良くが基本ですからその発想で歴史を見ると、対立するという事は、勝ったほうが正義で、負ける悪人がいなければならなくなりません。そうして大化の改新蘇我氏は大悪人に仕立てられましたが今では全く違う見解の方が正論となってきています。日本人が歴史を何故ヒーローショーと重ね合わせ様になったのは、平和になった江戸時代の、歌舞伎などの芝居小屋から始まると言えます。芝居では、主役を強調するためには悪人が必要ですし、残虐でないとヒーローショーは盛り上がりませんから、歴史の事実より盛り上がりで興行します。つまり、主役と悪役が際立つほど面白さが増しますから、悪人探しをしては正義のヒーローづくりをしてきたことが歴史の人物像を大きく誤解させてきたとも言えます。さらに、権力を握った方が、相手を悪役に仕立てるための様々な隠ぺいや資料の廃棄が後世の評価をゆがめてきたことも間違いありません。時代に生きることは会うこともない後世の人間の評価など気にして活動はしていません。みんなそれぞれの思いで行動しており対立はあっても誰もがヒーローでも悪役でもいなかったと言えます。出た結果で、後世の商売のためにヒーローにも悪役にも後出しで役付けされてしまうだけです。ですから、歴史は、一方的な好みで楽しむもので、歴史から教訓を得ようなんて考えたなら、間違えてしまうと思うのです。

困った一等地意識の人々の話

 番付好きな日本にあって一等地に住むという事は、憧れであり価値あることだとは思うのです。ここは、一等地なのよと言える人にはその響きに素晴らしい価値を見出していると思うのです。だから、一等地であることを守るために戦うというのも理解できることです。さらに、価値観は個人のものですから、本人の価値観を非難すべきではありませんし尊重されるべきものだとも思うのです。それは、逆も同様で、一等地という価値観を隣人にも押し付けるべきではないと思うのです。隣人はまだまだ上があると上を目指しているかもしれません。つまり、あなたにとって一等地だとする価値観を地域で共有していくには、日常的な地域活動などによる連携がなければなりません。問題が起きた途端に仲間だよねと云ったところで生活の違う地域の人が問題を共有したうえに同じ価値観で統一できるなんてことは困難です。一等地って、なあにと言われたなら、一等地番付は多種多様にあって、価値観の違いほど一等地はあるんですとも言わなければなりません。今、南青山に児童相談所が出来ることに反対している人達の報道を見てみると、こんな一等地に児童相談所は似合わないと言っているのですが、一等地に似合わないのは反対しているあなたですと某セレブの人が言っていたように、一等地に似合う似合わないは、他人が決める事ではないと思うのです。では、東京の一等地ってどことなれば、住宅地としての代名詞の様だった田園調布も今では一番ではないと言われていますし、昔の大名屋敷のあったところが有名などとも言われますが結局は、土地が高くて誰もが希望しても簡単に住むことが出来ない場所に落ち着くと思われますから、一等地なんて時代や背景で変わってしまうものだとも思われます。ですから、南青山も、一部の住人からすれば、一等地と思いたいのでしょうがそれは勘違いで不動産業者の口車並みの思いこみだと思うのです。元々、土地は国からの借り物です。土地はすべて国家の領土ですから、自分の土地を購入したから独立できるわけでもありません。借り賃としての固定資産税も払わされますし、自分の所有地なのに子供に譲るだけでも相続税が掛かります。公共事業によっては強制収用ということもあります。つまり、言葉の意味で言う本来の所有ではなく、自分専用に使用する権利を国と契約しているだけ、国土の一部を安く借りているだけのことです。そんな国は、国として国民に必要なものは、国土の中に設置するのが当然ですから、自治体として住民に必要なものと判断した機能を設置するにあたり近隣住民の私有地に配慮すべきことは限られているというのが常識です。ですから一部報道にあった土地の値段が下がるなんて理由に対応する必要など全くないと言うことです。しかも、こういった人たちの言い分の中心には、その機能は必要だけど、ここではなく他に建ててくれという迷惑施設観があります。迷惑施設というのは、社会的には必要だけど自分の家の近くには存在していて欲しくないというもので、ごみ焼却場や福祉施設を指す言葉です。福祉施設などは、迷惑施設として昔から、近隣住民の同意なしには立てられないということさえもつい近年まであったぐらいです。近隣住民が言い出す迷惑施設への不同意の理由は、昔から利用する人そのものが危険な人だとか土地の値が下がるという物言いですが、組織が運営する施設等の方が安全で、投機目的でなく生活のための土地ならなら値が下れば税金もやすくなります。確かに長い歴史を持つ地域が形成されているところなら、地域に暮らすということですから隣人との関係は配慮されなければなりませんが、大都会東京の地域的活動実績もない一部の人が、突然地域の代弁者の様な顔をしてこの一等地に児童相談所は似合わないと叫んでも、誰もが違和感を感じていると思うのです。そのような人たちの言い分や行動を報道から集めてみると、自分が気にくわなければ、なんでも迷惑施設にして自分の価値観を押し付けて反対しているとしか見えないのです。迷惑施設というパッケージで覆ってしまえば、地域の人の賛同が得られるだろうという目論見は、ネット社会の様な情報が広範囲に流れる社会では、単なる地域の問題ではなく社会性として取り上げられ、利己的な主張で隣人を排除しようという企みは我儘としか見られないと言うことに気付くべきだと思うのです。迷惑施設という考え方は、数十年前、公害という生命や健康を守るという事から始まり、行政等の大きな組織に対抗する個人の戦い方として様々なケースで有効な方法だったこともあります。公共事業であっても、迷惑施設という言い方で、反対を唱えることで設置を断念させることが出来たケースもあります。しかし、人の命が掛かった権利を守る方法を、今回のように、自分の利益保護のための武器に使用している人々が報道されると、世間の評価は批判的になってしまいます。児童相談所まで迷惑施設と言い出す人々は、現代の情報社会の中で、金持ちが沢山住んでいる土地にやっと住むことが出来たのだから、その価値が共有できない施設は立てるなという論拠は多くの人に否定されていることを理解すべきだと思うのです。ここが私の一等地という思いは否定しませんが、成上がりという言葉が差別的要素を含んでいるように、一等地という選別的な言葉に酔ってしまうのも、差別的意識に繋がるものだという事をお伝えしたいものです。

駅のエレベーター荷物より人優先じゃないのの話

 駅のエレベーター、クイズで出せば、車いすは〇、杖付き老人〇、高齢者〇、乳母車〇、障がい者〇などと簡単に回答してくれそうですが、キャスター付きトランクを引く人はどうでしょうか。中には、両手で大きなキャスター付きトランクを引いて結果として乳母車が乗れないと言う事があっても先着順で動きません。中には、引っ張りながら走って無理矢理乗り込む人もいます。それだけではありません。背負ったならリック程度で済むような大きさの鞄のようなものにまでキャスターが付いている程度でも荷物を持っているのでと言う顔で乗り込みます。キャスターとハンドルがついたおしゃれな旅行カバンや、色合いがカラフルなトランクが一気に広がり、キャスターなしを探す方が困難なぐらいな状況になってきました。呼び方としては、キャリーケース、キャリーバッグとも言うのでしょうが、キャスターとハンドルがついた鞄は、体に密着している鞄とは違い、立てたり、引いたりしているだけで、一人分とまで行かなくても確実に場所取りとはなっています。エレベーターを活用すると言う事では、誰でもが使用できて当然だと思うのですが、駅のエレベーターは、列車の到着や発車時間に人が集中します。特に到着の列車の乗り換えにはキャスターの使用できない登らなければならない階段が多く、エレベーターの方が便利です。しかし、エレベーターは駅のホームに一台程度で一度に乗れるのも4~5人程度です。乳母車では2台乗れない場合も見られます。そんなエレベーターも入口と出口が違うというものが多くなっており、出口側に先に乗り込んで前を向いていれば後ろがどうなっていようとお構えなしに居られます。ですから、キャスター付きトランクを立てて本人と零点何人か分を確保したまま後ろに障がい者がいようと乳母車がいようと配慮することもないという事も発生しています。状況を見て、お先にどうぞと言って、次ぎに乗るぐらいの感覚ならお互い様ということでもいいのですが、キャスター付きトランクを引いていることが、エレベーターを利用できる条件をクリヤーしているという顔でいることには、疑問が残ります。それに、エレベーターが必要だと誰でも思う人は、エレベーターへたどり着くまでに時間が掛かります。キャスター付きトランクの人は足早に先着しますから、障害の人や高齢の人、乳母車の方が到着した時には、先にボタンを押して一番に並んでいて私が呼んだエレベーターぐらいの顔でいます。そして、我先に乗り込むのですが、聞かなくなったエチケットという感覚が必要なのではないかと思うのです。法律でもないルールでもない、マナーでもない、何となく譲る様な感覚の作法があってもいいと思うのです。作法というと堅苦しいので過去には、エチケットという言葉で表現したこともありますが、人と人の接点の潤滑油の様な対応も残しておくべきだと思うのです。エレベーターが必要な人は、他に代替するものがありませんが、キャスター付きトランクを引いている人には不便でもほかの方法があります。なのに、遠慮も配慮もなく、我先に乗り込み、背中を見せて知らんぷり、駅のエレベーターは荷物より人の方が優先だと思うのです。重い荷物を持って商売をしていた時代は既に遠く、貨物と人の分離は既に定着しています。ですから、客車に乗る人が持てる範囲は、いざとなっても自分が対応できる範囲が基本だと思うのです。まして、先を急ぐのなら、自分で持てばいいと思うのです。私は、見ての通り、荷物を持っているのだから障がい者と同等にエレベーターに乗るのは当たり前の様な顔は、少し違うと思うのです。乗るんだったら、一度周囲を見渡して、ゆとりある対応で乗るのが作法ではないかと思うのです。

天上を見つめての話

 カーテンが閉められて、一人になった。案内されたベットで、着替えてごろり。明日は手術。やることも無いからボッと見る天上の電気は無性に眩しい。横を見れば窓の外、青空が見えて雲が動いているとただ視覚的に確認する。カーテンのヒダさえも、飛ぶ鳥の様に見える。そんな、感情的になるほどのものでも無かったのですが、やっぱり明日は手術だとなると、まるで悲劇が訪れたように自分をそっちへそっちへと向かわせる気持ちが湧き上がって来ているなと思うと、本当の病気の人はもっと遙かにもっと、精神的に押しつけられるのだろうなと思いました。私は、老人になったのに自覚が足りなくて、いわゆる脱腸になりました。左の鼠径部に時々玉が出てきて、やたらかたらと腸の動く音が鮮明に聞こえるようになったのです。もしかしたら癌なのかと思うときもありましたが、医師は軽く、脱腸と宣言したのです。後は、手術するか、そのままほって於いて最終腸閉塞になる様な状態で手術するか、好きな方を選んで下さいと、ボールを投げられたら即座に手術しますとしか言い様がありません。それからは淡々としたもので検査があり、手術日が決まり、感傷的になれる状態も無く、慌ただしくこの日を迎えて、ベットに寝転んだらその気になったという流れです。入院・手術は初めてではありませんでしたが、病棟の雰囲気も随分変わったなと感じました。長期入院は御法度の時代部屋主のような人などいません。手術後に一日だけ入った部屋の対面側の人の話を術後の痛みに耐えながら聞こえてくるので聞いてしまいました。一人暮らしの男性で脳梗塞で倒れ救急車で運ばれて数日、急性期としての対応は終わったので、リハビリ病院があるからそこへ移る手続きをしなければならないと、ワーカーに言われています。本人は、そのままにしてきたアパートの事情を話していますが、側にもう1人いるのか、もう二階の部屋で階段上れないでしょときつめの声も聞こえてきます。本人があそこ知っている老人ホームの名前を挙げて、そこへ行くよ。と諦めたように言ったのに、即座に、そこは無理、順番待ちだから、まだ介護認定も受けていないしと制度上でばっさりと言われています。そうなんだよね。福祉の制度複雑だし、聞く限り生活保護を受けていたのだろうか身内も無く暮らしてきて倒れてみれば、気持ちの整理や感傷にボッとしていることも出来ないまま次の生活を決めなければならないのです。今の福祉は自己決定が原則なので、制度の理解も無いままに言われるまま結局、行くしか無い年寄りがそこにいるのです。麻酔も切れてきて痛いので、目を開ければ天上石膏ボートの柄でさえ、年寄りの目に似ていたりしました。部屋は、4人部屋でしたが、カーテンが閉められてプライバシーが守られているのですが、音は容赦なく入ってきます。天上を見つめながら、ぼんやり聞いていても、他の人の病状や疾病が何となく想像する事が出来ます。やっぱり自分が一番の軽症に思えて、自分ではどうにもならない病気に罹った人がこの天上とどんな話をしてきたのかと思うと、痛いのですが声だけしか聞こえない環境で良かったなとも思いました。もう一つ、声が筒抜けだと面会者がいる人との差はとても大きいと感じました。他愛の無い話でも案外聞こえてくる環境の中で、年老いて一人暮らしの中での入院、刻んだ人生のどこかに思い当たるような面会者の言葉が、天上の石膏ボードの図柄を替えてしまうのかなとも思いました。手足を動かしても、体位を変えても寝具は、音を立て、身体が発する咳もオナラも、特別大きく聞こえます。そんな音さえも気になってしまうぐらい刺激が限定された環境ですから、小さな音にも妄想でもしていないと何も出来ない身体には時間がゆっくりなのです。若いときは、痛みと闘ってこそと思っていましたが、年取ると少しでも痛くない様にと、脱腸の手術程度なのに天上に訴える日々でした。

鯨食べられるの。の話

 日本の外交は、戦前は軍隊に統制されて、戦後は産経省等の経済関係省の統制を受けていますが、鯨の国際会議から脱退した話は、外交できない外務省いらないかなと思われる出来事です。鯨の商業捕鯨を再開したい人達の政治力は素晴らしくどこにそんな力があったのか教えて欲しい限りのパワーです。国際組織から脱退できる位の政治力を日米地位協定に活用して対等の関係にしていただけるなら多くの人が喝采するものですが、エゴ丸出しの様な使われ方には驚きです。さらに、この脱退の根拠に使われている捕鯨は日本の食文化を守るためだという理由に対して、なるほどという日本人は今日では極まれで、そうかなーと疑問を呈する人の方が多いと思うからです。そして、鯨肉に接したことさえない日本人の方が多いと実態を知っている世界の人は、食文化と強弁する日本を、説得力無いといっています。和食を世界遺産に登録する時にも、鯨料理は絶対に欠かせないと主張したわけでもありません。一部の地域にとっては、伝統的な食文化であり食生活の一部である事は事実ですが、それを日本の食文化であるとまで押し上げるには無理があると思うのです。水産物というのは、家畜のように原材料費つまりえさ代も設備費も掛かりません。野生で育った魚を狩りに行くだけですから丸儲けとも言えます。しかも、日本近海で捕鯨するというのですから、遠い南極まで行く燃料費よりも相当安く済みますし、獲りたてを豊洲に運んだ方が、高く売れるかも知れません。近海なら、船も小さくて済むし維持費も少なくて済む。さらに、今では魚探知機が発達していてもマグロのように釣るとなれば大変ですが、見つけ次第強力一発百中のモリを打ち込んで仕留めるのですから案外儲かるかも知れません。もう一つ、強行に捕鯨に反対している英国などは、過去にクジラの脂肪を燃料として使用するだけに散々捕鯨をしていたくせに今になって反対するなんてと言った感情もあると思います。まさに、犯罪を犯した人が、犯罪を犯しそうな人に説教しているような感じで、おまえに言われたくないよの感覚があるかも知れません。今の中国が温暖化問題で、先進国がさんざん汚しておいて後から始めた途端に止めろというのはおかしいと言っているのと似ています。そんな事情があったとしても、強力な政治力を使うほどの事なのかという疑問は残ります。しかも大手の水産会社は、商業捕鯨を再開しないと言っています。なのに、商業捕鯨になれば、広告も出来て、鯨を食べる人を増やすことも出来ると関係者の話しとして報道されましたが、鯨が商業として成り立つほどに販売できるとは私には思えないのです。何故なら、ほ乳類の肉は改良しないと食べにくいということがあるからです。定着している豚や牛の改良は非常に進んでいます。羊は改良の遅れで北海道等の地域食文化としては有名ですが全国的ではありません。野生の鹿もイノシシも話題にはなっても、中々定着しないのは、均一の肉の確保が出来ないからでもあります。家畜は、基本、改良によって、均一な製品の確保と購入者の好みに合うように改良されているから、商業として成り立っているのです。つまり、一般の人の食生活に組み込まれていなければ、商業としては成り立たないということです。美味しい牛肉に慣れた人が、野生の鯨を定番的に食べるとは思えないのです。では、鯨の養殖が可能かというとそれも出来ません。えさ代だけで無く、養殖場の確保は困難です。とにかく鯨は魚類では無く、ほ乳類なのです。牛より大きいほ乳類が、ただで獲れると考える人には、魅力的に見えるでしょうが、間違えだと思うのです。もう時代は、獲ってくるから造り出すに大きく変わっています。獲ってくる縄張りの確保が国益と言われる時代から造り出せるでなければ、商業的には成り立っていきません。食べたことのない人にはあくまでも肉では無くて、鯨なのです。同じ事は、カンガルーでもワニでもあって、特別な食材となってしまうのです。だから、鯨食べられるのと言われても仕方の無い時代に、国際組織を脱退してまでやることなのかと思ってしまうのです。

 

研究費増大、無理しても効果は薄いの話

 ノーベル賞がこれからは取れなくなる、その理由は基礎研究を含めた研究費が少ないからだとテレビのコメンテーターが言うと誰もがうなずいています。確かにもっともな話に聞こえます。でも、よく考えて見たら、一体どんな研究にお金をつぎ込めば良いのかと言う疑問が出てきます。実際、これまでだって世界何位という程、一杯つぎ込んだ研究費の決定や仕分けは適正だったのかとなってきます。つまり、賞を獲れるような研究が優秀で日の目を見なかった研究費は無駄だったのかという事になれば、賞が取れるような研究はこれだと誰が決められるのかとなります。もっと言えば、役にたつ研究と無駄な研究を仕分けできるという人物などこの世にいるのですかと聞きたくなります。例えば、文学で源氏物語を研究していると言っても庶民の生活には全く影響がありません。例えば、ダンゴムシを研究していると言っても日の目を見ることになる様な成果を誰も予測できないと思うのです。例えば、郷土の偉人を研究していると言っても研究対象者さえ誰も知らないと言う事にだってなります。例えば、個人でも天文台的研究をして星に名前がついたという人もいますが研究費は自費という場合が多く見られます。つまり、研究なんて、ノーベル賞を目指したり、評価されることを目指して行っていると言う事よりも、その人が興味関心を持ち突き詰めたいと思う事が研究対象となっているのですから、それを応援する研究費が、競争で勝つものや利益を生むものに焦点を当てるというのは、違うと思うのです。中国の研究費が日本を抜こうと、どこの国より少なかろうとそんなことを煽る必要があるのだろうかと思われるのです。身の丈、分相応と言う言葉がある中でに、これから先も世界の中で背伸びして日本人を奮い立たせる必要があるのだろうかと思うのです。クローバルという言葉を言う人ほど、日本人という事に拘るし、世界の中の優劣に拘ります。確かに明治以降日本は、世界に飛び出してそれなりの地位や名声を得て、日本人という抽象的な象徴に結集し、頑張りで得られた経済大国としての生活ですが、世界と戦い続けていけばこの生活が永遠に守る事が出来ると考える事自体が、甘い予測だと思うのです。繁栄と衰退は人間の歴史そのものです。つい最近まで、化石燃料のガソリンは永遠に必要だと思っていたのに、エネルギーとしての役割を終えるかも知れないと言われています。だから、電気自動車の研究で最先端にいかなければ、国際特許を取らなければ席巻されてしまうと話す人は沢山います。では本当にそうなのかと考えると、過去には半導体で日本が世界一だったという事実がありますが、もう何年も前に統計の順位からも外れています。大きな流れの中で、ピンポイントの様に成功してもすぐに波は引いていきます。永続的に利益を生む世界的特許なんて今ではなくなりつつあります。それに科学・化学では、たった一つの方法では無く幾通りもの方法が存在して、一時的に優位になったとしても、すぐに代替出来る方法が研究されています。例えば、稀少金属類もそうです。一時は大変な騒ぎとなり産出する中国が大きな権益を握りましたが、数年で終わりとなり、そんな騒ぎがあったことさえ多くの人は忘れています。国際社会の中で日本が何番目なんて事はもう良いのです。国策研究の費用を増やしたところで、時代の流れは変わりません。最先端の技能を維持する為の研究費増大は、学問研究に片寄りを起こし、利益の為や産軍共同体へ変質しやすいのです。海洋開発、宇宙開発とどれだけ研究費をつぎ込んだってバブルのように消えていくことの方が多いのです。国として、競争心向きだしで国民を叱咤激励することをしたとしても、バブルのような時代は訪れません。よく貿易立国だからと説明することもありますが、それならもっと外交として相手に寄り添う事をしなければ相手国から嫌われるだけです。実際にこれまで援助した国が日本の味方ではありません。そこまで来ている加齢の島国が、今までのような方法で外国と競い合うスタイルでは息切れしてしまう時代が来ています。一ランク、二ランク下がったとしても広い見識がもてる研究を育成していくことの方が大事な時代へ入ろうとしていると思うのです。競い合いの最先端では無く、我が道を往くような研究で良いのでは無いかと思うのです。

 

陥落そして遅れてる方がいいんじゃないの話

 国連の分担金が、中国に抜かれて3位に陥落したと、実に残念そうに報道している人たちがいました。そんな見栄を張っているような地位から陥落したっていいじゃないかと思うのです。どうせ、分担金払ったって国連の官僚たちの高給に消えてしまい、実際の実務ではちっとも成果を上げていないと私は思っています。二位と言われていた時だって拒否権があるわけでもなく、金あるんだから出せよと言われているだけで案外メリットはなかったと言えます。今の国連の原点では、日本は敗戦国であり、アメリカのふんどし担ぎでしかないことは誰もが知っていることです。韓国の方が事務総長をしていた時に、第2位の拠出金国なのに、どれだけいじめられたかを考えると、中国が代わってくれたことを喜んでもいいと思うのです。中には、そんな単純な問題ではなくて、国力というものはと言い出す人もいるでしょうが、それこそ覇権主義的話で国力という全体論見栄を張る必要などないと思うのです。例えば、これまでの国力では、アメリカとの地位協定一つ変えられず日本の空は戻ってこないうちに中国の軍事力の方が日本をはるかに超えていきました。ロシアと戦争してでも取り返すぞと脅しを掛けられないままにペコペコしても島の返還は実現していません。同盟国だと言って韓国に竹島は占領されています。外交は、難しいと専門家に任せろと言ってなんでも秘密にして外務省が手柄を立てたことなどありません。つまり、国力相当のことも出来ない外交では、国連に金だけ出している方が無駄て、世界の困っている国に無償援助した方が効果が上がるような気がするのです。順位が下がって身の丈にあった国連との関係が出来る方が適切だと思うのです。

 もう一つ、日本は中国に遅れていると繰り返し報道されている電子決済。遅れていていいではないか勝気に中国と比較して悔しがることはないと思うのです。電子決済が日常生活に浸透して、現金で買い物が出来なくなる方がひどい社会だと思うのです。なぜなら電子決済は、誰がいつ、どこで何を買ったかがすべて記録されるのですが、自分で管理できないばかりかその情報が誰にどのように見られ利用されるかさえ不明なのです。自分が買い物した店が分かれば、行動範囲もおのずと推測できます。レシートを常に誰かに提供していることと同じです。ネットに自分で提供した情報は自分で責任を持てばいいことですが、電子決済は生活のお金の流れがそのまま他人に管理されてしまうかもしれないのです。まして中国の様な管理社会では管理者にもってこいのシステムだからこそ進んでいるのであって危ない国のシステムに遅れていたってなんの問題もないと思うのです。スポーツでも経済でも、上位になると大げさに報道されますが、勝気になる必要など全くないと思うのです。

 日本人は、江戸の昔から番付という事に熱心であることは事実です。話題の提供としても、誇らしさの意味でも、番付は根強い人気力があります。ですから島国論を言っている人までもが、県民ランクに反応しますし、自分が知らなかった程度のことでも地元が一番となるとなんとなく笑顔になってしまいます。バラエティーならそれでもいいのですが、報道で番付に一喜一憂したり感情を込めることは適切だとは思わないのです。これからの時代グローバル評価の中での番付に拘るよりも、わが道を行く姿勢で実務を大切にすべきだと思うのです。