知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

困った一等地意識の人々の話

 番付好きな日本にあって一等地に住むという事は、憧れであり価値あることだとは思うのです。ここは、一等地なのよと言える人にはその響きに素晴らしい価値を見出していると思うのです。だから、一等地であることを守るために戦うというのも理解できることです。さらに、価値観は個人のものですから、本人の価値観を非難すべきではありませんし尊重されるべきものだとも思うのです。それは、逆も同様で、一等地という価値観を隣人にも押し付けるべきではないと思うのです。隣人はまだまだ上があると上を目指しているかもしれません。つまり、あなたにとって一等地だとする価値観を地域で共有していくには、日常的な地域活動などによる連携がなければなりません。問題が起きた途端に仲間だよねと云ったところで生活の違う地域の人が問題を共有したうえに同じ価値観で統一できるなんてことは困難です。一等地って、なあにと言われたなら、一等地番付は多種多様にあって、価値観の違いほど一等地はあるんですとも言わなければなりません。今、南青山に児童相談所が出来ることに反対している人達の報道を見てみると、こんな一等地に児童相談所は似合わないと言っているのですが、一等地に似合わないのは反対しているあなたですと某セレブの人が言っていたように、一等地に似合う似合わないは、他人が決める事ではないと思うのです。では、東京の一等地ってどことなれば、住宅地としての代名詞の様だった田園調布も今では一番ではないと言われていますし、昔の大名屋敷のあったところが有名などとも言われますが結局は、土地が高くて誰もが希望しても簡単に住むことが出来ない場所に落ち着くと思われますから、一等地なんて時代や背景で変わってしまうものだとも思われます。ですから、南青山も、一部の住人からすれば、一等地と思いたいのでしょうがそれは勘違いで不動産業者の口車並みの思いこみだと思うのです。元々、土地は国からの借り物です。土地はすべて国家の領土ですから、自分の土地を購入したから独立できるわけでもありません。借り賃としての固定資産税も払わされますし、自分の所有地なのに子供に譲るだけでも相続税が掛かります。公共事業によっては強制収用ということもあります。つまり、言葉の意味で言う本来の所有ではなく、自分専用に使用する権利を国と契約しているだけ、国土の一部を安く借りているだけのことです。そんな国は、国として国民に必要なものは、国土の中に設置するのが当然ですから、自治体として住民に必要なものと判断した機能を設置するにあたり近隣住民の私有地に配慮すべきことは限られているというのが常識です。ですから一部報道にあった土地の値段が下がるなんて理由に対応する必要など全くないと言うことです。しかも、こういった人たちの言い分の中心には、その機能は必要だけど、ここではなく他に建ててくれという迷惑施設観があります。迷惑施設というのは、社会的には必要だけど自分の家の近くには存在していて欲しくないというもので、ごみ焼却場や福祉施設を指す言葉です。福祉施設などは、迷惑施設として昔から、近隣住民の同意なしには立てられないということさえもつい近年まであったぐらいです。近隣住民が言い出す迷惑施設への不同意の理由は、昔から利用する人そのものが危険な人だとか土地の値が下がるという物言いですが、組織が運営する施設等の方が安全で、投機目的でなく生活のための土地ならなら値が下れば税金もやすくなります。確かに長い歴史を持つ地域が形成されているところなら、地域に暮らすということですから隣人との関係は配慮されなければなりませんが、大都会東京の地域的活動実績もない一部の人が、突然地域の代弁者の様な顔をしてこの一等地に児童相談所は似合わないと叫んでも、誰もが違和感を感じていると思うのです。そのような人たちの言い分や行動を報道から集めてみると、自分が気にくわなければ、なんでも迷惑施設にして自分の価値観を押し付けて反対しているとしか見えないのです。迷惑施設というパッケージで覆ってしまえば、地域の人の賛同が得られるだろうという目論見は、ネット社会の様な情報が広範囲に流れる社会では、単なる地域の問題ではなく社会性として取り上げられ、利己的な主張で隣人を排除しようという企みは我儘としか見られないと言うことに気付くべきだと思うのです。迷惑施設という考え方は、数十年前、公害という生命や健康を守るという事から始まり、行政等の大きな組織に対抗する個人の戦い方として様々なケースで有効な方法だったこともあります。公共事業であっても、迷惑施設という言い方で、反対を唱えることで設置を断念させることが出来たケースもあります。しかし、人の命が掛かった権利を守る方法を、今回のように、自分の利益保護のための武器に使用している人々が報道されると、世間の評価は批判的になってしまいます。児童相談所まで迷惑施設と言い出す人々は、現代の情報社会の中で、金持ちが沢山住んでいる土地にやっと住むことが出来たのだから、その価値が共有できない施設は立てるなという論拠は多くの人に否定されていることを理解すべきだと思うのです。ここが私の一等地という思いは否定しませんが、成上がりという言葉が差別的要素を含んでいるように、一等地という選別的な言葉に酔ってしまうのも、差別的意識に繋がるものだという事をお伝えしたいものです。