知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

学童保育にどんな質を求めているのかわからない話

 学童保育の歴史は、そんなに長くはありません。というのは、学童保育そのものがどんなものと規定されていませんし、形も時代で変わっています。本来必要なのかという疑問もありますから、学童保育そのものが曖昧すぎて実務・実施内容もまるで違うのです。ただ対象となる6歳から10歳ぐらいまでの子どもの生活は、社会の状況に大きく左右されますから、大人の見守りが必要な時代です。特に、小学校へ入学した低学年の、放課後の子供の過ごし方には社会の責任として配慮しなければならないというのは当然の事ですが、それが学童保育の質の確保と同等に論議されるのは違うと思うのです。子供は都会でも山の中でも家の中でも遊ぶことは出来ますが、その遊びの場が、著しい社会環境の変化から影響を受けて子供集団だけでは場の確保さえできなくなっているということは事実です。その要因の一つが安全の確保ということだと思うのです。単純な事故防止や犯罪防止だけではなく、苦情や補償問題などの大人の利得までが持ち込まれていることです。本来優先しなければならない子供の利益よりも、子供の安全性の中にまで大人の都合が深く関わり大人の対応が追いついていけず、子供を囲い込むことでないと子どもの安全性の確保ができないと思いこむほどに追い詰められているからだと思うのです。過去には、テレビに子守させているという批判がありましたが、やがて、テレビ番組ではなくファミコン等のテレビゲームに変わり、今ではスマホに子守をさせるという報告があるように、大人自身が制御できない機器が無制限に子供の遊びに持ち込まれ、規制が後を追いかけても間に合わないという環境が続いています。元々子供の遊びは、大人の真似だったりしますが、大人の持ち込む機器は、子供の自由度を狭め、結果として大人の管理下で過ごさなければ安全が保てないという環境になっているとも言えます。では過去は専業主婦が多かったのだから、親が見ていたのではと思われますが、それは正しくはありません。過去の専業主婦は、家事に専業しなければならないほど家庭内の仕事は多かったのです。脱水のない手洗いの洗濯は、洗いから乾燥までは一日仕事でしたし、アイロンがけをしなければならない繊維でもありました。冷蔵庫が普及する前の家庭の食品保存機能では、食事の準備は、毎日の買い出しから始まって調理、片付けと実際には子供の保育に専念できる環境ではなく、専業主婦は家事に長い時間拘束されており育児に専念できたのではありません。まして、農業や家業を営んでいる家では、子ども自体が労働力でもあったのです。それが家事の電化が始まったことで解放されるのですが、今度は、パートに行かざるを得ない経済環境になったのです。昭和30年代後半には、“ポストの数ほど保育所を”という言葉が生まれるほど母親の動員が始まっていましたし、「かぎっ子」という言葉も生まれるぐらい子供が放任されていた時代もあるのです。そして、親が見られなければ、兄弟姉妹であったり、祖父母でしたが、助け合うはずの兄弟姉妹も、祖父母もいない時代が急激に出現する中で、保育所を卒園した後の子どもの保育はどうするのかという中で、学童保育の必要性は増々増大しているというのも事実です。このような中で、起きた学童保育の質という問題なのですが、実際に決められた質の基準は、資格制度に近いもので有資格という事が一定の質を確保するものとなっています。そこに、疑問があるのです。つまり質を要求している中身を聞けば、遊びを確保すると言う事よりも、教育的配慮を求めているとしか思えないのです。つまりどうせ預けるのなら教育的配慮が出来た方がいいというものです。そこには、宿題を見てほしい、塾的配慮も必要だ、しつけや社会的要素・集団適応そして発達支援等々を求めています。だから、その辺の元気な年寄りが見ているということでは駄目なのです。もし、地域が健全ならば、子どもの安全が確保されるなら、日が暮れるまで遊べばいいことですから、何の資格もなくても子供が好きな人を任命してそれぞれの方法でも良いことなのです。しかし、求められる教育的配慮がない環境には、子供の親が納得しないのです。ただ、遊ばしているでは駄目なのです。それが学童保育に資格が必要ということの本音であると私は思っています。そして、教育的配慮を求めるのなら、学校の延長の方がはるかに効果的だとも思っています。放課後の一定時間に教育的配慮が必要なのは、小学校の高学年ぐらいまで遡らないと安全の確保ができない時代でもあるのです。留守番という言葉がなくなるように塾で過ごし、空き地と言われる地面は事故が起きないように囲いで閉鎖され、道路で遊ぶなどという事はとんでもないこととなりました。高校全入と言われるほどに教育の期間が長くなった中で、子供の社会体験は縮小し座学の期間が長くなるほど、幼少期の体験学習は貴重になってきています。有資格者で、宿題が見られることが求められることよりも、無資格でも、子供とうまく遊べる人を確保することの方が必要だと思うのです。

ママ友の群れは時に我儘になるの話

 スイミングスクールのプール観客席での話。スクールに通う子供たちの親が待っていたり、練習を見る事が出来るスペースが、どこにでもあります。そこでは、少しでも知り合いとなっているのだろうママ友が集まると、子供の話だけでなく、夫の話もべらべらと、家の事から昨日のご飯まで、大騒ぎで話しだしてしまいます。そんな個人的なことなど人に聞かれない様に言うべきことだと思う内容の山また山です。ひそひそ声で話していても、実は人の声はよく聞き取れるのです。何故なら、人の耳は、選択として言語と非言語の仕分けをして、どんな音も拾うということはせず、言語音声に対しては意識選択された音として、脳に伝わるように制御しています。その中で最優先されるのが日常使用している言語音声なのです。ですから、英語を喋れない人には、英語は聞こうとしないと言語として認識されません。聞きたくて聞くのではなくても、人の声に対して反応する正常な感覚器を持っていれば、その会話に関心がなければ、ただただ、うるさいだけです。何かに集中しようとしても、いわゆる耳触りとなって、不快になるものなのです。特に、高ぶったままにべらべらと普通に話し出せば、他人にはうるさいだけの事です。しかも声はだんだんと大きくなって、礼儀の範囲さえも超えてしまいます。仕方がないから注意すると、その場は収まったのですが、スクールの時間が終わって、廊下に出るとあわてたように追いかけてきて、「話しちゃいけないと書いてないでしょだから良いんです」と突然言い出すしまつ。何のことかと一瞬戸惑いながらも、そういう事じゃないと反論。こっちは、どんな指導をしているかを見たいし、自分がほかのプールへ連れて行ったときにどんなアドバイスをするかを含めて、トレーナーの指示も聞きたいんだと言うが、ママ友は、ここは前から和気あいあいの雰囲気でやっていて普段はもっとうるさいと言い出す。和気あいあいの意味が間違っていると言いたいがそれも我慢して、普段もっとうるさいということが適正だから今日の方がずっといいという比較は、毎日来ていない人にはわからないし、談話したいなら、他にあるだろうと伝えても、とにかく書いてないからいいのだというしまつ。よく空気を読むという言い方がありますが、見渡していつものメンバーでない人間が紛れ込んでいたなら、今日は雰囲気が悪いと感じればいい。元々雰囲気というのは、そこに集まったメンバーによって成り立つのだから、違う人間が一人いれば、雰囲気が変わって当然。その為、いつもの雰囲気と違って暗いと感じたとしても、いつもの明るい雰囲気を押し付けるべきでもないと思うのです。一人一人になったら、正当な苦情も言わないような人がこうして群れると一気に変わってしまう事が面白いとは思うけれど、群れたママともの自分たちの縄張りの中で作ったルールを、押し付けてくることの共感感覚に慣れないと群れによる攻撃の対象になってしまうということになってしまいました。だから普通の人は、何も言わずにじっとしている方が利口となってしまうのですが、「なにも書いてないでしょだからいいんです」を旗印に他人に押し付けるルールとはとても思えないのです。単純に考えて、子供が悪いいたずらをしたときに、ママとして子供に注意した途端に、「書いてないでしょだから良いんだよ」と言われたなら、なんと説得するのだろうと聞きたいぐらいでした。その場限りの正当性の主張が、群れによって増幅されると、あたかもそれが適正でなくてもルールとして確立していき、それを迷惑だと思う人にまで強制しようという事になってしまいます。「自分の会話が人には迷惑を知れ」と言う事など、電車やバスの中でも同じです。群れた途端に、大声になることの危険を知るべきです。群れた野良犬は今時いませんが、群れた羊だって、群れたウサギだって、相手に不安を与えるだけの力はあります。ママ友が待ち時間だと勘違いしている時間つぶしの会話の向こうでは、頑張る我が子が何度もこっちを見て、頑張っているところを見てほしいとアピールしています。それもいつものことと言えるかもしれませんが、いつも見守っているという事をママがアピールすべきだと思うのです。塾でもそうですが、預けっぱなしは良くありません。別室でも見守っているという視線が子供の成長には大切です。

ママ友が、子供の状態や、学習を援助するために集まっているのではなく、自分たちのストレス解消になっていたり、雑談の場でしかなかったなら、子供はママ友のつながりの道具に過ぎなくなって放置されているのと同じだと思うのです。見守りというのは、視線の先に常にあるから成り立つものだと思うのです。

 

こじつけ話は植物を誤解するの話

 人間的解釈では、植物は、毒とか棘とか自己防衛をしていると言われますが、草食動物の食事風景を見ればわかりますが、移動できないのですから、逃げることも出来ず、ほぼ食べられ放題の状態と言えます。例えばユーカリ。青酸毒を持っていますが、コアラは青酸毒を解毒して食べてしまいます。キリンは、有刺鉄線並みの棘のあるアカシアの木が主食です。トゲがあっても唇や口が傷つくこともなく、体に刺さることもありません。逆に飲み込んでしまったトゲが体内で刺さることも、消化されることもなく糞と一緒に大地に落とします。また、植物など多種多様にあるのですから何を食べてもいいようなものですが、動物は案外食べる植物を決めていて、棘があろうと毒があろうと、バリバリ食べます。つまり、仮に植物の防衛機能として毒や棘を持っていても、それを好んで食べる動物がいるなら何の防衛にもならないどころか、独占できるという逆効果にもなってしまいます。同様に、種子についても、食べられることで動物に種子を運ばせているのだという解釈があります。しかし、実を付ける植物を考えてみても、実を成熟させるのは大変なエネルギーが必要であえて実を付けなくても種子だけをモミジや松のように風に飛ばすことでも十分に子孫を残せます。どんぐりなんてあんなに実を付けてもただ食べられるだけで発芽して木になる効率はむちゃくちゃ悪いものです。動物を介して植物が繁栄するというのはごく一部の植物についての人間的解釈であって、植物の進化の中では適正な回答とは言えないと思うのです。種子をどのような方法で運ぶかの選択でも、本体に負担が多く掛かるものや複雑な方法や動物などに依存するなどの条件が多いほど、返って繁殖を妨げることになってしまいます。種子をまき散らすだけなら、もっと楽な方法を取っている植物は沢山ありますから、そちらの真似をした方がはるかに効果的です。ですから、なぜ、毒や棘が必要だったかということを、植物の自己防衛機能などと解釈しようとすると、ほんの一部しかなるほどという解釈は成り立たないのです。むしろ、植物は、捕食者対策としての防衛機能を持っているというのは、人間的なこじつけだと思うのです。移動できないから逃げられないから、自己防衛機能を持っていなければならないと思うのは人間的発想であって、植物の繁殖には適さない回答だと思うのです。それよりも、逆に、自己繁栄方法は、攻撃型の対策機能を駆使していると考えた方が、理解しやすくなると思うのです。最もわかりやすいのが最近のスギ花粉症あんなに巻き散らかさなくたって良いぐらい撒きます。これなどが、攻撃的対応だと思うのです。多くの植物は多数で有ったり、広がったり、高くなったり、根を張ったりして他の植物の成長を妨害することによって、自種目の繁栄を確保しています。つまり、植物にとっては、動物的な攻撃に対して身を守るという事より、他の植物の生育を邪魔するという攻撃を行う事の方が重要だということです。雑草と言われる一種は、同じ場所に大量の種を蒔きますが、一斉に発芽しません。同一条件でも日にちをずらして発芽するのです。だから雑草を幾らとっても次々と生えてくるのです。一方一面に発芽したとしても、全部が大きくなるような事はありません。仲間をどんどん淘汰させていくのです。一斉一面に発芽して、他の植物が育たない環境を作りますが、仲間をどんどん淘汰していくのです。それは生存競争に負けたのでも、弱肉強食でもなくて、よりいい位置を確保したものを残して自らを閉じていくのです。全員で均等に育つのではなく、他の植物の成長を妨害し、その地を独占できるように集団で場所取りをして、兄弟姉妹の中のでかくなれる奴だけを残して消えていくのです。植物同士の生存競争は、人間の目には見えないのですが、本当は人間が見えて確認できる動物の生存競争など問題にならないぐらい過酷なのです。何故なら、動物と違って、植物が対峙しているのは、自然環境、気候だからです。このことは、地球の歴史によって証明されますが、地球が繰り返してきた温暖化と寒冷化の中で、植物は、地球の規模で移動しています。平均気温が2度3度違っただけで森林の植物相が変わってしまうのです。寒い地域のホクキョククマも温かい地域のマレーグマも熊ですが、シベリアの森林と東南アジアのジャングルの森林は全く違います。太古から生きている動物はいませんが、植物ならいくらでもいます。気候に合わせて、植物は移動する手段として様々な方法を選択しているのです。

 人間は、自分が見える内容で、自分たちが納得できる講釈・解釈しますが、それは、初めて顕微鏡でミドリ虫を見た程度のことで、自然の仕組みをそこから解きほぐすことは出来ないのです。また、なんでも擬人化して考えることで人生の教訓の様な語りをしますがそれも案外針の穴の様な語りで、人間よりもずっと昔から生きている植物の命をつなぐ長い自然との関わりを解くことは出来ないのです。植物にとっては、動物や昆虫など戦いの相手ではなく、植物は、防衛よりも攻撃によって種の保存と繁栄を求めています。移動できない、それは人間が勝手に印象とした劣悪条件に思っていますが、移動しないという事を人間が真似たのが、狩猟民族から農耕民族になって土地を確保するという方法でもあります。人間自身でも、移動できないは悪条件の様でも移動能力で、人を量る時代は大きく変わりそうです。

 

介護脱毛は、道を間違えるの話

 老後に介護されることに備え、デリケートゾーンの脱毛を行う「介護脱毛」を始める40代から60代の女性が増えていると報道されました。報道によれば、親を介護した経験などから自身の将来を見据えクリニックやエステサロンで脱毛する客が増えているということです。理由は、デリケートゾーンは毛や皮膚の間に排泄物が残りやすくアンダーヘアで蒸れが生じて細菌の繁殖による臭いやかぶれも起きる恐れがあり、炎症や細菌感染症、尿路感染症を引き起こす可能性もあるからと解説しています。さらに、脱毛でこれらのリスクを軽減できるだけでなくおむつ交換や排泄介助の際の臭いが軽減されたり、清拭が楽になったりと介護の手間も違うといいます。調べてみると、介護脱毛は、介護を受ける方の、気配りとされながら、最近では介護される方のエチケットなどという発言まであるのです。人によっては、脱毛した方が、便利なのでしょうが、「自分がキレイになりたい」とか「自分の趣味・趣向」ならそれもいいのですが、将来介護されることを考えて介護者のために脱毛することが、あたかも正しくて、自主的に行うことがマナーのように言われ出していることには納得できません。こんな正解でも無い、情報を流し続けることで、介護脱毛を自己決定させるような巧みな誘導が、過去には、障がい者の避妊手術に繋がったと言う事もあります。それだけで無く、マナーが出来ない、エチケットがわからないと自由に外出も出来ない様に社会的圧力で、障がい者を追い詰めた時代がすぐ前にあったことを忘れるわけにはいきません。誰もが、毛を剃るだけだから良いのではと思うかもしれませんが、自主的な行為であるとされているその本当の目的が、自身の好みのためでは無く介護の軽減だと言う事に間違いがあると思うのです。つまり、介護の軽減の為ならある程度は本人も歩み寄るべきだと言う事が、エスカレートしていくと、うんこやおしっこをすること自体が介護の手間で迷惑という事になってしまいます。現実に介護の現場では、夜間の介護を避けようと飲んだり食べたりを制限する高齢者もいます。歯磨き一つをとっても、総入れ歯にした方が手間が掛からないとなってしまうかも知れません。自然のままの介護を受けることが、人様に迷惑を掛ける贅沢な望みとなってしまう時代を呼び寄せるような行為が介護脱毛としか思えないのです。高齢化が進んでいる日本では、2025年には65歳以上の割合が約30%にに達して、国民の約2.5人に1人が65歳以上の高齢者となる社会が到来すると推計されています。その時、自分が第三者から介護を受けることを意識し、ワキや局部などを脱毛するという介護脱毛が、常識になってはならないと思うのです。しかも、現在、クリニックやエステで使用されている脱毛機はすべて毛のメラニン(黒の色素細胞)に反応して脱毛するしくみなので、レーザー脱毛は白髪になってしまうと黒の色素細胞がないためできないのです。ですから、40代ぐらいの女性に急がないと間に合わないような不安を煽った言い方も一部ではしているようです。でも、脇も肛門周囲の毛も、女性は歳を召されると不思議となくなるとも言われています。つまり、本当に介護が必要な頃には自然に薄くなったり無くなったりして介護に手間が掛からないかも知れないのです。脱毛サロンやクリニックの新たな顧客開拓という側面もあるかも知れませんが、介護に迷惑だからと、自然に反する行為までがマナーやエチケットになってしまうのは、道を間違えてしまった過去と同じ道へ迷い込むことだと思うのです。介護の世界にもロボットとか確かに人手の掛からない方法が導入されてくるでしょうが、福祉や介護は、社会の迷惑だけど仕方が無いからやってやると言うものでは無く、人として最後までただただ普通に生きていたいという願いの実現だと思うのです。

 

なんでも甘いという甘い評価

 テレビのレポーターが、野菜でも果物でも何でもかんでも「甘い」と評価して、糖度がメロンと同じだなんてことを得意げに言います。野菜の評価も、わざわざそのまま食べて甘いと評価します。今や糖度が高いほど良い野菜の様な評価と褒め方をしています。塩分控えめの食生活の中で、甘ければおいしいなんてことが平然と言われて、農業は甘い野菜作りに一生懸命です。野菜ばかりではありません。A何とかランクの肉は甘くてとろけるなどとも言いますし、マグロが口の中でとろけて甘いなどと言うレポーターまでいます。一方で、今動物園では、日本の果物を動物に与えられないと言われています。それは、今の日本の果物は、本来の自然界にはない甘さで、動物の体に悪い影響が出るからだそうです。そんなことを言うなら、動物の体に悪い、甘い野菜と甘い果物を食べている人間の子供たちは本当に大丈夫なのとも言えます。ダイエットの時に果物の果糖は、大敵だということを知っている人も多いと思うのですが、実は、甘い物は、脳には必要なのですが、白砂糖は体に有毒だということは、すでに証明されていることです。白砂糖は、血液を酸化し、赤血球や細胞を崩壊させます。砂糖の害として、我慢ができない、イライラする、きれやすい、不眠やうつ病などが挙げられています。それは、白砂糖などは、精製する過程で、本来持っているミネラルなどを取り除いてないだけでなく、体の中のビタミンやミネラルを消費して不足にさせてしまうからです。同様に、レポーターが何かと言う、ジューシーなどと表現される果物の、過剰なビタミンC摂取も、カルシウムの吸収を妨げ、疾病の原因ともなります。農薬や化学肥料などに、敏感な人も多いのに、甘ければいい、ジューシーがいいという、果物や野菜の評価を非難する人は案外少ないのです。本来の、自然界ではないほどに甘くするには品種の改良だけではなく、化学肥料や特殊な農薬を使わなければ、品質は保てませんし、人工的に作り出した特殊な品種だということを認識しなければなりません。ある意味では、植物としての奇形でしかないのです。動物の中でも最良の味覚を持っている人間なのに、一つの味覚だけがおいしいことだとしてしまうのは間違いだと思うのです。渋いや苦い、酸っぱいは長く人間を支えてきた重要な感覚器です。人間ほど発達した味覚が与えられた生物がいないのに、今やなぜか甘い方がいいということになりかけているのです。和食は、体にいいとか言っていますが、和食では調味料としての白砂糖は今ほど安易に使用できたのではありません。自然に取れた、野菜や果物の甘さを調味料として利用し、砂糖を入れて強化したのではなく、総体的なバランスで甘みを感じさせていたのです。ですから、なんでも糖度が高いことがいい野菜や果物にはなっていませんでした。イチゴ並みの甘いトマトなどとも表現されますが、こんなに甘いイチゴは近年のことで、イチゴもちゃんと酸っぱかったのです。だからイチゴは、ジャムとして最適だったのです。酸味がないと良いジャムにはなりません。もっと言えば、そんなに甘くておいしいなら、栽培中だって、沢山の昆虫の標的になって実も葉もボロボロになってしまいます。でも商品として並んでいるのを見ると素敵な形できれいなのは、それなりの処理がされているからです。現代の農薬は非常に良く出来ていて飲んだらすぐに中毒で死ぬなどという過去の物とは全く違います。ですから、残留農薬の基準値を大幅に下回っていますし、人体に影響が出るような事はありませんと偉い先生も言っています。しかし、それは落とし穴で、何年も蓄積したら人体に影響がないとは誰も言えないのです。つまり、今から10年後に今の時代の微量な農薬の蓄積による疾病が出て初めて診断されるのです。つまり、今の我々が現代の農薬が微量でも蓄積するとどうなるかの実験台となっているということです。農薬の開発者だって、短期間の動物実験は出来ますが、長期間の人間での実験など出来ませんから、その時が来るまで待つしかないのです。そしてそれは、今までと同じように、大丈夫と言い続けて、突然にあれは毒だったと発表されるものなのです。急にプラスチックのストローが廃止される原因は、マイクロチップとなったプラスチックですが、そんなことはわかっていても、営利のために誰もが口を閉じて、コマーシャルスポンサーがいるからマスコミも絶対に取り上げないのです。今、果物も野菜もブランド化と広告によって販売拡大を目論んでいます。だから、受けのいい甘いとジューシーを多用しているのです。本物の野菜なら、種を取って次の年に種を蒔けば、同じものが収穫できます。しかし、品種改良されたものは、種を取っても同じ作物は出来ません。それほど人間の手が入りすぎている野菜や果物が氾濫しているのです。果物の果糖も白砂糖に負けないぐらい有毒だということを示すことなく、甘いからおいしいとレポートすることは本当に罪なことなのです。

ほんやく機が普及する時代がそこまで来ている英語の話

 長年やってもしゃべれないと言われる英語、ならばと今度は小学校でも教えようという事になりそうです。何年やっても何百万人がやってもろくにしゃべることが出来ない英語教育は間違っていると云う批判も沢山ありますが、未だに論議ばかりで良い方法は見いだされず実施はされていず、英語の教材や塾の宣伝はやたらとやっています。そもそも、言語はその言葉を使う人の文化・思想・思考を共有するためのコミュニケーション手段の一つにすぎませんから、言語を理解することは相手の理解に結びついていなければなりません。さらに、語学は基本生活に密着していなければ忘れるもので、少数民族の言葉の事例だけでなく、日本の方言も使用されないうちに消えて話せなくなりつつあります。日本語の尊敬語・謙譲語といった使い方だって出来なくなってきているのは生活の中で使用しないからです。一方世界に活躍するには英語が必要だというのは正しいことかもしれませんが、それは世界の中の覇権という意味でしかありません。イギリスが世界の覇権を握り支配者の言葉として公用語として使用され、その植民地の一つだったアメリカが第二次世界大戦に続く冷戦後の世界の覇権を握ったことからアメリカ英語が公用語のように使用されているだけで、今後中国が覇権を握れば中国語が公用語となるかもしれないのです。にもかかわらず大学受験の英語をどうするかと揉めている日本はグローバル社会に出ていくほど自分を失うタイプになってしまっているとしか思えません。民族としての重要な要素は言葉で、自国の言葉を大事にすることが英語流に言うアイデンティティーを守ることでもあります。そして、日本人がなぜそれほど英語を必要としているかというとビジネスに使用するからだけです。楽天とか大きな企業は社内の言語を英語とするなどしていますが、母国語を大事に出来ない企業がいったい何のためにビジネスの世界展開を図るのかわかりません。相手を理解するために必要な相手の言葉を学ぶことと、利益のためなら自国語はいらないというのは違うと思うのです。テレビが全国に行き亘り、標準語が行き亘り、方言が嘲笑される時代を経て今生活に根差した言葉を大事にしようということがあります。

 そんな中で、翻訳機がとても高機能になって登場してきています。同時通訳なんてことも夢ではありません。これまでも、音声でワープロを打ち込むソフトなどがありましたが、その人の発音やアクセント等々をアナウンサーのように標準語に近づける努力をするか、その人だけの発音でも聞き取ってくれるようになん頁ものテキストを読んでパソコンに慣れてもらう努力をしなければならない代物ばかりでした。しかも、音声ワープロは、誤字脱字も多くて、あまり役に立つとは言えないものでした。ですから、会議のテープ起こしに利用したくてもとても無理でした。また、翻訳機も様々ありましたがまるで筆談という感じで、旅行や道案内程度の簡単な会話なら役立つ程度でした。それが、いよいよAIが語学の領域に十分な対応できるようになってきたのです。過去には、そろばんと電卓という組み合わせがあって、電卓は益々進化し、そろばんは静かに粛々と今も活躍しています。また、商店のレジも、打ち込みがなくなり、バーコードとなり、やがてカード精算とることで、万引きさえも不可能な時代がやってきそうです。相手を理解したいとか、親密になりたいと思うなら、言語の役割は非常に高いし、相当の言語力が求められますが、日常会話程度なら、携帯電話機に搭載される翻訳機で十分という日がそこに来ています。つまり、自国語を大事にしていても、外国人と意思疎通ができる時代が来ているのです。ですから、相手を知るための英語ではなく、利益のための日本の英語教育は、そろそろ終わりにしてもいいと思うのです。

弱さに付け込む信念の話

 民間療法には、様々あって療法やセラピーなんて言い出すと数え切れないほどあります。その多くが、美容、疲労の回復や老化防止、精神安定等々ですが、殆どは、自己体験によって得た確信を他人にも、分けてあげたいと思い込む本人の善意の塊で成り立っていることが多く見られます。しかも、どんな方法でも、体に働きかけると、身体は反応しますから、効いた気にさせることはそれほど難しい事ではないということです。そして実体験として効いた気にすれば、後は押し続けることでそれなりの商売にはなります。人は健康でも、不安と心配をあおり続ければ、どんなに強い猜疑心の持ち主でも自己防衛力が高い人でも、一穴の穴を開けることは、困難ではありません。さらに、古くからの言葉として、老化を防ぐ、若さが保てる、心が安らぐなんて言われると微妙に心が動いてしまいます。そんな不安をあおりながら、必需品でもないのに、過去から延々と商売として続いてきた民間療法も数々あります。健康関連の商売は、よくCМで使われる使用前と使用後の比較で効果があったように見せますが、同じ条件で同時進行でなければ効果を証明したとは言えません。しかし、人間は一人しかいませんから、同時進行で比較する実験は出来ません。また、CМでは、小さく必ず、効果には個人差がありますと防衛線を張っているように、個体による差は、信心の差に等しいぐらい大きい物です。例えば、皮膚。女性は過去から化粧として顔に様々な物質を塗っていますが、老化は確実に訪れてどんな美貌の方でもちゃんと年相応の皮膚になります。それは、単純に皮膚から物質は簡単に吸収されることはないからです。人体を覆っている皮膚は、外部からの攻撃を防ぐ、防衛機能の最前線です。危険な物質、危険な空気に接しても人体に潜入させないために必死に頑張っています。ウイルスや寄生虫も簡単には潜入できないのです。だから、化粧に老化防止剤が入っていようと、皮膚から吸収されているわけではありません。皮膚の薬であっても、強い刺激を与えることで皮膚の活性化を促している場合や浸透圧を利用しますが、浸透するのは微量です。皮膚に働きかけるとは、体温が高い時に、皮膚に冷たいものを当てて熱交換をすることで体温を下げるなどの、刺激と反応という面では効果はあります。それを、偶然でも、過去からのものでも、何らかの方法で使用した結果、その効果を自身で感じたことのある人は、信じ切って他人にお勧めする時も、言葉に自信が満ち溢れてしまうのです。ノーベル賞を頂いた大先生が開発した免疫療法も、数年前までは、疑心暗鬼で医学界では否定的でしたし、今でも怪しげな免疫療法は様々にあります。人間は、虫よけ予防や疾病予防のために体に泥を塗るところから、体毛の無い皮膚に働きかけてきました。それは、体毛がある方が生存には有利な中で、たまたま生まれた体毛のない人類の祖先が森林を追い出され生き残るために皮膚を利用した発汗機能を獲得できたからです。発汗による体温調節は、体毛による保温等の機能より、ずっと高機能なことなのです。動物は、体を動かすと体温が上昇し、体温が高温になり続けると、死に至ります。ところが体毛がない発汗という温度調節機能があると、体温調整がより長時間に亘って可能となったのです。この機能によって、牙もない、まだ武器も作れない人間が、動物を追いかけて相手の体温が上がって動けなくなるまで走り続けることで獲物を獲得できたのです。皮膚を使った温度調節機能を持っていたから、アフリカを出て世界へと散らばって行けたのです。マラソンは発汗作用のある皮膚があるから出来るのであって体毛があったら出来ません。ですから、汗腺を逆流して異物が入らないような仕組みもちゃんと出来ているのです。民間療法の範囲は著しく広くて、エステとか、健康サプリメント、リラクレーション、ヨガ、ストレッチからダンス的なものまで、ありとあらゆる商品やサービスが現代は溢れかえっていますが、人間の体の創りに合わせて利用しないと本当は大変なことになるのです。それに、外部からの作用は、継続的に繰り返されている間しか効果はなく、元へ戻る時には、経過した時間をちゃんと足して戻るものだからです。

 何かしら、弱り目がある人は、誰にでも効くとは限らない療法であっても関心を寄せます。その関心を手繰り寄せるように、信じ込ませる原動力が信念だということも多くあります。そんな信念は、ほかにも方法があったかもしれないとか、副作用や後遺症があるかもしれないとは言わず、これこそが唯一の方法と言いきることで迷いを吹き飛ばしそうとするから危険なのです。そしてその危険とは、これらの療法などでは、「なぜ効かないか」と言いうことを販売者そのものがわかっていないからです。どんなことでも効いたという一方通行は危険なのです。なぜなら、効かないということの中にこそ、効く理由があるからです。薬でも何故効くのかわからないものが沢山あります。その答えを探すのは、効かないという人の中にあるのです。効かない人は切り捨ててしまうような健康療法は、弱り目に附けこむだけの、ただの金儲けだとだからいえるのです。