知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

スポーツだけではなく指導者の暴力は続くの話

 指導者の体罰・暴力が繰り返し噴き出てくるのは特別な事例ではなくそんな指導者の方が潜在的に多いということです。そして、体罰的・暴力的指導者は、反省は出来ないし後戻りもしないから何かの切っ掛けさえあればすぐに表ざたにされやすいのです。暴力否定の世間の風潮は今に始まったものではありません。暴力や体罰問題で何人もの指導者がその地位も身分も失っている現在にあっても、自分流の解釈で自分は指摘されないと思いこんでいる体罰・暴力指導者が多いから、告発は続くのです。これだけ視覚的な証拠が残せる時代に、言葉ではなく、映像でこんなことをしていた、これは体罰です、暴力です、暴言ですと流されている放送を見て自分の指導時の対応と比較すれば誰だってすぐに分かることです。しかし、体罰・暴力指導者は、告発されたのは特殊な事例で自分の方法は安全圏だと考え、告発した人間が指導を理解していないクレーマーで騒ぎ立てるマスコミにも問題があると思っています。その根拠は、あんな程度はどこでもやっているという自信です。例えば、子供の場合、俺の指導法に親は納得してこのチームに入っているんだ、親も認めているんだ程度で、社会的にも容認されていると誤解しているからです。確かに、子供たちに体罰をしても、親はそれで強くなるならと容認しているという現状はあります。しかし、親は指導法に賛意を示しているよりは、自分の子に栄冠がという利益がもたらされるならばという利害条件で、親はこっちの味方だ、大丈夫と思うこともまた過信でしかありません。親が容認している体罰は、利害との取引の上に成り立っていますから、少しでも自分の子が不利になれば、手のひらを返したように訴えてくると知るべきです。それは、教えてもらった恩をあだで返すということではなく、教え方が悪いから自分の子が伸びないということになるからです。厳しくても実績さえ残せば、どんな方法も認められるという過去のスポーツ界の悪習としての常識から抜け出すことのできない指導者の方が多いから次々と指摘が続くのです。今日では、ルールなき成績は評価されないという事すら指導者として知らないことに問題がありますが、優勝すれば手のひら返しをするマスコミもこの様な指導者を作り続けている原因の一つでもあります。現代では、会社の営業でもルールの中でなければ認められませんし過去のサラ金の様な夜討ち朝駆けなんて方法は認められていません。勝てば官軍だなどと、優勝さえできれば自分の指導方法が評価されると思いこんでいたなら大間違いの時代だということが理解されていません。体罰がひどくても実績さえ上げていれば厳しい監督で済んだ経歴を持っている人は、半面で子供は、優しくするとつけあがるという不安を強く抱いています。厳しい人の核心は、優しくするとなめられてしまうという恐怖が厳しさを支えているのです。なぜなら、現代の様な情報社会では指導方法に関しても、基礎体力作りから、ストレッチ、技能の科学性など理論とか方法について子供たちの方が遙かに情報を得ていて、自己主張も批判も出来るからです。心の中では、出来もしないのに口だけは一人前なんて子供が増えれば、言うことを聞かなくなるという恐怖を抱いてしまいます。それを打ち消す一番の近道が、体罰であり暴力なのです。つまり、自己の理論や技能を持った、経験者であっても、指導法ということを学習していないと、誰でも出来る、体罰や暴力による指導に依存していくのです。指導するということは、自己主張だけでなく、比較検討された他の理論や技能との違いを説明できることであり、実践の中で相手を理解させる手段方法を知っていることであり、批判に応えられる知見を持っていることです。しかし、日本には、比較検討による独自指導法を確立する慣習が実は薄いのです。これは、日本の負の文化でもあるのです。日本の芸能だけでなく、武術にもそれぞれに流派があり、家元制度があります。そこでは俺が一番として、他派の研究はしませんし、奥義書は絶対に公開されるものでもありません。技能でも一子相伝などと言う考え方があって、すべて非公開で自我流に拘りそれが最高であるとして他者の研究など絶対にしません。日本の流派は、こだわりの塊です。同様に、そのやり方に拘れるから流派が作れるのです。多様な方法の研究・工夫の上に流派があるのではなく、個人崇拝のように流派はあるのです。ですから、少しでも力があると言われた指導者は、自分の名を冠した、何々流といわれるだけでも得意になってしまうのです。そして、職人芸などと言われることに憧れるような環境にあるのです。他者と比較するという今日では当たり前のことが出来るような指導者層が増えなければ、いつまでも体罰や暴力指導はなくならないと思うのです。

 

化身が日本の宗教をなんでも可能にしたの話

日本の神仏混合を可能にした基本的考え方は、化身です。例えば、不動明王は、大日如来の化身だということです。大日如来曼荼羅で言うと中心、最高位の仏として君臨しているだけでなく、時には、別人の不動明王に変身してしまうというのです。変身というのはテレビの子供番組よりはるかに昔からあったのです。ですから、時には、大日如来は、神道天照大神にもなってしまうのです。このように変身できることを、本体の他に何にでも成れることを可能にしたのは、空海です。ですから、極論で言えば、私が大日如来の化身だと叫んで信じる人がわさわさと出てきたら、私が大日如来です。こんなことは、人間が神にはなれない、絶体神の考えではありえません。人間は、神からの教えを伝える役割か、神が選んだ人間が救世主となったりはしますが神にはなれません。人間同士の中で、最高位に就こうと権力争いをしたり、解釈論で流派を作ったりと争う程度で、権力を得ても神にはなれません。しかし、日本では、古来から新興宗教というのが出ては消えを繰り返していますが、教祖そのものが神だ仏だという事は普通なのです。その為、教祖の考え方によっては、神仏混合だけでなく、絶体神のキリスト教イスラム教まで合体させたものまであります。信心さえあれば何でもありというのが実態です。何故そんなことになったかというと、日本の神道には教義がないように、哲学的思考や思想というものが、日本の宗教からは抜けているからです。その結果、信心は、基本願い事に始まってご利益に終わるぐらいだからです。日本の宗教は、常に権力によって保護され権力に利用されてきました。宗教としての一揆で権力と戦ったという歴史もあると言いますが、戦国時代に信長と敵対した一向一揆も、天皇制に向かって矛先を向けたりはしていません。第二次世界大戦でも、宗教は動員させられて、寺の釣り鐘まで、鉄砲や大砲の為に供出しているのです。

化身ということは本当にずるい考え方ですが、現世的・世俗的な考え方です。敵対する相手の神様さえも自分たちの神の一人であると考えて取り込んだり、相手にひれ伏しているようにしながら自分たちの一人と考えているのですから、したたかという事もできます。しかし、それが意識的に行われているのではなく、漫然と行われているから、文化と言えると思うのです。

日本の神道では基本自然崇拝ですから、神は言葉ではなく、自然現象で感情を現すと考えられます。天災としての神の怒りや日常的な天候を含めて自然現象が神の言葉ですから

自然現象に合わせて、神の怒りの鎮魂と、神の恵みの豊穣へのお願いばかりしているのです。日本の仏教は、インド哲学を吸収し、中国の思想を吸収したうえで、哲学も思想も乗り越えて、神道と合体するときに、願い事対応に専念することになるのです。神仏への報告と願い事が基本になってしまうと、教義などそれほど必要ではなくなります。結果仏教では、念仏さえ唱えていればいいと教義の説明さえ疎かになってしまうのです。ですから、日本の宗教は、イワシの頭も信心からと言われるような事になったのは、化身という変身を認めたことから始まったと言えると思うのです。

 

生から死まで不平等に生き、公平を求めて争うの話

 平等という言葉に色々な意見はありますが、私は、人生は不平等の中でもがき、せめて公平であってほしいと不平を言い続けているのが現実だと思っています。なぜなら、人は生まれた時から、どの家に生まれたかで、もう社会的にも金銭的にも平等ではないのです。そして、生まれた時の体、容姿、持ってきた能力、なに一つとっても、平等な人はいず、人生は不平等に始まって、不平等のままに終えていくものだと思うのです。例えば、散々周りに迷惑を掛けて自分勝手に生きていたとしても長生きが出来る人と、酒もたばこも飲まず真面目な人が疾病で早死ぬするなんてことは、不平等の極みだと思うのです。人生という生の中で、目には見えない最も重要な時間の長さが一人一人違うのは不平等そのものだと思うのです。一日24時間は誰にも平等に見えますが、100年生きられた方と80年生きられた方と50年生きられた方では、その一日の価値は大きく違うと思うのです。そして、同じ年齢で死んでも、長く闘病した人と、健康で「ピンピンコロリ」で死ぬ人では同じ与えられた時間ですが平等ではありません。中には、長くても薄いより短くても濃い方がいいなどと言う人もいますが、その時間の過ごし方がどうこうという前に、生きる時間が平等ではないということです。時間が平等なら生き方も絶対に違います。もしも能力が平等なら競争は起きません。相手と違うから、挑んでみたいし優劣を付け事もようとするのです。平等に同じ能力を授かっていたなら争ってみる価値はありません。もっと言えば、同じ能力を授かっても、国による環境が違えばその能力を生かせるチャンスは平等にはありません。特に女性は学習の機会さえない場合もあります。さらに、食物などの物は平等に分けられると思うかもしれませんが、身体が違えばエネルギーの摂取という意味では決して平等ではありません。家族でケーキを分けたとしても、均等に割ったとしたら見た目ではみんな平等です。でも摂取量で言えば、子供と大人が同量というのは明らかに平等ではありません。つまり、個性があるというのは、平等ではないからです。不平等だから個性があって、その不平等を知恵によって補正しようというのが公平と云うことだと思うのです。不平等は人類の歴史が作った遺産ですが、この遺産が行き過ぎないように歯止めとしたのが公平という思考だと思うのです。不平等にあふれた社会を納得させたり、観念させたりする仕組みが、人生観ということだったり、宗教だったりしているのだと思うのです。生まれた時からの不平等をどのように理解させるのか、納得させるかが社会の仕組みだと思うのです。人は平等ではない人間社会に生まれるのです。そして、その不平等に対して、補正するのが公平という感覚だと思うのです。だから、平等と公平がセットのように語られるのだと思うのです。

 個性を考え、一人一人違うということを認めるならば、継続する社会に生まれ参加することは不平等の中に入っていくことそのものだと思うのです。だからそこには差別や偏見も派生するでしょうし争い事も発生すると思います。社会の末端組織であっても、公平に意見を言える環境があっても、決定権ということでは平等に与えられることはないのです。基本多数決が優先するような仕組みでの一票は公平に与えられますが、多数を得るための条件は平等ではありません。選ぶ側には公平に一票という権利を付与しますが、選ばれる側に立つためには資金だけでなく様々な条件が必要で誰もが公平に条件を持ち合わせてはいません。公平な選挙で選ばれた人は、権力という決定権を持ちますが公平を強調することで平等に見せかけているだけです。同様に、不平等をすり替えるために宗教は来世という平等社会を持ちだしますし、不平等の苦しみや不平を神の前での公平という言い方で慰めます。それは、不平等が現実であり、平等ではないことを認知していることでもあると思うのです。平等などと言う幻想に惑わされず、公平などと言う誤魔化しにも負けず、不平等な中でも、底辺が少しでも浮上することが大切と思うのです。

 

プレーイングコーチの時代の話

 障がい者雇用率の中に不正があったと、各省庁が一斉に非難されました。実際に公的機関は、職員の定員枠がありますから、非常勤で誤魔化していた位なのにそれよりもあくどいやり方をしていたと言う事でした。各省庁は、東大を含めた大学のエリートを集めた集団で事務処理的な業務しかありませんから、障がい者を雇用してもやって貰う仕事が無いと言うのが本音の世界だと思います。しかも、障がい者の雇用では、健常者のように一人が1人という感覚では無く、小数点での0.何人前の実感になっています。つまり、非常勤が1人雇える枠があるとしてそこに障がい者が雇用されれば、少数点での減員になったという感覚になるのです。何故なら、一つには、障がい者の中でも普通に仕事できる人は引く手あまたほど障がい者枠では仕事があります。民間の企業でもすぐに就労できます。そんな障がい者はそんなにいません。二つに、介助が必要な障がい者はお断りだからです。何にも出来なくても雇用率という役にたっているならそれでもいいのですが、一つの仕事を教えるのに職員が自分の業務が遅れたり、ミスをして職員がやり直さなければならないとやっかいだと思われているからです。健常者だって、職場ではあいつらは2人合わせて一人前だなんて非難することがあるように、障がい者を健常者と比較して比べれば、何人集まっても小数点以下だなんてことは当然の事です。それならば、半人前でもいいから迷惑を掛けない人がいいと言う条件での取り合いは今だって起きています。そこには、雇用するということが、期待ではなく、足を引っ張らない人が欲しいになってしまっているからです。さらに、何かあれば、人権という武器でおどされるのが嫌なのです。だから、企業によっては月5万円程度の罰金なら払う方がずっと得だと考えてもいるのです。中には、罰金と言うよりも特別徴収の福祉税程度に考えれば気分も楽になると言うことさえあります。海外でも少数民族枠があって、差別に対応しているようで逆差別だということもあります。障害者雇用が、罰則付きであるという脅しで行うことも本質ではないという意見もあります。

 実際に、福祉施設から一般企業へ出て行けない人は、週40時間働くだけの体力が無かったり、精神的な気持ちをサポートすることが必要だったり、仕事は出来るのにパニックを起こしたりと、何らかのサポートが必要で、長期間にまたがって身体・精神を自己管理だけでは維持出来ない人が多くいます。だから、雇用率と言う数字で切り捨てるだけで障がい者雇用を促進していくことは困難なのです。プレーイングコーチと言うのは、プレーヤーでありながら、指導できる人を指します。障がい者理解を職場全員が行うというのは実際は困難です。職場はプレーヤーの集団ですから、一人一人は自分のプレーだけで精一杯と言う事もあります。そんなところに障がい者が投げ込まれれば、もの一つ教えるのも負担感と面倒くささにぞんざいな態度となり、障がい者も嫌な思いをしてしまいます。でも、そんな職場に二刀流であるプレーヤーでありながらコーチングも出来る人を配置してくれれば、それだけでも職員にも、障がい者にも拠り所となります。障がい者雇用のために、支援者をさらに雇わなければならないとなればその費用だけでも罰金に相当してしまうかも知れません。そうでは無くて、職場の中でサポーターを育成して手当で対応することの方が、職場にとっても障がい者にとっても良いのでは無いかと言うことです。各省庁は今度は正職員枠で障がい者雇用を検討するとしていますが、数字だけを追って、公務員なら障がい者が押し寄せるだろうと他科をくくっていますが、職場が障がい者を受け入れやすい環境でなければ、すぐに退職となりますし、職場に特別な雰囲気を作ってしまいます。みんなでずるをした背景には、障がい者は健常者の条件を満たすことが出来ないからですが、昔から「馬鹿とはさみは使いよう」などと差別用語として今では使われない諺がありますが、なんでも揃っていない時代には、与えられた条件を活用出来なければ自分が困るだけという事が日常でした。だから、誤魔化しでは無く、ワラ一本でも活用することを考えてきたのが日本です。人を如何に活用するかと言うところが頭の使いようと思うのです。エリート官僚の世界だからこそ、プレーイングコーチとして、痛みを知る人が雇用率以上に増えることが大事だと思うのです。

人前に出る文化と出ない文化の話

 安土桃山時代に来日したポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、『日欧文化比較論』のなかで「我々の間では真珠は装身具の材料に用いるが、日本では製薬のために搗き砕くより他には使用されない。また、ヨーロッパの女性がつける宝石のついた指輪なども一切つけず、金、銀で作った装身具も身に着けない」と述べているそうです。ここには価値観が全く違うということです。当時の日本にも、金銀細工の技法はありましたから作る気になれば、精巧で独特なデザインの作品は作れたのですが、全く作る気がなかったということです。実際、日本の装身具は、縄文時代古墳時代の遺跡から、出てきていますが、奈良時代から明治まで千年近く利用されていないのです。古代の装身具がどのような意味で使われたかも、なくなった理由も実はわからないと言われていますが、私は、権力者が人前に出なくなったということが理由だと考えています。なぜなら、平安時代でも、天皇は御簾と言われる中に居て顔を見ることが出来ない存在でしたし、大名行列では、「下に下に」と頭を下げていろ、顔を見るなど上位の人の顔を直接見ることは恐れ多いという時代が続いていたからです。それに比べてヨーロッパの王たちは、人前に出て権威をひけらかさなければなりませんでした。ローマの皇帝ネロは、競技場で実際に競技にも出ているのです。つまり、人前に出るヨーロッパの王侯貴族は、自分の富と権力を、多くの人々に誇示するための道具として装飾品を必要としたのです。権威を示す装飾品は、交換や換金する市場がなければ経済活動には組み込まれませんし、宝は、権力を象徴できますが、宝では権力は握れません。つまり当時の経済活動の中では、王侯貴族の装飾品は権威を示す贅沢品であって、金・銀などの様な商品としての価値は低いのです。財産を見せつければ盗難にあうという時代ではなく、自身が人前で権威を見せつけるための道具にすぎなかったとも言えるのです。ヨーロッパの王侯貴族は、画家を抱え込んで肖像画を書かせます。ナポレオンの有名な馬上の絵も過大誇張表現されたものですが、ナポレオンの権威を高めるために貢献しました。それほど、顔を売る文化に対して、日本では、お言葉を直接聞くとか、顔を見るのは尊顔を仰ぐというぐらい距離のあることだったのです。雲の上の人という表現がされるように、日本では、偉い人は姿を現さず、用向きは家来がするものだったのです。明治になって、天皇のことなど誰も知らない状況を打破するために写真をあらゆるところに張ったのも西洋の真似をしたからです。

 つまり、日本では、偉い人が人前に出ることは、古墳時代に終わったので装飾品の必要性はなかったのです。ですから、今になって自己主張しない国民性などと言われますが、偉い人は自分の言葉で話すのでは無く、家来の仕事ですから、自分が前に出て話すなどルール違反と言う文化の中にどっぷりと浸かっていたのですから、自己主張しないのでは無いのです。人前に出ないことが権威ある文化の日本では、偉い人が先頭で演説をするなどと言うことなど想定もしていない文化でしたから、装飾品で相手を威嚇するなんてこともしませんから、装飾品は必要なかったのです。

 

不老長寿の先にあるものの話

 クマ虫の仲間は、地球上で最もタフな生物と言われており、1000種以上あります。体長1.7ミリ程度で、海洋・陸水・陸上のほとんどありとあらゆる環境に生息し、水がなくても120年は生き、宇宙空間に直接さらされても10日間生存することが可能と言われ、150度の高温、マイナス200度の低温、真空、高圧、乾燥などの、極限の環境でも生きているとされています。でも、そんなクマムシでも不老長寿ではなく世代交代をしています。人間は長生きしようとあがき続け、様々な健康食品を作り出し、様々なものを口にしてきました。今となっては、有毒とされる水銀までも飲んでいます。そんな貪欲の結果として、人間の食物は、多様になりました。今は地産地消が新しい何かのように言われますが、食物が地域移動するのは近年のことで、地産地消ということよりも地にある物しかないということが貧富の差や国の興亡に影響していました。物流の発達としての道路整備や輸送手段としてのエンジンやモーターの発明、乾物・干物から、冷凍・冷蔵の発展という保存方法の変化、それらの上に立つ調理方法や調理器具の発展に続く、加工食品の技能や添加物の利用が、食生活の多様性と複雑化を進めました。サプリ等という健康食品などと言うものまで販売されています。他方、疾病に関しては、難病を含めてまだまだ奧は深いのですが、なんとなく進歩していくのだろうし甘い期待と自分ではどうにもならないからの他力本願で関心は高くありません。しかし、毎食直面する食に関しては不老長寿の食を求めて、健康食品を求めて高い関心を示します。ですが、現代ほど雑食が進んだ時代はありません。生物は、身体維持機能やエネルギー補給のために、摂食活動を行いますが、多くの場合は対象の食物は特定されていて、人間ほど雑食化しているのは特別です。その貪欲な雑食が現代では、科学とタイアップして肥料や農薬を作り、自然には存在しないものまで摂取するようになりました。その為、地球規模での化学汚染と言われる今日、無農薬、有機栽培などと言っても、大陸から風に乗って様々な化学物質が降り注いでおり、それは気分の問題程度にしかなっていません。それでも、身体機能を長持ちさせるには、何らかの物質補給しかありませんから今も次々と新商品が出されています。

 しかし、クマムシでさえいつかは死んでいるのですから不老長寿の単体物質が地球上にはあり得ないと考えるべきです。そうなると、長生きするには、常に新陳代謝により再生されている一つ一つの細胞の寿命を長持ちさせるか、千年生きる細胞を見出すかということになってくると思うのです。つまり、死なない細胞は生命体として不可能ですから、長持ちする細胞を如何に作り出すかとか、細胞の交代があっても使用後の再生にならないようにするとかだと思うのです。細胞自身は、どんなに活性化しても老化しますし、劣化します。問題なのはなぜ細胞は、再生に当たって劣化した細胞をコピーするかという事です。現状では、再生される細胞は、体験経験が蓄積された細胞で、時間を遡って再生してくれないということです。例えば、脳細胞なら記憶を含めて次の細胞に複写して新しい細胞に乗り換えるのですが、古い細胞の劣化もコピーしてしまうのです。もし、細胞が自分が新しく再生されたときと同じもので再生されるなら、赤ちゃんの肌が繰り返し再生されるはずです。しかし、現実には、その細胞の経験や使用度が再生される原本となるから劣化としての老化は進んでいくのです。では、身体機能の細胞の再生を10代のコピーに限定できる技術が出来たとして考えると、脳の経験値もコピーされませんから、人生も振出しえ戻るということになってしまいます。脳だけは経験値でコピーしたのなら、脳と体のバランスは確実に失い脳は、自分を失うかもしれません。こんなことを考えると、不老長寿の先にあるのは、生命をどうしたらいいのかという疑問だけになってしまうと思うのです。生命は、劣化して老化と終末を受け入れることが自然だと認識することが、疑問を解く鍵になると思うのです。

 

障がい者優先なら、ちゃんと書くべきだの話

 付加価値があることがいいとか、どうせなら多機能がいいということはどこにでもある発想です。専用よりも、いろいろ使える汎用の方がお得な感じもします。だから、いろいろなところで汎用できる多機能が薦められます。しかし、多機能は一見素晴らしいように見えますが持てる機能を十分に使えるかと言うと専用ほどにも活用できていないというのがほとんどです。例えばパソコン、実に多彩な機能を持っていますが、ほとんどの人はその本の一部しか使っていないのが現実です。ですから多機能と言っても、使用頻度などでは偏りが生ずることはよくあることで、何でこんな機能まで付けたのと非難され「シンプルイズベスト」などと言われることもあります。福祉では、障がい者と健常者と言う大枠がまずあります。さらに、障害者の中にも障害による分類があります。ですから、障がい者の枠の中で多機能と言うことと、障がい者も健常者もない多機能と言うことは大きく違います。障害に関わる人の考え方は、「バリアフリー障がい者のためではなく、障がい者が生活しやすいことは、健常者も生活しやすい」ことと考え、障がい者のために特別なものを求めているのではないと言っています。そんな理想と現実が、障がい者トイレの利用で、混乱を招いていると報道がありました。報道による内容は、障がい者用のトイレを健常者が使用して障がい者が使用できないことがあるというものです。

 障害者用トイレの本格整備が始まったのは1994年のハートビル法からで、日本では、初めは車いす専用的なイメージで設置され、使っているのを見たことが無いと言われるほど無駄な施設的感想が多いこともありました。それはトイレがないから外出できない障がい者も多かったので使用頻度も低かったという事情もあります。ところが、その後法律の変更による後押しもあって障がい者トイレは公共施設だけでなく大型商業施設などにも波及して設置が進みました。その過程で、多機能トイレとしての整備が進み、高齢者や乳幼児連れ、オストメイト設備や介護用の折り畳みベッド、ベビーチェアなどの設備だけでなく、利用法として高齢者の介助に複数人が入る事や性的少数者LGBT)が使うこともあると言われています。使用頻度が高まれば、回転率によって当然待たされると云う事態が発生するのは明らかです。さらに、健常者用トイレが混みあっていたとき障害があっても車椅子ではない人の出入りがあれば、使ってもいいのかなとと健常者が思っても不思議ではありません。さらに、名称も、「だれでもトイレ」「多目的トイレ」「みんなのトイレ」などと掲示されていることが多くなったからです。バリアフリーの理想から言えば障がい者も使える広いトイレであれば健常者も使いやすいということですから、車いすの人が待たされたとしても課題はないことになるはずです。ところが実際に設置している方は、名前を「だれでも」と言っていても実は、「通常のトイレ利用が難しい人は『だれでも』」と言う意味だったというのですが、そんなこと、誰もわかりません。さらに、専用や優先と言うと、利用者を区別することになり、ユニバーサルやバリアフリーの考え方と相いれないからとも言い、特別扱いは嫌だとも言うのですから、使用するときは待たずに使いたいや、長く待たされた挙句に健常者の様な人が出てきたというのは当たらないと思うのです。そして「電車の優先席と違い、個室のトイレは外から見えないだけに、疑心暗鬼の不満が鬱積しがちだ」と報道されたのですが、使い勝手が良ければ利用頻度が上がり「待たされる」と言う事が起きても仕方がないことだと思うのです。そうでないなら、誰にでもわかるように障がい者優先と言うべきです。かっこつけて理想を言うのもいいのですが、理想に現実が追いついていないときは現実に歩み寄って判断すべきことと思うのです。多機能トイレの整備が進み、障がい者が外出しやすい社会を目指す過程で、一部の人かもしれませんが健常者が使っていると苦情を言うのは当て外れの様な気がします。多機能トイレを使用した健常者が、健常者トイレもあんな風がいいと多機能トイレが増えることに賛成する方がいいと思うのです。他の座席が空いているのに電車バスの優先席を狙い目として敢て座っている人が現実にいます。抜け駆けとして健常者トイレが混んでいれば多機能トイレを敢て使用する人もいるでしょう。だからと言って待たされることに苦情を言って、健常者は使えないという暗黙のルールーマナーを作るなら、理念など言わずにはっきりと障がい者優先と言うべきです。専用にはしない、汎用にすると言って多機能にした挙句に、一部の使用者を排除するかの様な考え方は、本当は専用で優先権がある方がいいと言っているのと同じです。それは、健常者と障がい者を分離してそれぞれに必要なものを整備していくという考え方になっていきます。福祉祭りの様なイベントで、健常者に、車椅子試乗やアイマスクでの視覚障害体験を行うように、実体験で多機能トイレを使用してもらうことも必要だと思うのです。過去には誰が使うんだと非難されたトイレが、使用者が増え認識された来た事を喜び、もっと増やしてほしいという希望につなげるべきで、本来使用できる人が後回しになっているという非難は当たらないと、報道を見て、感じました。