知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

表現と作品は違うと思う、アート表現の話

 障害を持つ利用者の中にも、芸術的に優秀な人は確かにいますし、発想や作品が秀逸な人もいますが、それはほんの一部にすぎません。多くの障がい者は自己表現としてアートを活用することは勿論、作品として仕上げることが困難です。それは、健常者と言われる人も同様で、自己表現手段の一つとしてアート作品があるなんて人はほとんどいません。むしろ、絵で表現してなどと言われると困ってしまいますし、むなしいや愛しいなんてアートで表現しろと言われたって出来るものではありません。つまり、誰もが自己表現手段の一つとしてアートを先天的に持っているのではなく、その手段や方法に、出会い、学習することによって、習得し、色々な表現手段の一つにしているにすぎないと思うのです。ところが、障がい者に理解のあるアートセラピーの人々であっても、障がい者が作ると何でもかんでも障がい者による表現活動としてしまいがちです。初めはそれでもいいのですが、出来上がる作品が同じことの繰り返しであることから、始まりの頃の輝きが失われ数年の内に停滞期が訪れている場合が見られます。ですから、私は、障がい者が頑張ったのだからこれは立派な作品であるとか完成品だから他者が手を加えるべきではないという考えに反論しています。私は、障がい者が描けばそれだけで立派な表現だと過剰に褒め称えることは逆に見下した考え方だと思っています。特に知的障がい者の場合は、作品を完成させたいという要求よりも、製作中の過程の変化を楽しんでいると私は考えています。知的障がい者は作品作りを楽しみますが、何もアドバイスをしなければ、社会的に評価される終結点を認識して作品を完成させたり、自分自身の認知として作品の終結点を決定することが苦手だと思っています。つまり、知的障がい者だけでなく、アートの表現は必ずしも他者の評価を求めているものではなく、その製作過程を楽しみその活動状態そのものが表現活動で、支援者等が評価する状態も通過点に過ぎないと考えています。それは、誰かが、適当なところで終結させなければ、動画のように進んでしまいシャッターチャンスが失われるということでもあります。むしろ作品は完成品とするのでは無く、アイデアであり素材であると仮定した方が適切だと思うのです。アートセラピー等では、障がい者が製作した物の多くを作品として終結してしまいがちです。販売の場合にも、その作品を壊さないという視点を持っているために、キャラクター的に限定されて汎用力が非常に狭くなっています。私は、障害があっても成人が作りだすものは単独の作品に拘るのではなく、集合体の部分として一つの製品に生かされていることが重要と考えています。つまり、売れるモノづくりに関与することが大切だと考えています。何故なら、成人の障がい者がアート活動をしているのを見て、「お絵かき出来ていいですね」と言われることに大いに不満を持っているからです。みんなが働いているのに、障がい者は昼間も、お絵かきしていると言われることが不満だからです。そして、アート活動は、様々な方法で、障がい者も多様な表現力を持っているという証明は出来ても、今はまだ、表現されたものが一体何を言わんとしているのかを通訳し対応する技能を私は持ち合わせていません。それならば、未来にアート表現の翻訳機が発明されるまで、製作物として社会で「売れるモノづくり」に参加することの方が適切だと考えています。活動を支援する人たちの満足のためではなく利益が利用者にもたらされることで成人の障がい者のアート活動が仕事であり、働く場であることを知ってもらうことも必要だと考えています。ですから、創作としての作品ではなく、製作としての素材の一部として、その素材を自由に切ったり張ったり組み合わせたりすること、その素材の一部を構成することをプロデュースするなら、「売れるモノづくり」のデザイナーとなり得ると考えています。小さな声を合わせるとか、小さなものでも大きな力にと言う人たちも何故か、アート作品的になると個人の所有に拘ります。しかし、何かを作り上げても、生かされることに繋がらないと静止した物体にすぎませんが、アイデアであり素材となれば原資と言えます。福祉関係者は、売ることに抵抗感がありますが、売れることは啓発・広報することよりはるかに効果的だということを知るべきだと思うのです。