知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

世界遺産より教育ちゃんとやれユネスコの話。

 ユネスコは、国連の教育科学文化機関として、教育,科学,文化,コミュニケーション等の分野における国際的な知的協力(国際規範設定,専門家の国際会議,国際学術事業の調整,情報交換,出版など)及び途上国への開発支援事業を行うというとても良いことをする機関ですが、その活動はほとんどニュースにはなったりしていません。それでも、職員数は2200人ほどいて、単純に年収が400万円程度でも、80億円ほどになるぐらいの人件費が掛かりますが、各国の拠出金で賄われているので過去にも放漫経営で、経費ばかり使っている機関とも揶揄されてはいます。日本は、会費は37億円程度ですが寄付も合わせると50億円ぐらい払っているそうですが、人件費にも足りないぐらいです。寄付金で成り立っているユニセフでは、金というのは勝手に集まるものじゃない。集める努力をしないと集まらないと言って広報や事務費や人件費として寄付金の25%をカットしています。世界には、学校にいけない子供や文房具もない子供が沢山いると盛んに叫ばれていますし、小学校程度すら満足な教育機会に出会えない子供たちがいることも事実です。ですから、誰もがユネスコの活動に賛同していますし、頑張ってほしいと思ってもいます。しかし、今日では、ユネスコと言ったら、世界遺産しか思い浮かばなくなってきている感が広がっています。そして、世界遺産が国内に何個あるかの競争的であったり、認定に力を入れているということばかりが報道されています。では、世界遺産て何と言われたら適正に応えられる人いるのかなと言う疑問が私にはあります。ユネスコの仕事として文化の保存は一つの分野ですが、世界遺産認定活動は、現状を見てみると観光に押しつぶされて本来の保存と言う意味さえ失われつつあるのではないかと危惧するのです。世界遺産に登録されたという群馬の製糸工場跡は、報道された後はその価値を確認することも出来ないぐらいに観光客が一時的に訪れましたが、今では十分見学出来ます。過去の文化財が金になるというのは、イタリアやエジプトなどの多くの事例を見れば分かることではありますが、観光として永続的に金儲けに結び付ける事はそんなに簡単なことではありません。つまり、世界遺産に登録されることが観光資源になり文化財を守る基金も作れるという幻想を登録の目的として、終結するような活動で文化は守れません。本来なら消滅して歴史の中に埋もれ消えていたはずの極一部が、人為的に守られたり、奇跡的に残ったというのが文化財ですが、そこには学ぶべきことがあって残っているのにその学びとは関係ないなら形だけの物なら消滅しても仕方がないものだと思うのです。世界遺産になったから、お金儲けができると思っている人たちは沢山いるのかもしれませんが、世界遺産と言うブランドは今では希少価値もないぐらいに我も我もと申請し認定している現状ではそんな効果も限定的と言えます。問題なのは、ユネスコが片棒を担いで観光地にした文化財を見に来るのは、教育を受けられなかった人たちではなく、観光地を訪れるだけの余裕のある人々であり、貧しい国の世界文化遺産では、見に来る観光客の場で、学校へ行けない子供たちは働いているかもしれないのです。世界遺産の認定のため現地確認にユネスコが派遣する職員の旅費だって文具にすれば何千と言う子供たちに配ることが出来るかもしれないのです。国連は官僚主義が蔓延していて、国のエリートの様な連中が職員として公務員として仕事をしているとも言われ、拠出金の多くが、事務費や人件費として消えていき、本当に困窮している現場が見えなくなってきているとも言われています。拠出金の少しでも多くが、貧しい子供たちの教育に還元されるためにも、教育のユネスコではなく、世界遺産認定機関になり下がってはならないのです。世界遺産を媒体として本業を繁盛させるのならともかくとして、本業が霞んでしまうような営利に関わる事業を優先させるべきではないと思うのです。登録のために賄賂や接待が行われないという保証のないような事業を行うべきではないと思うのです。遺産というものはそれを伝承したいという個人や集団の思いによって守られてきたものであって、観光地となることを望んで保存してきたのではありません。保存には案外新設よりもお金も人手もかかります。保存したいという信念がなければ朽ち果てていきます。それは、日本の文化財保護を見ても分かります。観光収入を当てにした保存は余程有名でないと残り続けられません。ユネスコ文化財を守ることが必要だという子供たちを育てる、教育の機会を保障する活動にもっと専念すべきだと思うのです。逆に、世界遺産の登録料をしっかりとって、そのお金が子供の教育に還元できるようにすべきだと思うのです。