知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

生きていたらまた施設にいれるんでしょの話

 被害者の家族というのは、障害とか身分とか関係なく、みんな加害者を憎み、非難します。それは当然と言えば当然で、罪を憎んで人を憎まずなんてことは、当事者ではない人の観念の話で普通の感情を持っているなら出来ることではありません。ですから植松被告に相当厳しい言葉を投げかけても当然と言えます。しかし、その言葉は、植松被告を変えないし、感情的な言葉は植松被告の確信をさらに強めることになると思われる行為としか思えないのです。

 何故なら、43歳の息子を亡くした甲S(名前は公表されていないので裁判名)さんの母親は出廷し生の声で言ったのではなく陳述書で、「息子が亡くなった日から時間は止まったままです」「息子を返してほしい。息子ともう一度、会いたいです」と訴えました。被害者のほとんどが匿名の中、ちゃんと『美帆』という名前があるとして、初公判に合わせて名だけを公表した母親は、「私の人生はこれで終わりだと思いました。自分の命よりも大切な人を失ったのだから」「未来をすべて奪われたのです。美帆を返してください」と言いました。しかし、母親は、被害者特定事項秘匿制度に基づき意見陳述の際には植松聖被告と対峙したのではなく、傍聴人からも見えないよう、法廷内の衝立に隠れて話しています。甲Sさんの母親も美帆さんの母親も、植松被告に面と向かって話したのではないのです。だから本人を返してくださいと言いっても、もし帰ってきたら結局また施設に入れるんだろうという植松被告の問いかけに全く反論していないのです。

 植松被告は、「この裁判の本当の争点は、自分が意思疎通を取れなくなる時を全員が考えることだ」と言ったように、重度障害者を念頭に意思疎通の難しい人たちを排除することが「社会の役に立つ」と言っています。その根底には、入所施設に入れることは、家族から排除されていることだと結びつけているからです。自分の命より大切と言いながら、結局施設に預けてしまわなければならない現実に、障がいを持つ子を持って幸せだったというのなら、なんで施設なんかに入れるんだと言う問いに答えていないと思うのです。

 現在正確に統計が計られていませんが、知的障がい者と認定されている人は100万人ぐらいいる中で、施設入所をしている人は約13万人程度で、そのほとんどは家庭の事情です。自らではありません。施設生活で掛かる1か月の費用は約30万円程度で個人の負担は、最大で6万円ぐらいですから約25万円程が税金となります。悲惨な事件があったと、やまゆり園が取り壊しになっても自宅に帰った障害者はごく限られていて、ほとんどは新しく出来る入所施設に移るだけです。県は、約120人のやまゆり園の利用者に対して、1施設に66人定員で2施設作ると言っています。それに対して、家族会長は「ずいぶんと規模が縮小し、家族の納得とはほど遠い」と話すように、初めから入所施設を利用する事が前提なのです。

 そのことを捉えて植松被告は、重度の障がい者が家族にとって負担だから、家族から排除されて施設に捨てられているのだから、それは社会にとっても負担なんだ、だから排除した自分と同じではないかと思っているだけだと思うのです。知的障がい者の入所施設が満床なのは、死なないと空床にならないからで、生きているうちに地域に戻れるシステムが構築されているのなら、植松被告にお前は間違っていると明確に言えますが、実際は、残念ながら重い障がいで家族や地域で支えられないと言われたら、施設で暮らさなければならないのが現実です。

 植松被告は施設で働くことで、施設の中にある虐待の類似行為や怪我をしても出ていけと言われることを恐れて、可愛いと言いながら何も言わない家族の本音をどこかで見たり聞いたりしたのでしょう。そして、文句も言えない重度者が誰からも守ってもらえないでいると感じたのかもしれません。そして、死んだら手のひらを返したように自分の命より大切だと言うよりも生きているうちに施設なんかに入れるなと言いたいのだと思うのです。今回も、死んだ子の親は返してくれと植松被告を非難しますが、帰ってきたら施設へ入れなければならないとしたら、植松被告にやっぱりなと言われてしまいます。公判で美帆さんは自閉症で言葉を発することはなかったが、「とても人が好きで、人懐っこい子」「笑顔がとてもすてきで、まわりを癒してくれました。ひまわりのような笑顔でした。」と母親が話すなら尚更に、なんで施設に入れたのかと誰もが思うことです。結局、家族の一員の証明である苗字も出せないことや顔も出せない問題を語ることなく、植松被告だけを非難しても、植松被告からしてみれば大切と言いながら施設に捨てるじゃないかと益々確信を持つだけだと思うのです。

 障がい者にも生きる権利がある、障がい者の人権を尊重すると話す事は簡単ですが、その権利は誰が保証してくれるのかと言う事が一番の問題だと思うのです。障がい者に対する理想や理論は、誰もが受け入れ反対もしませんが、現実社会では保証人にも権利を守る人にも簡単にはなってはくれません。神仏に祈ってくれる人はいても、障がいと言う試練ばかりを与える神仏は、障がい者を守ってはくれたことなどありません。守れるのは、生きている人間だけです。世界の中で子供たちが虐待され、殺され、売買されていても、その国に守る力がなければ守られないのです。奴隷の如く扱われ、飢えて死んでも、守る力がなければ守れないのです。日本の障がい者を国が守ってはくれない廃棄民の時代はついこの間まで続いていました。どんなに人権を尊重すると言っても具体的な対応がなされなけば生身の人間は守られません。重度の身体障がい者が一人暮らしをすると介護費用が月に80万円ぐらい掛かります。そのお金を誰が負担するかと言うことです。人権を守り権利を守ると言う、今の、国の福祉観は自立です。しかし、国の言う自立とは国に迷惑を掛けずに自分で稼いで生活しろと言うことなのです。その為には障がい者が稼げる環境を作ろうと、障がい者の工賃を上げろ、障がい者を雇用しろと罰則まで設けて進める政策を掲げて努力しているように見せていますが、その背面は、障がい者の権利を守るためではなく、障害者年金や生活保護の様な公金の支出を減らし社会から広くお金を集めるという事が目的で、障がい者に掛かる負担を広くみんなに求めているにすぎません。

 その広報に利用しているのが「人は働くことに喜びを感じる」と言うフレーズです。綺麗な言葉に見えますが今日の経済活動と生活を考えた場合の労働は、人間の本質ではなくお金を得るために働かなければならないという強制された環境の労働です。つまり、国の言う自立は、扶養ではなく自分でとにかくお金を稼げの働くことであり、お金を稼ぐという意味の働けるようになることなのです。ですから、働けない人はどうするのですかと言う問いには国は答えないのです。国にとっては今でも、働けない人は、お荷物であり負の資産でしかないのです。植松被告の言う排除される対象なのです。

 母親は植松被告に「私は娘がいて、とても幸せでした。決して不幸ではなかった。『不幸をつくる』とか勝手にいわないでほしいです」と言ったように、多くの障がいを持っている子供を抱えた母親が、「不幸」ではないと言いますが、やまゆり園の施設長が「家族の不安に向き合って説明し、利用者の暮らしの場をつくっていきたい」と言うように現実には国の支援なしには子どもを守っていくことが出来ない人もいるのです。だから、施設と言う障がい者だけを集めた生活の場に送り込みながら私は「幸せ」と言えるのは少し違うと思うのです。障がい者を家族に持つ、兄弟姉妹の苦労を考えたら、母親が私は幸せだったとか、人生を学んだ教師だったと言っていることが空虚に聞こえるのです。障がいを持たされた本人は本当に大変なのです。だから広い理解と支持が必要で、障がい者を家族が抱え込んではならないという施策が、排除の論理に立ち向かう世論が必要なのです。

 人の不幸は蜜の味と言う言葉があるように、差別と偏見の根源には個人の力ではどうにもならない様々な不幸があると思うのです。母親が、障がいの子がいても不幸じゃないと言うのなら、人に頼ることもないという事になってしまいます。障がいは、個人の力ではどうしょうもない本人の不幸だからこそ、社会が幸せにしなければならないということだと思うのです。不幸な人が一人もいなくなるように、国や社会が考え行動しなければ、植松被告の言う排除の論理が拡大してしまいかねないのです。障がい者を守る施策は今も日本では確立されていません。障害者差別も厳然と続いています。被害者感情は大事ですが、そればかりが強調報道されて植松被告を特別な犯罪者に仕立てしまうことでは、植松被告の言う排除の思考を否定出来ないし、障がい者を守る国の施策に反映されるとは思えないのです。