知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

自治体の分離選別は、差別意識を助長し排除に繋がるの話

 施設整備計画で国の補助金を得て実施するためには、社会福祉法人等は、事業計画を地方自治体に提出して審査を受けて、自治体の推薦として国に申請しなければなりません。その為、各自治体は、自由に申請を受け付けるのではなく福祉計画に基づいてどんな事業整備をするかで補助金事業の募集を行うこととなります。逆に言うと、社会福祉法人が自分の理念に基づいて福祉事業を展開したいなら補助金など求めず自分の金で実施するならいいが、補助金が欲しいなら自治体の計画に従えというものでもあります。この考え方は間違えではありません。民間の事業者に自由に任せていたら赤字になるような事業や難しい事業には手を出さず無難な事業ばかりになり福祉の谷間批判や行政としての怠慢を指摘されかねません。事実、福祉の施設整備には片寄があって、重い障がい者や医療に関わる障害者、非行などの経歴のある障がい者自閉症スペクトラム等々の方々が受け皿がないために困窮しているということもあります。ですから、行政として適正な理念のもと、福祉計画を作成し実行しているのならそれはそれでもいいのですが、今回出会った事業計画の審査では、障害を理解しない差別意識が根底にあるのかと言わざるを得ない実態に遭遇しました。過去の福祉行政は、福祉事務所がケース一人一人を施設等へ紹介するという方式で、直営と言われた重い障がい者の為の施設も行政が運営していましたが、行政改革で福祉サービスに行政が直接かかわる事や、直営の事業運営は放棄されました。ですから、現在は、相談支援センターを通せとか、困難な事例であっても民間事業者へ押し付けるしかなくなりました。一方要請された相談支援センターは事業者に当たっても受け入れてくれるところがなければお手上げですし、事業運営者は、出来るだけ手がかからないで問題が発生しない方を優先に利用契約を結ぶという事が行われるようになりますから、結果として、障がいが重い方や強度行動障害がある方は利用を避けられるという現象が起きます。すると行き場を失った重度者等の対策が行政に強い要請として迫られるというのが一つの流れです。そんな事情は分かりますが、出会った自治体は、短絡的に国に推薦する補助金対象となる障害福祉事業対象をどうしたら重度者も含めた福祉事業が可能かの模索ではなく要請がただ多いことだけで、ことさら強度行動障害や医療ケアの方を含むものに限定するのです。生活介護事業と言うのは障がい者では一番障がいの重い方が利用する事業ですが、作っても作っても施設は足りないのです。逆に、重度者はそんなに増加しているのかと言うとそんなことはないのです。もし、既存の施設が重度者を素直に受け入れていて対応していればそんなに要請はないはずなのです。ですが、既存の施設が、少しでも手のかからない人を入れようとするからいつまでも重度の方のいき場がないのです。そこで考えたのか、新設施設には条件として重度の人を受け入れなければ補助金申請からは外すという姑息な方法なのです。つまり、既存の施設が対応できない障がい者補助金が欲しいなら、新設の施設で無理やり受け入れしなければならないというやり方です。自治体の推薦がなければ補助金申請はできないことですから、自治体の募集要項で条件限定してしまえば、他の福祉事業が必要だと主張しても玄関払いされることになるのです。つまり、福祉事業としての選択や選別ではなく、行政の要望する事業以外は、自費で勝手にやれということで、行政として困っていることが恣意的優先順位としての福祉施策になってしまうのです。本当に整備しなければならないことの論議があるのではなく、行政として補助金を握りしめて権限を振り回しているとしか言いようがないのです。そこには、障がい者福祉の理念が感じられず、障がい者行政を歪めるとしか思えません。何故なら、こんな開設計画の中だけでの条件付けなど、知恵ある法人なら、認可されるように計画では行政の言う通り望みのままに書き込んで補助金を貰い、建設後に個別サービス契約ですから、利用者を選ぶことなど簡単で、障がいが重い人や強度行動障害の人を一時は受け入れても、契約を次々と解除していけばいいだけです。補助金を受け取った分、障がいの重い人しか利用できないとか、一度契約したなら解除できないなんて条項は何もないのですから、本人が他害行為や粗暴行為など加害が多ければ契約解除はそれほど困難ではありません。そして、そんな方がたらい回しにあっているのです。今の制度の元では、設置計画時にどんな約束をしたって結局は追い出すことは可能で、計画時にいくら行政指導をやったって課題の解決にはならないと思うのです。

 原点に戻って、障がいの重い方が施設を利用できない原因は、福祉計画の立案者達に差別意識がある事や障がい者支援の根本が理解されていないからと思うのです。当該自治体の、ある生活介護の事業所を尋ねた時、職員は平然と生活介護事業所の支援内容を、散歩とお絵かき等々言いました。障がいがあっても成人している場合は子供扱いせず成人として対応するという人権の基本に立つなら、日中活動支援事業所では、第一に働くことの提供を検討しなければなりません。散歩で時間を潰していることに腹を立てるべきだと思うのです。工賃が出るか出ないかではなく働く場に参加しているか、時間つぶしに参加しているかは大きな違いです。ここに、この自治体の差別意識が現れています。つまり、障がい者だけでなく同類項だけを分離対応する方法では、個別の発達も滞るということが理解されていないのです。簡単に言うと、障がいが重い方ばかりを集めると働く場としての機能は著しく低下します。下請け仕事を得られたとしても、職員は下請け作業さえ適切な支援サービスに変換できませんし、利用者も製品作りに参加できない状態になってしまいます。障がいの状態による集団構成は、分離であり、差別意識そのものなのです。福祉の言葉のなかに、包括支援センターなどと言うことがありますが、包括とは全体として包み込むということです。現在のノーマリゼーションでは、障がいがあっても普通の生活が出来る様にまでですが、普通の生活を突き詰めていけば、健常者の生活に包み込まれていくことでもあります。それがソーシャルインクルージョンでもあります。このことがなぜ実現していかないかの原因の一つに障がい者教育の矛盾があります。障がいがあるのだから専門の教育を受ける権利があるということで、障がい者は学校教育ですでに分離が進んでいます。少子化が進む中で、特別支援学校は増加しています。この結果によって、障がい者を見たこともない健常者が増えているのです。その弊害をなくそうと教育の分野では、インクルーシブ教育として接点を増やそうとしています。学校でも接することなく、日常的にも障がい者と接することがない、大人に障がい者理解は進みません。逆に未知なるものへの不安と嫌悪が広がります。それが地域の障がい者差別の一因でもあります。まして、どんなに寛容な人でも初めから重度で強度行動障害のある方と接すれば驚きます。同様に、障がい者をさらに細分化して分類、分離すると発達そのものが遅延します。人間の発達には、トラブルや課題も発生しますが、分離ではなく混合の方が遙かに良い効果がでます。にもかかわらず、この自治体のように重い障がいの方が行くところがないからと生活介護施設ばかりを作っているとみんなで、働くことも忘れて、事業所で時間つぶしをされて、漠然としたストレス解消のための隔離施設になってしまうのです。

 何事も、閉鎖より開放の方が効果があります。分離選別は、差別意識を助長し、接点のなさは、不安感を生み出し、分離は排除に繋がる差別意識です。行政官よ目を覚ませと言いたいのです。