知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

隠れ植松被告が台頭するかもしれない福祉国家の話

 被害者の家族までもが植松被告に面会して話していたりしているのに、裁判でも、社会の望む方向での反省の言葉が出てこないこともあってか、マスコミを含めて植松被告の独特の考え方が事件の原因との方向に流れてきている今日ですが、障がい者を抹殺する考え方は、日本の過去100年の歴史の中では国家のプロジェクトだったと言う事を忘れないで欲しいと思うのです。マスコミは「障がい者はいらないと身勝手な主張を繰り返す」と非難しますが、この考え方は、植松被告が独自に作り出した身勝手な主張ではありません。彼が言っていることは明治以来の日本の国が行ってきた障がい者行政を、なぞり繰り返しているに過ぎません。それれは、逆に、事件を、植松被告の特異性にすり替えようとマスコミを含めて画策しているようにも見えるのです。簡単に言うなら、障がい者差別の根幹は、障がい者はいらないということから始まっているのですが、誰も、植松被告のように直接手を下すと言う過激なことは出来なかったということだと思うのです。実際の障がい者政策は、穏便な手段方法で、障がい者が排除されるように行われてきました。優生保護法が改正されたのは平成8年です。この法律によって強制的に避妊手術させられた生き証人がまだ生きて居るぐらいちょっと前まで存在していましたし、知的障がい者は、公務員試験さえ受けられないような条件を付けられて、公務員の仲間には入れてもらえません。同様に、大きな企業は特例子会社方式で、自分たちとは違う条件、違う場所に集めて、仲間にはしてくれません。障がい者は、生まれてくるべきではないという考え方で、出生前検査がより精密になることに期待している関係者は増々大きくなっていますし、現実に検査によって処理されてもいます。そこには、個人の身勝手な考え方ではなく、障がいに対しての不安が社会の底流として今もとうとうと流れていることを示しています。だから、マスコミも、植松被告の独特の考え方として非難しますが、障がい者の生存意味に関して理論展開をしません。もっと言うなら、マスコミ自身の会社が、障がい者雇用の実態を晒してどれだけ障がい者の仲間がいるかを示すべきでもあります。マスコミなどが、感情的ではない、障がい者の生存意味を語るべきですし、人を非難をするより障がい者差別をしていない実践を語るべきです。記者の中に障がい者の仲間がいるのなら。社会が豊かだから、感情的、情緒的に、生きる権利などと気軽に言っていますが、どれほど国が、障がい者を廃棄民として扱ってきたかを考えるなら、マスコミを含めて公的機関が、植松被告に何もかも押しつけて障がい者を守る砦の様な態度をすることは適切とは思わないのです。逆に、社会が貧しくなれば植松被告の様な考え方が社会の考え方として、英雄視されかねないのです。現実にトランプ氏であれ、ヨーロッパの極右と言われる人々の台頭であれ、貧困は差別を生産し、暴力を容認してきた歴史があります。植松被告、個人の仕業にしてしまうことで収束してしまうことは、植村被告が言うように、日本の行政が実施したり、差別を助長してきたり、暗に無視することで消滅を望んできた事を、植松被告が声に出して言ってしまった、実行してしまったにすぎ無いことになってしまいます。今、障がい者の生きる意味を感情的ではなく、説明できる人は多くはいません。ですから、隠れ植松被告の方が多いのではないかと言われてしまうことでもあるのです。障がい者の生存に関して社会や家族の負担感を語られたとき完全に否定できる人は多くはないのです。植松被告の言っていることに過激だとは思うが、完全否定は出来ない社会が現実にあるのです。その一つが、死んでも個人名が明かされていないという現実です。逆に、誰にでも生きる権利があると言いながら、複数の人間を殺せば死刑に出来るという現実です。罰として死がある一方で、国がその人間を不用と判断したなら、国は自ら手を下さない方法で、棄民を行ってきました。今でも、障がい者のグループ―ホームを作るのに地域住民の反対で断念しなければならないという実態があります。そんな実態に植村被告が、そらみろ、どんなに格好つけていても自分の事となったら嫌なんじゃないかと笑っているような現実があります。どんなにパラリンピックの素晴らしい選手を見たところで、自分や自分の家族があの舞台に立っていないことを心の中で良かったと思っているという本音は変わっていません。誰もが、自分の子に障がい者が出生することを負として認識し、不幸として感じる底流がそこにはあるからです。ちょっと前までは、座敷牢だってありました。精神病院に長期入院させられた人は沢山いますし、山の中の施設に捨てられた障がい者もいますし、死亡率と言う回転の速い老人ホームが儲かった時代もそんな昔の事ではありません。植松被告が、高齢者に接していたら、姥捨て山の再来を言い出したかもしれません。それほど、現代の社会でも、障がい者が普通に生きられる社会ではありません。この現実に出会う度に、植松被告がやっぱり世間の本音はそうなんだよと言っているということでもあります。問われているのは、真から植松被告を否定できない社会の弱さだと思うのです。差別心は、人間の欲望と共にあり、欲望は人間性と言う精神を疾病に至らせるに十分な毒性を持っているということだと思うのです。