知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

障がいクラス分けに憤る人の見世物観の話

 障害の程度を公平に分類することなど出来ません。障がいほど個別性が高く違いも大きいのに、パラリンピックでは戦わせるために、何とか公平感を出そうとクラス分けが行われます。つまり、競技として成立させるためには、どこかでラインを引かなければ不公平な戦いになるとのことから、大きくは男女、健常者と障がい者となって、障がい者はその障がいの程度が近い人で戦わせるということなのです。その結果、陸上100メートルは男女29種目もクラス分けが出来てしまいました。そこには、健常者であってもほんのちょっとの精神心理の強弱が競技に影響するように、障がいの程度は勝敗を大きく左右することになるからです。こんな事例が新聞には紹介されています。パラ水泳のある人は最も軽いクラスにいたので東京パラの選手としては出場も危うかったのですが、進行性の病気だったので、検診により最も重いクラスに変更になりました。すると同種目のタイムとしては世界ランク2位になりパラ出場確定となりました。ここには、本人の努力とか障がいを克服してなどの心地いいテレビ番組によくある仕立てられた障がい者像とは違って、ちょっとした障がいの解釈が、パラリンピックに出られるか、メダルを取れるか程の違いがあることを証明しています。最も問題なのは、障がいの程度を戦わせるために分類しようということです。障がい自体が個性的で類似者を集めても違いが大きいのに、出来るだけ戦力が均等になるようにクラス分けしたいというのは、見世物として戦わせるということがあるからです。勝敗に拘らないスポーツとしての競技ならそんなことは必要ではありませんし、不公平だと目くじらを立てる人もいません。本来、障がい者をそのスポーツの種目のために公正にクラス分けすることなど、出来ないことであり、出来ることがいいことでもありません。パラリンピックと言うニンジンに群がる障害者に、少しでも自分より障がいの重い人と闘っても勝てばいいというだけになってしまいます。新聞に紹介されたイギリスの車いすバスケットのエース選手は、程度が軽いく資格を失うという通告に、「最終手段として足の切断も選択肢にある」と言ったとされていますが、スポーツの目的など飛んでいます。病気があると言っても、自分より、障がいが重い人と闘って、勝つ為に自分の足を切断してもいいなどと言わせるような環境は間違っています。つまり、障がいになっても、スポーツをすることで身心の健康を保ち、スポーツによるリハビリ的効果により障害が少しでも軽くなる事を目指しているはずなのに、軽くなったと判定されると今までのスターが一気に出場資格なしや補欠になってしまうことに抗議するというのです。良くなったことを喜ぶのではないのです。逆に疾病が進行する障害をかかえている人は、症状が進行したことでメダル獲得に近づくこともあるといいます。でも、それはメダルが取れたらの話で、競技者としてではなく、生活者として考えれば、できないことが増えていくことであり障がいが生活を圧迫していくことでもあります。武士道などとまで言われかねないスポーツの中で、日本の陸上のある選手は「障害の重いクラスで戦いたいと思うのは自然な考え。メダルがある選手とない選手では価値が違ってくる」と話すという記事があります。これが本音なのかもしれませんが、競技者として自分より弱い奴と闘いたいと思うのが自然だなんて思いこむほどにパラリンピックのメダルは人を変えてしまうのです。そんなにメダルに価値があるというなら、クラス分けを細分化して3人しか有資格者が居なくなるようなクラス分けにして、みんなにメダルを与えればいいとなってしまいます。それは、障がい者の子供の世界です。パラリンピックのクラス分けによって出場資格を無くした選手の努力が台無しになると選手は憤っていると新聞記事では紹介していましたが、そんなことは初めから選手も知っていたことですし、選手こそ、障害の種類や程度によって有利不利が生じないようにクラス分けを行うことが出来ないことを知っていたはずです。結局パラリンピックでは、障がいが重い人が軽い人の栄冠のために土台とされてしまうのです。そこには、勝敗を決めるという障害者見世物小屋の営利が深く関わっているからなのです。ただ、同じ日本の選手でも、「体が動くのに、障害の重いクラスで勝とうとは思わない。それはずるいことでしょう」と話し、「最終的には健常者と戦いたい」と言う人もいます。障害の軽い重いは、本人が選ぶことの出来ない疾病です。そんな人たちを敢て戦わせて見世物にするから、勝ちたいという思いが、相手が少しでも障がいが重い方がいいと思ってしまう選手を作り出しているのです。パラリンピックの、営利活動が強化されるほど、勝ち負けがスポーツの本当の目的を失ってしまっている事例になるのです。