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知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

僧侶は、お礼を言わないのが基本の話

    僧侶とは、出家して修行に励み悟りに至る人の事を言います。功徳とは、一般の人が少しでも徳を溜め込んで、死んだときにはそれだけを持って来世へ行くと貯蓄に見合った幸せが買えるという、今で言う極楽浄土へのポイントみたいなものです。そして、僧侶への布施は大事な功徳ポイントとなるのです。僧侶からしてみれば布施を貰ってあげなければ一般人は功徳を積めないことになるのですから、僧侶にしてみれば布施を貰う事が一般人の為なのです。一般人がお布施をした上に貰ってくれてお礼を言う事は礼儀で、僧侶が礼を言う理由は無いと言う事です。もっと言えば読経を三〇分あげたとしても労働ではありませんから、布施は報酬には当たりません。時給いくらなどと考える事が間違いなのです。読経は僧侶にとって修行ですから、修行に対して報酬などと言う事はありません。ですから、読経して頂いたお礼に布施を渡すのではありません。逆で修行僧に貰って頂くことが高い功徳ポイントを貰えるコツなのです。功徳には、五戒と言って悪いことをしないや十善と言っていいことをする善行と言うポイントがありますが、確実なポイントになっているか誰も知りません。来世の事ですから。現在の僧侶が修行に努力しているかは、知りませんが、仏教を一般の人が信仰するようになったことで、僧侶が修行して得られた徳を、辛い痛い思いをしないで僧侶からおこぼれを貰うというもので、立派な修行した僧侶に一杯布施をして功徳ポイントをためると言う事になって仕舞いました。だから、修行しない僧侶の寺に布施を沢山出しても本当は、ポイント溜まらないのです。善行を功徳として閻魔様が認めてくれません。

 現在の僧侶は、自分の出来ない様々な行を語り、一般人の心についてカウンセラーの様な話をしますが、心を落ち着け、自我を見つめるだけでは、今日の心の傷は癒やされません。この複雑すぎる今日で必要なのは真の修行者の言葉ですが、布施をして良かったと思える僧侶には中々会うことが出来ません。僧侶が礼を言わないのは何故と考える事が現在では起きています。それは、貰ってくれることに感謝する人に出会わなくなったからだと思うのです。