知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

言霊としての言語の話

 日本の古来は、自然崇拝です。ですから、崇拝の対象は、自然ですので人工物が礼拝の対象とはなりませんでした。今日のように神社に社があって礼拝するようになったのは仏教という伽藍を含めた人工物が出来たことで真似して作っただけです。山や川、海まして火や風、地震までが人間ごときの作った小さい建築物に入るわけがありません。ですから、規定する宗教とは別物でもあります。その論拠として神社には、教義も教典も無いのです。自然崇拝ですから、自然の中の神や神となった人物と交信して報告したり、お願いしたりするだけのことなのです。自分で、山だろうと海だろうと神を呼び出す祭壇でも設けて話しかければやってきてくれるのです。願いを聞いてくれるかどうかは分かりません。その時神と交信するのが言葉です。古代には言霊と言って言葉には霊力があると信じられていました。例えば相手に攻撃を与える方法として、目に見える手足を使うことも、言葉で攻撃することも出来ます。でも、手足は自分で確認出来ますが、言葉は、見えません。言葉の攻撃で効果があったとすれば、言葉の霊力が耳から相手の体内に入り攻撃したと考えても不思議ではありません。さらに、言葉で自在に人を動かすことは出来ますが言葉を見つけることは出来ません。見えないのに力があるのです。そして、神との交信は言葉です。言葉に何か力が無ければ伝わるわけがありません。現代の電話だって電気が無ければ伝わらないのです。伝わるには、そこに何かの力があるのです。それが霊力と理解しても不思議ではありません。逆に、言葉は危険なのです。武器を使わずして相手を傷つけることも出来る言葉は大変危険なものなのです。昔は、讒言と言って悪口を言って殺してしまうこともあったのです。今日でも、言葉に心を込めるなんて言い方をしますが、それは、言霊と言っていることと同じです。

 日本語が美しいとか、日本語を誉める言葉がありますが、言葉を大事にするという反面は、言葉を恐れたからと思うのです。今だって、言葉で人を傷つけることの方が多いのです。昔の人が思ったように、言葉には聖霊が宿っていると畏怖の気持ちで話さないと知らないところで人を傷つけてしまうと思うのです。