知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

哺乳類でも男は乳が出ないの話

 厚生労働省は、これまで主張してきた母乳に関する認識を改正すると発表しました。内容は、母乳にはアレルギー予防効果がなく、粉ミルクの併用も肥満に影響しないというものです。母子手帳に記載する事項でもある授乳や離乳の支援に関する内容を盛り込む指針の変更で医療従事者向けにひっそりと改定します。ですから、母乳が出なくて苦しんだ人や非難された人への謝罪もなく、なんの問題もないように変更されてしまいます。母乳は、免疫などを含めて母親から受け継ぐことが出来る最良の物で、子供は母乳で育てることが一番良く、母乳で育てるから人間はほ乳類なんだとまで言い切ってきたものです。その為に、疾病だけでなく体質的なものを含めた母乳の出ない母親を散々いじめ、苦しめ、非難してきた元凶の間違った考え方です。にもかかわらず謝罪もしないのです。そして、その基本は今も変わらず母乳信仰なのです。母乳信仰の背景には、男性としての目線が基本にあります。その一つは、母乳でなくても子供は育つと言ったら、育児の手抜きを母親がするかもしれないという不信感です。母乳を与えなければならない期間は、2時間3時間おきですから、母親はゆっくり寝ている暇もありません。当然働きに行くだの、外出するだのの行動は、授乳が最優先として制限することが正当化されてきました。疾病・体質で母乳が出ない人を母親失格の如く非難し、働く母親には、乳飲み子を置いてまで働くのかと責める根拠として、母乳がいいんだと言い続けてきたのです。それが俗世間の迷信的なことであれば時代の変化と共に変えなければならない項目の一つとも言えますが、一部の母乳信仰の医療関係者が信念のように加害者と認識せずに母親に指導するから被害者が出ていたのです。今回の、アレルギー予防効果なしや肥満に影響がないは、最近の研究結果ではありません。逆に今更と思う医療関係者や育児関係者は多い内容ですがこんなにぐずぐずして、謝罪もしないのは、まだまだ母乳信仰者が医療関係者に多いからです。それでも、母乳の良さの過度な強調が養育者を追い詰めているとの指摘が大きくなってきたことが今回の改正へと繋がったのです。問題なのは、赤ちゃんの食事として何が良いかとか、何が駄目かという論議では無く、授乳を通して母子の愛情が湧くとか、母親としての意識が高まるとか、深い絆が生まれると言った精神論や家族関係を絡めてしまうことです。例えば、天皇家だけで無く高級貴族や格式ある武家では、乳人とか乳母という人がいて子どもは実母から授乳して貰っていたわけではありません。ですから、親子の絆が授乳で深まるなんてことは迷信なのです。今日では母乳並みの粉ミルクや液体ミルクがありますが、昔は母乳が飲めなければ家畜の乳を使用したりして苦労していました。つまり、科学の恩恵である人工乳を家族の判断で必要に応じて使用することは当然だと明確に言うべき事なのです。しかし、記事によれは「厚生労働省の授乳・離乳の支援ガイド改定に関する研究会でおおむね了承された」と言うように、まだまだ母乳信仰者の方が幅を効かせているとしか言い様が無い状態なのです。その為、母乳育児は推進しつつ、「少しでも粉ミルクを与えると肥満になる」などの誤解を与えないようにすべきだていどに留めるのですから、母乳が出ない母親攻撃がまだまだ続くとしか言い様がありません。母乳が出ないことで医療関係者から苦しめられるような母親が1人も出ずに、楽しく育児が出来る様にするには、赤ちゃんの食事をどうするかは、家族が決めて、ほ乳類なのに母乳の出ない男でもミルクという手段を使えばほ乳類の一員になれることを明言すべきだと思うのです。

障害者のみを対象にした初の国家公務員試験の障がい差別の話

 人事院は3月22日、障害者のみを対象にした初の国家公務員試験に754人が合格したと発表しました。本人が辞退しない限り、全員を中央省庁や出先機関の常勤職員として雇用するという事ですが、この試験そのものが、省庁の障害者雇用水増し問題を受けて実施されたものなのに、実態は知的障害者足切りをするという差別その物だったのです。なぜかというと、受験資格は、障がい者を証明する障害の手帳を所持していなければならず、試験は、第一次の筆記試験と第二次面接なのですが、第一次の試験が「高卒程度の知識を問う形式」の筆記試験だったからです。高校卒業程度の、知的障害者は殆どいません。何故なら、高卒程度の知的能力を持つ人が、知的障害者を証明する療育手帳を取得出来るかどうかは、かなり難しい判断になりますし、知的障害者療育手帳を取得している人は、高卒程度の知識を障がいによって学習できない事に起因して特別支援の教育を受けています。さらに言うと、特別支援学校の高等部は、高校ではありませんから、高卒の資格は取れません。ですから、この段階で知的障がい者は除外されたのと同様な待遇を受けたと言えます。その証拠に、合格者の、持っている障害の手帳別の結果は、身体障害者319人(42.3%)精神障害者432人(57.3%)、知的障害者3人(0、4%)という状態を見れば明確です。知的障がい者は、知識における障がいですから知識を選考基準に据えられてしまう事は知的障がい者を門前払いをしていることと同じで、中央省庁での障害者雇用の国家公務員統一試験と言いながら国自身が知識という内容で、差別して、門戸を提供していないという事です。この背景を推測すると、公務員の定員枠内に障がい者を入れたくないという意志がくみ取れます。定数枠では、障がい者が一人前の仕事をしなければ、他の職員が業務を行わなければならないということになり、定員減と同じになると言う考えがあるからです。だから、障がい者雇用枠は、公務員の職場に加配職員として配置される非常勤でカウントしたいという本音があって正規職員枠は、仕事が出来る人にしてほしいという明確な意志があるからです。もっとハッキリ言うと、員数外職員でなら障がい者雇用をしても良いけれど、正規となるとそれは困ると言う事がここから見えるのです。人事院は「知的障害者には通過が難しい試験になる」と認めたうえで、今回の統一選考試験とは別に各省庁が実施する個別の採用を通して対応する考えと言っている中身は、法定雇用率遵守のためだけに、非常勤雇用をするから正規職員には、知的障がい者を入れる気はないと国が言っているのと同じなのです。

 試験内容は、公務員として必要な基礎的な能力(知能及び知識)、基礎知識(高卒程度の

知識を問う)で、知能分野15題、知識分野15題、と文章による表現力、課題に対する理解力などについての作文の2つから構成されていると言うことです。そもそも公務員として必要な基礎的な能力が、知能と知識である事からすれば、知的障害者は受験資格すらないにも等しいことです。さらに、仕事内容が各省庁の一般的な行政事務を担うことが前提となっていると言うことも高いバリヤー以外の何ものでもありません。厚労省は、身体も精神も知的も障がいは一緒だと法的にも三障がいを合体させています。その意味で人事院が、「障害者枠」と銘打って公務員を募集するのに、知的障がい者が受からないようなバリヤーを張って何ら、「合理的配慮」をしないことは、差別以外の何ものでもありません。

 国のやり方は、一般の企業の手本となりますから、正規職員は雇用しなくて良い。非常勤で良いと言っていることと同じですし、職場が必要としている能力で試験による差別をして良いと言っていることと同じです。元々、障がい者雇用は、雇用主にとっては雇いたくても適切な仕事が無いから雇用していないという事情があります。それに対して、法定雇用率では、雇用の工夫を求めています。健常者の目線だけで考えているといつまでたっても障がい者は事業活動に組み込むことは困難なので、障害があっても働ける環境を考えて行こうと言うことに尽きます。この考え方からすれば、国は、障がい者が活躍できる場、働ける場を作ろうとしていないと言う事です。パラリンピックに出られるような人ばかりを集めて雇用しようと言う事です。第一、就労というのは、合格は通過点で、その後の長い道のりは、平坦ではないのです。入り口から差別意識丸出しの障がい者枠て合格し公務員として晴れやかに就業した人が、公務員という村社会の中で差別を受けずに仕事を習得できるのか、1年後に何人が継続していられるか心配になります。何故なら、障がい者の権利や差別禁止をにも反した、差別意識を隠したずるをしても法律で定められた障害者雇用率2.5%達成には、4千人程度足りないのですから、後から採用される障がい者にとって「よかった」と思える道筋が形成されていくのか心配だからです。

 

傭兵には大義が無いの話

 今トランプ大統領は、日本の在留米軍の費用を全額払えと言っています。それは、突き詰めると米軍は日本の「外人部隊」いわゆる傭兵になりますと言っていることと同じです。何故米軍が日本に駐留しているかは、簡単ではありませんが、歴史の上っ面だけから単純化してみると、中国・ソビエトの共産圏からアメリカを守る極東前線として韓国があり、後衛補給基地として日本があるだけの事で、共産主義という事に対しての資本主義の盟主として、アメリカの世界覇権防衛上のアメリカの陣地の一つであり、出城だから駐留していると言えます。ですから、アメリカ本土防衛上の前線基地でなければ駐留などしません。戦争という事を真剣に考えている人からすると、本土しかなければいきなり本土が攻撃されることになりますが、本土の周りにバリヤーとしての国があれば防衛は有利になる程度の事です。第二次世界大戦前の植民地の獲得競争では、アメリカは乗り遅れましたが、戦後の防共、いわゆる共産主義体制から資本主義体制を守るという競争では第一位の国として世界の空と海を支配下に置く上で、他国に基地と駐屯するのは、アメリカ自身のためなのです。日本は、戦争で負けなければ他国軍の基地など国内には認めなかったでしょうが、敗戦で、アメリカの占領地となったからアメリカ軍が優先的に制空権も持っているし、基地の自由な使用も出来ているのです。そして、それはアメリカ自身の為であって、日本の為ではありません。つまり、アメリカの覇権の末端に位置する日本は、アメリカの世界戦略に組み込まれ、一要員としての扱いを受けているだけです。ですから、戦後一貫して日本の防衛の、仮想敵国は、旧ソビエトであり、中国であり、北朝鮮なのです。ひっくり返せば、戦争で進軍してきたアメリカに占領されて仲間にされて、喧嘩になったら真っ先に行けと言われて待機しているにすぎないのです。そんな関係ですから、アメリカ軍はアメリカが戦争で勝った国の軍事的支配としてアメリカ軍を配置しているのであって、日本を守るために軍を配置しているのではありません。利益が無ければ撤退します。にもかかわらず、アメリカに利益はないけれど、日本を守っているのだから、防衛費用を払えと言うのは、日本が金で警備員を雇用するという事と同じことになってしまうという事です。警備員なら命と引き換えという事まで要求されませんが、軍人となれば、アメリカ人の血が流れるという事ですから、これは「傭兵」と言わざるを得ないのです。傭兵という言葉は、今日ではあまり聞かれませんが、国民徴兵制度の前は、傭兵はごく普通でした。ヨーロッパの16~17世紀絶対王政の時代は傭兵の時代でもあり、貧しい国の若者が兵士として給料をもらって戦っていました。自国の軍人を常時維持するようになったのは、産業革命後、、国家間の利害の対立が領土や経済的権益をめぐって激しくなり、軍を戦時の時だけ編成するのではなく常時必要としたからです。そして徴兵制度が確立していくのです。自国を守る常備軍を設置したことで、傭兵は姿を消すこととなったのですが、植民地戦争の際に一部「外人部隊」などの傭兵が使用されることもありました。つまり、徴兵と言えども国民による自国の軍というのは、侵略であったとしても国を守るためと言う高い意識がありますから、家族を守るというだけでも命を懸けることへの疑念を持たずに従事します。ところが国が金を貰っているから、他国を命を懸けて守れという事は、軍の誇りを著しく傷つけるものであり、目的意識を失うものになるのです。国際紛争などで派遣される国連軍と言うこともありますがその場合は、人道だとか救済だとか繰り返し「大義」を世界に発信して兵員にアピールしています。また、同盟国だからと言う言い方をする場合もありますが、軍事同盟は利害関係そのものですから、仮想敵国が共通でなければいつでも解消されますし、いつ敵になるかはわかりません。

 アメリカが金が掛かりすぎるから、金を掛けるだけの利益や見返りがないと思うなら、戦勝国としての対応を辞めて、撤退すればいいのです。そうなれば、沖縄の問題も、基地の騒音や関東の空域問題などすべて日本が自立して問題に取り組めばいいことなのです。アメリカ軍が撤退したら、中国が、ロシアが、攻めてくるなどと言う70年も前の妄想にいつまでも縛られることなく、自立した外交で、自国の防衛をその国の国民が考え決定すべきなのです。日本は、アメリカにおんぶしているから、その費用を払うのは当然という言い方で、日本国内では通していますが、他国を守るためにお金を貰ってアメリカの軍を派遣続けることはアメリカの方が大義を失うものとなります。大義のない軍は、国民の支持を失うものになっていくものです。

手足のない児相を強化しても何も出来ないの話

 児相には、介入のほか、子どもや家庭に寄り添う支援の業務もあります。昨年3月両親から虐待を受けて5歳の子が謝りながら殺された事件では、児相が、保護者との支援関係構築を重視している間に起きました。今年1月には、介入の失敗から10歳の女の子が実父に謝りながら殺されました。途端に、政府や行政は、介入と支援を担当する部署を分けるとか、介入時に、弁護士ら専門職の協力を得とか、児童福祉司を二千人程度増員するとか、通告から48時間以内に子どもの安全確認ができなかった場合は、警察と連携するとか緊急対策を決定したり検討していると報道されています。しかし、児相を強化しても児相は、オールマイティーで対応できるようにはなりません。どれだけ児相を強化しても、児相は何時も限界なのです。2017年度に全国の児相が児童虐待の相談や通告を受けて対応した件数は13万件を超えたと言われ、その対応が問われていますが、もし仮にこの中に介入が必要だと思われる児童がいたとして、児相が次々に介入して家庭から分離したとしてもその人数に見合う、毎日の生活を見ていくための具体的手段を児相は持っていないのです。つまり、児相の独自に決められる一時保護施設は、一か月程度しか居られませんし、社会福祉法人の養護施設に児相が勝手に入れられませんから、次から次へ家庭から児童を分離できるものではありません。それだけではありません。児相は、児童の事なら何でも受けますが、子供の事というのは、もれなく回りに大人が存在しています。戦争孤児等がいない日本の子供は単体では存在しません。子供には父母に始まる家族だけでなく、祖父母を含めて大人が常に存在し、この大人の方が厄介な場合が多いだけでなく、むしろ大人が問題を起こして子供が引きずられている場合の方が多いのです。にもかかわらず、児相は児童に対する対応手段しか持っていないのです。例えば、虐待の親を再教育する手段や機能や施設は持っていません。親が貧困や生活保護の場合の生活に関する支援の手段も持っていません。親子を分離しても、子どもが帰るべき環境整備をするための職権も機能も持っていないのです。ですから児相は、今虐待を受けている児童を現場から分離できても、虐待する親の教育をして子供が良かったと思える環境を作ることは出来ないのです。虐待する親に話をすること程度しか出来ないのです。それで親が改心できるはずなど無いのです。だから逆に家に帰すと子供が報復されて虐待が陰湿に繰り返され、次には子どもが帰れなくなるのです。単体ではない子供にマトワリついているお大人を変えなければ帰せないのに、原因となった大人を変えることは児相の守備範囲とされていないのです。児相は大人の他の機関と連携しなければならないことも多く、子ども優先で対応することが出来ない事例は多いのです。緊急的に大人を含めて児相が対応できるなら、児童の環境調整は、子ども本位に対応できますが、他の機関の判断が遅れたり、事態の共有が出来なければその間に進展する事態に児相は何も出来ないのです。だから手足のない児相を強化しても何も出来ないと言えるのです。繰り返しですが、子供は単体では存在しないのです。ですから、現在児相は、子どもという点で対応していて、原因となる大人を含めた面で対応できる機能も手段も持っていないのです。児相は大人用のアイテムも手段も持たずに子どもを救う事例と闘っているにすぎません。課題を持つ大人は、面接やコミュニケーションだけでは変わりません。例えば、しつけと言う逃げ場を社会が容認しています。家庭のことに公的な関与は出来るだけ控えるべきと言う学者がいるだけでなく社会の制度としても親の懲戒権などと言い出す人もいます。現実に今苦痛を与えられている子どもが、いるのに大人は子どもが死なない限り、ああでも無いこうでも無いと虐待の親を援護するかのような偉い人が沢山いるから、子どもを守るという一点に立った施策や制度の構築へ結びつかないのです。躾であっても、苦痛を与えるのは処罰されると否定するだけで子どもは守れます。つまり、躾とはなんぞやなどと言う話では無く、苦痛を与えない方法ならまだ検討の余地はある程度でも良いから、子どもに苦痛を与えることをまず否定すべきなのです。親の権限というものを容認する一定の社会の勢力に児相は対抗できません。そんな大人に適切な対応できる職権や手段や育成設備やプログラムを持たない児相を、手足の無い状態と思うのです。子供の環境を整えるための手足を持たない児相の対応だけで、心身ともに強い、親の権力下に弱い児童が、帰ったところでいいことなどありません。

 

情報源秘匿を死守出来なかった大人の見殺しの話

 10歳の女の子を実父の虐待で死なせてしまうということがありました。この子が死ぬまでの数年間多くの大人がいましたが、狡く、凶暴な父親を前に何度も、救うチャンスがあったのに関与した大人がそれぞれに不適切な対応をしたから見殺しになったんだと報道されています。しかし、私は今回の原因はたった一つだと思っています。それは、情報化時代の中で個人情報を守るなどと騒いでる一方情報源を守るという事が非常に軽くなっているということだと思います。今回の事例では、虐待からの救出作戦ですから、情報統制は当然であるのに、情報源秘匿が何も行われていなかったという事に尽きると思っています。根拠は、アンケートの実施が6日で一時保護されるのが7日という速さです。これでは誰でもアンケートに原因があったと感じます。対象児が幼児ならともかく、10歳なら話も聞けるし対応も出来ますから、普通は、面談調査や事実確認を行って、本人の意志を確認し、緊急度をまず検討します。本人が家へ帰るのは困難だというならその場で保護もありますが、緊急事態でないならば、父親には秘密の緊急用連絡先、支援者がいることを伝え、選択肢の一つとして保護があることを伝え、虐待の証拠集めをまずはすべきです。特に実の親の場合は、躾として虐待を認めず、訴えた本人が報復を受けたり、家庭に居場所がなくなる危険があります。ですから分離救出作戦は、極秘に慎重な準備を進めるものです。ところが翌日には保護されてしまうのですから、突然の保護が父親にとっては、どうして家庭内のことが「ばれたのか」「誰が言ったのか」「告げ口の犯人は誰だ」が一番の課題になり、主訴である娘の苦痛なんて全く考えてもしないと思うのです。実際保護中に8回行われたという面談でも虐待を否定しています。そして、父親は面談で、何故保護に至ったかのその情報は、何だったのかのを詮索し続け、アンケートに娘が何か書いたことが引き金であることを知ったと思うのです。ですから、一時保護解除後には母親を連れて児相ではなく、学校、教育委員会に抗議に行くのです。なのに、学校は、情報源がアンケートであることを認め、アンケートの開示を本人の了解がないと断るのです。つまり、この段階で、父親は一時保護と言う不名誉な恥をかかされた原因が自分の虐待行為ではなく、娘が学校のアンケートにいらぬことを書いたためだとすり替えて確信してしまうのです。告げ口犯人探しをしている父親に、情報源がアンケートだと悟られた時点で虐待事例としての救出作戦は、失敗と言えます。本来、救出は失敗するリスクを考えて行いますから、その情報源が相手に知られてしまうと失敗後は、極端に警戒されて二度と同じ手が使えなくなります。特に内部通報と悟られると、情報源の内容を知っている人は限られますから犯人捜しされれば特定される可能性の方が高まります。虐待者は、情報が外に漏れて自分が加害者であると非難されるのを防ごうとしますから、内部通報者を見つけて口封じすることが優先課題となります。この場合だと、初めに妻を殴り問い詰め、次は娘となります。つまり今回のように本人の訴えの場合は、本人ではなく外部情報であると装い本人からの情報を今後も確保する処置をして対応するのが普通なのです。どんな事情があろうと、本人からの訴えの場合には、加害者が、被害者の口封じなどと言う行為が起きないようにしなければ報復加害行為が増加するのは当然なのです。今回のように加害の父が否定するのは当然ですから、父親が娘に二度と訴えられないように対応する可能性が高いのです。だからこそ、本人が発信できる環境を作らないと緊急事態が発生しても救出できないことが明らかです。にもかかわらず、学校はアンケートの内容を伝えて説得しようとするのです。情報源の死守なんて全くなく、学校に抗議までしてくるような怖い父親に、子供の訴えがあったからと対応の根拠を一番弱い立場の子どもに押し付けてしまうのです。逆に言えば、訴えがなくなれば何も出来ないと証明しているのです。虐待は本人の訴えに関係なく犯罪として傷害罪として対応できます。自己申告罪ではありません。ですから、学校は、本人の同意がないと拒否するのですが、その3日後には女の子の同意書を持ってくる教育委員会に訪れ、まんまと教育委員会からコピーをせしめることに成功するのです。一番弱い立場の女の子の同意など全く関係ないことで、学校は責任回避するのです。私がアザを見たから女の子を問い詰めて学校の判断で通告した、アンケートなど知らないと言いきればいいだけのことなのです。アンケートについても、情報源を守るという事が貫かれていれば、教師として生徒からもらった手紙を他人に見せるつもりはないと断ればいいだけのことです。学校は本人の申請があっても内申書を含めて本人にも開示拒否をすることがあるのに成人していない保護しなければならない児童の秘密に対して本人の同意があればいいなどと言うこと自体が大人の対応ではないのです。アンケートを回収するために全力を出している父親ですから、本人に同意書を書かせるのは簡単で、告げ口をして俺に恥を書かせた証拠品をこうして確保するのです。内部通報制度で一番大切なのは情報源が悟られないことです。絶対に分からないという事が絶対です。それでも、情報の共有者は特定され、その周囲の人間だという事は該当者には推測が出来るものなのです。柏児相が、保護するときに保護の原因を隠すための細工をしなかったことが最大の原因でもあります。情報源を死守するどころか加害者に開示した挙句に、「一時保護に対する怒りを抑えるため」「子供が虐待と感じていることを知ってほしかった」などと自己弁護の言い訳をしていますが、加害者の報復が始まることは普通の感覚なら誰でも分かることです。勝ち誇ったようにアンケートのコピーを面前に置かれたとき、この女の子は、絶望しただけでなく、もうおしまいだとすべてを諦めたと思うのです。そして、お前の性だと父親から責められたとき、一番悪いのは自分だと観念するのです。女の子の心情は、家族として父親に受け入れてほしいです。虐待されている本人は、家庭の支配者がすべてですから、自分の家庭が普通ではないとは思わず、支配者に受け入れてもらう事だけに専念しています。ましてや実の父親であれば、父親に受け入れてもらえるように努力するのは当然です。そして、父親は、本人が悪いから愛情として叱っていると洗脳しているのですから、アンケートに父親の悪口を書いた本人が悪いというのは当然の結果です。悪い子だから父親が叱ったのに、その父親の悪口を他人に云って父親を悪者にするという事は、女の子が悪いことをしたという事に他なりません。家庭の中では、父親が怒るのも無理はないと思わざるを得ない結果になったのです。だから、女の子は、その後口を閉ざすし、傷があれば自分から隠すし、暴力があっても逃げないのです。学校で裸にして身体検査をしてアザがあっても否定します。子供は、父の支配下なのです。それしか知らないのです。父親は否定のまま、本人は怖いと面会を断ったその後帰宅を希望したのは、子供は家族として父親の方を見ているからです。父に受け入れてもらいたいと必死なのです。自分が悪いと思っているのです。ところが、父親には、子供を大切にするという本能はありません。子供は所有物と言う事はいくらでもありますが、子供を大切にするは本能としてありません。父親の愛情は学習によって育成されるのです。ですから、過去にも、現在でも、貧困のために子どもを売り飛ばすなどと言うことは世界にはまだまだあるのです。現に、日本の法律には、親の懲戒権があるのです。それだけに、家庭内の虐待を考える時、被害者本人が訴えた場合は、被害者保護の第一は、情報源を秘匿するという事に尽きるのです。そうしなければ、元の場所へ戻せば確実に報復されます。加害者に外部の者の通報であると被害者に目が向かないような工夫をしなければこのような事件になるか、子供は帰る場所を失うことになるのです。

「すごい木」選考会の話

 百年に一度しかないという「すごい木」の選考会がありました。

会長のモミの大王が、

「では、始めます。すごい木の推薦をお願いします。」と言いましたが、だれも手を挙げません。しばらく待ちましたが、だれもが空を見上げています。

モミの大王は、

「情けないことですが、会長なのに私が推薦する木は、実は一本もないのです。ごめんなさい。誰か、推薦してもらえませんか。」というと

桜の大王が言いました。

「100年前には、私は三本も推薦できたし、選ぶのが大変だった。でもな、近頃は、切られたり、枯れたり、散々なんだよ。前に、推薦した三本も、一本も残っていないし、会長と同じだよ」

「同じた」とカシの大王も言い出しました。

「この100年で、山の木は、切られてしまった。第一、木が立っている場所なんかなくなっている。俺様だって、いつまで立っていられるか」

 空を見上げて、

「ちぇんそーはすごいね。昔は切られる木も大変だった。のこぎりや斧でギリギリとやられるんだ。痛いのなんのって。最後にはひどい悲鳴を上げていた。ちぇんそーは、一瞬だよ。一瞬。百年頑張ったって一瞬。あっという間に、薄暗い森が、太陽サンサンだよ。」

 と言って空を見上げながら涙を流していました。

少し間をおいて

「私もだ」と杉の大王も言い出しました。

「100年前は、どうしても表彰したい木が、10本もあった。次回には必ず推薦する約束で待たせるぐらいだった。なのに、待たせたその木も、切られたり、土地開発で弱くなった地盤なんでもない災害だったけど倒れてしまった。残っちゃいない。」と空を見上げました。

「山や森の話だけじゃない」とイチョウの大王が話しだしました。

「秋には、紅葉並木だ何だと騒ぐけど、普段の並木なんてコンクリートに覆われて、息も絶えだえで、狭い地面の植木鉢に入れられて道路に並べられているようなものさ。空気は悪いし、雨が降ってもこっちが吸う前に側溝とやらにみんな逃げていく。その挙句、いきなり電線の邪魔だ、信号が見えないと、丸裸ぐらいまで切られてしまう。もう、限界なんだよ。元気な木を探す方が、くたびれてしまう。」

クスノキの大王が、続けて

「そう、街路樹なんて言われて、駅前で立っていると、ヒヨドリのやつがやってくる、それでうんこをするというだけで迷惑だ、迷惑だと、ヒヨドリが来ない様に、丸太みたいに、枝を切られるし、スピーカーを取り付けて音を出すし、眠ることも出来ない。精神的に追い詰められているよ」

「それなら、俺も同じさ、」とヒノキの大王が

「俺なんて、クリスマスシーズンだとなると、一か月もの間、イルミネーションなんてキラキラにされて、じわじわと熱いし、眠るなんて全く出来ないよ」と

ぐったりと枝をさすりながら、ヒノキの大王は、空を見上げました。 

黒松の大王が、大きな息を吸ってから言い出しました。

「俺たちは、岩を砕いて根を張るし、潮風にも負けない。なのに、外国から来たあの小さな松くい虫にやられてしまう。渡り鳥には気をつけろとは言っていたが、今は何がどうしてやってくるかもう予測もつかない。どうしたらいいのか、分からない」

と言って空を見上げました。

槇の大王は、

「俺たちは、人間に好かれて、人間が好きな形に枝を切られても曲げられても我慢してきたけれど、家の建て替えなんて言い出すと、あっさりバッサリ切られて、もう、庭で見てもらうなんてことなくなったよ。見てほしかったら、盆栽になれ。てことさ」

樺の木の大王は、

「山や並木だけじゃない、みんなくたびれている。風や雨、雪にも耐えられるような木はもう少ない。空からは、あの酸っぱい雨が降ってくるし、暑かったり寒かったり、もうお天気までが俺たちをいじめてるって感じ」というと空を見上げて、

「もうこの会議の大王たちだって、次回は会えないんじゃないの」

とじろりとみんなを見渡しましたそして

「雨降れ、雨降れ、百年前と同じおいしい雨降れ」と謳いだしました。

「俺も体がムズムズ息苦しい。次回はもうこれない。ただ、後継ぎがいないんだよ。俺の代でしまいなんだよ」

 と桐の大王は、空を見上げながら、

「本物の木が立っているところなんてもうない。すごい木なんて夢だよ。この会も、今日が最後になったと、みんなに言えばいいさ」と、顔を上げたまま

「しょうがないんだ」と言いました。

 

そんな大王たちが見上げた空には、100年前と同じ雲が、ゆっくりと流れながら、

「人のいなくなった村なら、立派な記念樹が育っているよ」と言いました。

 

系統樹から生命の誕生は消え、新しい種は出てこないの話

 ほっておくと悪さをするのがホモ・サピエンスです。正当性を述べながら、自分の利益ばかり考えて行動しているのもホモ・サピエンスの特徴で、集団行動するたびに、知らず知らずに他人まで巻き込んで、悪さの片棒を担がせます。日本の戦前は、今の北朝鮮並みに酷かったのに、国民全体が戦争に連れていかれました。戦後に気づいたとしても再びろくでもない人に振り回されてもいます。地球の最強生物として地球を制覇したのにゆとりもなく、敵が来るという妄想から抜け出すことが出来ないのが、ホモサピエンスなのです。ホモ・サピエンスの子孫は、この200年位で生活を大きく変化はさせましたが、裸のひ弱な人類の種の一つとして誕生し多くの捕食者を含めた敵におびえていた数十万年前の恐怖から今だに抜け出すことは出来ないのです。その、ホモ・サピエンスの不安感が、地球を痛めつけすぎて、新しい種が発生する機会が無いほどに傷つけてしまったとも言えるのです。進化は、世代のように受け継がれていく間に起こるものではなく、たくさんの種が発生する中で、残っていくものの中で起こります。ですからこのままずっと時間が立てば、ホモ・サピエンスが進化して新しい種に変化していくと期待していたなら間違いで、進化した種は全く別のところで生まれるということです。分岐分類学というところが作成した、系統樹という図を誰もが見たことがあると思うのですが、進化の関係を樹木状に表現した図で、共通する祖先から、枝分かれしたとされるものです。そこでは、系統の分岐と枝の長さ・高さで、進化の程度や時間経過を表しているのですが、これは現在残っている生物を遡っていくと、という前提で見なければなりません。本当はもっとたくさんの枝があるのですが、すでに絶滅してしまったものや確定出来なかったものを除いてわかりやすくしているだけの物という条件で見なければなりません。化石などの形で残っていないものは空想も出来ないのです。この系統樹で学習すると、簡単には、私たちホモ・サピエンスは、ネアンデルタール人の進化系だなどと勘違いしますが、そんな順番で進化するものではありません。誤解する人は、私たちの中から次の人類が生まれてくると勘違いしてしまい、超能力の子供が生まれると間違えてしまいますが、そんなことにはなりませんし、もし、次の種が生まれるのなら、ホモ・サピエンスが生き残れるのかは不確実です。猿の惑星ではありませんが、新しい種は、地球の片隅のどこかで突然のように生まれ、私たちホモ・サピエンスを駆逐していくかもしれないのです。新しい種は、数万年と言う地球の時間の中で出現していますが、新しい種が生まれる環境を、ホモ・サピエンスの子孫は、この200年程度の時間の中で地球規模で破壊するという行為を行い、アフリカにも、アメリカにも、ユーラシアにも新しい人類が生まれるような条件を著しく低下させました。もっと言えば、自分たちでさえ生き残れないのではないかというぐらい、地球をいじめているとも云えます。絶滅と誕生を繰り返した地球の生命の歴史は、新しい種の誕生を待たずに現生物で終わろうとしているかもしれないのです。ホモ・サピエンスはヒト属で唯一現存している種とされ、他の種は全て絶滅していると言われています。逆に言うなら、奇跡的に地球に生かされてきたということも出来ます。それなのに、お礼を述べるより先に地球に仇なすことをしているのですから、ほっておくと悪さをすると言ってもいいと思うのです。しかも、地球の活動の中で、多くの生物が死に絶える中、1000組から1万組程度しか残らなかったという夫婦の子孫が、こんなにはびこったと言われています。ホモ・サピエンスは、ネアンデルタール人などよりずっと地球にかわいがってもらったのに、新しい新種の人類が発生できないまでに地球を痛めつけています。系統樹に命があるとするなら、新しい種が誕生する環境は失われ、生命の樹は、枯れたとも言えます。