知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

手足のない児相を強化しても何も出来ないの話

 児相には、介入のほか、子どもや家庭に寄り添う支援の業務もあります。昨年3月両親から虐待を受けて5歳の子が謝りながら殺された事件では、児相が、保護者との支援関係構築を重視している間に起きました。今年1月には、介入の失敗から10歳の女の子が実父に謝りながら殺されました。途端に、政府や行政は、介入と支援を担当する部署を分けるとか、介入時に、弁護士ら専門職の協力を得とか、児童福祉司を二千人程度増員するとか、通告から48時間以内に子どもの安全確認ができなかった場合は、警察と連携するとか緊急対策を決定したり検討していると報道されています。しかし、児相を強化しても児相は、オールマイティーで対応できるようにはなりません。どれだけ児相を強化しても、児相は何時も限界なのです。2017年度に全国の児相が児童虐待の相談や通告を受けて対応した件数は13万件を超えたと言われ、その対応が問われていますが、もし仮にこの中に介入が必要だと思われる児童がいたとして、児相が次々に介入して家庭から分離したとしてもその人数に見合う、毎日の生活を見ていくための具体的手段を児相は持っていないのです。つまり、児相の独自に決められる一時保護施設は、一か月程度しか居られませんし、社会福祉法人の養護施設に児相が勝手に入れられませんから、次から次へ家庭から児童を分離できるものではありません。それだけではありません。児相は、児童の事なら何でも受けますが、子供の事というのは、もれなく回りに大人が存在しています。戦争孤児等がいない日本の子供は単体では存在しません。子供には父母に始まる家族だけでなく、祖父母を含めて大人が常に存在し、この大人の方が厄介な場合が多いだけでなく、むしろ大人が問題を起こして子供が引きずられている場合の方が多いのです。にもかかわらず、児相は児童に対する対応手段しか持っていないのです。例えば、虐待の親を再教育する手段や機能や施設は持っていません。親が貧困や生活保護の場合の生活に関する支援の手段も持っていません。親子を分離しても、子どもが帰るべき環境整備をするための職権も機能も持っていないのです。ですから児相は、今虐待を受けている児童を現場から分離できても、虐待する親の教育をして子供が良かったと思える環境を作ることは出来ないのです。虐待する親に話をすること程度しか出来ないのです。それで親が改心できるはずなど無いのです。だから逆に家に帰すと子供が報復されて虐待が陰湿に繰り返され、次には子どもが帰れなくなるのです。単体ではない子供にマトワリついているお大人を変えなければ帰せないのに、原因となった大人を変えることは児相の守備範囲とされていないのです。児相は大人の他の機関と連携しなければならないことも多く、子ども優先で対応することが出来ない事例は多いのです。緊急的に大人を含めて児相が対応できるなら、児童の環境調整は、子ども本位に対応できますが、他の機関の判断が遅れたり、事態の共有が出来なければその間に進展する事態に児相は何も出来ないのです。だから手足のない児相を強化しても何も出来ないと言えるのです。繰り返しですが、子供は単体では存在しないのです。ですから、現在児相は、子どもという点で対応していて、原因となる大人を含めた面で対応できる機能も手段も持っていないのです。児相は大人用のアイテムも手段も持たずに子どもを救う事例と闘っているにすぎません。課題を持つ大人は、面接やコミュニケーションだけでは変わりません。例えば、しつけと言う逃げ場を社会が容認しています。家庭のことに公的な関与は出来るだけ控えるべきと言う学者がいるだけでなく社会の制度としても親の懲戒権などと言い出す人もいます。現実に今苦痛を与えられている子どもが、いるのに大人は子どもが死なない限り、ああでも無いこうでも無いと虐待の親を援護するかのような偉い人が沢山いるから、子どもを守るという一点に立った施策や制度の構築へ結びつかないのです。躾であっても、苦痛を与えるのは処罰されると否定するだけで子どもは守れます。つまり、躾とはなんぞやなどと言う話では無く、苦痛を与えない方法ならまだ検討の余地はある程度でも良いから、子どもに苦痛を与えることをまず否定すべきなのです。親の権限というものを容認する一定の社会の勢力に児相は対抗できません。そんな大人に適切な対応できる職権や手段や育成設備やプログラムを持たない児相を、手足の無い状態と思うのです。子供の環境を整えるための手足を持たない児相の対応だけで、心身ともに強い、親の権力下に弱い児童が、帰ったところでいいことなどありません。