知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

就労猶予・就労免除の話

 過去に、障がい者は、教育を受ける権利がありながら、就学免除・就学猶予として差別されてきました。その理由は、費用が掛かりすぎるからです。今の特別支援学校は、普通学校の何倍も費用が掛かっています。障害が重いクラスでは正確ではありませんが5人に1人ぐらい教員が配置されます。進んでいる普通学級体制でも生徒30人に教員1人がやっとですから、教員の人件費だけでも6倍も掛かることになります。つまり、人権はお金がかかるのです。だから長く、就学猶予と就学免除という事を平然と続けていました。同様に、障害者の就労にも、実はお金が掛かるのです。ですから、今も就労猶予と就労免除の政策が続けられています。

日本国憲法第27条1項は、「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う」としています。 これは、「国民の三大義務」のうちの一つで、他の二つは「教育を受けさせる義務」と「納税の義務」となっています。この憲法通りに読めば、障害者も働けと言っているのですが、働かせる方が金が掛かるので、納税しなくていいから、働かなくくてもいいから、免除するから自分のことぐらいは自分で何とかしてねと言うのが今日の政策です。つまり、納税できる障害者にすることが政治の義務ですが、障がい者が働きたいという希望があっても働けるように整備するには膨大なお金が掛かるから、費用対効果が低いから、義務を果たさなくていいから、保護してあげますと言い、それでも働きたい人は、自立と言う言葉に変換して自分の努力を強調しているのが続いています。障がい者差別をなくそうという事を誰でもが言いますが、福祉関係者であっても、障害があって働けないのだからそれは差別に当たらないと考えています。つまり、運転免許を持っていない人を運送会社が雇わなくてもそれは差別ではないという論理です。この論理で言うと障がい者が出来る仕事がないから雇用しないも差別ではなくなります。同じように、社会には、出来ないことを強制する方が虐待で、出来ないことを認めて「やらせない事」は差別に当たらないとして社会の様々な仕組みや職種などが障がい者の排除を正当化します。障がい者が働くことは本当に必要なのか。生活費を保証すればそれでいいことなのか。となると差別に反対している人でも意見が分かれます。もともと障がい者が働きたいと希望すること自体が、邪魔になる、足手まとい、返って手間がかかると邪険にされた経験から、障害者でも訓練すれば働けるを証明するために施設で訓練するという時代が続きました。現代の制度もその延長にあります。実際、就労は会社にお願いするというのが現実です。学校で実務実習をしたり十分訓練しましたから、お世話掛けますが面倒見てくださいが基本になっていますし、何かあれば辞めさせられても文句は言いません方式が現状で、障害者が労働組合に守られることも限定されています。考え方として、障害があっても働いてもらうではなく、障害者でも働けるを実現することが福祉関係者の原点になっていますから、障害が重い人は、働くことが出来ないのに、働かせる必要があるのかとなるのは当然です。一日をのんびり楽しく暮らす方法があるならそれでもいいのではないか。それが障害者の権利を守る事ではないかと考えます。ですから、工賃向上や就労を積極的に行う考え方の施設は異端とされるのです。福祉事業は、障がい者の為なのだから、障がい者本人の調子に合わせた程度の仕事ぶりが適当で、顧客相手に考える儲けや工賃向上を優先することは否定されます。逆に、仕事を通じて自立できる障害者は、福祉事業を嫌っていますし、福祉事業との関わりを持ちません。結果として福祉事業の対象となるのは、重度者であり社会基準から見たなら働けない人と言うことになり、働けない人を労働者にすることよりも、働いているという幻想が抱かれる程度の仕事提供が適切であると考えらてしまうのです。しかも、工賃向上といっても月額3万5万の話であり、障害者にとって幸せなのかと言う疑問とお金よりも大切なものがあるという思いや職員が生産を優先して障害者支援が疎かになると言う事の方が問題だともされます。そこで「働きたい」と言う障がい者の要求を認めるべきと反論しても、「働きたい」が一時間なのか、自己満足の範囲なのかなどと論争になれば、現状の生活介護施設で散歩していても「働きたい」を実現しているという事になってしまいます。障害が重ければ働けない、自立と言っても限界がある。と現実を並べ立てます。だから、言わざるを得ません。憲法にだって働かせろと書いてあるのだから、就労猶予や就労免除は、差別の繰り返しで、働けないではなく、働けるようにするにはどうしたらいいかを具体化しなければ差別が続いているにすぎないと。企業は罰金と雇用経費を天秤にかけているだけですし、地方の行政は、とにかく障害の重い人をどこかの福祉業所を押し付ける施策にしがみ付いていることが見られます。障害者差別をなくそうというのなら、国民として教育が受けられるようになったのなら、次は、国民として働いけるようになることだと思うのです。