知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

苦しんで死んでくれと言えない被害者の話

    絞首刑は「残虐で非人道的で違憲」と死刑囚3人が国を提訴したと言う記事が掲載されました。原告の3人は2000年代以降に刑が確定している死刑囚で、絞首刑では死亡までに時間がかかることで苦痛を与えるほか、「遺体が激しく損傷する恐れがある」と主張し、「必要以上に身体的、精神的な苦痛を負わせている」と代理人の弁護士は話しました。しかしこの事に関しては、2009年に大阪市此花区のパチンコ店で起きた放火殺人事件の刑事裁判で大阪地裁判決で「死刑囚は多少の精神的・肉体的苦痛は甘受すべきだ」として憲法に違反しないと判断し、最高裁でも確定しているとされている事です。それに、日本では一人の殺人では死刑にならず複数の殺人や凶悪な犯罪の複合でなければ死刑にはなりません。逆に言うとこの三人の死刑囚に殺された複数の被害者がどれほどの苦痛を受けて死んでいったかを思えば、遺族だって「同じ目に合わせてやりたい」が普通の感情としか言えません。こんなことが死刑前の抵抗として出来るのも、裁判中は死刑執行を行わないと言う慣例があるからだと思うのですが、すでに死刑は確定しているのに死者を弔うどころか自分の延命の為に起こした裁判が、死刑のやり方が苦しいから嫌だは何とも自分勝手としか言えないと思うのです。三人の死刑囚が、被害者をどのように殺害したかは3人の犯した事件内容が明示されていませんので分かりませんが、憶測だとしても、誰も死にたくなかったと思いますし、苦痛なく死んだとは思えません。被害者は、突然死に向かうことになった事に、精神的にも肉体的にも相当の苦痛の中で死んでいったとしか思えませんから、仮に死んだ被害者に聞くことが出来たなら、自分と同じ目に合わせたいと思っているとしか思えません。であっても被害の自己救済は法制上認められていないだけでなく、法治国家は加害者の方が法に守られていると言う事が起きているのです。日本の法制度では、被害者が権利を侵害されたとしても国家権力以外は処罰できない様になっています。つまり、被害を受けている事に対して自己救済として相手と渡り合う事は禁じられていて、被害者にどんなに力が有ろうと、自力で被害救済をすると逆に処罰されてしまいかねないという事です。テレビドラマでも、復讐に燃える被害者に対して刑事が裁きは国が行うと説得するのはこのためです。この国家権力による裁定という事には長い歴史があって法の制定と法の執行が国家権力の基本ともなっています。それはそれで意味のある事なのですが、今日では加害者が居直るなら加害者に有利な場合が多いという事もあるのです。つまり、法律に守られていると言うのは実際は社会秩序であって個々人の被害者救済ではないというのが法治国家なのです。刑事では、冤罪と言う大きな課題がある事から加害者に対して慎重であることは当然です。死刑囚にあっては、執行までの期間の心理的圧迫や家族以外には面会できない事などの様々な論議はありますが、死刑の方法は密やかに厳かに儀式として行われていると言うことを信じるしかありません。過去ならば、見せしめとして公開したり、出来るだけ苦しめる方法がありましたが今は死刑の実態は公開されてもいません。ですから、絞首刑により実際に意識があって苦しむことがどれほどなのかも分かってはいません。当然裁判を起こした三人の死刑囚も弁護士も推測で苦痛だとしか言っていません。ですから、他者に過大な死と言う苦痛を与えていながら、根拠もなく自分が苦痛だと訴えるのは、ただ延命を図っているとしか思えないのです。この事件の被害者の遺族は「苦しんで死んでくれ」と言わないと思いますが、加害者の身勝手に同意する事は無いとしか思えないのです。刑罰そのものが犯罪防止の抑止効果として今日では拘束する事で見せしめとしています。更生指導と言う面を強調もしますが、それは犯罪者個人の事で、再犯率からすれば、犯罪者個人に対しての効率は著しく低いものです。ですから、刑務所に入れられるという事での社会的犯罪抑止効果が効いているだけで、被害者に対しての救済的内容は基本ないという事です。つまり、国家が被害者に変わって復讐してくれるわけではないという事が明確なのです。それどころか、被害者が、犯罪者に対して復讐させない方法として拘束して守っているという事も出来ます。死刑囚の三人が集まって話し合うなんてことは出来ませんから、正義の使者のような振る舞いをしている弁護士が主導しているとしか思えませんから、死刑囚までも利用して何をしたいのか疑いたい裁判としか言いようがありません。