知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

便乗差別意識の工賃を下げた法人なんか消えてもいいの話

 福祉情報の中に、コロナウイルス被害として、福祉事業所が仕事がなくなったので、利用者の工賃を、3万円から3千円に下げなければならなかったので保証を求めているという資料を見ました。被害者が障がい者であるという事を前面に仕立ててあたかも社会福祉法人までが被害者面する社会福祉法人なんてつぶれた方がいいと感じました。仮に利用者定員が50人だとして、3万円に50人をかけて、1か月で150万円、1年で1800万円の工賃支給あると言う事です。です。施設は、授産施設の時から相手が倒産して未収金が発生しても利用者に迷惑を掛けないように、あるいは景気の動向により受注が激減した時に、利用者に動揺を与えないように、工賃の危険準備金の積み立てが出来る様になっています。しかも、1年に工賃として1800万円払える収入があるのですからその5%90万円程度を毎年積み上げていけば、5年で450万円程度の積み立てが出来、3か月は工賃を下げなくても持ちこたえられるはずです。それぐらいの経営感覚は社会福祉法人だとしても必要です。工賃は、その時に働いていた利用者のものですから1度に沢山積み立てに回すことは出来ませんから、ほんの少しずつ失業保険並みの保証が出来る様にして置かないと何かがあった時に障がいを持つ利用者を守ることなど出来ません。この法人はなんの対策もせず。一番最初に荒波にさらわれてしまうところに利用者を置いてきぼりにしたとしか思えず、納得できないことです。そしてもっと、怒ってしまうのは、この法人では、職員の給与も、カットしたとは書かれてい無いからです。自分たちの給与はカットされないのに、そこに働く障がい者は90%カットなんて福祉法人が行ってはならない行為だと思うのです。その行為は、福祉に従事しながら、障がい者差別を平然と行っているとしか思えない行為です。法人が、給与カットをしないのは職員には生活があるからとか、労働法に守られているからと言うかもしれませんが、工賃3万円の利用者だって、生活が掛かっているということがなぜ分からないのかと言うことです。もし仮に仕事がなくなったから収入がなくなったからと、企業が最初に障がい者の首きりを行ったらこの施設の人たちは仕方がないと思うのでしょうか。施設の収入がなくなったから、どうせ工賃は生活がかかっていないから10分の一でいいなどと判断する社会福祉法人なんておかしいと思うのです。障がい者の自立を考えた時、金額は少なくても障がい者が自立生活を計画する中では生活の掛かった非常に重要な収入です。ですから、工賃が下がらないように努力するのは法人の義務です。仕事がなくなったのだから仕方がないでしょと、抗議も出来ない利用者の工賃を真っ先に下げるなんてあまりにも無責任です。こんな法人に限って、普段は障がい者の自立を応援している、工賃の努力をしているとアピールするのです。緊急事態になっても利用者を支えている社会福祉法人から見れば、化けの皮がはがれた様な状態です。障がい者の出来る仕事なんかありませんと言う企業に何でもいいから雇用しろしないのなら罰金を取るというのが障がい者雇用率です。つまり、仕事がないのなら作ってでも雇用しろと言われているのと同じです。それでも多くの企業が努力して雇用しています。このコロナの時期に仕事がなくても障がい者を解雇したなら非難されるかも知れないと我慢している企業もあるやも知れない中で、福祉事業者が真っ先に利用者の工賃を下げたと聞けば、いい口実にさせられてしまいます。福祉法人こそ、この事態に利用者を真っ先に守らなければなりません。出来ないのなら福祉の旗を上げるべきではありません。被害者面するべきではありません。こんなやり方は、障がい者を成人の1人としてみていない差別意識があるからですし、組合を作ってでも抗議できないことを知っているから出来ることなのです。それはみんな見下した意識だと思うのです。利用者に対して、工賃を簡単に下げてしまうことが出来るのは、新型コロナにうまく便乗した、便乗差別としか思えないのです。だから、こんな社会福祉法人なんか消えてもいいと思うのです。

 

障がいクラス分けに憤る人の見世物観の話

 障害の程度を公平に分類することなど出来ません。障がいほど個別性が高く違いも大きいのに、パラリンピックでは戦わせるために、何とか公平感を出そうとクラス分けが行われます。つまり、競技として成立させるためには、どこかでラインを引かなければ不公平な戦いになるとのことから、大きくは男女、健常者と障がい者となって、障がい者はその障がいの程度が近い人で戦わせるということなのです。その結果、陸上100メートルは男女29種目もクラス分けが出来てしまいました。そこには、健常者であってもほんのちょっとの精神心理の強弱が競技に影響するように、障がいの程度は勝敗を大きく左右することになるからです。こんな事例が新聞には紹介されています。パラ水泳のある人は最も軽いクラスにいたので東京パラの選手としては出場も危うかったのですが、進行性の病気だったので、検診により最も重いクラスに変更になりました。すると同種目のタイムとしては世界ランク2位になりパラ出場確定となりました。ここには、本人の努力とか障がいを克服してなどの心地いいテレビ番組によくある仕立てられた障がい者像とは違って、ちょっとした障がいの解釈が、パラリンピックに出られるか、メダルを取れるか程の違いがあることを証明しています。最も問題なのは、障がいの程度を戦わせるために分類しようということです。障がい自体が個性的で類似者を集めても違いが大きいのに、出来るだけ戦力が均等になるようにクラス分けしたいというのは、見世物として戦わせるということがあるからです。勝敗に拘らないスポーツとしての競技ならそんなことは必要ではありませんし、不公平だと目くじらを立てる人もいません。本来、障がい者をそのスポーツの種目のために公正にクラス分けすることなど、出来ないことであり、出来ることがいいことでもありません。パラリンピックと言うニンジンに群がる障害者に、少しでも自分より障がいの重い人と闘っても勝てばいいというだけになってしまいます。新聞に紹介されたイギリスの車いすバスケットのエース選手は、程度が軽いく資格を失うという通告に、「最終手段として足の切断も選択肢にある」と言ったとされていますが、スポーツの目的など飛んでいます。病気があると言っても、自分より、障がいが重い人と闘って、勝つ為に自分の足を切断してもいいなどと言わせるような環境は間違っています。つまり、障がいになっても、スポーツをすることで身心の健康を保ち、スポーツによるリハビリ的効果により障害が少しでも軽くなる事を目指しているはずなのに、軽くなったと判定されると今までのスターが一気に出場資格なしや補欠になってしまうことに抗議するというのです。良くなったことを喜ぶのではないのです。逆に疾病が進行する障害をかかえている人は、症状が進行したことでメダル獲得に近づくこともあるといいます。でも、それはメダルが取れたらの話で、競技者としてではなく、生活者として考えれば、できないことが増えていくことであり障がいが生活を圧迫していくことでもあります。武士道などとまで言われかねないスポーツの中で、日本の陸上のある選手は「障害の重いクラスで戦いたいと思うのは自然な考え。メダルがある選手とない選手では価値が違ってくる」と話すという記事があります。これが本音なのかもしれませんが、競技者として自分より弱い奴と闘いたいと思うのが自然だなんて思いこむほどにパラリンピックのメダルは人を変えてしまうのです。そんなにメダルに価値があるというなら、クラス分けを細分化して3人しか有資格者が居なくなるようなクラス分けにして、みんなにメダルを与えればいいとなってしまいます。それは、障がい者の子供の世界です。パラリンピックのクラス分けによって出場資格を無くした選手の努力が台無しになると選手は憤っていると新聞記事では紹介していましたが、そんなことは初めから選手も知っていたことですし、選手こそ、障害の種類や程度によって有利不利が生じないようにクラス分けを行うことが出来ないことを知っていたはずです。結局パラリンピックでは、障がいが重い人が軽い人の栄冠のために土台とされてしまうのです。そこには、勝敗を決めるという障害者見世物小屋の営利が深く関わっているからなのです。ただ、同じ日本の選手でも、「体が動くのに、障害の重いクラスで勝とうとは思わない。それはずるいことでしょう」と話し、「最終的には健常者と戦いたい」と言う人もいます。障害の軽い重いは、本人が選ぶことの出来ない疾病です。そんな人たちを敢て戦わせて見世物にするから、勝ちたいという思いが、相手が少しでも障がいが重い方がいいと思ってしまう選手を作り出しているのです。パラリンピックの、営利活動が強化されるほど、勝ち負けがスポーツの本当の目的を失ってしまっている事例になるのです。

 

母親出てきてこんにちはの話

   機会があって、高卒1年半の職員がうつ病になったことで、二人の母親と面談することになりました。二人の娘は、同じ部署で、仲良く二人で連れ立って訪れた病院でうつ病の診断書を貰い、事務に提出しましたので、この後どうするのか尋ねると、事務がやり方を教えてくれない、教えて欲しいと言うので、医師がどんなつもりでこの診断書を出したのか良く聞いて下さいと伝えたら、後日それぞれの母親から、まだ勤め1年半程度で詳しいことなど分からないのだからどうしたら良いのかちゃんと教えるべきだと言うので、行動は本人達が起こしたことだし、申請方式だから、何を申請したいのか明確にしてくれないと答えようが無いと回答しました。すると、すさまじく怒って、病気になったのはそっちの性で、こっちは被害者なのに何という態度だと言う調子で、一人の親は電話の側に控える娘に何度も確認しながら、話したことまで聞いていないと言い出すので、話したときの二人と面談して確認すると言うと、母親が、私も行って良いですかと聞くのでどうぞと返しなから、父親まで来てくれれば丁度良いのにと思いました。当日は、母親達はそれぞれに、子ども達は経験が無いのだから教えるのが当然で教えない職場が悪いと繰り返します。こんな風に娘が職場でどんな位置にいるのか、組織はどう評価しているのかも推し量ることなく、母親と言うだけで、娘は被害者だと言い出す様な人に、どんな親切に対応しても、後日少しでも不利なことがあったら、助言が悪い、教え方が悪いと責任転嫁されかねないので、労働法に則って何を申請するのかちゃんと自分たちで決めてから相談すべきと繰り返しますがそれが通じません。話し合うほどに、職場の悪口になり職場は職員を守る義務があると譲りません。この二人は何しに来たのかなと話しをしながらつくづくとおもいました。どんなに職場の悪口を言ってもいいのですが、職場は学校のように授業料を頂いている立場ではなく、働きに応じて給料を払うだけで、ノーワークノーペイが原則で、長期に亘って休職したいという職員に対してそんなに親切なわけがありません。しかも、職場に相談もなく勝手に病院に行くなど自分から行動を起こしているのですから、最後まで受動ではなく能動で調べて行動すべきとしか思えないのですが教えることが職員を守ることだと言い張るのです。職場は、公平は求められますが、平等ではないということも分かっていませんでした。そしてどこの職場だって職員に不満を聞けばいくらでも出てきますから、病気になった原因が職場にあるというのなら、労災として申請すればいいし、休みたいだけなら、有休休暇を使う方法もあります。休職は、通常無給ですから、それでも良いのなら、傷病手当を受ける方法もあります。しかし、どの方法も一長一短あって、不利益が発生することがあります。それだけにどの方法にするかは自己決定が最も優先されます。しかもそれは中立の方、つまりは社労士とか労基とか相談しないと難しいことです。職場としては職場にとって都合のいい説明しか出来ないことは当然のことですから、本人の申請に基づいて事務手続きをするしかないのです。聞きながら、職場の問題をこんなに並べて、この親のストレス解消にはなったとしても、休んだ後で、職場に復帰するつもりで娘がいたのなら、どうするつもりなのかとしか思えませんでした。客と店のトラブルならもう二度会うこともないからと嫌な時間が過ぎればいいと待てばいいのですが、この後仕事に来るのは、本人で母親が付いてくることは出来ません。当然上司としては同一部署で同時に疾病が発生は困惑の対象ですし警戒もします。周りも親が乗り込んで来たんだと面倒な人と風評は流れます。二人の親は延々と職員を守る義務があると言いますが、お二人のその行為が、ますます我が子が守られないことになるのではないかとしか思えないのです。話す内容が、我が子の面倒を見てくれていないと訴えているようにしか聞こえないのですが、学校のいじめの様な問題ではなく、職場ですから職場として労基に基づいて最善を尽くしていますとしか言いようがありません。ついには、そんなに面倒見が悪いところに拘る必要もないのではと言葉が出てしまうと、改善する気もないと非難します。あなたのお子さんの面倒を見るために改善するつもりはないと口まで出かかるし、別段引き留めたい人材でもありませんとも言いたくなってしまいます。母親たちの言葉は、普通辞めるときに言う台詞としか思えないだけに、悪口・嫌みを言い改善しないと非難して、休みが明けたら出勤させるということも理解しがたいことでした。同席した娘本人は、就業規則も、病院もちゃんと調べ、2人で行った。診断書を出せばいいと言われたから出しただけだと言う。スターとするならゴールはどこときちんと設定すればいいと思うのですが、診断書さえ出せば後は職場が面倒見てくれると思っているようです。親も子も労基法に、自分たちは守られていると思いこんでいますが、労基法は労使が対等ですから、双方に義務と責任があることが分かっていません。職場に、いきなり診断書を突き付けて明日から休みますと、引き継ぎもせず、事前に決まっていたローティション勤務も反故にして、休すみに入り、事務手続きを事務に聞いても教えてくれないのは職員を守る義務違反だと言い出す親子に、職場が好感など持つ分けがありません。現場は交代勤務要員を急遽探しお願いし、業務の不備を無くそうと努力せざるを得ません。迷惑と思うのも当然で、娘の側に立って考えることまでは行きつきません。それほど、解雇というのはハードルが高くて、期待もしていないし、引き留める気もないような職員でも、親子含めて話し合いと言う経過を持たなければならないのです。

 

 

精神病の診断書を売るようなクリニックは、金が儲かるの話

 今、心療内科へ行けば、一ケ月の休養なんて診断書、初めて訪れただけの診察でも疾病名を付けて出してくれる病院があります。会社でどんな生活をしているのか、どんな職場環境にあるのかなんて全く関係なく本人の病気が悪化する前に休ませるべきで、会社では踏ん切りのつかないだろうから、医者と言う権威でドクターストップをかけるというものです。それはそれで一つの方法かもしれないのですが、こっちが心配しているのは、休んだ後で、どうやって元の職場へ戻るのかと言うことです。問題解決の場では振り上げた手をどうやっておろすかは大変なことです。つまり、始めることより終結させることの方が一番難しいということです。職場は一か月ぐらい本人がいなくなっても何も変わることがありません。本人が休養しなければならない原因となった職場の環境も状況も変わることはありませんから、復帰すれば同じ環境の元で働くのですから、再発する可能性は大きいのです。怪我等の疾病なら周囲の人間も仕方がないと認識しますが、適応障害だの、パニック障害だの、うつ病だのと言われて1か月休んで復帰した職員をどのように受け入れていったらいいのか周りの方が困惑することになるのです。特に上司は自分が原因だと責められるだけでなくパワハラなんて言われるかもしれませんから、おっかなびっくりの腫れ物に触るという環境に於かれる場合も出てきます。つまり、精神的疾患の発症には環境要素が強く、個人の問題ではない原因が多く周囲の理解と協力によって改善されますから、仮に本当に精神疾患だったとするなら復帰する職場内の環境を整理して共通する課題を明確にしておかないと本人は単なる対応に問題がある人とされてしまうだけなのです。過去には、怠け癖が付いているとか、働く意欲が乏しいと言われたこともあります。障がい者の差別も同様で、個人の問題ではないのに環境に適応できない人を排除することが先行して、差別されてきたのです。地道な活動を得て精神障害に対しても社会の受け入れる体制が大きくなったということや、病院に行きやすい環境が出来てきたという事は確かです。しかし、職場に、突然だろうと診断書を持っていけば休職出来ますよと、診断書を乱発することとは別だと思うのです。社会の受け入れ状態が変わってきたといっても、医師が思っている以上に、精神障がい者の社会生活は今だってとても生きずらい社会である事は変わらないのです。にもかかわらず、疾病名を付けなければ薬も出せず、診察料も取れないからなのか、何でもかんでも精神科の疾病名を付けて、診断書料を稼ぐのは、医師のやることだとは思えないのです。当の本人は、これで休みが取れると葵の印籠の如く職場に差し出します。経過を知らない受け取る方は、本当に良いのと聞きたくなるのです。実際にここには精神疾患の病名が書いてあるんですよ、精神疾患として休職して後で困らないのと心配になります。本人はこれで1か月休めるし、どうせならもう辞めてもいいと思っているのでしょうから、根掘り葉掘り聞いてしまうと労務の問題となってしまうので診断書が出ているのだから認めますとしか言いようがありませんが、職場の環境はあなたが休んだとしても何も変わらないんですよとしか言えません。まあ、帰ってくる気がないならそれでもいいかと思うのですが、仮にもし、帰ってくる気でいるのなら診断書を出せば、権利として休職できると勧めるような医師に自分の未来を託すことは止めた方がいいよとしか言えません。何故なら、本人が職場でそれなりのポジションにいたなら、そんな部下には悩んでいただろうし、平の職員なら職場の同僚がそのような行為をしたなら文句を言っていた、職場の雰囲気を分かっていると思うからです。休んだ職員の仕事をみんなに分配されてただでさえ人手が足りないと思っていたのに自分の仕事が増えただけでなく、前例事例的な締め付けも強くなって、疾病と言いながらも同情なんて少しもできず、むしろ被害者感覚になっていた職場の雰囲気を知っているはずです。ですから、何も変わっていない1カ月後の職場には、とばっちりを受けたとしか思っていない同僚や上司がいるだけです。そして、同僚にとって、仕事は山ほどあって一緒にやることになっても、頼んだとしても、逃げられたら結局は自分でしりぬぐいしなければならないということが頭の中から離れなくなってしまいます。休む本人にしてみれば緊急事態なのでしょうが、残されたものにとっては、被害感覚しか残らないという感情になりかねない事を、医師は伝え、周りを如何に巻き込んで理解される休職の方法を伝授すべきだと思うのです。職場の改善は簡単ではありませんから改善を勧める必要はありませんが、少なくとも休むことを支えてくれるだけの協力者はどこにでもいることを話すべきです。それは日本人のお互い様感覚でもあります。そうでないと、仮に本人自身が、疾病の原因は、職場の環境要素で自身は、被害者と思っても、同じ職場の人間関係では突然仕事を放り出していなくなった加害者にすぎません。加害者・被害者の感情にならないための心理学を習得してきたはずの医師がこんなことも配慮せず、診断書だけを渡すことは職業人の悩みで金もうけをしているのかと言う疑問を持たれても仕方のない事です。何故なら、1カ月後の職場で、冷たい視線や仕事の変更などで結局いずらくなって辞めざるを得なくなる事もあり得るからです。そして、次の職場を探すとき、疾病で休んだ挙句に辞職したということを背負っていかなければならないことになるからです。職場を辞める多くの人が、職場に腹を立てていても円満解決の偽装に従っているのは、次の仕事を探さなければならないからです。辞職の理由によっては、本人の能力よりも会社のレベルを下げなければ就労できない差別がまだ世の中にはあるのです。未来を据えて我慢することよりも、未来を据えて働くためには、風邪並みの軽い疾病だからと、安易に精神病の診断書を売るような行為は、差別を助長する積み重ねの一つになると思うのです。

 

新しい見世物の様なパラリンピックの話

 パラリンピックの種目の中には、健常者の競技を障がい者用に転用したものがあります。例えば、車椅子のバスケット。激しく車椅子をぶつけ合うことがまるで勇壮な競技のように広報されたりもしています。でも、本当にこんな競技を行う必要があるのかと私は思うのです。健常者が出来ることは、障害者も出来ると証明することが、重要な時代もありましたが、今日では障がい者ならではと言う競技に変更していってもいいのではないかと思うのです。多くの障害者がやってみたいという事に反対することはありませんが、健常者のスポーツ種目を障害者にチャレンジさせて敢えて戦う必要は感じられません。スポーツとして楽しむことと競技として優劣を競うことは全く違います。その視点で見ると障がい者の足である車イスをあんなに酷使してショー仕立てにする必要はありません。過去には、成長ホルモンや甲状腺ホルモンの病気、染色体の異常、骨の病気など様々疾病による低身長の人を「小人」としてプロレスなどに出す見世物がありました。ハンディをショーの道具の一つとして利用しました。同じように日本のお祭りには見世物小屋があって、身体に奇形のある障害者が集められて見世物として憐れを謳いました。その時の言葉が「親の因果が子に報い」と差別を根付かせる宣伝文句でした。人が人を面白がって笑うという醜い面ばかりを強調したものです。その後の批判で、見世物小屋からも、テレビ放送からもなくなりましたが、障害を生活の糧としてどこが悪い、施しの様な福祉よりも体を張って生きているという方がましだと言うも障がい者もいました。そこには、障害者を笑いものにするな、晒し者にするのはかわいそう、という健常者の思い上がりの上目目線の余計な思いやりだとも言われました。その根底には、障害者に表舞台に出てくるな、ひっそりとしていろ、と存在さえも無かったことにしてしまうやり方だと憤慨している障がいの方もいました。でも、ちゃんと調べてもらえば分かりますが、見世物小屋で、社会でどれほど多くの障がい者が動物の如く展示され、動物の如く扱われ、社会に生きていたことさえも残されることなく憤死していることを。例え、表面的であろうと、障害者に対する偏見を無くすには、障害ショーでお金を儲ける的な手段を美化すべきではないと思うのです。何故なら、日本代表選手と言われているパラリンピックの8割が、企業などからのアスリート支援を受けているとも言われていますし、金銭的な支援がなければショーに出ることさえかなわないと言われているからです。パラリンピックをスポーツイベントとして格調高いものだとしていますが、通常に考えるなら観客から金をとって見せるスポーツの障がい者版ショーにすぎません。そして、CМでは障がいを前面に映し出して普通ですと語りますが、広告に使われているだけだと思うのです。結局健常者が怖いもの見たさで見世物小屋を見ていた時の感覚と何も変わらないと思うのです。そもそも、障害と言うのは、一つの条件では分類出来ません。健常者は、形態が同じなら、体重条件や男女と言ったルールだけで済んでいます。その時片手がない人が参加してもそれはハンディになっていても勝てば何の問題もありません。しかし、障害の場合、車椅子と言うだけではハンディは広すぎて調整が出来ません。だから、車いすバスケットでもさらに障がいの程度を得点化して参加者のレベル区分をする調整が必要になっています。そんな調整をしなければ障がいのレベルが偏より、公平な条件でゲームが展開出来ないと当人たちも思っています。その区分の中でも、少しでも障がいが軽い方が有利で、お金がある方がずっと有利です。車いすバスケットを称賛する雑誌は、試合会場には車いす同士がぶつかり合う音が響き、コートとタイヤの摩擦によってゴムの焦げる匂いがしてくるなどと勇壮な試合であると書くのですが、この競技用の車いすは、20万円台後半~50万円もします。しかも、1年くらいしか持たず、フレームが折れたりするとも言うのです。自分の足とも言える車椅子は道具にすぎず使い捨てでこの値段です。その理由は、バスケットボール用の車いす競技の特性として接触がとても多いからと言うのです。しかし、通常のバスケットでは、体をぶつけ合うことなどありませんし、危険行為として反則になります。また、カーレースなどは一般車にも応用するために必要だとホンダでは言っていましたが、このバスケット用の車いすを一般車椅子に応用することがあるのかと疑問にもなります。車軸周りや転倒防止では激しい動きをしますから相当の強度が確保されると思うのですが、車椅子を自由自在に動かす必要がある障がい者なんてそんなに多いわけがなく、むしろ両手が自由になる電動車いすの方が本人には仕事をする上でははるかに良いと思うのです。ですから、車椅子をぶつけ合って沢山のデーターが取れたところで応用すべきことは極少数だと思うのです。障がい者がスポーツを楽しむということと、競技を楽しむということは全く違います。パラリンピックの競技と言う形を変えただけの、障がい者同士を戦わせるショーを挙行する事は適切とはとても思えないのです。結局は、健常者用の競技を障害者用に改良したショーで、融合ではなく分離なのですから。

地域と仲良くの呪文は、差別を助長するの話

  福祉を語る時、地域と言う言葉は呪文より多く出てきます。福祉の事業の何にでも地域と言う関わりが出てきます。果ては地域福祉論なんてことを言い出す人までいます。そこでは、障害者は地域と仲良く、地域の資源を活用してこそ生きる道があるとも言います。でも考えてみてください。障がい者は地域から排除され、拒否されてきた人々なんですよ。地域で普通に暮らしたいのに地域から追い出された人が、施設に入ったりして苦労して地域へ帰る家探しをして、グループホームでもいいかと思ったら、地域の人に受け入れられるようにしてくださいと行政を含めて宣うのです。一族郎党と言う事から始まって同類で固まった集団の中で、足並みの揃えられないやつは追い出されるという単純なルールで一緒にさせて貰えなかった障がい者に、帰ってきてもいいよ、だけど地域に合わせた態度でいなさいと説教するのと同じです。ネアンデルタール人は家族単位で暮らして消えていき、クロマニヨンと言われる我らの祖先は、他人でありながら徒党を組んで狩りをして、敵を打ち負かして蔓延りました。ですから同質の集まりではないので、トラブルは起こりやすく、もめ事は日常的に発生しやすい体質です。それを解決した方法が権力関係と決まり事、掟です。どんな形であれ異質な集団をまとめるための力の構造の作り方と、力を浸透させる様々な掟(学者は法と言いますが制裁を伴うものは単なる掟です。だから時代で法の中身が変わるのです)の実行が必要なのです。そして、その力と掟によって、選別され、選ばれないやつは、排除されるのです。障がい者は、自分の意志ではなく権力の側から使えないやつとして排除された組なのです。つまり、異質な者の集団は、その集団を維持するために、負担と感じるものを排除することを常としてきました。地域と言うのはその流れの端にあるもので負担と感じるものに対しては排除したい、受け入れないという感情に満たされています。ですから、受け入れてもらうには、同情でもいいから地域の方にお願いしますと頭を下げて受け入れてもらうことがまず第一の通過点と言うのが今の地域福祉であり、地域移行なのです。グループホーム設置の申請書類には地域説明会の議事録が必要です。議事録は説明会をしなければ書けませんから、説明会は必須になってしまいます。すると地域の住民は自分たちの了解なしには建設できないと誤解し思いこんでしまうのです。そのようにならないために、行政は説明会に先駆けて差別とは何かを啓発する義務があるのに実行しません。地域の反対にあったら、揉めないように歩み寄れないかと言うだけです。こんなことはおかしなことです。法の元、どこに住んでもいいですよとなっているのに、先に住んでいる人がいたなら、先に住んでいる人に挨拶ぐらいしろと言うのではなく、同意してもらうまで交渉し譲歩しろと言うのです。法の平等など無視されますし、法は最低ラインだと言いますが、そのライン以下の対応を地域にされても行政は何も言わないのです。地域は無知なのではなく、差別・区別・選別を平気でするものなのです。そして行政に承認しないように要請するのです。そんな反対で断念することもしばしばあります。

では説明会がなくなれば、施設が乱立するかと言うとそんなことはありません。何故なら営利を含めてても、障害者の人数には限界があるからです。何故障がい者は住むことさえお願いしなければならないのか。それは、行政が障害者は、地域と仲良くしなければならないと呪文を唱えて、地域の差別を助長しているからです。地域の反対者は、反対の理由が枯渇すると今度は利用者の安全を心配しているとさもさも障がい者の事を心配しているような言動をしますが、下心一杯です。仲良く出来そうもない反対者が、安全な施設なら賛成と言う発言まで出てきます。逆に、安全でない施設ってどんな施設か説明して頂きたいぐらいです。こういった人たちは自分のそばに近づかないなら安全で、人権があり大事にしなければならないが、自分のそばに近づいてくるなら安全ではないと考えているのです。こうして、地域と仲良くの呪文は、差別を助長する大事な役割を果たしているのです。

 

絶対音感なんて表現ミスの話

 音は、音源からの振動の伝達ですから、音源があって振動を伝達する空気や水があれば音として成立します。その成立した音を受信機があって音として認識できれば音として確認されます。ですから、受信機の性能として人間の耳が音として認識できる範囲の振動しか音として認識することは出来ません。自然界では、音源は無数にあって音に溢れていますが、人間は極一部を聞いているに過ぎません。また、生後から聞いた音と音源の確認を繰り返す中で、危険な音、気持ちいい音、変な音などと認識していますから、生活する環境や状態によっても耳の訓練が違ってきます。騒々しい音に溢れている中で暮らす人と、静かな環境で暮らす人では音への反応も違ってきます。さらに、振動を伝える物質によっても音は違い、空気(気体)や水(液体)、金属(固体)など様々ですが、人間は多くを空気振動の形で音として確認しています。ですから、真空では振動を伝えるものがありませんので人間は音を聞くことが出来ませんが、自然界そのものは、空気振動ではない振動も沢山あって実際はもっとうるさい状態とは言えます。もし、地球の周りが真空でなく空気なんかがあったら、宇宙の大爆発音なんかが聞こえてうるさくて大変なことになってしまいます。人間の耳に聞こえてくる音の事を一般的にはdB(デシベル)で表現して聞こえる範囲の確認として聴力検査をしていますが、それは単純音で複雑音の仕分けではありません。音楽そのものも、単純音の組み合わせで、周波数で音階の音を決めています。現在では、1953年ISOによって制定された国際基準値A=440Hzが一応の基準となっています。しかし、音楽と言う表現形式はそんな古くはなく、様々な音律や音階も、文明や民族により違っています。さらに、この基準値で世界が統一されたかと言うと音楽は芸術ですからそんなことはなく、アメリカでは440Hzですが、ヨーロッパでは444Hz、448Hzなどが主流であったり、日本では442Hzが使われていると言われている様に、世界的、歴史的には極めて多彩な基準音があって一つではない事が明確です。すると、絶対音感て何を指すのかという疑問が湧いてきます。逆に、基準音でしか聞けなければ雑音だらけの中で絶対音感を示さなければならなくなります。楽譜の音符の位置は世界基準でも、楽器や音声の実際のチューニングでの基準音の周波数は微妙にずれていて、その倍音で出される音楽全体は、基準値からすると違うものになっているということでもあります。それは、440Hzが絶対音と聞き分けられる人には、それこそずれた音の洪水に襲われているということになってしまいます。同じことは、カラオケの機械などに基準音で設定してしまえば、それ以外で音を出せば音程が外れていると言われてしまいます。国際的な交流の中で、基準が作られていても、音楽の表現としては、聴くものに心地よいように、ドレミファシソラシの音階の実際音は微妙にずらしているし、敢てずらしている場合もあるという事です。極端な事例では、絶対音感の人は、鳥のさえずりも音階で聞こえるなどと言いますがそんな単純なことは錯覚でしかないと思うのです。人間は20Hzから2万Hzまでの音が聞こえると言われていますが、自然の中では複雑な雑音だらけの世界で楽器の音の様な単純な音の世界はありません。だから単純な音を出す楽器が求められますし、単数倍音ならどんな音でも楽器として成り立ちますから世界には様々な音楽が成立しています。複数の楽器を心地よく聞かせるには、チューニングが必要だという事で絶対音感と言うことでは必ずしもないという事です。相手が出している音を分析し楽譜にすると言うことが出来るほどに音を整理認識することが出来る人は、沢山いると思うのですが、なんでもドレミファと聞こえてしまうことなどないと思うのです。それに、そんな能力があっても、それほど便利なものとは思えないし、音楽を楽しむということにはつながらないと思うのです。つまり、絶対音感なんて表現そのものが誤解を招く表現ミスだと思うのです。それに、素晴らしい音分析が出来る受信機としての高性能耳と解析する能力があっても、現代の機械ほどには出来ません。だから、絶対音感などと言う事が適切だとは思わないのです。