知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

新しい見世物の様なパラリンピックの話

 パラリンピックの種目の中には、健常者の競技を障がい者用に転用したものがあります。例えば、車椅子のバスケット。激しく車椅子をぶつけ合うことがまるで勇壮な競技のように広報されたりもしています。でも、本当にこんな競技を行う必要があるのかと私は思うのです。健常者が出来ることは、障害者も出来ると証明することが、重要な時代もありましたが、今日では障がい者ならではと言う競技に変更していってもいいのではないかと思うのです。多くの障害者がやってみたいという事に反対することはありませんが、健常者のスポーツ種目を障害者にチャレンジさせて敢えて戦う必要は感じられません。スポーツとして楽しむことと競技として優劣を競うことは全く違います。その視点で見ると障がい者の足である車イスをあんなに酷使してショー仕立てにする必要はありません。過去には、成長ホルモンや甲状腺ホルモンの病気、染色体の異常、骨の病気など様々疾病による低身長の人を「小人」としてプロレスなどに出す見世物がありました。ハンディをショーの道具の一つとして利用しました。同じように日本のお祭りには見世物小屋があって、身体に奇形のある障害者が集められて見世物として憐れを謳いました。その時の言葉が「親の因果が子に報い」と差別を根付かせる宣伝文句でした。人が人を面白がって笑うという醜い面ばかりを強調したものです。その後の批判で、見世物小屋からも、テレビ放送からもなくなりましたが、障害を生活の糧としてどこが悪い、施しの様な福祉よりも体を張って生きているという方がましだと言うも障がい者もいました。そこには、障害者を笑いものにするな、晒し者にするのはかわいそう、という健常者の思い上がりの上目目線の余計な思いやりだとも言われました。その根底には、障害者に表舞台に出てくるな、ひっそりとしていろ、と存在さえも無かったことにしてしまうやり方だと憤慨している障がいの方もいました。でも、ちゃんと調べてもらえば分かりますが、見世物小屋で、社会でどれほど多くの障がい者が動物の如く展示され、動物の如く扱われ、社会に生きていたことさえも残されることなく憤死していることを。例え、表面的であろうと、障害者に対する偏見を無くすには、障害ショーでお金を儲ける的な手段を美化すべきではないと思うのです。何故なら、日本代表選手と言われているパラリンピックの8割が、企業などからのアスリート支援を受けているとも言われていますし、金銭的な支援がなければショーに出ることさえかなわないと言われているからです。パラリンピックをスポーツイベントとして格調高いものだとしていますが、通常に考えるなら観客から金をとって見せるスポーツの障がい者版ショーにすぎません。そして、CМでは障がいを前面に映し出して普通ですと語りますが、広告に使われているだけだと思うのです。結局健常者が怖いもの見たさで見世物小屋を見ていた時の感覚と何も変わらないと思うのです。そもそも、障害と言うのは、一つの条件では分類出来ません。健常者は、形態が同じなら、体重条件や男女と言ったルールだけで済んでいます。その時片手がない人が参加してもそれはハンディになっていても勝てば何の問題もありません。しかし、障害の場合、車椅子と言うだけではハンディは広すぎて調整が出来ません。だから、車いすバスケットでもさらに障がいの程度を得点化して参加者のレベル区分をする調整が必要になっています。そんな調整をしなければ障がいのレベルが偏より、公平な条件でゲームが展開出来ないと当人たちも思っています。その区分の中でも、少しでも障がいが軽い方が有利で、お金がある方がずっと有利です。車いすバスケットを称賛する雑誌は、試合会場には車いす同士がぶつかり合う音が響き、コートとタイヤの摩擦によってゴムの焦げる匂いがしてくるなどと勇壮な試合であると書くのですが、この競技用の車いすは、20万円台後半~50万円もします。しかも、1年くらいしか持たず、フレームが折れたりするとも言うのです。自分の足とも言える車椅子は道具にすぎず使い捨てでこの値段です。その理由は、バスケットボール用の車いす競技の特性として接触がとても多いからと言うのです。しかし、通常のバスケットでは、体をぶつけ合うことなどありませんし、危険行為として反則になります。また、カーレースなどは一般車にも応用するために必要だとホンダでは言っていましたが、このバスケット用の車いすを一般車椅子に応用することがあるのかと疑問にもなります。車軸周りや転倒防止では激しい動きをしますから相当の強度が確保されると思うのですが、車椅子を自由自在に動かす必要がある障がい者なんてそんなに多いわけがなく、むしろ両手が自由になる電動車いすの方が本人には仕事をする上でははるかに良いと思うのです。ですから、車椅子をぶつけ合って沢山のデーターが取れたところで応用すべきことは極少数だと思うのです。障がい者がスポーツを楽しむということと、競技を楽しむということは全く違います。パラリンピックの競技と言う形を変えただけの、障がい者同士を戦わせるショーを挙行する事は適切とはとても思えないのです。結局は、健常者用の競技を障害者用に改良したショーで、融合ではなく分離なのですから。