読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

交通取り締まりは運が悪いだけの話

    交通取り締まりでも、スピード違反の場合、疑わしいと言え一応機械で証拠を示されるので仕方が無いかと諦めつつも、明らかにスピードを出している車がほっとしたように通り抜けていくのを見ると、不公平だと叫びたくなるものです。同じように、駐車違反なんかも、自分で分かっていて駐めていますからだめなのは分かっていても、他にもいるだろうと不満を持ちます。ところが、一旦停止やとまれなどの標識違反は、自分ではちゃんと止まったと言う自信があって説明出来ても、権力を持つ警察官は一度止めた車には意地でも絶対引き下がらず、自分が見ていたから違反だと言い切ります。何の証拠もなくても、警察官の目が正しいと言い張って、110番して何人警察官を呼んでも、警察官の味方しかしません。嫌なら裁判をしてくださいと警官に言われるのですが、考えてもください、裁判でどんな利益がありますか。例え勝ったとしても、違反はなかったと言う事を証明するだけなのです。警察官は、業務ですから全くお金は掛からないどころか、ノルマ達成のために頑張ったと内部では思われる程度です。しかし、裁判で決着を付けるとなると、弁護士を雇って、何ヶ月も裁判に出廷して無罪となっても、弁護士費用、交通費などの諸費費用は全部自分持ちなのです。国からは間違っていました費用は全て全額保障しますなどとはならないのです。つまり、ヤクザに因縁付けられて、用心棒を雇って解決しても、ヤクザはもう次のターゲットに移っているし、用心棒は金さえ貰えばそれてよしとしているし、因縁さえ付けられなければ掛からなかった負担はただ損しただけなのです。確かに、自動車の事故はよくあってぶつけられたのに自分の保険も使わなくならなければならなくて保険料が上がるなんてことも納得できないけれど仕方が無いかと言うことはしばしばあります。しかし、警察官という公務員に因縁付けられたときは、逆らっても、従っても自己負担しかないのです。裁判やるより遙かに安い金額で済むのなら罰金で良いかと罪を認めて払うことになるのです。本当は、冤罪だと思っても、認めて罰金払えば、日常生活が待っていますと誘導されてしまうのです。

 切符が切られるまでどんなに頑張っても、検察官のところまで行っても、みんなそう言うんだよ、認めないやつのズルは許さないというのが正義なんだとまず公平な立場で検討しようなどと言う事は絶対にありません。数秒のことだから警察官の見間違いだと主張しても、逃れようとしている言い訳だとしか思っていないのです。交通取り締まりには、明らかな道路管理の不備もあったり、警察官が、検挙率のノルマ確保のために敢えて不備を是正しない、トラップとしか思えないような場所もあります。地元の人は知っているが他者は知らなくて、警官がたっているのを見る度に、またやってると非難する声さえ有るところもあります。裁判で無罪を勝ち取った人が、初めはすぐに釈放されるからと言われて罪を認めたなどと言う事を聞くと初めから頑張れば良かったのになどと思いますが、交通違反で考えて見ると、冤罪だと思っても、簡単な罰金の道を選択してしまうものです。絶対に一時停止したと主張しても数人の警察官に囲まれて、認めろと威圧されると運が悪かったと思うしかないのです。それがもっと重大な事件であったとしてもその場の威圧された雰囲気に自信を失い認めてしまうのかなと思うのです。道路では上手も下手もなく、一列に順番にしか進めません。前の車に続いていたら前後は良くて自分だけ交通違反なんてこともあります。そして、録画もない数秒の停止違反を警官の目が一方的に正しいと言われても、運が悪かったとしか言えないのも現状です。