知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

ハリウッド映画はスケールはすごいという話

 洋画、特にハリウッド映画は、一定の公式に則って作られていますので、ネタバレなどと言われるまでもなく、ある程度の想像が出来てしまいますから、スケールという観点を除くとつまらない恋愛映画であり、押しつけのような考え方に、またかと思えてしまうものです。と言えるのは、映画は、視覚と聴覚に働きかけて見せるもので、その脚本は、キャラクター、ストーリー、アクション、葛藤・対立・障害そして、解決がセットとして含むように作られているからです。 流れとしてはまず、発端と状況設定、登場人物や世界観の説明、簡単な事件での掴み、主人公への行動の動機付けを行い出発。突き進む主人公に、次々と問題が降りかかり、その中で、仲間割れと和解(友情)、恋愛(王子と王女の様な)、主人公の挫折と克服(不屈)を見せて、解決と思われる一歩手前で主人公をピンチにし、大逆転というクライマックス。そして、余韻としての、恋愛の成就や再会などの解決をして終わりです。この間に、前触れだったり、伏線だったり、謎だったり、組み込みの違いが物語の違いともなっています。特に特徴的なのは、主人公は、正しいを前提としていますから、映画としては結果オーライになるのですが、もし間違えていたなら独裁者としか思えない危険な行動を自信過剰にし、反省したり悩んだりはしない強いリーダーとして存在させることです。個性も強烈で、日本人に見られるような気配りや仲間への配慮は見られません。もし、現実にいたなら拘りの強い、協調性のない我が侭な人物そのもので、決して好かれるとは思えません。そして、恋愛では、初めは対立しますがやがて主人公になぜか惹かれ、支えていく脇役となっていくのです。そして、主人公はこの相手のためにピンチに陥り、助けに行きますが、その為に、仲間が死んでも二人は絶対に助かって結ばれるというのも定番です。とにかく、どんなピンチも都合良く解決していくのですから、ネタバレと言うより、公式に添った応用編が他の国では作れないスケールで作られているだけだと言えます。ショートして観客の望むものを作らなければ興業として失敗ですから、物語は、その国の事情や背景を反映しています。 強いヒーロー好きな国では、ヒーローとヒロインが活躍すると言う公式で作らないと、巨額の投資に見合った収入になりませんから、公式以外の冒険はなかなか出来ません。一方、資金が少ないところは、迫力あるシーンは中々とれませんから、何とか企画で見せようとします。例えば、日本のフーテンの虎次郎なんかは、リーダーとは絶対に言えない個性の表現でハリウッドの公式には当てはまらない作りです。

 映画は、その国の国民がお金を払っても鑑賞したいと言うものを作らなければ、興業として失敗ですから、自国の国民の価値観が反映されます。特に男女の関係については、キリスト教文化保守のハリウッド映画は、男女同権にはなっていません。案外日本の方が、人間的だったりします。興行収入がすごかった、アバターでは、普通ならよそ者の男の訓練担当に族長の娘であるなどはありえません。まるで、クレオパトラを真似たような作りでよそ者と娘が恋愛関係になり、族長の娘は、よそ者(征服者の仲間)を支えてその土地を守っていくと言う部族の未来を娘(女性)に託し、強い男に守って貰うなどは、日本人的発想ではありません。つまり、強い男性、支える女性、これはキリスト教的価値観です。だから、日本人は、スケールに感動しても、価値観に共鳴できないのです。また、強烈な個人崇拝のような強いリーダーへの憧れよりも、危険視する感覚の方が強く、強いリーダーの恋愛を絡めるような女性観に、違和感を持つのです。文化としての違いですが、ハリウッド映画は、個を強調しますが、個性を大事にしているとは思えないのです。