知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

貞観政要は、支配者たちの凡人を操る手引書の話

貞観政要と言う偉い本があって、徳川家康も愛読していたなど、統治者にとって非常に大事な本であると宣伝され、いまでも大企業の経営者が愛読しているとまで褒められています。この本は、唐の太宗の「貞観」時代がとても平穏だったので帝王の見本として、帝王学の教科書とされてきたという触れ込みです。内容はと言えば、皇帝とその臣下の会話なんですが、そこには君主としての心構えやあるべき姿が描かれており、帝王学の基本の書たる所以とされています。ところが、そんな立派な先代がいても唐はやがて衰退しますし、座右の銘として愛読したリーダーたちもすべてうまくできたわけではありません。この本を読めばわかることは、太宗の時代がよかったという懐古趣味的にのちの人が編纂したもので太祖自身が編纂させたものではありません。ですから、歴史から学ぶという意味では有効ですが、これこそが帝王の基本だと思ったら間違いだと思うのです。権力を握るには戦いがあり相手を蹴落として上り詰めなければなりません。それには、本人だけでなく周りの多くの群がる欲張りたちも引き連れています。勝敗はまさに時の運で人間の力ではどうにもならない条件と環境が組み合わさって権力者が決まりますから、こうしたからうまくいったという話を何べん聞いても、それはたまたまうまくいったにすぎず必勝の条件にはならないと思うのです。しかも、過去の戦法や統治の方法は誰でも学べますので裏をかかれることもありますし騙されることも出てきますからそのまま役に立つという事などありません。つまり、桶狭間の戦いは二度とないし、関ヶ原の戦いも二度とないという事です。それに日本では、蹴落とされた人々の怨霊がまとわり就くと言われていますから、善政を敷かなければ祟りがやってきます。そんな時、この本の気に入ったところだけこれいいねという程度に使うならいいでしょうが、リーダーがあこがれて選択する要件になるとは思えません。何故なら、結局権力者は自分で判断する時に、参考事例など山ほど知っていてどれを選ぶかの選択などしている余裕もなく即決していかないと遅れをとってしまうからです。そもそもこの本は、リーダーになったらこうすべきと書いてありますが、読者がリーダーとしてふさわしいかの判断はしていません。一般的に、リーダー論を語る本は、人民を率いていく人が必要だから始まるりリーダーは不要だという事は論争にもならず、人民という烏合の衆には指導する人が、リーダーがいなければならない、統治が必要だと決めつけています。人間は国を作り国同士の戦いに勝つには強いリーダーが必要だが前提条件ですから、国を作った時から、上下関係が必要で貧富の差が必要で、能力評価が必要となるのです。そして、この本は、小さな会社であろうと一国であろうと統治者が必要でその統治者として愚民を管理し統治するにはどうするのがいいかという心得となるのです。心得の基本は、統治することは必要だが、反感を買わないようにするにはどうしたらいいか、人気をとるにはどうしたらいいか、相手の痛みや苦しみを知って対応した方が効果があるなどで治めるための技法を展開するのです。だから統治のために自分が必要な人間であるという事、人の上に立つべき人間であるという自己満足の確信が必要です。同時に、皆に認められているという根拠の正当性の言い訳に使えるアイテムでもあるのです。権力を掌握した人は、誰もが自分が正しいと思い込む一方で、権力のざの正当性について不安を感じています。今日では、選挙に選ばれたと胸を張って言えますが、武力で力ずくで奪い取ったというのも言いにくいものですし、皆に推薦されても継体天皇の様に20年も都に入れなかったという事もあります。天から授かったとか、由緒正しい家系だとか、日本の天皇が認めたとか、民衆に支持されているとかとにかく正当性の根拠が必要です。過去には殉死と言って権力者の死に殉じて側近も殉死する習慣がありました。権力の周りには一心同体の様に見えて、複数の同船異夢のメンバーが餓鬼のように群がっています。貞観政要は、人民のために頑張って統治することを語ってはいますが結局は、権力の座についている人間たちの権力維持のためのマニュアルブックにすぎません。思想書でも哲学書でもありません。帝王学は支配者としての心構えであって、働く人から分け前をピンハネする仕組みを効率よく実行するための一つの方法にすぎないと思うのです。ですから帝王学の重要な書物であるという事は、凡人たちを操る手引書としか思えないのです。