知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

戦場の槍の話

 なんとなく日本刀は有名で、名刀村正など知っている人も多いので、日本の武器の主役は太刀・刀のように思われていますが、そんなことはなく戦乱時代の戦場の主力武器は、弓であり、槍です。しかし、名のある弓や槍など聞いたこともないというのが普通で、武将の名前なら知っているけれど、足軽の名前なんて誰も知らないよと言うのと同じ感じです。実際の戦いでも、武将よりも足軽の集団戦が主役ですし、太刀・刀を振り回すより槍を振り回した方が有効だったのですが、どちらも消耗品でしたから名は残っていないだけです。狩猟を考えれば分かりますが、古代でも太刀で狩猟はちょっと困難です。石器の時代でも、こん棒や石斧などは接近した時には利用したと思うのですが、弓矢や槍を投げることの方が狩猟としては有効だったと思うのです。青銅器や鉄器が入ってきても、矢じりや槍先に使用する分より多く貴重な金属を個人用として使用する太刀は、権威の象徴であり偉い人しかなかなか持てなかったものと思われます。鉄の太刀が普及していても、京の都の警備武士の絵姿では弓矢を持っていますし、乙巳の変の図でも弓を使用しています。かぐや姫なんかでも警備人は弓矢装備です。ですから、太刀の様な接近戦でしか使えない武器よりも、少しでも相手から遠いところから攻撃ができる武器で仕掛けて、探り合い、相手の戦意を失わせ撤退させる事が戦略としては最も出来の良いことだったのです。それに、日本式戦いは、将棋と同じで勝てばこっちの駒となって使えるのですから、民族的敵意もありませんから絶滅させる必要もなく、お互いに被害は少なくて自分のものになれば一番いいことなのです。近年のスポーツとしての剣道を含めた武道では「礼に始まり礼に終わる」などと言って日本の武道では「精神性」が大切なように言っていますが、それは生死が関わらないスポーツとしての武道の時代だからです。歴史を調べていくと分かるのですが、戦闘では勝つためには何をしても良いというのが基本で、礼などしていると後頭部に矢が落ちてきます。戦争は、大義名分を持って始めますが、実際の戦闘ではどんな卑怯な手を使おうと、ずるをしようと勝ったほうが正義となります。それは、現代でも同じです。特に戦闘員の死への恐怖や流血への罪悪感などが少ないほど強い軍隊となります。ですから、現代では、相手の顔が見えない飛び道具で兵士がゲームのように戦争を遂行できるようにもしています。爆撃機で爆弾を落とす人には、その爆弾で死ぬ人の顔を見ることはないということですし、ミサイルのボタンを押す人も画面で状況を確認していても吹き飛ぶ家や人を実際に見ることはありませんから、映画やゲームのシーンのように操作していても人として人間として異常ではないのです。さらに進んで、ゲームの如く無人機が遠隔操作により人を殺害したり、建造物を破壊したりもしています。実際に中東では米国が自由に実践実験を繰り返していますから、無人攻撃機の性能はアメリカが一番なのです。結果、攻撃する方は被害者に全く会うことなく加害できるというのが今日の優良兵器そのものでもあります。過去の戦いでも飛び道具は有効で、矢合わせなどと言う儀式もありましたが、歴史が進むにつれ、開始の儀式もなく弓の打ち合いが始まるようになりました。そんなところへ太刀で出ていったらどんな鎧を着ていても矢だらけになってしまいます。さらに、太刀で戦うほどの白兵戦になったとしても、名刀一本で戦い続けることなど困難だったと多くの書物では指摘しています。武将になると、騎乗していることも多いので、馬の上からいくら太刀・刀を振り回したとしても、敵が余程近づかなければ刃先は届かず戦えません。まして相手は長い槍を振り回したなら、危なくて近づくことも出来ません。むしろ無防備な馬に槍でも突きつけられたら馬が飛び上がって振り落とされかねません。ですから先ずは、相手の陣地に近くなったら、弓矢の攻撃を始めるのですが、的を目掛けて真っ直ぐ飛ばすなんてことではなく、やたらと打ち込んで下手な鉄砲数打ちゃ当たる方式で打ちます。弓の性能として相手の認識が出来る程度に近づいてはいても、まだまだ恐怖感はなくて済みますからお互いに飛んでくる矢に当たらないように気を付けて行動していればいいのです。次に前進となったらみんなで並んで槍で進みます。並んで進んでくる槍の長さに対して刀では集団の横腹にでも回らなければ相手を傷つけることは出来ません。いくら剣豪武蔵でも何十本もの進んでくる槍に向かって槍をすぱすぱと切ったりは出来なかったのです。一時期の織田軍の槍は6mもあったということですから、持っているだけでも相当の力がいります。槍隊同士が戦うことになったら長い方が有利なので戦国末にはこんなに長くなったようです。集団戦でなかったら、もちろんこんな長い槍の方が不利に決まっています。騎馬などに対しては、槍の端を土に付けてやや斜めに構えてずらりと並んで防御したということですから、刀なんか振り回して突進していったら一発で殺されてしまいます。戦闘は、負ければ死ですから、現代の日本人が考えるよりもっと不安と恐怖の中で武器を握りしめていた足軽にとっては、みんながいて槍が長いほど恐怖感はずっと少なくて済んだと言えます。ベトナム戦争では、何人殺したかを誇示するために、耳を切り落として集めたとか、鼻を切り落としたとか言われています。日本では、首を切り落として腰に縛って持ち歩いたということですから、当時の戦場シーンを映像化できるなら、戦国武将はカッコいいなんておとぎ話はなくなると思います。古代を含めて戦闘ではその時落命しなくても傷を負うことで後日死亡することや農民であり戦闘員であることの機能を失うことは死と同じですから、血が流れることを前提とした戦闘では、傷つかずに相手を傷つけることが重要でした。だからこそ、出来るだけ近くに寄らずに戦える武器が優先的に使用されたのです。ですから、刀は意外と象徴的な部分が重要だったのです。江戸時代の様な集団での戦闘行為がなくなるにつれ、個人技としての剣道が持てはやされて、英雄しされやすいのですが、集団戦では、刀は、不利な武器以外の何物でもありません。まして、鉄砲が出てくると、刀で突撃なんかしていたら負けてしまいます。集団戦では、陣形を組みますから、全体を潰すということよりも、その中の弱い一角を突破できれば、全体が崩れるということも多く、関が原でも互角に戦っていたのに、小早川の部分が崩れたことで一気に西軍総崩れなどと表現されています。戦いでは、出来るだけ相手の、顔や目と合わないことが大事だと言われています。なぜなら、お互いに人間になり恐怖になり、人を殺すことへの厭戦心を高めてしまうからとも言われています。戦うたびに人間は、勝つために武器の工夫をしてきました。ショーウインドーには、戦場では用途の低い太刀や刀を並べながら、裏では無人攻撃機のカタログを置いているという時代になりました。

 

引き籠りという贅沢な依存の話

 引き籠りとは、総括的な言い方ですから、色々な背景や、様々な形態、多様な状況が個別にあるのに、大まとめ的な言い方だと、関係者は見ているでしょうし、人権を含めた人々からは社会の現状や本人の思いを全く無視した言い方と言われるかもしれませんが、私は贅沢な依存だと思うのでこの言い方を使用します。私は、災害募金などに対しても批判的立場を持っています。なぜなら募金の中から、経費を差し引くことが往々にして見られるからです。募金している人の交通費だ、事務経費だ、ばかりではなく、人件費まで消えてしまうことさえあります。さらには、駅前等の募金活動が宗教活動資金だったり、本人自身の生活費だったりと言う詐欺まがいのことも過去には実態としてありました。公務員が関与していたり、学生が行っている募金は、全額寄付されると言われますが、それだって直接被災者に渡されるわけでもなく、途中の機関や組織にピンハネされていても誰もわからないのです。NPO法人を含めて不明朗会計なんていくらでも出来ます。その時の言い訳は、募金活動をする人にも、生活があるでした。つまり人間は生きていくだけで、金額の多少に関わらず生活費と言う必要経費が掛かっています。どんなに良いことをするにも、社会に貢献するのにも、自分の生活が成り立っていなければ、他人のために何もすることは出来ないと言えます。ボランティアであっても自分の生活は自立していて、活動に関わる経費も自前、手弁当で出かけられる人でないと、交通費や食事代などの活動費を含めて誰かが負担しなければならないのです。つまり、義援金活動だって経費が掛かると言い出す今日、ボランティア活動に日当や交通費だけでも出せないか、有償ボランティアはどうなんだという論議さえもう過去のこととなりお金を貰うことも罪悪感を感じない時代になりました。こんな時代に生きているのに、社会との接点を拒否しても生活が困らない人は資産があって収入が確保できるか、誰かに依存しているかという事に整理してもいいと思うのです。本人が望む生活に見合った収入手段を持っているなら、依存しなくても生活は成り立つでしょうが、今日では収入がなければ生活は出来ません。収入があるなら、世捨て人として山の中に住み生活に必要なものはネットで購入して配達してもらえば可能です。しかし、収入がなければ、ホームレスの様な生活をしても食べ物を得るために社会と接点を持たなければなりませんし、農地があって自給自足と食べ物を作っていても、衣類や生活用品を手に入れるには、余剰の野菜を生産して物々交換をしなければ入手できません。それに、自給自足の農地を持っていただけでも税金はかかりますから現金を稼ぐためにはやはり社会との接点は必要です。また、どんなにボロ屋と言っても住むところがあれば、固定資産税は付いてきますし、電気・水道の基本料金はかかりますし、ごみ一つだすにも費用が掛かる時代に生きているのです。つまり、生きているだけで必要経費として、食べ物だけでなく様々な負担が付いて回る時代なのです。現代を生きるということはすべからく、現代社会との接点が必要で、接点を通じて、収入を得るための行為を行わなければ生活が成り立たない時代でもあるのです。こんな時代に、収入もないのに部屋に閉じこもっていられるのならそれは依存した生活と言うべきだと思うのです。そして、最低の生活であろうと依存できる相手がいることが贅沢だと思うのです。昔は、食客とか居候と言う言葉がありましたように、誰かに依存して、労働力を提供したり、自分の好きな事を行うということも一つの生き方としてありました。師匠の家に住みこみ,雑用をしながら食事と勉学の機会を与えられる職業関係や書生などと言う食客なんてこともありました。芸術かなんかはパトロンと言う依存がありました。ですから、誰かに生活の糧を依存をすることは、問題があるわけではありません。しかし、これらには社会の制度や他人を巻き込んだ双方の互恵関係によって、成立しています。単純に、家族に依存しているだけではありませんでした。今言われている引きこもりは、その多くが一方的に家族に依存しているということです。しかも家族が心配して、時には、引きずり出す業者に何百万円も払ったと報道されているように引きこもりに対応するだけで家族からお金を引き出せる時代にもなりました。働かなくても生活が出来るという引きこもりの人たちの必要経費を家族が支払っているのならそれは依存していると言ってもおかしくはないと思うのです。そして、そんな贅沢ができる金持ちの国に生きていることを知らなければならないと思うのです。「働けど働けどわが生活(暮らし)楽にならざりじっと手を見る」の現実は、50年程度前の日本のことでしかないのです。引き籠ることさえ出来なかった過酷な社会だった日本が、人間らしい生活を求めて努力した結果引き籠ることも出来る国になりました。そして、引きこもっていても食べていける日本の豊かさは、実は他国の貧困の上にあることも知ってほしいことです。今日の状況は、家族の絆と心配の上に乗っかって、衣食住を依存しているのが引き籠りではないかと思うのです。確かにいじめられたり社会との接点が、本人を拒否し否定し理不尽な一方的攻撃にさらされたという状況はあったとしても、それを家族が受け止め支えなければならないというのも違うと思うのです。そして、社会から被害を受けた引きこもりの人に加害者かもしれない社会から手を差し伸べるべきだというのも違うと思うのです。誰もが強くはありませんから小さな戦いを起こすべきだとも思わないのですが、接点は作っていかなければ依存しているだけでそれは自分をいじめているだけだと思うのです。もがいた手足に出会った接点に依存とは違う生活があるかもしれないと動かしてみてほしいのです。

測定不能ではなく分からないが本当ではの話

 川は、太古からただ普通に流れています。雨が多くなれば太く、少なければ細く何の不思議もないことです。台風で被災した方には申し訳ない話ですが、川があふれたのは人間が作った堤防からで、川は、過去にも流れただろう場所を流れたにすぎません。むしろ川が蛇行し様々な流れ方をしたことで、平野が出来たり扇状地が出来たことは、学校の地理で習っていることでもあります。川が作った平地に後から来た人間が勝手に住みついて、川にここは俺が住んでいるので勝手に流れることは許さないと、堤防を作って川を隔離したにすぎません。そんな人間の押し付けに文句も言わず、川は、初めの一滴から始まって、ちょうど逆さまの木の根のごとく、小さな川の水を集めて、海へ向かって流れているだけです。ですから、逆さまの木の根の小さな川が、溢れてくれば大きな川も溢れるのは当然です。降った雨の水量に合わせて川はその量を下流に流しているだけで、その水量が少ない時に勝手に人間が住みついたとしか言えないのです。繰り返しますが、川は普通に流れていて、大雨になれば流れ込んだ水を下へと流しているだけで、人工物に挑戦しているのでも、牙をむいているのでもないのです。単なる物理的に、人間が想定して作った容器から溢れ、雨が止めば、いつもの川に戻ってしまうというだけのことです。同様に、クマが住んでいたところに人間が住み、追い出されたクマが生活の居場所を失って人間に取り上げられた場所にちょっと出てくると、人間が驚いてすぐに殺されているのです。イノシシなんて、体で土をほっくり返してミミズを食っているのにコンビニ弁当の残りを食べてしまったならもう、ミミズなんて食べられなくなって新しい食物を探しに来るのです。川が流れていたところに人間が住むためには、治水と言って堤防を作ります。昔から水を制するものは天下を制するなどと言われ、水との戦いだ自然との闘いだと言っていますが、それは人間の一人相撲で、みんなの人気を取るために言い出した政治的誤魔化しであって、自然が人間に挑んできたことなどありません。堤防で川を制御しようとするから溢れただけで、それは予測不能ではなく、人間の見積もりが間違っていただけなのです。大地は、雨によって削られ、流され、その恩恵によって植物が生え、動物が生えています。最後に来た人間がそんなに欲張りに独り占めしなくてもいいのではありませんかと、雑草がいってもおかしくない今日なのです。人間が作りだした機械・重機が、洪水や干ばつを繰り返してきた自然に対抗出来るような錯覚に貶めていることが、川でもなんでも予測ができると驕り切っているから測定不能などと言い訳をしなければならないと思うのです。異常気象ということで、台風が来て、電柱が倒れて、停電となり、堤防を超えて洪水となったということで、あたかも台風や川が悪人の如く言われています。古来の日本では、これらのことは神の怒りと考えていましたから鎮まるまで、じーっと待っているだけです。祈祷の様な今日では非科学的で根拠のないものとして、否定される様な事をクドクドと行って待っていました。今日では、天気予報を見ながら、自然との闘いに勝ったかの如く堤防を含む人工物に頼り切って満足できないと人間同士で非難し合い挙句に予測不能だったと言い出します。盛りだくさんの人工物を作らなければならなかった主たる原因は、人口が増えたという事だと思うのです。科学は、人口増に対して素晴らしい力を発揮して衣食住を提供しました。結果、災害が起きるところにも人間が住むようになったという事や災害が起こるべき原因の人工物を作ったという事だとも思うのです。ただ、それは自然への挑戦としてではなく、人間同士の経済・政治の戦いの中で弱者を作り出して追いやったというのが本質です。つまり、人間と自然の闘いの中で人間の科学が、自然に勝ったという嘘に乗せられて、人間の科学の誇示や横柄な態度の言い訳に弱者が追いやられて行っただけです。川は人間が住む前から自由に流れていたのです。後から来た人間がここしか流れてはならないと柵を作ったのが堤防です。家畜の如く扱えると思ったのが堤防です。風は自由に吹いていました。人間が電気を使うために電柱を立てました。人間が通り易いように道路を掘削しました。でも科学で、気象を自由に出来る時代は、やってきません。なぜなら地球も生きていて、全部にバランスのよい気象などあり得ないからです。測定不能は、驕りだと思うのです。自然を予測できることと思う事が間違いだと思うのです。地震の予測は出来ないと地震予知を諦めたことは賢明です。人間が予測できることは占い並みだというぐらいに自然と接することが大事だと思うのです。災害はやってくるだから自分が住むところが一体どんな地理的な歴史を重ねてきたかを学習する機会を持つ必要があると思うのです。

 

丸見えになるキャシュレスの話

 今や時代は、キャッシュレスになると言われています。でも、考えてみるなら、カードだろうとスマホだろうと、購入したという根拠が無ければ口座からお金を徴収することが出来ませんから、何月何日何時に何を幾らでどの店で購入したとの明細が記録されなければなりません。そして、その記録は、自分自身が保管できるのではなく全く知らないどこかのサーバーに蓄積されるということです。あの有名なフェイスブックだって個人情報が漏れたように大きなコンピューター会社同士が情報の売買や共有化を図ったとしても絶対に公表されずに行われてしまう可能性が高いのです。なぜなら、今の法律よりコンピューター世界はどんどん勝手に進んでいき、利益が上がる方法に幾らでもルールなしに取り組むことが出来る環境にあるからです。キャッシュレスになって貨幣を持ちあることがなくなる方が便利なように見えますが、現代の私たちの生活は、自己生産は何もしていませんから、生活の全てを購入という行為によって支えています。この購入の軌跡を確認すると、生活感だけでなく、性格や生活行動、ひいては思想信条まで類推することが可能となります。その記録を分析すれば、あなたが購入したいものがいつ行っても必ずあるという環境など、簡単に作ることも出来ます。今は、色々な会社がやっているから、バラバラなカードにしておけばそんなことは起きないと思っていたら、気がついたときには会社同士が情報交換していたとか、統合されていたということぐらいとても簡単に起きてしまう世の中になっています。今までは、現金もあれば、信販会社の違い、各種の銀行口座の違いと、幾種の方法でしたから、個人の生活の一部は掌握できても、全体像までは掴めませんでした。しかし、全ての購入が、AIに処理されてしまうと、自分たちが知らない間に統合されていて丸見えにされて、誰かが覗いていてもわからないという危なさが迫っているという事でもあります。沢山の監視カメラと キャッシュレスの軌跡を合わせれば、行動の軌跡は、ナビのように出来上がってしまうということです。自動販売機の飲み物購入だけでも行動が推測できるのに、キャッシュレスになれば、現金の様な不明記録はなくなり、一円でも使用すれば記録として蓄積され、一瞬にして統合されて、家計簿以上の個人記録が作成されてしまいます。国民ナンバー制でお金を管理しようとした目論見は、強制できずに金ばかり掛かっていますが、今や国民自らがキャッシュレスという方法で、自分のお金の動きを正確に明示しようとしています。会社が違えば大丈夫などと思っていたら、民間会社が結託することは、可能ですし、株式会社なんて簡単に売買できるのですから、その会社が持っている情報が資産として売買される時代が来ていると言うことです。現代では資産が土地建物などより遙かに情報の方が高価になっているのです。法が整備されて、自分の情報保護が確立されているなら同意なしには大丈夫ということもありますが、今法律はありません。例えば、スイカ使用の記録は誰のものですか。携帯電話の通話記録もそうですが、請求すれば詳しい記録が明示されるあの記録は、誰のものといえますか。リクナビが起こした就活学生の分析情報の転売は最近のことですが、この事件をヒントに情報とその分析によっては売れるという事が明確になりました。しかし、罰は無いのです。これからは、個人情報を買うのは詐欺的犯罪者ではなく、社会的な普通の会社が、マーケッティングの一つの手段として購入することが現実に行われる可能性が高まっています。便利である向こうで虎視眈々とみぐるみ剥がされることになりかねないのです。宮沢賢治注文の多い料理店は、町の裕福な上流階級を裸にしていくという物でしたが、現代のキャッシュレスレストランは、便利だと派手に宣伝して、個人の警戒心をどんどん落として、防衛できない裸にしてしまうのです。キャッシュレスの向こうにあるのは、管理された社会ではないかと思うのです。

人の人生に関わる仕事で自己満足している人たちの話

 福祉を生業としている人たちの中には、自分の仕事に酔っている人がいます。福祉では、本人の事だけではなく、家族のプライベートまで支援者の知るところとなります。更に人生の方向性までも支援サービスと言って関連付けて口出すこともおおくなり、相談支援者や施設の職員は、家族でも出来ないことを自分のお金でもないのに可能にすることもあります。すっかり馴染んでしまうと、家族からは感謝され、自分がいないとあの家族は大変なことになるぐらいに思いこむことも出来ます。そして、同業者同士が集まると、困難な事例を自慢しながら、自分が如何に働いているかを得々と並べるのです。でも、あなたがそうしなければ、相手はもっと良くなっていたかも知れないなんてことは絶対に誰も言いません。何故なら、上手くいかないのは障がいがあるからで済ませてしまえるからです。つまり成果があったら私の支援があったから、失敗したら障がいがあるからと言い切ることが出来るのです。これが中毒になる陶酔できる原因でもあるのです。上手くいったら神様の思し召し、上手くいかなかったら信心が足りないとちっとも変わりません。結果がどうなろうと私は努力しあなたのために尽くしているという思いこみと周りの頑張っているという福祉的称賛で仕事に酔ってしまえるのです。だから、あなたの支援サービスで悪化したのではないですかと言うと本当に落ち込みます。そして、辞めると言い出します。国が人の人生に口出しするのは、関与しないと社会全体の安定に亀裂が生ずることが歴史上あったからです。その教訓として福祉の制度はあるのであって、本当に弱者のためではありません。もしも、本当に政治が弱者をなくそうと考えているのなら福祉は不要な政策です。ですから競争社会の歪として生ずる弱者対策の一つにすぎない現在の福祉施策は、社会安定維持装置の一部分でしかありません。どんなに格好つけても、福祉施策の末端で働く福祉サービスの職員は、現代の福祉の施策の片棒を担いでいるだけです。福祉の施策は、万全でも、最良でも無いのですから、その手先に出来ることは当面のことであって、人生の羅針盤みたいなことは本来出来ないということを自覚しなければならないのです。困っている人を助けるということは、自己満足度の非常に高い行為です。でも、自分が、困っている人を作り出している社会の一員でもあるということにも気付き、その社会の悲哀を緩和する役割を、自分の生活の糧にしているということに思いを寄せるべきです。仕事として報酬を貰うなら、その行為は当然のことをしただけだし、責任を果たしただけであっても、相手からの感謝の言葉や社会的な評価があると自己満足度を上げます。医師は、昔から高い評価を受けていますが、人の不幸で食べている人と言う言い方もされます。しかし、医師は、困難な国家資格であり望めば就業できるものではありません。それに比べると、福祉関係は案外簡単に就労できます。しかも、生活と言う最重要な課題に直接関わることが出来る仕事ですが、技術的に優れていなくても出来ます。自費で行っているわけでもなく、仕事として税金を使っているだけにすぎませんが、弱者救済という社会評価を得られる反動なのか、自分の思い通りに行かないと「こんなにやってあげたのに」「こんなにもこんなにも、頑張ったのに裏切られた」となって、恩を押し売りするかの様な愚痴を言い出します。つまり、自分の満足感が満たされないと、反面で弱者攻撃の原点になったりもします。仕事に、陶酔できるのはとても良いことです。しかし、他人相手の仕事で自己陶酔されてしまうと、自分の思いこみが強くなって押し付け的な対応がどんどん強くなっていきます。私が本人を支えている、私がいなければ障害者が困ると自分が思いこんでいますから、検証は勿論批判も受け付けません。善意の装いをした押し付けほど始末が悪いものもありません。福祉は、淡々と業務を遂行していると冷たい感じがすると言われ、実務が出来なくとも明るい熱意が感じられる方が評価される職場ですが、酔ってしまってはならない職場でもあるのです。

精神的に病んでいるとしか思えない人が職場にいたらの話

 職場の対人関係において、みんなとはちょっと違うかなと思う、反応だけでなく、そこに何故拘るのかという行動をする人がいても今日では差別や人権問題がありますからうっかりとしたことは言えないので、みんな言葉にはしません。でも本人以外は、困ったなという事では共有しているという環境の職場があったとします。少し前なら「空気が読めない」「鼻つまみ者」「お荷物」などと陰口をたたかれ、時にはいじめにもあっていましたが今日では過去の様な誰もが分かるような表現や対応はせず、放置する、出来るだけ関わらないという風にして「触らぬ神にたたりなし」と決め込んだ方が大人の対応となってきました。しかし、周りが如何に関わりを減らしたところで、本人は透明人間ではありませんから、当然向こうの方からやってきます。そして、みんなの態度に益々職場の自分への対応が、不条理だと感じるのです。そう、双方が相手の行動を、不条理だとも、理不尽だとも感じ合うのです。そして、孤立する協調性のないと言われる人は、徐々に、被害者意識に包まれていき、自分の非は、絶対に認めない人になっていきます。そのことが周りからの誤解が増幅する原因にもなります。周りみんなが自分に対して攻撃的だと思いこんでいる人にとって、非を認めることは制裁を受ける可能性があるという不安がありますから、非を認めないことは、自己防衛そのものとなっています。そして、自分が攻撃されたと思う相手には、しっこく騒ぎ立て、時間も相手の都合も関係なく離れず抗議し続けるのです。こんな職員には、職場としては辞めてくれたらと望んでも、今どきは簡単に解雇なんて出来ません。特に、関係しなければならない職員は、出来るだけ本人との関わりを拒否しがちですからチームを組むことが困難になり、業務の範囲も狭まります。にもかかわらず、被害者意識が高まっている本人は、辞めるという選択肢をさらに遠ざける思いこみに入っていきます。それは、辞めることは逃げであり、負けることだから、なんで正しい自分が排除されて、悪が蔓延るのかと言う思いが強くなっていくからです。自分が頑張っていることが、正義と職場を守っている自らが防波堤となっているとの使命感すら育てていくからです。ちょっとしたドラマのヒーローストリーに類似していると思いこむことが可能だからです。ですから繰り返されるわけのわからないと思われる抗議も、正義の戦いなのです。いじめの加害者が社会の求める反省が出来ないのも、自分は加害者ではなく被害者だという確信した思いがあるからです。多様化の時代は、柔軟だったり、浮遊的な人には自由と感じるかもしれませんが、固定的、信念的な考え方の人にとっては、拠り所のない、基準の不安定な社会そのものです。もっと言うと、普通が一番難しい時代に、バランスを取り続けた結果、バランスに困惑した挙句に、頑なになってしまってしまった人がいるのです。そして、本人はブレないように必死に自分を守っているのですがそのことが周りとの接点を狭めていきます。そして、弱い人ならいじめに会いますが、いじめにも負けず、自己防衛に専念する行動は、周りも困らせていくのです。誰もが、辞めてくれればいいのに、今どき就職先などいくらでもあるのにと不思議に思うのですが本人の使命感は強く、辞めさせようとしている管理者はすべからく悪の手先でしかありません。そして、ミスをすると辞めさせられると信じ込んでいますから、型通りの安全業務と本人が思いこんでいることしか行わず、時に指示される応用的なことの業務も罠としか考えられません。一方で、日常業務は本人の中で完璧に出来ていると確信していますから、何か指摘されると、猛然と反撃しミスは認めません。ミスがあるとしたなら、陰謀によって陥れようとしているとしか考えません。それでも好意的な人は、非難しながらも、病気なんじゃないのと同情的になってきます。その同情的な対応も、自分に対する攻撃と一つとしか思いません。それは、病気にして辞めさせようとしているです。本人は、もし、病気で辞めたなら、再就職はもとより、ここでの自分が否定されてしまうことになってしまう。としか感じませんから、自分への同情者すら、自己防衛の対象となってしまいます。孤独なのです。過去には「空気が読めない」「鼻つまみ者」「お荷物」などと言われた人は、自己否定を強要されましたが、今日では、関わりたくない困った人になっています。職場は、自分を無視し、監視し、攻撃しようとしているとしか思えなくなるほど、精神的に病んでいるとしか思えない人が職場にいても今日の風潮では、誰も、関わることが出来ません。遠巻きに様子を見ているだけです。その中で、被害者意識だけが、どんどん増幅していくのです。

教団に所属しない仏教徒たちの話

 学校で、歴史を習うと栄枯盛衰を羅列したように説明されるのですが、その栄枯盛衰の原因や見解は人によって大きなずれがあるだけでなく、見当違いなことや、後年になって逆転されてしまうことも多くあります。しかも歴史上の人物であっても、記録を残す習慣などありませんし、紙はとても高価で、燃えやすく、水に弱く、さらに何度もリサイクルされていることも多いことから、記録が残ることの方が不思議なぐらいなのです。あの有名な源氏物語だって原本はないのです。さらに、栄枯盛衰では勝者の正当性が宣言できればいい程度の足跡しか記録として残りませんから、歴史では、推測や妄想がひしめきあっています。実際、歴史として知りたいことは、結果よりも背景や情勢・状況なのに、そんな資料は残されていず、歴史は見てきたような嘘をつくぐらいの勢いで言う人の話が真実のように見えてしまうのも事実です。戦前は、神話さえ歴史と権威ある学会から大学までもが教えていたように、不適正な解釈や間違いとは言えないが疑わしい解釈が沢山ある中で、権威の競い合いをしていますから、絶体視して信じ込まないことが無難と言えます。権威がありそうな考古学でも、大量の生活用品の中で遺物として残っているのは極ほんの一部です。縄文時代なんて一万年もあるのにその遺跡にのこっているのはほんの少しで、ほとんどの生活用品は土に帰ってしまい異物としては残っていません。つまり、歴史学は残された物で何とか理解しようとしていますが、言葉や行動、表現などの人間社会の中で一番重要で一番変化してきたものは何も残っていないので分からないのです。そして、歴史の半分は政治経済ですが、半分は宗教が深く関わっていたといえるのです。しかし、日本の戦後歴史教育では、宗教を学ぶことはご法度で、せいぜいが、誰がどんな宗派を起こした程度としていますが、象徴天皇が行っている重要な行事は、宗教行事でしかありません。ですから、学校教育で世界史を習って何故ユダヤ人が虐殺されたかも、イスラム教が何でキリスト教と対峙することになったのかも理解することは出来ないのです。ユダヤ教から派生したキリスト教イスラム教が源流は同じなのに政治を動かしなぜ戦っているのか分からないことが多すぎるということになるのです。日本で言えば、比叡山の焼き討ちが意味するところも単なる抵抗していたからではなく、政治の栄枯盛衰の裏側の重要な主役であることを学ばないと分からないことなのです。そんな宗教とは何かを一切学ぶことなく、大人になって宗教には無関係・無関心でいたのにいきなり関わらならなければならないのが、葬式です。ある程度の年齢になると、葬式と言う儀式に行かなければならないことが発生してきます。当然葬式の作法は、その宗教によりますし、宗教の宗派にも影響されます。もっと言えば死生観によって死への考え方は大きく違いますから、死者への礼節を生きるものとしてどのように対応してけじめをつけるかと言うことが葬式の儀式方法になると思うのです。その時になって初めて「うち何宗だったけ」と聞いて、そのまま教義も聞くことなく、その宗派であることに安堵してしまう人であっても、その宗教の生に対して、死に対してどう考えているのかだけでも確認すべきですが、当面、焼香はどうするか、線香はどう扱うか、葬式で恥をかかないためにはどうしたらいいかぐらいを確認できれば良くて、坊主のお経なんてどうでもいいことになってしまいます。そんな葬式の時だけ仏教徒が増えたのは、日本の仏教が観光地と葬式で生活して布教しないからです。教団の基本は、布教による信者の増加と信者から吸い上げる資金による勢力拡大です。そのことがより多くを救うことであり、布教は人類救済という使命の実践であり、教団はそのサポート組織として資金を集めるのです。インドで仏教が大きく組織化しなかったのは、在家信者を認めず、教団を組織しなかったからです。日本では、逆に国家仏教に始まって、基本が在家信者の組織化を目論む布教をしますから、宗派とは教団とも言える状態なのです。そして、教団は、布教によって信者獲得をするほどに、信者から資金が集められ、その資金に目がくらんで堕落していくのです。そんな宗教でも歴史を動かしてきましたし、マルクスらは宗教を毒とまで言いましたが、生活の道徳観にまで大きく影響を及ぼします。それは、政治が現世であることに対して、宗教は、前世、現世、来世という人間の歴史の中で常にテーマとなっていることに回答しているからです。中国の儒学では、現世しかありませんから、宗教として広がらないのです。宗教は、どこからきて、どう生きて、どこへ行くかと言うことを明示します。その教えが正しいと思わせるために、壮大な仕掛けとしての儀式や建造物・彫像物を作り出します。葬式仏教と言われた、日本の仏教は、日常生活から遊離してセレモニー業者の請負人になりつつありますが、本当は、宗教を学ぶことなく歴史を学ぶことは歴史の栄枯盛衰の真の動機を探り当てられないことになるのです。どんなに歴史の学習をしても宗教という側面が欠落していると理解は半減するのです。その意味で、今の日本の無関係・無関心は宗教を冷静に学ぶ絶好の機会と考えられます。もし自分が信じる宗教を持っていると歴史もその宗教の持つ視点からしか学ぶことが出来ません。逆に、無宗教と言う人ほど冷静に見られるのですから、宗教を学ぶには良い機会だと思うのです。宗教を信者の視点では無く学んだ上で歴史を学ぶと点と点が結びついていくと思うのです。歴史はその方がずっと分かりやすくなるのです。すると逆に、教団に利用されていない自分流の仏教徒になるかも知れません。