知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

土人と言った警官の我慢の話

    沖縄の基地問題に政府の警備員として派遣された大阪府の警官が、沖縄の人に向かって土人と言ったと言うことです。「土人」は、差別用語として、差別意識として問題なのですが、私は違う視点から、関係者の厳罰が必要だと思っています。それは、土人という意味さえ分かっていないと思う若い警官には「無知」という言葉ですみますが、職務としての業務や立場が理解されていないことは無知ではすまされません。警官というのは逮捕という人を拘束できる権限を持っているのですが、その根源となる権力が有って成り立っているのであって、自分が偉いからでは無いことの理解です。つまり、権力の先端にいる事は事実ですが、自分が偉くなったつもりでいたなら警官という職業には適さない人だとしか言いようがありません。関西では、過去から部落差別問題などがあり、公務員への研修としても差別とは何かについて相当の蓄積があるはずです。なのに、「部落」という言葉が「土人」と言葉が変わっただけのような事さえ理解出来ない人が権力の先端にいる事は大変危険です。差別や差別意識は、個々の事例から応用的に理解出来なければ、自覚しないままに相手を傷つける行為ですから、研修の事例から何を学ぶかが身に浸みていないのです。差別や差別意識は、無知が引き起こすことは実証されていて、学習の機会が一番大切である事も実証されています。少なくとも、いじめを含めた学習や研修の中で、差別や差別意識は「無知」によって生まれ、無意識に相手を攻撃する手段になって仕舞うと云う事は頭の中では理解しているはずです。そしてこの警官も、勤務外には沖縄の街に出かけ、食事をし人とも接して自分たちと同じ人間と言う事を感じていたはずです。なのに「土人が」と言ったり、また他の警官は「シナ人が」と言ったりしているというのです。それを上司である大阪府の松井知事は「現場では相手からも散々言われる職務をしているのだから、本人達をたたきまくるのではなく、一生懸命やっているのを認めよう」と反省は必要だが責めるべきでは無いと本人をねぎらう発言をしています。私は、差別発言の前に、知事は上司として、職業人の心構えを話すべきだし、心構えなしに送り出したことを謝罪すべきだと思うのです。でなければ大阪の公務員意識改革は、トカゲのしっぽ切りだったのかとしか言えなくなってしまいます。

 民間の会社員は、相手にどれだけ罵倒され、辛い憤りを感じても、会社のためにただ耐えて我慢していると言う事はいくらでもあります。理由も分からないような理不尽な攻撃にもひたすら会社の為に我慢しています。この度の大阪からの派遣は、事前に分かっていたことですし自分たちがどんな状況の中で業務を行うのかも事前に学習できたはずです。沖縄の人達では無く、事案に反対している人からは敵の手先としか自分たちが見られないことも、どういう情勢なのかも学習しているはずです。だからこそ警官は、国家のためにどんな挑発にも負けずに我慢するのが基本と教わったはずです。警官は、職務として給料を貰って命令でそこにいるだけの職業人です。しかし、現地で反対している人は自腹で生活を掛けて願いを掛けて闘っている住民です。現地で根性を据えてて闘っている人に接するのですから、警官は恐怖も不安も興奮も最高に高まるのは当然です。だからこそ、職務として我慢の出来ない警官や挑発に乗ってしまう警官など不要なのです。もしこれが国と国が関わるような警護だったらたった一人の警官の暴言・暴走が戦争になることだってあるのです。現に過去の戦争では一発の銃声から戦争が始まったこともあるのです。人間として我慢している沖縄の人に比べたら、大阪府警という看板を背負いながら短期間職務として勤務時間しか対峙しない警官が、じっと我慢できないというのは未熟者そのものです。海上保安庁が中国・韓国・ロシアと接しながらじっと我慢しながら国を守っているのからすれば意識が低すぎます。警護や警備は、我慢が基本にあるぐらい理解させて派遣すべきで、そんなことも出来ない職員を派遣した関係者も処罰されるべきだと思います。

隔離・拘束するしか犯罪への罰は無いのかの話

   小説などでは、完全犯罪がメインテーマとなっていますが、現実には案外犯罪として認知されていない死亡は多くあります。正確ではありませんが、日本の年間死亡者数は約120万人ぐらいで、警察が扱う「異常死」は約17万人ほどいて、この中に3万人とも4万人とも言われる自殺として処理された人数が含まれていると言われています。異常死だからと言って、テレビドラマのように死因究明の解剖が行われることも無く、自殺か殺人かなんてことも死体を見た警察官の感で犯罪だと言えば捜査が決まるとも言えます。さらに、これほど管理されているような日本でも、行方不明や死亡者の身元がわからないということが年間800人程度いるとのことで、事件性が無いとされれば、死体があっても淡々と処理されてしまうのです。ですから、現実には、小説よりももっと多くの犯罪があって、犯人として捕まるのはその一部なのかとさえ思えてくるほどですし、死体の見つからないままの死もあって、何かの切っ掛けで見つかる犯罪もあります。行方不明、迷宮事件、色々ある中で、犯罪として捜査され逮捕された人の罰は、刑務所というところで、社会からの隔離、拘束するだけの方法が長く続いています。確かに、過去の政治犯なんて言うのは、拘束しておかないと反政府活動をするからと言う理由がありますが、犯罪者を長く拘束したからと言って再犯率が下がるかというとそうでもなく、国家に強制された罰としての隔離・収容にただ我慢するだけで矯正教育効果は案外低いのです。つまり、軽犯罪と言われる犯罪から、重犯罪まで犯罪者の刑罰が、基本拘束・隔離収容すると言う罰の方法だけで、犯罪者から社会防衛が出来るとは思えないのです。しかも、犯罪者の人権保障と言われ、体罰や強制的対応も減少しています。確かに、拘束しているのですから、犯罪を犯すことは出来ませんが、国が拘束隔離すると言うことのために、犯罪者の生活と安全の保障に実は多大な額の税金負担が行われているのです。極論で言えば、壁の中では生活を保障し被害者からの報復や災害からの安全や医療まで保障するというまるで壁の中で飼育しているような状態で、その単価経費は生活保護費より多いのです。さらに、刑務所内で働いた場合は単価は低いとは言え報奨金もあり自費0で貯金も出来る仕組みになっています。建て前としての矯正・更生教育も行っていますが、犯罪者の多くが自己の欲望の実現を社会ルールに反してでも可能にしようと被害者が出ても実行した人達で、基本的な人間関係の考え方に問題がある場合が多いのに、欲望の誘惑の無い特定の人間としか接しないのですから訓練にも教育にもなりません。自由を拘束して、更生教育と言っても、欲望誘惑の刺激の少ない拘束された中で、何十年生活しても、社会の多刺激の中に戻れば、再犯と言う事になる可能性は高いのです。犯罪者を隔離・収容するために、刑務官の人件費だけで無く、受刑者の生活費、刑務所の維持・設備費、裁判官や検察官、弁護士の費用も刑務所に何年拘束するというだけのことのために多大なお金を掛けています。それは、刑務所で隔離収容期間を決めるという罰のためだけの裁判でもあるからです。もし、罰の方法が変われば、裁判も大きく変わります。死刑反対という意見もありますが、死刑では無く終身刑だとしても、一生刑務所で飼育することもは生殺しみたいなものだと思うのです。

 現代では、過去の時代以上に、個人の欲望を満たす範囲が広がっています。薬物を含めた精神に異常のある犯罪も増えています。一般市民に対しての不安や恐怖、害なす存在に対しての、犯罪の抑止効果として刑務所という罰があるのですが、この処置は、犯罪を犯した場合であって犯罪を犯していなければ、一般市民が不安だと思っても拘束は出来ません。実際暴力団も存在しますし、捕まっていない振り込め詐欺師達も沢山います。つまり、被害があっても犯罪として立件されなければ拘束されませんし、罰としての刑務所の自由と時間の拘束が苦痛ではない人に対しては抑止効果は一段と低下しているのです。実際刑務所の中では、働かせているとは言え7時間労働程度です。何故なら刑務官が8時間労働ですから、仕事場への往復引率の時間や食事の時間の監視など組み合わせれば、交代勤務でもその程度がやっとで、刑務官を増やすか超勤でもさせなければ、社会と同じにはならないのです。それだけでは無く、武器や凶器になる様な仕事は厳禁ですから、刑務所の仕事は意外と限定されています。過去には、北海道の鉄道建設など屋外での過酷な労働もありましたが、今では殆どが室内です。労働時間は少ない職種も少ない、しかも職場で一番大事な対人関係も限られている社会に、長く拘束していれば人は変わるかと言う事ですが、かなり困難だというのが私の考えです。何故なら、人間は環境適応型の能力を持っていますから、隔離拘束という生活にすぐに適応し慣れてしまいます。後は我慢しているだけですから、社会不適合要因が消滅することは本人の成長にも拠りますが容易ではありません。過去の罰は、身体的痛みや身体機能への罰でしたが人権と言う課題から、今は、隔離・拘束しか無いと言うのが現実です。外国では、マイクロチップを身体に埋め込んで社会に出し行動監視するという方法も一部では行われていますが、被害に遭った人からすれば、加害者が存在する空間は不安です。私刑が禁止されているように罰は権力が無ければ実施できないものですが、社会の防衛として犯罪の抑止効果としての罰が、隔離・拘束だけでは効果が薄れた時代に入ってきていると思うのです。罰のあり方、罰とは何かを考える時に既に来ていると思うのです。

御用学者の自覚はないの話

 政府や自治体と言っても常に専門家を抱えているわけではありませんから、専門委員とか諮問委員とかやたらと委員会を作って専門家と言われる大学の偉い先生を招いて専門家の意見ですと権威を付けて施策を実施するというのは、日本では常識です。一般的には、その学会に推薦を求めたり、行政関係者の知り合いだったりするのですが、選定の段階で恣意的に選ぶのは当然で、公平なんてことは無く、招集する側の都合のいい人が集められます。都合の悪い人や何か問題のある人や政治活動の可能性がある人は除かれますし、当然行政の趣旨に批判的な人も除かれます。しかし、この段階で、本人は御用学者なんて感覚は全くないと思うのです。むしろ行政に自身の研究が認められたということで光栄ですぐらいの感覚だと思うのです。つまり、行政を利用しようと言う学者なんてそんなにいるわけがなく、声を掛けられて嬉しいぐらいに参加したら、まんまと行政の盾代わりに使われてしまうと言う事が多いと思うのです。それは、社会問題が起きたときの、テレビに出演している学者と同じだと思うのです。テレビが盛りあがるような反応をしてくれる学者が出てきて、その発言の責任もその後の処理も無く消えていくというパターンです。違うのは、行政というのは、もっとはっきりとした目的や到達点を設定していてちゃんと事務局がそこまで手を引いて連れて行ってくれると言う事です。ですから招集された学者は御用学者だなんて少しも思わず、行政が議会や市民に専門家の意見ですと言って、自分たちの施策があたかも専門家がお勧めしているものだと言う事にすり替えるためのイベントにすぎないこととは思ってもいないのです。しかも特定の研究となるともっと狭められて、研究者が一族郎党皆同じで師匠と弟子の関係になっているなんて事もあります。最近では、東京電力福島第一原発原発震災以来、原子力ムラとまで言われたのも、多大な設備や核開発にも繋がるような研究は、東大や京大など拠点大学が一手に握っていて、原発の建設や運転に役立つ人材や科学者を育てていましたから、この大学の師匠と弟子が東電原子力発電所にも大学にも、行政の専門官にもなっているだけのことです。原子力については、全部御用学者の集団みたいな所しか日本には無かったのですから、本人達だって御用学者だなんて思ってもいないことです。しかし、この中にいれば、政府の審議会の委員になったり、他の大学でそれなりの職にも就けますし後々まで研究の設備利用も協力してもらえます。こうして、実態は知らぬ間に御用学者になっていくのです。

 御用学者が市民を苦しめた典型的な事例は水俣病にあります。水俣病発生当時、チッソが原因と研究者が証言しても、当時の政府や国策企業(チッソ昭和電工)の意に添って原因をはぐらかせ、その結果、被害と人々の苦しみや差別を拡げてしまったのは御用学者たちでした。日本化学工業協会や医学会などの業界や科学者の組織も、国や行政の味方をしました。その後も、専門家として間違っていましたとは言えないから、そこに人が苦しんでいても御用学者の列を離れたりはしませんでした。同じように、今豊洲の問題が発生したときも、飲んでも大丈夫とか、基準値を超えていても大丈夫と言うことの出来る学者は御用学者なのです。つまり、自分の研究が誰のために役立てるべきかの判断が出来ていないのです。出来ている基準が、研究者として最低基準なのか最高基準なのかも理解出来なくなって、自然界でも同じ程度にありますと簡単に言って行政の盾になるのです。水俣の時も福島の時も専門家が大丈夫と言って大きな被害が出ましたが、行政も専門家も責任は取りませんでした。石油化学だけでなく、今人間は元々自然界には無かった物質を作り出しておりその安全性なんか誰も保障できない領域に入っています。自分の研究は誰に役立てて欲しいのかという原点を忘れてしまって自分が御用学者になってしまってるかも知れないというと自覚出来ない学者が、行政に頼りにされていると自惚れていると歴史の中で批判される御用学者に名を連ねることになるのです。

進化は幻想、進化では説明できない人間の性の話

   まず、多くの生物で性が存在する理由は分かっていません。子孫を残す方法として大まかには、雄と雌という個体に性が分離している有性生殖、単純に自分が分裂などして個体を作ることを無性生殖、受精を経ずに、卵が単独で発生することもできる単為生殖などと言うものが有りますが、いずれが進化形なのかは分かっていません。それは、ある学者が、有性生殖は無性的な生殖に比べて生存に不利であると言ったときから、発情の無い人間の性が進化の結果という説明が出来なくなってしまったからです。単純に言うと、無性生殖の大人は、勝手に自分の欲しいときに自分の分身となる子どもを作り続けられます。しかし有性生殖では、異性を探し、そいつを品定めして、妊娠となりますが、生まれてくる子どもは雄雌半々で妊娠できる数は無性生殖の半分で、この雄の中で育児に参加する種はほんの一握りで受精後は役にたたないだけで無く、もしこの個体が感染症にでも罹っていたら完全に感染してこっちまで死んでしまうというリスクも持っているのです。梅毒やエイズなんてこともあります。さらに、遺伝子情報は混合するので、優秀な遺伝子が伝わるとは限りません。無性生殖ならアインシュタインアインシュタインを作れたのですが有性生殖では、天才の脳を保存するような子を作ることは出来ないのです。よく自然界で雄同士が闘って強い子孫を残すと言いますが、経験値は遺伝しませんからどんなに強い歴戦の動物でも、有性生殖では、その一部しか遺伝はしないのです。有性生殖の方が、無性的な生殖より、人間の進化の根源のように性を考えている人からすると、残念な結果となるのです。そこで、様々な学者が有性生殖の価値を導き出そうと説明するのですが、進化としての説明には至っていません。面白いのは、原生生物の中で、餌不足などの環境悪化による「共食い」から性の起源を説く考え方まで出てきます。その説で原生生物から「性」が始まったとしても、その後引き継いだ菌界、植物界、動物界の中で、生殖と完全に一体となった性を行うのは動物だけだそうです。身体の変化は、後戻りの出来ない変化で、鳥は飛ばなくなっても始祖鳥の前の姿へ変わっていくことは出来ないように、一度変化することは 元へ戻れないというのが生物の変化とも言えます。ですから、様々な動物の中にも、役に立っていなくても、やめることができなくなった身体機能や行動様式も沢山あるのです。今のところ、発情しない人間の性が、進化の結果だと説明することには無理があるのですが、人間の歴史では、どうしても発情しない人間の性が良くも悪くも文明としても大きな役割を果たし、文化から性の痕跡を抜くことは出来ないほど貢献していると思うだけに、進化したシステムだと証明したいのです。人間は進化の頂点にいるとする人達には、発情しない性も動物との違い、文化や文明の根源として進化した性として証明したいのです。確かに、文明後の歴史で性は大きな構成要因ですが、子孫を残す方法として進化したものなのかは怪しいのです。

 現代の性から考えると確かに発情する動物とはあまりにも違う感じがしますが、文明だとされる数千年前よりももっと長いマンモスがいるときから生きていた旧石器文化の人類にも適合するかと言えばもっと性は、動物に近い状態だったとしか思われません。ちなみに、雌雄別が主流な生物群は動物のみで、他の生物群では雌雄同体(同一個体が大小2種類の配偶子をつくる)や性差がない(配偶子の大きさがほとんど変わらない)が主流ですから、生物としては、性や性差がなくても困らないとも言えます。逆に何で性を分離したり性差を付ける必要があるのかと言う疑問の方が大きくなります。人間の細胞の組み合わせ・役割などや神経繊維、脳の構造などは確かに、複雑になっている事は事実です。特に脳は進化したと証明できますが、他の動物と大きく違いのない性に関しては発情が無いことが、進化とは言えません。二足歩行、言語、文明の確保など進化の頂点は人間だと証明する方法は色々ありますが、性の進化の形態は説明されていないのです。つまり、性が分離していなければ、現代社会の性問題は全て無いのです。性が何故発生したかも不明ですし、性が滅びずにつづいてきた事が進化とは説明できないことからも、性が環境に適応した進んだ子孫保存の方法と言うより、性と生殖が結びついた生物が何故か繁殖したと考える方が適切に思うのです。人間は何でも一番のように振る舞おうとし、説明しようとする魔法の言葉に「進化」を好みますが、実際は、複雑化と例外ばかりの自然の中では少数派の生き残りにすぎないのです。現代の人間の繁栄は偶然の賜物で、性や性差は進化では説明出来ない事柄で、生き残りのためには進化していない性に関しての課題を考える必要があるのです。

天皇のチョンマゲの話

 普通、江戸時代までの成人男子の髪型は、チョンマゲと思っていますが、チョンマゲは沢山ある髷(まげ)と言う髪型の一つにすぎません。その髷(まげ)の元となったのは、髻(もとどり)と言う髪型です。この髪型は、長髪を後ろでまとめて上に向けてピンと立てたような形で、前頭部などの髪を剃っていない殿様のチョンマゲの様な感じです。で、この「もとどり」という髪型が、天皇や公家の髪型で、明治まで700年もの長きにわたって続いていたのです。簡単に言うと、天皇や貴族もチョンマゲを明治までしていたと言う事です。何故それが知れ渡っていないかというと、殿様ヘアーのチョンマゲを烏帽子(えぼし)という帽子で隠していたからなのです。有名な聖徳太子の図なんかでも、冠としての烏帽子を被って、ピンと立てた髷の部分に棒見たいのを差し込んで止めているので顎紐がないのです。烏帽子というのは冠の代用品で、本来は冠が序列を表していました。冠は、古墳時代ぐらいから中国を真似て権威の象徴として被るようになり、正装では、金銀・宝石という事もありましたが、日常は漆塗りで固めたもので、代用しました。603年制定の冠位十二階は、冠の序列ですが被るのを抵抗した貴族もいます。養老律令の衣服令(いぶくりょう)ではかなり貴族の官僚化が進み徹底されたようです。その為、冠である烏帽子を人前で外すことは、位を放棄することと一緒ですから、外すことは無かったので源氏物語の絵図を見てもみんな帽子を被っているので、その頭のチョンマゲには気づかないのです。労働者としての侍などは、もっと働きやすい帽子としての烏帽子に変わっていきますが、身分の象徴でもある烏帽子は、やがて人前で外すことはいわば下着を露出するのにも等しい大変な恥となっていきました。だから、病人は、冠や烏帽子を被れないため代わりに鉢巻などを巻くことが多かったとされています。室町以降の武士は、戦闘もあり冠を被らない「まげ」で且つ月代(さかやき)と言って前頭から頭頂部まで剃った「まげ」のままと言う事も多くなりますが、正装の図画などでは、烏帽子を被っています。髪を結わない状態は、卑しい身分の者とされて金太郎の子どもの頃の髪型みたいなので「童」(わらわ)髪と言って見下したようです。つまり、日本は冠を頭にのせることに拘った民族で、髻を結って冠を被る冠着(かむりぎ)の儀礼が成人式であったことから、「冠婚葬祭」と言うときは成人、結婚、葬式、祭礼のこととなり、江戸時代の武士はチョンマゲを露出していますが、正装では、帽子を被ることと帽子の下にまげを結うことが大人だったのです。同時に行ったのか化粧で、男女共お歯黒を付け、引眉することが、貴族から武家、裕福な庶民と広がって明治まで続くのです。

 明治4年に「脱刀の許可」と共に「散髪の許可」が出るのですが、明治天皇は、自分で出した法令なのに従わないのです。重鎮で公家だった岩倉具視なんて、日本の代表としてアメリカへ行って恥をかいて初めて切るのです。女性のほうが好んで散髪したので、だめ出しをしたと言う事まであります。木戸の説得もあって、明治天皇がもとどりを切ったのは、明治6年で、このとき皇后も黛と鉄漿(おはぐろ)をやめたと言われています。伝統と儀礼を重んじる宮中で700年も続く伝統で、天皇の魂のもとどりだって、止めた理由は野蛮だからです。武士の魂の刀を持つなは、秀吉の刀狩りのように武器の規制は治安安定に重要ですが、チョンマゲは欧米から見たら野蛮な習慣だというだけの理由で、日本の長い伝統と文化だと主張すること無く天皇の魂のまげも、あっさりと止めてしまったのです。同様に、心の問題である宗教の神仏混合も簡単に止めてしまうのです。これを英断などと誉めるか、変わり身が早いととるかは別ですが、日本の伝統とか儀礼なんて意外と軽いのです。明治政府が上手くいったから結果論としてこの変わり身は非難されていませんが、上手くいかなくて内戦になったり、植民地になったりしたなら、伝統をあっさり放棄した無謀な天皇となっていたのです。つまり、日本の神道には教典が無いように、日本の伝統の本質は、大転換してでも生き残ることを選択していくことで、根本思想が無いからいかようにも転身出来ると言うのが伝統であると思うのです。つまり、日本の根本思想は、生き残ってこそ意味があると言うことで、生きる事のためには思想より実態を選択すると言う事では無いかと思うのです。

 

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一時保護所は子どもの集荷所ではないの話

   虐待を受けている子どもを家族から引き離す「一時保護」を児童相談所がより積極的に行えるよう、厚生労働省は保護者の同意を原則としないなどの見直しをした新しい運営指針を全国の自治体に通知しました。これは、両親から虐待を受けて自ら保護を求めた男子中学生について、親の同意が得られなかったなどの理由から保護を見送り、男子生徒がその後、自殺したとうことからの対応ですが、一時保護所がどんなところか知りもしない人が、自分たちの責任をただ通知として下に押しつけたのと変わりません。本当は、一時保護所の整備を行うでなければならないのです。何故なら、はっきり言って児童相談所の一時保護所は最悪だからです。児童相談所の守備範囲は、最近は5割が虐待となっていますが、過去には非行が多く、非行は今でも、3割程度います。さらに、養護としての障がいや教育としての発達問題、等々あるだけでなく、年齢差も幼児から児童・少年・青年まで関わるのです。どれほど発達や子どもの特性を考えたなら幅広いかは専門家で無くても分かります。しかし、実際の保護所では、虐待児対応とか、非行対応とか、障害児対応とかの設備も人も揃えてなんかいないのです。一応長くて2ヶ月となっていて、どこかの施設に振り分けるか家庭に返すかを判断する間、生活させておくと言うだけの機能しか持っていないのです。児童相談所の一時保護だから専門的な職員がその子にあった支援をしてくれると思っていたら大間違いなのです。そんなところへ何の歯止めも無く児相の職員に不安だと思われた入れられる子どもの心の傷の方が危険です。

 児童相談所の一時保護所は、場所にもよるでしょうが、外出はもちろん禁止、散歩程度で出るときも集団行動、子供同士の会話は禁止、食事の時も会話は禁止、部屋の窓のカーテンを開けたり触れる事も禁止。なんてルールがまかり通っているところです。それは、非行児童に対しての対応なのですが、外にいる非行仲間が誘いに来たり、示威行動を児相に掛けたりとか、保護所で知り合って地元に帰ってつるんでさらに非行に及ぶなんてことがあったからで、非行対応としては正当なのかも知れませんが、怒鳴り声にも敏感に反応する虐待を受けた児童や対人関係で混乱する発達障害の児童や養護の児童にしてみたら、ここは刑務所かと思っても仕方が無いような環境なのです。つまり、その子の保護された理由に関係なく、8畳間程度に4~5人が自分の私物も持たされずにいきなり隔離されるというのが実態です。特別な理由があって保護されているのに、特別な理由に合わせた設備も人材も何にも用意していないのが一時保護所なのです。虐待の子が、ほっと出来る環境にはほど遠いのです。働いている職員も、非行の子が逃げ出したりしたらと言う思いがありますから、なんとか押さえつけることについついなってしまっているのです。こどもの為だと言いながら、実は、大人の事情を、押しつけた酷いルールでこどもは大人に振り回されて、子供を守る場所のように見えて子どもが傷つくような実態が今の保護所にはあるのです。子ども達が親から逃げてでも来たいような場所ではないのです。少なくとも、子どもの特性に合わせた設備と専門職がいて対応できるように国は基準を変えるべき時に来ています。どうせ一時保護なんだから、衣食住さえ確保できれば良いなんて考えで、連れてくることばかりに許可を出しても、受け皿が最悪なら、子ども達にとっては、二次被害に遭ったようなことになってしまいます。一時保護所は、どこかへ送られていく荷物の配送場のような体制ではなく、子ども達にとって、社会の一番暖かい窓口で無ければならないのに、現実は、収容並です。通過だからこそ大事にしないと、その印象が大人への印象として一生残ってしまうことを国は知るべきです。

 



 
 

 

 

 

ハイビーム運転推奨は歩行者に優しくないの話し

 警視庁がまとめた、歩行者が夜間に道路を横断中、車にはねられた昨年1年間の全国の死亡事故625件のうち、96%の車のライトがロービームだったこと、今年の秋の全国交通安全運動の重点項目として夜間運転はハイビーム使用を呼びかけるとしています。運転者としては、ハイビームの方が100㍍先ぐらいまで見え、扇形に視界が良くなりますから、歩行者の発見も早くなるし、運転しやすいことはその通りで、事故も少なくなるかも知れません。でも、なんで多くの人が、ロービームで乗るかを考えたならもっと他の方法で提案すべきだと思うのです。それは、歩行者にしてみれば、ハイビームで照らされることと、ロービームで照らし出されることの違いがどんなに大きいか考慮されていないと思うからです。大人でも、ハイビームの光源は、丁度真っ正面に近く、歩行者には眩しいというだけで無く全く見えず、つい手をかざしたくなりますし、全く見えない光の向こうに対しての大きな不安が発生します。照らし出されているという不安と共に、車からの威圧感まで感じるものです。また、ハイビームの光は運転者同士でも、直線なら少し前にロービームに変えますが、曲がったすぐにハイビームに出合うと一瞬道路が見えずヒャツトしてしまいます。ハイビーム運転は、過去からも論議されたことでもありますが、多くの人がロービームで運転するのはそれなりの論拠があると思うのです。

 実際に町中では、対向車があり、ハイビームにしたりロービームにしたりをすることは困難です。逆にハイビームやロービームを行っていると、何かの合図か、自分の車がハイビームになっている事で注意されているのかと思うのが一般的な心情だと思うのです。夜間の死亡事故625件中、ロービームの時が597件を分析し、ハイビームだったら防げたのではないかと考えるのも一つの考えだと思うのですが、それだからハイビーム運転を推奨するというのは違うと思うのです。逆に眩しくて起きる事故や切り替え操作による事故の危険の方が増えると思われます。自動車事故の基本は、自動車より人間の方が弱いと言う事につきるのですから、強い自動車が止まることが事故防止の基本だと思うのです。つまり、早めに止まる車を推奨することの方が運転者に期待するより重要な時代に入ってきたと思うのです。