知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

御用学者の自覚はないの話

 政府や自治体と言っても常に専門家を抱えているわけではありませんから、専門委員とか諮問委員とかやたらと委員会を作って専門家と言われる大学の偉い先生を招いて専門家の意見ですと権威を付けて施策を実施するというのは、日本では常識です。一般的には、その学会に推薦を求めたり、行政関係者の知り合いだったりするのですが、選定の段階で恣意的に選ぶのは当然で、公平なんてことは無く、招集する側の都合のいい人が集められます。都合の悪い人や何か問題のある人や政治活動の可能性がある人は除かれますし、当然行政の趣旨に批判的な人も除かれます。しかし、この段階で、本人は御用学者なんて感覚は全くないと思うのです。むしろ行政に自身の研究が認められたということで光栄ですぐらいの感覚だと思うのです。つまり、行政を利用しようと言う学者なんてそんなにいるわけがなく、声を掛けられて嬉しいぐらいに参加したら、まんまと行政の盾代わりに使われてしまうと言う事が多いと思うのです。それは、社会問題が起きたときの、テレビに出演している学者と同じだと思うのです。テレビが盛りあがるような反応をしてくれる学者が出てきて、その発言の責任もその後の処理も無く消えていくというパターンです。違うのは、行政というのは、もっとはっきりとした目的や到達点を設定していてちゃんと事務局がそこまで手を引いて連れて行ってくれると言う事です。ですから招集された学者は御用学者だなんて少しも思わず、行政が議会や市民に専門家の意見ですと言って、自分たちの施策があたかも専門家がお勧めしているものだと言う事にすり替えるためのイベントにすぎないこととは思ってもいないのです。しかも特定の研究となるともっと狭められて、研究者が一族郎党皆同じで師匠と弟子の関係になっているなんて事もあります。最近では、東京電力福島第一原発原発震災以来、原子力ムラとまで言われたのも、多大な設備や核開発にも繋がるような研究は、東大や京大など拠点大学が一手に握っていて、原発の建設や運転に役立つ人材や科学者を育てていましたから、この大学の師匠と弟子が東電原子力発電所にも大学にも、行政の専門官にもなっているだけのことです。原子力については、全部御用学者の集団みたいな所しか日本には無かったのですから、本人達だって御用学者だなんて思ってもいないことです。しかし、この中にいれば、政府の審議会の委員になったり、他の大学でそれなりの職にも就けますし後々まで研究の設備利用も協力してもらえます。こうして、実態は知らぬ間に御用学者になっていくのです。

 御用学者が市民を苦しめた典型的な事例は水俣病にあります。水俣病発生当時、チッソが原因と研究者が証言しても、当時の政府や国策企業(チッソ昭和電工)の意に添って原因をはぐらかせ、その結果、被害と人々の苦しみや差別を拡げてしまったのは御用学者たちでした。日本化学工業協会や医学会などの業界や科学者の組織も、国や行政の味方をしました。その後も、専門家として間違っていましたとは言えないから、そこに人が苦しんでいても御用学者の列を離れたりはしませんでした。同じように、今豊洲の問題が発生したときも、飲んでも大丈夫とか、基準値を超えていても大丈夫と言うことの出来る学者は御用学者なのです。つまり、自分の研究が誰のために役立てるべきかの判断が出来ていないのです。出来ている基準が、研究者として最低基準なのか最高基準なのかも理解出来なくなって、自然界でも同じ程度にありますと簡単に言って行政の盾になるのです。水俣の時も福島の時も専門家が大丈夫と言って大きな被害が出ましたが、行政も専門家も責任は取りませんでした。石油化学だけでなく、今人間は元々自然界には無かった物質を作り出しておりその安全性なんか誰も保障できない領域に入っています。自分の研究は誰に役立てて欲しいのかという原点を忘れてしまって自分が御用学者になってしまってるかも知れないというと自覚出来ない学者が、行政に頼りにされていると自惚れていると歴史の中で批判される御用学者に名を連ねることになるのです。