知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

オオカミを殺せというノルウェーの話

 ノルウェーでは、野生オオカミは保護動物として1971年に指定されているのですが当時は、15~35頭程度だったそうです。ところが、国内で生息する野生オオカミが65~68頭になったことから、ノルウェー国会は、国内のみで生息するうちの7割にあたる、47頭の射殺を法的に許可するという、「野生オオカミ駆除」の決定をしたというのです。国内の事情は、私には理解出来ませんが、理由は、牧畜としての羊が襲われるからだそうで、ヒツジを家畜として放牧し、生計を立てている農民の声に押されてだと報道されていました。そこで少し調べてみたのですが、ノルウェーでは放牧と言っても牧場の柵の中では無く、牧場外で羊が自由に暮らしていることを放牧という独特な方法をとっていると言うことと、オオカミが原因で死ぬヒツジは、1.5~3%でしかも、農家は、ヒツジがオオカミに殺された場合、被害額が政府から支払われると言うのです。もっと決定的なことは、200年以上、ノルウェーでのオオカミによる死亡者はゼロで、人と遭遇することも稀だというのです。むしろもっと危険な動物は、ホッキョクグマで、人を殺した事例もあるのですが、駆除にはならないそうです。遠い国のことで、生活も文化も違いますから、知りもしないで非難することは出来ませんが、北欧という何となく持っている大らかさというイメージが崩れる話ではあります。

 では、もしエゾオオカミが、北海道の大雪山系で今発見されたならどうなるのでしょう。もし、日本アルプス山中で白神山地でオオカミがひっそりと生きていたなら、どうなるのでしょう。今日本では、人に被害を加えたツキノワグマもヒグマも確実に射殺されます。それは、一度人を襲ったクマは必ず人を襲うという専門家の拘りで探し出して殺します。捕獲して自然公園でも作って暮らして貰うという措置はありません。ですから、確実にクマの生息数は減少しています。一方野生の猿が出てきて農家の被害が伝えられていますが、日本政府による保障はありませんし、猿の射殺の許可も国会で話し合われている形跡はありません。また、鹿による山林の被害も大きくなって一部は駆除として射殺されジビエなどとして販売もされたりしています。イノシシによる農地や人家での出現でも駆除として射殺されることは多くあります。そんなニュースの度に、共生が語られますが、動物にとって住みやすい、餌があるような環境は、人間が開発したくなる土地と競合しますから、結果としては開発が一方的に進みます。過去には、アイヌ人を生活の糧が得られるような環境から追い出して開拓者が乗っ取り、アイヌ人には生活の糧の無いような土地に追いやったのと同じような事が、動物に対して行われています。アイヌ人は、人間だから虐待にも耐えていましたが、動物は分からないから人間が勝手に引いた線の中へ入ってきます。そして、害獣と言われるのです。種の保存には、最低どれほどの個体が無いと遺伝子的にも劣化すると言われていますノルウェーのオオカミにとって何か病気でも流行れば全滅することさえあるような現況数字だと私は思うのですが、駆除されると言う事です。一度滅んだ種は復活できません。エゾオオカミは生き返ることはありません。朱鷺やコウノトリが昔のように飛び交う空を目指しても、野生のクマが自由に生きる事を目指す人は極まれです。人権に敏感なお国柄でも、敵対する動物に対しては死を持って対峙するように、人間中心の思考が現実だと言う事です。

民間会社に300年後まで管理させる想定外の話

   東京電力の福島の原子力発電所の事故は、色々な人が驚いたし考えざるを得ない事が沢山ありました。しかし、原子力規制委員会はこの度、原発の制御棒という一番危険な核のゴミを地中に埋めて、電力会社に300年から400年管理させて、その後は10万年間政府が管理するという方針を出しました。あの大津波が来たときでさえ、想定外と言って責任など絶対に取らなかった、取れなかった東電は、電力会社では一番の会社でした。その東電にさえ結局責任を取らせることも出来なかったのに、弱小の電力会社でも持っている原発のゴミの管理を300年以上も管理できると言っているのです。それも、会社としては、既に使い古したゴミの管理ですよ。使い古しても大事に取っておくという方針で富岡製糸場は残されましたが、地中深く埋められたゴミをそんな熱意を持って民間会社が守ると信じることが出来る人は私からみれば異常としか思えません。倒産してしまえば、もう何の関係もないと簡単に言い切れるような民間企業に管理することが出来るとする根拠はどこにもないのです。しかも、エネルギーの供給関係が、100年後も同じだなんて誰も考えていないはずです。特に、送電と言うシステムは大きく変わります。電線が無くなる時代はすぐそこに来ています。戦後国営と同じとまで言われた電力会社も民営となり、経営や需給関係によっては倒産もありますし、外国資本に乗っ取られるかも知れないのです。もし、倒産してしまえば、ゴミの管理なんて簡単に放棄されて、結果は国民の税金になって仕舞いかねません。水俣病チッソという民間企業が生き残ったのも国費がつぎ込まれたからです。東電も、影響が大きすぎると結局国費がつぎ込まれました。でも、それまでそんな管理しかしなかったことの責任を取った人はいないのです。

 本来なら、原発を所有している量に応じた積立金、つまり管理の前払いを国にして貰い会社が倒産しても300年以上確実に管理する方法を施行すべきです。しかし、そんな積立金でさえも、使用量に上乗せさせられるのですが、上乗せすると原発のコストが化石燃料よりも高くなってしまうからそのような対策もしないのです。そして、電力会社は、核のゴミを300年ちゃんと管理すると言い張るのです。天皇家の古墳だってもれなく盗掘されているのですよ。どんな権威を持ってしても、未来何百年も続くなんて事を保障できる体制など在りません。ましてや一人の人が百才まで生きても3世代が守り続けなければならない事ですし、あの安定していた江戸時代だって15第将軍までいたように計算では出来ない世代の交代をしなければならないような長い年月の話が、今そっと決定されて、テレビでも放送されないままに次のステップへと進んでいくのです。そして、事故があって初めて私たちは、えっそんな法律あったのとか、そんなことになっていたのと驚くのです。つまり、普通に聞いたらみんながそれおかしくないというようなことが、沢山の情報の中に差し込まれて意見も言えないままにチェックさえされないままに今の利益を守りたい関係者の同意の元で決められてしまっていることが沢山あると言うことです。

 

 

 

 

 

 

他人の人生をもっと真剣に考えたいの話し

 東京都の障害者相談支援の資格研修に参加しましたが、途中で退場させられ、結果未了の無資格なのに東京都の相談支援者の為の研修会に、参加しました。図々しいしいと知っている人は思うかも知れませんが、あの時も参加の意思があるのに、東京都心身障害者福祉センターの職員から拒否されただけなのですと付け加えておきます。

 研修会は、東京都の情勢説明と法的説明があり、事例が報告されて、グループワークと福祉局の定型パターンでした。本当に福祉局は、グループワークに「こだわる」のです。座学の他は、グループワークしか学習方法を知らないのかとさえ思えてしまいます。何故なら、中身はグループワークでは無いからです。実態は、社会で言うと名刺交換会、福祉の会合で言うと交流会、現場で言うと井戸端会議みたいなものにしかなっていないからです。今回も、私の参加者したグループは7名、一人は欠席し事前にグループ分けされた名簿には、リーダーが指名されています。しかもリーダーは既に何を話し合うか指示されています。打ち合わせも終わっています。ここまでは、グループワークの形式として通常なのですが、ここでグループワークの注意事項が説明されるのですが、「皆が公平に発言する・他者の発言に耳を傾ける・他者の話に割り込まない、頭から否定しない、専門用語で相手をなじるのは駄目」等々、みんなでゴールしようとした小学校の徒競走と同じ発想なのです。全く、一つのテーマや課題を討議して勉強しようとする気など無いのです。給与が支払われている職員が集まっていると言う感覚が無いのです。複数の意見が出て討議すると言う事は失敗ぐらいにしか思っていないのです。

 だから、事前に申し込みを受けているのに、参加者の実務経験も実績も関係なくグループメンバーを決め、仲間内をリーダーとして配置し、円満に終わるように誘導するのです。私のグループのリーダーは一つの事業所の代表並みの経験者、そこに今年4月から勤務しているという新人の参加者。経験値が違いすぎれば、話は一方的になるのは普通です。結局この女性は、ベテランリーダーのお話を拝聴するだけで自分の意見なんか一言も言えませんでした。どう公平なのか全く分かりません。他方、関係者で経験はあっても今回の趣旨について事業所の方針で実施していない方は、実施していない理由を言っても仕方が無いし、意見を求められても実施した方が良いと言えば、自分の事業所批判になるし、実施しなくても良いなどと言えば、都の方針に背くのかと言う事になるから、当たり障り無く発言し、二人の公務員は、自分の職務内容だけ話しました。これで反論する人など絶対にいません。そして、私はと言うと、事例の障害者対応の不備について話しましたが、それはリーダーにするりとスルーされました。私の話が重要だと傲慢になっているのでも、手前味噌で自己陶酔した意見を言ったのでも無く、事例発表しながら質問は受け付けず、事例発表者が他のグループのリーダーとなって仲間内で和気藹々としながら人の人生の相談に乗っていることに疑問を抱いていたからそこを取り上げましたが、その発言は、この会場の非常識な発言としか受け止められなかったからです。この会場の常識は、研修会の定番事例報告を折角やってくれた面々にお礼を言うべきなのに、「何真剣になってるんだよ、空気の読めないやつだな」と言う事なのです。人の人生に口出しするのは難しいのに、障害を持って十年以上病院の入院や施設の利用をしていた人が、自立すると言う事が簡単に上手くはいかないのはみんな知っていることです。この事例発表でも半年で失敗しました。その反省よりも関係者の労苦を称え少し冗談を交ぜながら笑顔で報告することに私はその時も少し怒っていたのかも知れません。失敗した障害者のアフターケアはどうしたのか、何故失敗したのか、どんな生活だったのか聞きたいことだらけです。でも、補助金を貰った事業としての自立支援は失敗しても、関係者はちゃんと収入になっているし、本当はこんな報告などしたくないし、報告のスライド作りなどで大変な手間が掛かっている、それに質問などして今後報告するやつがいなくなったらどうするんだ程度の仲間内の事情が何か透けて見えるのです。こんな会を勤務時間にやって、日々の仕事では困難な事例で悩んで、利用者と十分に話し合える時間も取れないのに、上辺だけの和やかな会は、何の討議もせずに終わるのです。

東京都の「のり弁」と闘う人への憧れの話

 テレビの放送で、東京都に情報公開の請求をすると、黒く塗りつぶした回答が、白いご飯に、海苔をのせたのと同じように見えるぐらい真っ黒が多いのを「のり弁」と言うのだと説明されました。そしてこれが「のり弁」と実際の回答された文書が映像として映し出されましたが、何ともA4の一番上にタイトルがあって後は全部黒というものが沢山ありました。この時の内容は、放送局も取り上げるような事項なのにこれだけ東京都は強気なのですから、私ぐらいの内容では、東京都に一蹴されても仕方が無いのだなぁと思いながら、自分が知らないところで、こうして巨大な権力に対して、一寸法師並みの針の刀さえ持たずに闘っている人もいるんだと思うと憧れさえ感じました。

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 思えば、東京都の相談支援資格研修会では、研修会の9割5分以上も参加していたのに、東京都心身障害者福祉センターの職員に排除されたことで資格も取れず、関係者に迷惑を掛けて、どうしたら良いのか途方に暮れていたのですが、こうして自分には何の利益にもならないのに、戦い続けている人を見ると自分の不甲斐なさをつくづく感じました。せめて一矢ぐらいといつも思うのですが、もう相手の東京都心身障害者福祉センターの職員も、グループリーダだった若者も覚えてもいない過去になっているのだろうと後ろ向きになってしまいます。ちゃんと文書で結果には理由を明記してくれと言いましたが、その約束も守られず、都は都の関係者だけの話を聞いて、おまえが悪い自業自得だと判断したのでしょう。せめて私の言い分を聞いてくれと言ったところで、結果は変わらなければ何の意味も無いと言う事もこれまでの経験で分かっているだけに、やるせない。自分の希望としては、資格確認の裁判をやりたいぐらいの夢はあっても、着手金の何十万円もないし、戦い続ける費用や交通費もありません。のり弁と闘う人達は、私費を投じて実践しているのでしょうから憧れながらも、自分はと言うと結局、泣き寝入りしか選択できないんだなと、ススキに止まったカワセミを撮影した頃と重なりました。

 

陸自のエンブレムは武士道への恥の話

 報道で、陸自が新しいエンブレムとして発表した図柄の中心は、交差する抜き身の日本刀とさやと言うものでした。簡単に「さむらい日本」などと言って欲しくないと思っている私には、なんと恥ずかしいことだと呆れてしまいました。簡単な表現をすると「裸で道を歩く裸の王様」並の刀を裸で道に並べるような侮辱だからです。刀は、戦国時代の終わり秀吉が刀狩りやその中で名刀などと選別したことから武器としてより工芸芸術品としての価値も高めました。そして江戸時代には、真剣で戦いをすることなど無くなった中で、武士道としての象徴的存在として刀は特別な位置を持つものとなっていったのです。ですから、殺すか殺されるかの切羽詰まった場面まで刀を抜くことは無かったし、例え、無礼討ちでも証人が居たり正当性が無ければ、殺人として切腹させられてしまったのです。よく言う武士の魂などと言われる刀を、抜き身で持ち歩くことなど武道として最低で、それは刀では無く、凶器であり狂気以外の何ものでもありません。さむらいは、刀を相手を威嚇するために持ち歩いたのではありません。

 日本人の奥ゆかしさ、慎ましさとしての「武士道」はひけらかすものではありません。刀は、さやに収まりでんと構えて、控えると言う事が基本です。私は、日本の軍人がアジアの中で軍刀という刀をひけらかして偽の武士を名乗って狼藉を働いた過去に遡って陸自を非難するものではありませんが、刀と武士道を理解しないで「かっこいい」みたいなノリでエンブレるとして使用することは、刀が泣いているとしか思えません。日本刀は、鍛冶職人を含めた武器ではありますが、高品質の美術工芸品でもあり、武芸を本当に行っている人にとっては、拠り所でもあります。さやという衣服をまとい、持ち主の心の支えとなるのが武士道の刀で、裸同然の抜き身で相手に恐怖や威圧するのが刀ではありません。こんなエンブレムは、日本の武士道の恥です。

新しい貧困を考えるほど日本は豊かでは無いの話

 殆どの人が、ネクタイは無駄だと感じていると思うのです。でも、正装という事からは外すことは出来ません。衣類は、長く身分を表す物でした。作業着なんかは、職業を表していますし、制服は所属を表しています。つまり、社会の仕組みとして服装はその人の社会的位置を表現したものとして考えられてきましたから、服装の乱れは、心の乱れとまで言われるほど、外見としての服装は今でも多くの人が気にしています。クールビズなどの例外はあっても、全く無駄なのに正装では明治以来ネクタイを着けることになっていて変える事が出来ないのです。ですから、みんな外見には気を遣っていて、お金が無くてもそれなりの服装をすることで外面を装っていると言う事があります。過去には、貧乏人は、継ぎ接ぎの服を着て、古着を着て、もらい物でしか着ることは出来ませんでした。それが、現代では、服装では貧しいのか貧しくないのかが分からなくなり、100円ショップでもネクタイが買えるので、貧乏でもネクタイぐらいは締めているのです。そんな中、NHKニュースで貧困が話題となり、実名で出た女子高生が随分攻撃を受けていることで、それは「貧困」の解釈が違うと弁護する発言も増えてきました。ただ弁護する方が、貧困には、「絶対的貧困」という食べ物も食べられない貧困と、人間的な生活と言う事から捉えた「相対的貧困」というものが有るのだと言う論理で弁護しているのですが、明治のネクタイのように欧米の受け売りを最先端の話にすり替えるのは良くないと思うのです。確かに相対的貧困の考え方は、絶対的貧困を克服した上で尚且つ隠れた貧困を考えるという視点では素晴らしい発想です。ですから、欧州で、「貧困を再発見した」と評価されても良いのですが、それが今回の事例を正当化する論理とはとても思えません。何故なら、日本は、みんなが中流社会と言われたように、会社の社長になっても大した給料ではなく、現在のように欧米に真似て何億円も貰う社長など居ませんでした。そして成金と言って金持ちになって派手に使用すると非難されたり揶揄されたりもしたのです。日本は貧富の差という事で言えば、戦前のような大金持ちという一部の富裕層と大多数の貧困層という事では無く、大部分がある意味の中流という位置を占める社会を構成してきたのです。ところが欧州には、はっきりとした貧富の差が日本など比べものにならない位今でもあるのです。そこで研究された相対的貧困の考え方を、何の条件も加えずに、日本に持ち込むことは間違っていると私は考えています。現実に先進国にも絶対的貧困は存在していますし、移民問題なども貧困の問題と切り離して考える事の出来ない欧州の抱える問題だと思います。つまり、子どもの貧困と言う事を考えるときに実名まで出して頂いたこのケースが適切だったのかという事の方が問題だと思うのです。相対的貧困という新しい概念を説明するのに、何故母子家庭で無ければならないのか、専門学校への進学断念で無ければならないのかだと思うのです。

 日本の大学短大への進学率は、6割弱で専門学校も含めると7割近くなりますから、みんなと同じでは無いと言う言い方も出来ますが、高校と違って特別な資格で無ければ高校からのストレート進学でなくとも、社会人の経験の上で、進学できる方法は多様にありますし、生活保護世帯や母子・父子家庭世帯では生活が苦しいと言う事は既に幾度も報道されていることなのですから、新しい貧困の事例にはならず、女子高校生という実態に攻撃や中傷をかぶせただけになってしまっています。例えば、一般家庭でも進学について、東大などの有名大学は裕福な家庭が有利だと言われています。その理由は、同じ能力でも、塾や家庭教師の指導を受けないと受験と言う特殊な技能を会得できず、その機会の無い貧しい家庭の子どもは不利だと言う事です。結局、母子家庭とか進学を諦めたとか、冷房がないとか、キーボードだけで練習したなどが、演出効果のようにしか見えず、新しい貧困の話にはなっていかないのです。日本には、現実に絶対的貧困が今も存在していますし、服装では貧富の差が分からないぐらいまできただけで、まだまだ貧しいことが山ほどある国だと言う事を考えるべきだと思うのです。

 

 

 

 

ペットは奴隷、それとも家畜、の話

    テレビでは、猫や犬の餌が繰り返しCMで流れます。過去には、家族の食べ残し、いわゆる残飯なんて言われる食事をしていたときの方が長かったと思うのですが、栄養素まで考えられた人間が食べても支障が無いという餌がスーパーにも必ず列んでいる時代になりました。そして、ペットショップは盛況で、殆どのペットは売買によって確保され、人間世界の所有権が発生して、所有者を中心として人間の為だけに対応し、行動範囲の制限や所有者からの要請にいつでも対応しなければならない立場にペットはあると言えます。つまり、家畜は、商品であったり、商品を生産するものであったり、労働力の一部であったりと人間の生活を支える手段や方法の一部です。しかし、ペットは、存在が価値あるもので、精神心理上の価値を持っているにも関わらず、売買によって入手し、その生命さえも所有者に握られ、所有者に隷属して生かされています。しかも、時には人間と同等の扱いを受けている場合もあったりするのを見聞すると、そんなペットの状態は、人間社会の中の奴隷制度と似て非なるものかもしれませんが、私は、奴隷とどう違うのか考えてしまったのです。 

 奴隷制度というと、教科書で習ったアメリカの黒人奴隷しか思い出せないと云う人も多いと思うのですが、古代ギリシャローマ帝国奴隷制度の国でしたし、日本にも奴隷制度はありました。有名な安寿と厨子王丸なんかが有るように、人身売買は日本の戦後も存在して、私の持っている戦後出版された「人身売買」と言う本では、農夫として農業に、舵子として漁業に、林業、鉱業、様々な産業に、労働力として、児童が売買れている事が記されています。ですから昔は、言う事を聞かないとサーカスに売っちゃうぞなんて脅しもあったほど、人身売買は日常にあったことでもありました。日本では、奴隷とは言いませんでしたが、金銭で買われ、所有権が国にも認められ、自由意志で行動は出来ず、所有者の虐待も正当化されたような状況の人々は、日本にもずっと居ました。労働力としての奴隷は、農業を含めた産業が機械化されるまでは意識されないぐらいに普通にあったのです。つまり、身分制度があるような社会環境があると、最下層としての奴隷を社会として容認しやすい環境が出来て、奴隷に落とすぞは脅迫として、奴隷よりましだは現状の維持として案外支配には有効な手段の一つでもあったのです。そんな奴隷の供給は、戦争で、戦争に負けた民族を奴隷として売り飛ばしたり、使役したりしていました。これがローマ帝国などでは一般的でした。次が、支配に邪魔になる犯罪者、思想犯や政治犯、宗教の違い、さらに、少数異民族と案外ヨーロッパは産業革命前は貧しかったので、主な輸出品が奴隷などと言う時代もあります。イギリスはスコットランド人を何十万人も売り飛ばしています。それが国家事業として本格化したのがアフリカの黒人奴隷です。タバコや砂糖そして、綿花などのアメリカの生産を支える労働力の確保として、膨大な需要が生まれたのです。遠くから奴隷を運ぶより身近にいた北米のアメリカ インディアン、南米のインディオなどが奴隷にされましたが強い抵抗やヨーロッパから持ち込んだ、天然痘やチフスに感染して先住民たちが次々と死んだことで貧しいヨーロッパ人まで奴隷としてつぎ込みましたが、足りなくてついには、アフリカ人にまで手をのばしたのです。学校で習うときには、いきなり黒人奴隷だけを言われるのでなんて酷い奴らが居たんだ、鞭を持って繋がれた黒人を威嚇する奴隷商人の絵を見て、こいつ等さえ叩きのめせば、こんな悲劇は起こらなかったのにと思うのですが、本当は、みんなが認めたちょっと際どいけれど正当な商売だったのです。つまり、奴隷の売買を生業とする連中や国家があってもそれが不当だとは言われていなかったのです。その結果、イギリスの貴族が、黒人の幼児をペットとして飼うと言う事まであったのです。人間と犬・猫の関係は深く、ペットなのか家畜なのか分からないところは沢山ありますが、明らかに物珍しさで野生で暮らすことの方が適正な動物や昆虫やは虫類等々が、ペットという言い方で、買われています。奴隷は、売買され、所有権が決められ、所有者により拘束され、所有者の命令に従わされ、所有者より虐待も受けます。人間同士の奴隷は今でも世界では、常識という国もあります。家畜とは違う生き物を自分の自由にするために自分の欲求を満たすために、拘束し意志を奪うことが、適正では無いと言われるときが来たなら、ペット所有者は、黒人の奴隷商人と同じように歴史書に出てくるのでしょうか。