知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

隔離・拘束するしか犯罪への罰は無いのかの話

   小説などでは、完全犯罪がメインテーマとなっていますが、現実には案外犯罪として認知されていない死亡は多くあります。正確ではありませんが、日本の年間死亡者数は約120万人ぐらいで、警察が扱う「異常死」は約17万人ほどいて、この中に3万人とも4万人とも言われる自殺として処理された人数が含まれていると言われています。異常死だからと言って、テレビドラマのように死因究明の解剖が行われることも無く、自殺か殺人かなんてことも死体を見た警察官の感で犯罪だと言えば捜査が決まるとも言えます。さらに、これほど管理されているような日本でも、行方不明や死亡者の身元がわからないということが年間800人程度いるとのことで、事件性が無いとされれば、死体があっても淡々と処理されてしまうのです。ですから、現実には、小説よりももっと多くの犯罪があって、犯人として捕まるのはその一部なのかとさえ思えてくるほどですし、死体の見つからないままの死もあって、何かの切っ掛けで見つかる犯罪もあります。行方不明、迷宮事件、色々ある中で、犯罪として捜査され逮捕された人の罰は、刑務所というところで、社会からの隔離、拘束するだけの方法が長く続いています。確かに、過去の政治犯なんて言うのは、拘束しておかないと反政府活動をするからと言う理由がありますが、犯罪者を長く拘束したからと言って再犯率が下がるかというとそうでもなく、国家に強制された罰としての隔離・収容にただ我慢するだけで矯正教育効果は案外低いのです。つまり、軽犯罪と言われる犯罪から、重犯罪まで犯罪者の刑罰が、基本拘束・隔離収容すると言う罰の方法だけで、犯罪者から社会防衛が出来るとは思えないのです。しかも、犯罪者の人権保障と言われ、体罰や強制的対応も減少しています。確かに、拘束しているのですから、犯罪を犯すことは出来ませんが、国が拘束隔離すると言うことのために、犯罪者の生活と安全の保障に実は多大な額の税金負担が行われているのです。極論で言えば、壁の中では生活を保障し被害者からの報復や災害からの安全や医療まで保障するというまるで壁の中で飼育しているような状態で、その単価経費は生活保護費より多いのです。さらに、刑務所内で働いた場合は単価は低いとは言え報奨金もあり自費0で貯金も出来る仕組みになっています。建て前としての矯正・更生教育も行っていますが、犯罪者の多くが自己の欲望の実現を社会ルールに反してでも可能にしようと被害者が出ても実行した人達で、基本的な人間関係の考え方に問題がある場合が多いのに、欲望の誘惑の無い特定の人間としか接しないのですから訓練にも教育にもなりません。自由を拘束して、更生教育と言っても、欲望誘惑の刺激の少ない拘束された中で、何十年生活しても、社会の多刺激の中に戻れば、再犯と言う事になる可能性は高いのです。犯罪者を隔離・収容するために、刑務官の人件費だけで無く、受刑者の生活費、刑務所の維持・設備費、裁判官や検察官、弁護士の費用も刑務所に何年拘束するというだけのことのために多大なお金を掛けています。それは、刑務所で隔離収容期間を決めるという罰のためだけの裁判でもあるからです。もし、罰の方法が変われば、裁判も大きく変わります。死刑反対という意見もありますが、死刑では無く終身刑だとしても、一生刑務所で飼育することもは生殺しみたいなものだと思うのです。

 現代では、過去の時代以上に、個人の欲望を満たす範囲が広がっています。薬物を含めた精神に異常のある犯罪も増えています。一般市民に対しての不安や恐怖、害なす存在に対しての、犯罪の抑止効果として刑務所という罰があるのですが、この処置は、犯罪を犯した場合であって犯罪を犯していなければ、一般市民が不安だと思っても拘束は出来ません。実際暴力団も存在しますし、捕まっていない振り込め詐欺師達も沢山います。つまり、被害があっても犯罪として立件されなければ拘束されませんし、罰としての刑務所の自由と時間の拘束が苦痛ではない人に対しては抑止効果は一段と低下しているのです。実際刑務所の中では、働かせているとは言え7時間労働程度です。何故なら刑務官が8時間労働ですから、仕事場への往復引率の時間や食事の時間の監視など組み合わせれば、交代勤務でもその程度がやっとで、刑務官を増やすか超勤でもさせなければ、社会と同じにはならないのです。それだけでは無く、武器や凶器になる様な仕事は厳禁ですから、刑務所の仕事は意外と限定されています。過去には、北海道の鉄道建設など屋外での過酷な労働もありましたが、今では殆どが室内です。労働時間は少ない職種も少ない、しかも職場で一番大事な対人関係も限られている社会に、長く拘束していれば人は変わるかと言う事ですが、かなり困難だというのが私の考えです。何故なら、人間は環境適応型の能力を持っていますから、隔離拘束という生活にすぐに適応し慣れてしまいます。後は我慢しているだけですから、社会不適合要因が消滅することは本人の成長にも拠りますが容易ではありません。過去の罰は、身体的痛みや身体機能への罰でしたが人権と言う課題から、今は、隔離・拘束しか無いと言うのが現実です。外国では、マイクロチップを身体に埋め込んで社会に出し行動監視するという方法も一部では行われていますが、被害に遭った人からすれば、加害者が存在する空間は不安です。私刑が禁止されているように罰は権力が無ければ実施できないものですが、社会の防衛として犯罪の抑止効果としての罰が、隔離・拘束だけでは効果が薄れた時代に入ってきていると思うのです。罰のあり方、罰とは何かを考える時に既に来ていると思うのです。