知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

獣の雄の論理で性犯罪者に味方する裁判官の話

 法は正義ではありません。裁判官が、過去の判例に則ってしか判決が出せないのなら、AIに任せた方がましだという判決が出ました。記事では、名古屋地裁岡崎支部の鵜飼祐充裁判長が、娘と性交した父親に娘が抵抗できない状態にあったとは認めず、無罪としたというものです。内容はと言うと、娘が嫌がっているのに実父が性交を5年以上強要したというもので、普通に考えれば、強姦同然なのですから、犯罪そのものなのに、法律解釈の末に雄の論理を根底に持つ裁判官は無罪としたのです。江戸の奉行大岡裁き風なら、実父を畜生道に落ちた雄の狂気としか言いようがないと一刀両断で済むような事が、現在の法律をこねくり回して、無罪としてしまったのです。検察は「中学2年生の頃から性的虐待を受け続け、専門学校の学費を負担させていた負い目から心理的に抵抗できない状態にあった」と主張したのに対して、弁護側は「同意があり、抵抗可能だった」と反論していた裁判で、この裁判官は、「性交は意に反するもので、抵抗する意志や意欲を奪われた状態だった」「抵抗を続けて拒んだり、弟らの協力で回避したりした経験もあったとして」、娘の同意はなかったと認定しましたが、抵抗は可能だったという弁護側の主張は認めるのです。その認める理由が、「以前に性交を拒んだ際に受けた暴力は恐怖心を抱くようなものではなく、暴力を恐れ、拒めなかったとは認められない」「被告が長年にわたる性的虐待などで、被害者(娘)を精神的な支配下に置いていたといえるが被害者の人格を完全に支配し、従わざるを得ないような強い支配、従属関係にあったとまでは言い難い」と言い出し「抗拒不能の状態にまで至っていたと断定するには、なお合理的な疑いが残る」として被害者が抵抗不能な状態だったと認定せずに、無罪判決を言い渡したのです。まずこの裁判官は、中学2年の実の娘と性交すること自体が虐待であって犯罪だということが理解できていません。さらに、拒否に対する実父の暴力を、恐怖を抱くような暴力とは言えないと否定するのです。こんな裁判官は、人に殴られればいいとしか思えません。恐怖感の度合いは状況で全く違います。家庭と言う密室で実父に性的虐待を受けている娘にさらに暴力と言う虐待を加えることは、複合的攻撃であって恐怖どころか絶望と自暴自棄に追い込んだと考えるのは普通の事です。家庭から未成年が逃げ出せないという条件の上に、簡単に人に話せない実父との性交問題を抱えさせられた挙げ句に暴力まで受けている女の子に、暴力を恐れず抵抗しなかったお前が悪いとこの裁判官は言い放つのです。さらに、精神的な支配に置かれてはいたが、強い支配・従属関係とは言えないと言うのです。経済的にも、精神的にも、身体的にも保護されなければならない年齢で、保護する義務のある実父が娘に虐待を繰り返していても、奴隷の如く自由を奪われ拘束されてもいないのだから、実父の支配下には無いとこの裁判官は言い放つのです。父親に家族が、支配されたり従属していることそのものが否定されなければならないのに、裁判官は問題があるほど強くないと言い出すのです。程度問題ではなく、家族関係において支配や従属があること自体を否定しなければならない立場の裁判官が、支配・従属関係があっても人格を完全に支配し、従わざるを得ないような強い支配でなければ、娘を強姦しても犯罪ではないというのです。実父との性行を拒否して暴力を受けていても支配されていないというのです。実父の支配とは、家族が従属しているとは何かとするなら戦前の家父長制しか考えられません。さらに裁判官は、虐待を繰り返す父親に対して、娘には他者に訴えるとか、助けを求めることの出来る自由があったのにそれを実行しなかったことは、娘の落ち度でもあると確定してしまうのです。つまり、裁判官は、娘にはこの虐待から逃れるべき方法はあったのに、ずるずると関係を続けていたのは、娘にも非があるという考えに固執するのです。被害者を守るという視点はどこにもありません。それは、加害者に寄り添った獣の雄の論理の視点だけだからです。

 日本の刑法論争となれば、性交では被害者が同意していなかったということだけでは罪にならないとか、2017年の刑法改正により親から子どもなどへの性的虐待を処罰する「監護者性交等罪」も導入されているとか、本人が19歳で訴えたので、罰する法律が無いとか法律の専門家は言い出します。しかし、法が正義であるならあらゆる法律を掘り出してでも罰することが出来なければ法の裏をかいた犯罪者はいつも無罪になり被害者には一矢も報いることが出来なくなってしまいます。無罪と言う事は、何年にも亘った被害者の被害事実はあるのに、加害者には加害してはいなかったということになってしますのです。公が犯罪を罰する権限を持っているのは、被害があったことに対して私的報復を許さないという観点から公が行うものですが、時代劇ドラマの仕置き人の如く、公が裁けないなら私的報復も許されるとなっても仕方のない判決と言えます。この事例では、虐待は存在し、被害者が存在し、加害者が判明しているのですから、無罪という判決は絶対にないと言える裁判でゼロ回答をした裁判官は普通とは言えません。こんな裁判官にかかってしまうと、被害者が、絶望して、自暴自棄になって被害を我慢して耐えていたなら、それは受け入れていたからだということになるのです。同意がない性交と認めた段階で犯罪としての要件は一つ満たしているのに、抵抗しなかったという要件を満たしていないから認めた要件さえも無効にしてしまうのは、被害者を救済しなければならないという裁判そのものを否定しているようなものです。完全に拘束されて外部との連絡も取れず、死ぬほど身体に被害を受けて、ロボットの如くコントロールされていなければ、抵抗は出来ると言い張るのです。だから、同意はしていないが抵抗していないのだから、受け入れていたということで無罪としてしまうのです。性交の場面での、消極的な抵抗は積極的な拒絶ではないという思考は、獣の雄の論理そのものです。今日では、畜生道にも劣る行為なのに、それを支持している裁判官がいるのです。法的解釈が自分に都合がいいと、その判例を崇めるような事もありますが、法は結構不備だらけで道徳としては、欠陥ですし、社会の常識としても欠陥は多くあります。その欠陥を修正できるから、裁判官であるのに、欠陥を増幅させる判断をするような裁判官は、欠陥裁判官としか言いようがありません。性犯罪では、獣の雄の論理を深層に持っている裁判官は排除すべきです。そうでないと公正な判断は出されません。実父は、娘に虐待をしたということよりも、性交は、娘の同意のもとだったのだから無罪と言うお墨付きをもらったと吹聴することが出来てしまいます。すると、娘はこの後もずっと非難と軽蔑を受けるような生活をしなければならないという加害を受け続けなければならなくなることは容易に想像できます。犯罪者の更生のための裁判で犯罪者を増長させ、被害者にさらなる加害が起こることも予測できないような裁判官は、自分が他人の人生の加害者となってしまうことがあるという自覚は出来ないのでしょうが、そんな裁判官を業務評価するシステムは日本にはないのです。