知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

ジャーナリズムだ報道だといっても偏っているの話

-小川雅朝容疑者(32・以下ハウル)が16歳の少女に対する東京都の“淫行条例”違反で警視庁に逮捕されました。その4カ月前、NHKクローズアップ現代+」は「トー横キッズ」を特集した時に、この犯罪者をトー横に集まる子供たちの救世主かの如く取り上げました。そして、同番組は2月のギャラクシー賞月間賞を受賞したとして担当者は鼻高々だったし、報道の力を持って社会正義ぶった主張に得意になっていたと思うのです。しかし、当の犯罪者は天下のNHKの重要な番組でお墨付きを貰ったように犯罪を繰り返し被害者を増やしていったのです。小川容疑者は、自身を「ハウル」などと言う偽名を使用して炊き出しのような事をして集まる青少年にエサをまいては未成年の少女を物色し獲物としていました。本人は、隠れ蓑として清掃ボランティア団体「歌舞伎町卍会」と新宿区に任意の届け出をしていますが、代表者を別人にするなど本名を知られない様にしていました。何故なら、小川容疑者は、石川県在住時20代の時、未成年少女を連れ出した条例違反や別の少女に対する強姦容疑などの逮捕歴があったからです。報道として本名を公表しない事は自由でも、本名も言えない、素性が分からない人間が行っている事の背景に何があるかを探り伝えるのが報道だと思うのです。バラエティーではないのですからNHKが本気で調べればおかしいと気づくはずです。他のマスコミが、本名も素性も明かさない事を理由に慎重な対応をしていたのに、NHKは放送し賞までもらっていたにも関わらず「取材過程で犯罪が疑われるような情報には接していませんでしたが、放送後、番組で取り上げた人物が逮捕されたことは遺憾です」で終わりなのです。少なくとも放送後の4か月は犯罪に加担したのと同じですから責任の一端があります。こんなはっきりとした報道の失敗があっても、きちんと謝罪なんかしないのが報道です。にも関わらず報道はいつも正義感に溢れて、他者の失敗に対しては執拗に謝罪を求め、自分たちの報道が社会に貢献していると言った迷いのない自信に溢れた態度でいるのです。ところが、今日のようにインターネットなどの情報手段が複数得られるようになってくると、多くの人が実際は報道そのものの偏りに気づき、信頼感を低下させている事に気づくべきです。それは、間違えがあっても責任を取らない無責任体質と、報道が、正義面をしながら多くの反社会的な「プロパガンダ」に加担している事への責任問題でもあるのです。例えば、安部元首相が深く関わっていた「統一教会」。ネットは直ぐに「統一教会ではないか」と提示していましたが、報道はずっと「宗教団体」としか報道しなかったのです。もっとひどいのは、犯人の叔父さんが明確に宗教団体名を言っているのに、隠していた事です。この事は、統一教会が、霊感商法で叩かれたのを契機に政治や報道に深く関わって報道で叩かれないための方策を十分にしていたことの実績でもあり報道が必ずしも正義でも中立でもない事を証明しています。同様に、ウクライナとロシアの戦争でも、善人と悪人の構造で報道していますがそんなに単純な事ではない事が明確なのにそれを放送しません。結局、報道は国家の意志に忖度して経営されている事を正直に話すべきだし、正義の使者なんかではない事を明言すべきなのです。ロシアを悪人とするプロパガンダによって、日本の防衛費が増える片棒を担ぎながら、8月になると平和を語るのも報道です。本当は、新聞社もマスコミも「経営」という事を大前提として時の権力におもね、収入の根源者にひれ伏し、販売と言う購入者の関心を買う為に記事を書いているのであって、正義感はその付録だという事を宣言すべきなのです。報道が忖度したことで犠牲になった人がいるという事も事実ですし報道の自主規制が正義を曲げてしまったこともあります。戦前の報道のようなことが再び起き始めています。香港を見れば、報道を黙らせることなど権力にはいとも簡単であることを証明しています。どっちへ偏っていますよと正直に言えば、反面として受け取る事も出来ます。偏らない報道を叫ぶより、どっちへ偏っているかを話す方が報道として適切だと思うのです。ジャーナリズムと言う言葉に酔って、正義を振り回しても、情報提供者の一つに過ぎない事を自覚すべきだと思うのです。