知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

こじつけ話は植物を誤解するの話

 人間的解釈では、植物は、毒とか棘とか自己防衛をしていると言われますが、草食動物の食事風景を見ればわかりますが、移動できないのですから、逃げることも出来ず、ほぼ食べられ放題の状態と言えます。例えばユーカリ。青酸毒を持っていますが、コアラは青酸毒を解毒して食べてしまいます。キリンは、有刺鉄線並みの棘のあるアカシアの木が主食です。トゲがあっても唇や口が傷つくこともなく、体に刺さることもありません。逆に飲み込んでしまったトゲが体内で刺さることも、消化されることもなく糞と一緒に大地に落とします。また、植物など多種多様にあるのですから何を食べてもいいようなものですが、動物は案外食べる植物を決めていて、棘があろうと毒があろうと、バリバリ食べます。つまり、仮に植物の防衛機能として毒や棘を持っていても、それを好んで食べる動物がいるなら何の防衛にもならないどころか、独占できるという逆効果にもなってしまいます。同様に、種子についても、食べられることで動物に種子を運ばせているのだという解釈があります。しかし、実を付ける植物を考えてみても、実を成熟させるのは大変なエネルギーが必要であえて実を付けなくても種子だけをモミジや松のように風に飛ばすことでも十分に子孫を残せます。どんぐりなんてあんなに実を付けてもただ食べられるだけで発芽して木になる効率はむちゃくちゃ悪いものです。動物を介して植物が繁栄するというのはごく一部の植物についての人間的解釈であって、植物の進化の中では適正な回答とは言えないと思うのです。種子をどのような方法で運ぶかの選択でも、本体に負担が多く掛かるものや複雑な方法や動物などに依存するなどの条件が多いほど、返って繁殖を妨げることになってしまいます。種子をまき散らすだけなら、もっと楽な方法を取っている植物は沢山ありますから、そちらの真似をした方がはるかに効果的です。ですから、なぜ、毒や棘が必要だったかということを、植物の自己防衛機能などと解釈しようとすると、ほんの一部しかなるほどという解釈は成り立たないのです。むしろ、植物は、捕食者対策としての防衛機能を持っているというのは、人間的なこじつけだと思うのです。移動できないから逃げられないから、自己防衛機能を持っていなければならないと思うのは人間的発想であって、植物の繁殖には適さない回答だと思うのです。それよりも、逆に、自己繁栄方法は、攻撃型の対策機能を駆使していると考えた方が、理解しやすくなると思うのです。最もわかりやすいのが最近のスギ花粉症あんなに巻き散らかさなくたって良いぐらい撒きます。これなどが、攻撃的対応だと思うのです。多くの植物は多数で有ったり、広がったり、高くなったり、根を張ったりして他の植物の成長を妨害することによって、自種目の繁栄を確保しています。つまり、植物にとっては、動物的な攻撃に対して身を守るという事より、他の植物の生育を邪魔するという攻撃を行う事の方が重要だということです。雑草と言われる一種は、同じ場所に大量の種を蒔きますが、一斉に発芽しません。同一条件でも日にちをずらして発芽するのです。だから雑草を幾らとっても次々と生えてくるのです。一方一面に発芽したとしても、全部が大きくなるような事はありません。仲間をどんどん淘汰させていくのです。一斉一面に発芽して、他の植物が育たない環境を作りますが、仲間をどんどん淘汰していくのです。それは生存競争に負けたのでも、弱肉強食でもなくて、よりいい位置を確保したものを残して自らを閉じていくのです。全員で均等に育つのではなく、他の植物の成長を妨害し、その地を独占できるように集団で場所取りをして、兄弟姉妹の中のでかくなれる奴だけを残して消えていくのです。植物同士の生存競争は、人間の目には見えないのですが、本当は人間が見えて確認できる動物の生存競争など問題にならないぐらい過酷なのです。何故なら、動物と違って、植物が対峙しているのは、自然環境、気候だからです。このことは、地球の歴史によって証明されますが、地球が繰り返してきた温暖化と寒冷化の中で、植物は、地球の規模で移動しています。平均気温が2度3度違っただけで森林の植物相が変わってしまうのです。寒い地域のホクキョククマも温かい地域のマレーグマも熊ですが、シベリアの森林と東南アジアのジャングルの森林は全く違います。太古から生きている動物はいませんが、植物ならいくらでもいます。気候に合わせて、植物は移動する手段として様々な方法を選択しているのです。

 人間は、自分が見える内容で、自分たちが納得できる講釈・解釈しますが、それは、初めて顕微鏡でミドリ虫を見た程度のことで、自然の仕組みをそこから解きほぐすことは出来ないのです。また、なんでも擬人化して考えることで人生の教訓の様な語りをしますがそれも案外針の穴の様な語りで、人間よりもずっと昔から生きている植物の命をつなぐ長い自然との関わりを解くことは出来ないのです。植物にとっては、動物や昆虫など戦いの相手ではなく、植物は、防衛よりも攻撃によって種の保存と繁栄を求めています。移動できない、それは人間が勝手に印象とした劣悪条件に思っていますが、移動しないという事を人間が真似たのが、狩猟民族から農耕民族になって土地を確保するという方法でもあります。人間自身でも、移動できないは悪条件の様でも移動能力で、人を量る時代は大きく変わりそうです。