知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

馬と武士と名誉の話

 人は、自分の憧れ感覚からものを見ようとします。そしてそれが違っているとなーんだとがっかりします。特に歴史に関しては、事実よりもこうあるとかっこいいと言う感じで虚構を作り上げやすいところがあります。過去の読み物・歌舞伎・芝居・講談など誇張された英雄伝として作られたからこそ売れたと言う事もあります。そんな虚構や誇張からでも興味関心を持って歴史を見ると、今のような記録装置を持たない過去の事では諸説と言われるほど様々な憶測の山に出合います。そして、出来るだけ自分の思いに近い論を求めますが、多くの諸説は、論者の現在の自分の時代感覚で、可能性を論じますから、当時の人間の精神性や感性による可能性を見落として論じることが多く見られます。当時は出来たけれど、今は無くなってしまった技能や技術があるように現代人が考えたならあり得ないことも、その時代だからこそ存在したと言う事も多いのです。典型的な事例が、日本の武士と馬の関係です。日本の馬は小型だったので戦闘には適さず、気性が荒く、制御が難しかった、去勢していなかった、蹄鉄を付けていなかったと言い、テレビ等の時代劇戦闘シーンのような馬の活躍はなかったと言う論があります。テレビも、映画も、戦闘シーンは誇張どころか妄想のようにしなければ売れませんから、時代考証が出来ていないと言う事は当然ありますが、テレビのような活躍はしていなかったから、馬が重要な役割を持っていなかったという論拠とはなりません。馬は、朝鮮・中国からの輸入品です。当然、去勢も蹄鉄も同時に輸入されていますし、その技術が国産で出来なかったのではありません。製鉄技術も十分にありましたが、作る必要が無かったのです。同じように、去勢された馬に、武士は乗りたくなかったのです。中国では、宦官と言って宮廷の官僚の去勢をするのですが、日本はそれを知りながら行いませんでした。つまり、日本は知っていても自分たちに都合の良いことは取り入れて、やりたくないことは捨ててしまう国だったのです。日本は、中国・朝鮮から最先端の情報も技能も受けていながら、自分たちの精神性に合わないものは受け入れていません。それは、戦闘行為でも中国の兵法を学んでいるのに、国内では、平安時代の戦闘のように、将たる武士と武士が名乗り合って弓矢で戦い負けた側全部が引き上げていく方式なのです。つまり1対1の戦いで、後ろに家来がついていて、家来を含めた乱闘にはならないのです。家来まで乱闘に巻き込まれるようになるのは、戦国時代に入る頃で集団戦が中心になってからで、この時代でも武器は、弓矢と槍です。戦国後期からは鉄砲となりますから、ある論者は馬に乗った武士は、目立って格好の餌食となるので、戦場に馬では行かないと言います。ところが、日本では騎馬民族とは違い、馬には、将しか乗れないのです。兵への指示も一段高い、馬から出すのです。つまり、馬に乗っていることは権威であり名誉なのです。撃たれそうだから馬には乗らないなどと言う武士など当時では武士ではありません。騎乗は武士の誇りです。同様に、去勢して制御しやすくなった馬に乗ることは武士として失格なのです。荒々しい馬を制御して乗っていることこそ武士なのです。馬を単なる戦闘の道具と考えていない武士にとって、去勢して制御すると言う事は検討さえもされなかったのです。それは、刀を含め、武具全般に及びます。武士は、戦闘ではあまり使用しない刀にも魂が籠もると考え、鎧甲に装飾までします。戦闘服を含めて消耗品ではなかったのです。ですから、戦勝祈願で神社等へ奉納するものに馬や刀があるのです。牛もいたのに、日本人は馬に別の精神的役割を持たせていましたから、古墳から出土する埴輪にも馬が多いのです。さらに、合理的に考えるなら、戦闘が無いとき馬は、運搬の役割があったとしたいところですが、運搬手段として有効な馬車は発達しません。中国の馬車の技術は、平安時代に牛車としてちゃんと日本にも伝わっています。しかし、山地が多く、海に囲まれ、降水量の多い日本では、海岸沿いの水運の方が運搬の量を含めて秀でていたのです。だから、主だった都市も、海岸線や大きな川沿いに出来ました。ヨーロッパとの大きな違いは、ローマ帝国という統一国家が軍事を含めて、統治のために大量移動手として、道路の建設をしましたが、日本は統一国家は明治になるまでありませんから、素早く大軍に攻められないように、橋を架けなかったり、道路の舗装をしなかったのです。中央集権で無ければ、道幅の統一した道路や軍隊が素早く移動できる街道は作りませんから、馬車が走る道路は無かったのです。さらに、農耕でも、西日本は牛を使用し、東日本は馬を使用しますが、荷役などの車を引かせるのは馬より牛の方が安全でした。

  現代の論者が、馬は、鎧を着た武者を乗せて長く走れないとか、気性が荒く乗りにくいだとか、戦闘ではあまり役にたたない、ろくに荷物が運べ無いだとか言われるのにも関わらず、奈良時代から平安時代までは、国営の牧というものが設けられて生産・育成させて上納させています。その後も、馬の生産は続けられるのです。戦国時代になっても、日本の平野はほとんどが田んぼですから、 馬が並らんで走ることなど出来ません。それでも、軍馬が生産されるのは、馬に乗ることが武将として名誉であるからです。馬は武士専用の乗り物で、武士はそれにまたがって乗るのが身分の象徴になっていたからです。戦闘としての効果が薄い、流鏑馬(やぶさめ)が、神事であり武士の誇りだった時代があるのです。過去から、日本人は先進の技術や考え方に敏感で、中国からあらゆる情報を得ていました。しかし、自分たちの主柱は変えない頑固な民族だったのです。 典型的なのは、天皇制というということで、中国や朝鮮でも強い者が天下を治めるという考え方であるのに、天皇制を維持するのです。徳川家康でさえ。同様に、日本人は、武士としての名誉と恥について強い思い入れがあり、騎馬武者というのは命よりも重い一族郎党、家の名誉の象徴でもあったのです。ですから、恥を知れという名誉感覚が、が失いつつある現代人には、馬と武士との関係は理解しにくいのです。