知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

パワハラは、組織が作るの話

 俗に言うパワハラは、本人が自覚できるわけがありません。なぜなら、本人は正しいこととしか認識していないからです。もともとパワハラは、日本風の造語で職務上のことでのトラブル、通常の指示や命令の延長上の行き過ぎとしてとらえられがちです。しかし、この言葉の原点はフランスの精神科医が提唱した、『モラル・ハラスメント-人を傷つけずにはいられない』であって、そこには明確に、加害者に加害意識や罪悪感がなく、被害者が自己否定・自己嫌悪に陥るような、巧妙な精神的暴力による支配関係モラハラの特徴的な点とされています。モラハラという言葉が、知られるようになって、パワハラとかボスハラなどが出てきましたがその基本である加害者に加害意識や罪悪感がないと言う大前提をなくしてしまうと「愛のムチ」的な同情論や行き過ぎにすぎない論で終わってしまうことが多くなるのです。ですから、加害者が被害者がいると認識できない限り自分は良いことをしている、自分が正義だと信じて行っている行為なのです。特に職務上で言えば、先輩なり上司なりの成功体験を再現するための技法なり精神なりの伝授であるという言い訳に一理あるとなってしまうのです。人間はそれが万が一の偶然で成功しても、自己の手法に対しての成功体験として強いこだわりを持ちます。それはあらゆる学問研究以上の意味を持ち、他者の意見を退けます。その必勝方法が仮に絶対確実なら強制的な押し付け対応も受忍する判断として検討も出来ますが、本人自身でも状況が変化すると成功しないことまでが成功するかの様な幻影に拘って強制することに人間性と社会性が問われるということになります。そして、成功しないことが指導が悪かったという自己反省に向かうことはなく、相手の努力なり手法が悪かったからと叱責になることがやがて、被害と加害の関係に発展するのです。それでも日本では、師弟関係と言う暗黙の社会通念がありますから師匠となれば弟子に対して憎しみで対応しているはずがないという仮想の思いこみまで含まれてきます。その為簡単に加害と被害なんて認識にはならず、いつでも、度合いの問題とされてしまうのです。要するに、師弟関係的に物を見てしまうと、社会通念上の許容範囲かどうかだけが争われ、その中の人間性や対人関係性を掘り下げるということはないのです。だから、お世話になっている師匠に弓引く行為をする方にもともと何か問題があったのではないかとなって熱血すぎて行き過ぎがあったかもしれないが、自分は悪くないという結果になるのです。それにも関わらず、パワハラの解釈として職務上の立場や権限を背景にしたいじめや嫌がらせ行為を指すとか、不当な評価や叱責、無視、冷遇、執拗な強要などと内容に重きを置いて考えようとするから、評価そのものに客観性がなくなってします。価値観や方法論での感想になってしまうと思うのです。つまり、上記のようなことは労働法で言う、不当労働行為として整理する方が明確になります。しかし、組織にはそれなりのおきてが混然とあって、問題なのは、加害者は組織のために良かれと思って行っており、感謝されている、いや将来必ず感謝されるという自信さえ持っているようなことで、夢にも自分が加害者で、被害者がいるなどと想定だにしていないことです。職場では、社風と言うか、伝統と言うか、根拠さえ分からないが尊重することが求められる事項が結構あります。しかもそれは、社会とはずれていても、厳然と成立しているもののがあります。その延長線上にあることは正義の延長なのです。パワハラは、この延長線上で組織のために組織には指示も命令も受けることなく個人的解釈で良かれと思いこんでその支配権をフルに活用して個人の気持ちで行うことであり、個人の行為ですが組織が生み出すものなのです。だから、厄介なのです。原点が組織にあるのに、非難され、罰せられるのは個人で、組織は逃げてしまうのが現実なのです。

 パワハラに至る基本には、初めからそうなるのではなく、職員育成という大義があるのですが、部下育成の始まりの時には人の上に立ったという浮ついた気持ちと、部下育成が自分の評価になるという自分が評価されたいという思いです。つまり、上司に自分を認めてもらいたいという一心で結果を部下が出すために教え込むということになるのです。それで成功していくと、部下を育成することよりも、成果の出せる部下が欲しくなり、成果の出せない、自分の評価を下げるような、自分を貶めるような部下を、支配権を個人の感情に任せて行使していくことがパワハラとなっていくのです。

ですから、支配関係のある組織だから起きることで、自己評価を高めるために部下を持っていない場所では起きないのです。パワハラも、自己の利益がなければ自己破滅だぐらいは誰だって気付きます。

少子化なんて年寄りの我儘の話

 少子化が問題だとテレビ等でも取り上げられていますが、何が問題なのかを調べてみると案外年寄りの我儘と押し付けなんじゃないかと思うのです。まず少子化の問題点として、人口の減少で経済面の打撃を受けると言い、日本の様な資源を持たない貿易立国は経済が立ち行かなくなれば、生活水準が下がり、社会保障も低下して、年金で生活できなくなり、介護その他の社会的扶養も出来なくなると言います。そしてそれは若い人に大きな負担となるとも言います。でも、よくよく考えてみれば、若い人は今の日本の生活を維持したいと思っているのかなと言う疑問が湧いてきます。もう一つ、過去は老人の扶養は家族でしたが、こんにちは社会となって国家が、税金や保険で扶養する方式に変わりました。でもそれは個人扶養から、集団扶養に変わっただけで、若い人に面倒を見てもらおうということは変わっていません。すると、少子化問題は、今の生活を維持し続けたい老人の願いを叶えるためには若い人が必要だというだけに聞こえてきます。今の生活は、老齢期に入った世代が確立したことは事実です。しかし、右肩上がりのグラフしか認めない時代の世代が確保したこの体制を維持したいと次の世代が思っているとは限らないと思うのです。例えば老後設計でも制度そのものに問題があるということがあります。年金制度は、積み立てているような感覚で保険料を払っていますが、積み立てているわけではありません。今払っているのは、今の年金時給者に渡されているのです。支払われたお金が積み立てられて利息や運用益なんかが入って老後に還ってくるのではなくその時の受給者に支払われる方式を日本は採用しています。ですから、受給者が少なくて、支払者が多ければお金が余るということで、人口増加の時には、社会保険庁が土地投資したり無駄遣いしたり出来たのです。少子化になるなんて想定もせず、人間がこんなに長生きするなんてことも想定せず、右肩上がりに人口が増えるという想定で、今集めたお金を年金として渡してもあまりが有ったので積み立てるなんてことは考えもせず大盤振る舞いしたこともあったのです。ところが、100歳を超える方が1963年には153人、人口10万人あたりわずか0.16人だったのに、1998年に1万人を突破し、2012年には5万人で人口10万人あたり40人を超えるまでになりました。過去には、100歳を超えたら自治体からもお祝いが貰えるぐらい珍しかったのですが、今は普通にいるということです。そして長生きできるという喜びに対して超高齢化社会などと言って、誰が面倒見るのだという問いに対しての答えを少子化問題にすり替えていると思うのです。つまり、年寄りの面倒を見る金を少しでも多くの若者に稼がせるためには、少子化では駄目だと言っているにすぎないと思うのです。よく、一人の年寄りの年金を、今は何人で支えていますが、10年後はこんなに少ない人で支えなければならないのです。などと説明していることがありますが、若者に頼った制度設計をするから、年寄りに合わせた若者人口が必要だとなってしまうと思うのです。 

 明治時代の初期は、日本の総人口は、約3500万人と言われ、明治45年に、5000万人を超え、昭和23年に、8000万人を超え、昭和31年に9000 万人を超えました。この時、「厚生白書」では、急激な人口増による「過剰人口」対応が、政策課題などとした状態で、制度設計していたのです。このように 明治から100年で人口が3倍になるという人口拡大期に制度設計し、初めて訪れた、人口減少期になって、制度を維持するために少子化などと言っているとしか思えないのです。2003年(平成 15)の1億 2,760 万人がこの日本列島にとって最適な人口なのかと言う問いは必要だと思うのです。人口=国力みたいな考え方は捨てて、この国土には一体どれぐらいの人口が養えるのかを考えることも必要だと思うのです。順番に死んでくれるはずだった世代が長生きして生活費に医療費に金が掛かるから少子化を考えるのではなく、若い世代はどんな生活を望んでいるのかの視点から人口を考えるべきだと思うのです。自分たちで制度設計し右肩上がりでなくなった途端に若者よ子供を産めではなくて、若者の扶養に頼らずどうしたら長生きもいいもんだと言えるような制度となるように再構築すべきだと思うのです。

 

田畑は、人工物で、自然破壊の始まりという認識の話

 植物が育つ土は、植物によって作られると言ったほうがいいと思うのです。日本では、土はどこにでもあると考えられている存在ですが、植物が育つという条件を付けると実は意外と限定されているのです。豪雨などで山肌が崩れたりするのを見ることがあると思うのですが、植物の根っこは土から養分を吸収するのが目的で、養分のない岩石に根を伸ばす必要はありませんから、山を作った元々の岩石にまで根を差し込んではくれず根のある表土が地滑りとなって流れてしまうのです。縄文時代の地層などということがあるように土はどんどん積もっていくのではと思われますが、実際は雨などに削られて海に流れ込んだりしていて常に積もっているわけではありません。火山灰でなければ空から降ってきませんし、洪水でもなければ砂や砂利が積もるということもありませんから、地層となって積もるというのは、殆どが植物由来と言う事が出来ます。土は、植物の蓄積物と風化した岩石等が混ざったものですが、植物由来の土には、土と土の間に間隙があって、その中に、水溶性の成分が溶解している水と、二酸化炭素や窒素などの入った空気が入っていて、さらにその中には、土壌生物や微生物や動物が生息しています。

そんな土は、雑草でもなんでも植物が生えていないと、雨が降れば流れます。雑草は農業の敵ですから、雑草一つない広い耕作地を作ると、雨のたびに水たまりはやがて小川となって土が流れている事が分かります。それだけではありません。作物収穫を多くするため、植物の根が深く張れるよう機械でより深くふあふぁの土にすることが、流れやすい土づくりでもあるのです。その様にして、アメリカなどの大規模農場では、表土流出による農耕不能の土地が広がってきたことは既に報道されています。フィリッピンなどの南洋材を伐採した後には、農耕どころか表土が流されて雑草さえ生えない土地になってしまっているという報告もあります。つまり、土壌は保全しないと消失するもので、保全の基本は植物が育っているということなのです。また、土はそこに生えていた植物由来ですから土に含まれる成分もそこに育った植物に大きく影響を受けます。地域の特産と言われる下仁田ネギや桜島大根などの種は手に入りますが、他の土地では同じものが出来ないということは、その土が作る植物だからなのです。樹木で香りも有名な古代の王たちが競って使用したレバノン杉は日本にもあるのですがレバノンの様な樹形にはならないのです。ところが、人間は、意外と、農耕のできない土地が出来ると他へ行けばいい程度で土と付き合っているのです。

農業の生産性向上のために、穀物類の品種改良と農業の機械化が1960年代に緑の革命として行われましたが、十年後には、導入した国々の農業生産は、頓挫します。新品種は、収穫量を増加することができますが、大量の肥料や農薬の散布、灌漑設備(井戸を掘って地中の水をくみ上げる設備など)やエンジン付きの農機具の導入など、資金がなければ出来ない農業であり、大量販売ができなければならない農業だったのです。化学肥料、農薬による環境汚染までしてしまった緑の革命は、単一植物の大量生産と言う工場製品の様な農産物の商業経済への参入は、農産物の大量消費のために穀物で家畜を育てることにまでなったのです。つまり、発端は、アジア、アフリカの深刻な食糧不足の対策として、トウモロコシ、小麦、イネなどの品種改良と多収穫を求めながら、家畜の飼料になって食糧不足は解決していないのです。もっと言えば、本当にみんなで生産された穀物をきちんと分配していれば食糧不足はもっと小さくなっているのです。つまり、人間の食糧確保として大規模化した農業は、経済活動に組み込まれたことで、農業が生きるための生産から大きく離れて、経済活動に支障のない手段の一つに組み込まれたということでもあるのです。だからその回転を失わないように、バイオテクノロジーによる遺伝子組換えなどの技術にも積極的でなければならないのです。農業は、商品化された作物の生産のために耕作地を広げ、森林を喪失させざるを得ないような状況に追い込まれています。結果として、長い年月で作られた土が失われ、新しい土が出来ない環境を作っているのです。それは植物が出来ない地面を増産しているということです。ここ100年くらいの間に急激に農耕地を増やし、広大な面積が農業によって土壌を失いましたが、更に急速な土壌の侵食が進んでいると言われています。だから農業は自然と共生している産業などとは言えないのです。

多くの人が、農業は自然破壊をしないという前提で考え、化学肥料・農薬さえ使用しなければ、環境の維持に役立つと、考えていますが、今ではそんな程度では回復することは出来ないほど農業は自然破壊を進めてしまっているのです。私達が農耕地として利用できる土壌というのは、10から30cm程度の表面で、それを失えば農耕地として利用する事は出来ません。現実に、中国の畑作地帯での砂漠化と土壌汚染は、非常に急速に進んでいると言われています。

原点に戻れば、農業が始まった時から自然破壊が始まっているとも言えるのです。地球上の多種目雑多な種はそれだけ必要だから存在するのであって、単一種目が大量発生することは、自滅か、全体の破壊に向かうとまで言われています。農業は、自然でとても素晴らしい行いとみられていますが、基本農業の発展が、富の原点だし、富の争奪が戦争の原因とも言えます。エンジンの発明と共に、農業は、急激に発展し、機械化されたことと、農薬や化成肥料によって収量を飛躍させ、単一作物の大量作付で、土と植物の関係を壊しました。今日の農業の様な、限定された種だけを大量生産する方法は本当はとても危険なことなのです。極論で言えば、自然に出来たものを採取する方法以外の田畑は、建物と同じ自然には存在しない、人工物なのです。農業は、人工物を拡大してきたということなのです。だから、農業によって生産された食品を捨てることは、自然破壊の片棒を知らず知らずに行っていることになるのです。自然農法などと言う誤魔化しではなく、農業そのものが人工物で自然ではないということから、考えていかなければ土は再生されることなく非農耕地が増えていくばかりなのです。

座敷牢が法律で認められていた時代があった話

    大阪・寝屋川市の住宅で、内側から解錠できない二重扉や監視カメラを設置した隔離部屋で統合失調症だった長女(愛里さん)を約15年監禁し死亡後に自首したという報道がありました。平成29年1月から監禁している長女が急激にやせて衰弱していたのに、食事や治療を受けさせずに全裸で放置し、同年12月に凍死させたという事件です。長女は、小学6年生の頃に医療機関精神疾患と診断されたとされたことから、両親が長女を自宅の室内に自作した広さ約二畳の窓もないプレハブの部屋に、布団と簡易トイレを置き、音声機能付ビデオカメラで監視、スピーカーで話していたというのです。14歳のころには不自然な姿勢で何時間も動かなくなり、17歳の時に複数の精神病院で、統合失調症の中の緊張型カタレプシー(無反応な状態、昏迷と呼ばれ、起きていて意識はあるものの、呼びかけに対してまったく反応がなく、体も固まったまま動かない状態になる脳の疾病)と診断されたと報道されています。しかし、精神障害者保健福祉手帳の申請はせず医療もその後受診はしていないようです。ただ障害者の生活のために支給される障害年金だけは受け取っていました。 

 長女には、何らかの異常行動はあったでしょうが、小学6年生を夫婦で監禁しなければならないと判断したことは現代では確実に異常です。長女の様子は、映像で一部残されていると報道されていますが、私たちは見る事が出来ませんから、本当の状態はわかりません。ただ、平成の初めの頃までは、障がい者施設に、重度の知的障害の人や徘徊の人などが、自宅の一部屋を牢屋のように改造して暮らしていた人が入所するということは時々ありました。つまり、家庭内で監禁することを過去には、法律でも認められていて、「私宅監置」いわゆる「座敷牢」などと言って、精神障がい者を中心に精神病院で隔離収容すべき対象者が、費用が高く誰でもが入院させられなかったので自宅や物置などに勝手に隔離収容しても違法ではなかったのです。その基本は、社会に迷惑を掛けるような人は、隔離して社会を守ることが正義とされていたからです。この考え方は犯罪に対して現在も続いています。 

 そして、この考え方は、制限がなくいかようにも解釈することで拡大解釈され、重度の知的障害の人などが、自宅の一部屋に隔離収容されれることも当然としました。。子供では、就学免除と言って学校へ行くことさえも拒否されていましたから、疾病になっても医療を受けられず、今回のように早死にしましたが、警察ではお咎めなしで、ご苦労様と処理され、むしろほっとしましたねという社会が少し前まで現実にあったのです。要するに、障がい者を世間に晒すなという圧力や家の恥ということよりも、世間に隠し続けることの方が評価される時代があったのです。ですから、進んで座敷牢を作り、世間に迷惑を掛けない対応こそが常識だったのです。そのような常識の中では、本人に対しての洗脳が行われます。長女を、世間から隠した両親の真の理由はわかりませんが、隔離してお前は病気だと繰り返し洗脳し続けることで、長女もこの隔離を受け入れていたのかもしれません。選択肢と情報をすべて塞ぎ、一つの選択肢のみを提示し続けることをすれば洗脳は可能です。長女は、両親の洗脳により監禁を受け入れていたから、暴れたりも逃げ出したりもせず、青春をこの部屋の壁を見つめて過ごし続けたことを受け入れていたのかもしれません。 

 実際、比較する違う生活を全く知らなければ、それが日常であり生活になってしまっていますから、私たちから見たなら監禁生活なのに、その生活に疑問も、不満も持っていないという事例に遭遇もしています。つまり、三才や五才の子供が虐待で死亡する報道に接した時に、人は逃げればよいのにと言うことがありますが、虐待されている生活しか知らなければ逃げようとか、助けてと言う言葉は絶対に出ません。だから、虐待は悪質と言われるのです。 

 情報の制限や選択肢の制限は、洗脳の第一条件で、洗脳の延長線上には虐待ということが待っています。この遠因でもある「私宅監置」は、1950年の精神衛生法施行にて禁止されるまで法内の制度だったこともあって、障がい者の監禁に抵抗感が少ないということがまだあります。親に子供の頃押し入れに閉じ込められたという思いでがある人にはそれがこの法律の影響だとは感じられないかもしれませんが、悪い子とをしたなら閉じ込めても良いが、悪いことをしそうだから閉じ込めてもいいという解釈に繋がっていく危険を知ってほしいのです。社会防衛としての隔離収容だった障がい者施設も大きく変わってきていますが、現実にまだ、私宅監禁されている障がい者がいるかもしれません。自宅監禁の代用になっている施設があるかもしれません。実際、青梅のグループホーム知的障害者が縛られて死にました。

 そんな目で見ないと、愛里さんがあなたの隣人だったとしても、手を差し伸べられないと思うのです。

 

 

 

 業務上過失致死容疑書類送検の話

  平成29年の7月、埼玉県上尾市の障害者支援施設「コスモス・アース」で、知的障害のある男性利用者=当時(19)が送迎用ワゴン車内に放置され熱中症で死亡した事故で、約半年後に、警察は、男性運転手(74)と、担当だった男性職員(37)、元職員の女性(26)を業務上過失致死容疑で書類送検しました。事故当日に施設内で女性職員の体を触ったとして逮捕、起訴された施設元管理者の大塚健司被告(75)=強制わいせつ罪で公判中=については、男性がいないとの報告を受けていなかったので事故を予見できなかったとして立件が見送られました。

 施設経験者なら言えるどこの施設でも普通に実施していると思う利用者確認の機会は絶対に3回以上あったと言えます。それは、第1回は、送迎車が到着した時、ここでミスがあっても、第2回は、作業の開始時に挨拶と一日の業務説明の時、初めのあいさつや作業の説明もなしに利用者が勝手にばらばらと始めてしまうことなどあり得ません。社会で自立して暮らそうというなら挨拶の習慣づけは基本です。そこでもミスがあったとしても、第3回の昼食時には確実に不在が確認されます。なぜなら食事を食べさせないことは施設では虐待に当たる行為として徹底しているのですから給食が残っていればもう何が何でも確認すべき時です。だから、この時点でも行動しない施設は、虐待に当たるという危機感すら教えていなかった施設だったということになります。                                 

 男性は自閉症で、4月から施設に通い始め、普段の生活では介助を必要とせず、車の乗り降りも自力でできたそうです。施設の送迎用ワゴン車は通常、チャイルドロックしていますが、運転席へ向かえば出れないことはありません。男性は3列ある座席の最後列の右側に座り、倒れていた位置もほとんど変わらなかったということですから、ずっと暴れたりもせずに座っていたと推測されます。

 「コスモス・アース」が開設したのは、平成26年4月、それまでは、農家の空き家と会員の手作り小屋で活動しており、冬寒く夏は暑く雨風をしのぐだけの中で頑張ってきたと広報されていました。その理念は、“自然環境を守り、障害者があたりまえに暮らせる地域づくり”で、理事長は、大学の元客員教授であり、県健康福祉部長、社会福祉事業団理事長等を歴任のプロということになっています。ただしこの事件が発生している同時間に施設の女子職員を他室で触っていたと検挙されています。

 冒頭のように、この事件では、警察が「書類送検」を行いましたから、検察庁が裁判所に起訴して,裁判所が有罪の判決を出したなら「前科」となります。しかし、警察が、「書類送検」をしても、検察庁が起訴しなければ(いわゆる不起訴)なら前科にはなりません。ところが、「前科」のほかに「前歴」という言葉があって、検察に送致されただけでも書類送検されれば「前歴」という記録は残ります。

 だから、福祉に携わる人は普通に、業務上過失傷害・致死なんて言葉がいつ自分に振りかぶってもおかしくないと覚悟して、安全確保、リスク管理にうるさくなるのです。

 なぜなら、福祉は、自己防衛力の弱い人が対象となります。自分で自分を守る力が弱い人ですから、健常者なら怪我しない条件や病気にはならない状況でも、怪我したり病気になったり、最悪には死亡に至ったりします。

 コスモスアースの件でも、自分で車から降りれば良いだけのことが出来ないということなのです。誰かが支援しなければ、健常者からすれば極簡単で、誰でも出来ることが出来ないということです。しかもそれが生命を脅かすような事態であっても自分からは出来ないということなのです。しかも、自分で自分を守る力が弱いという範囲が障害により違うだけでなく、深く広い場合も多く、支援者が守らなければならない守範囲は案外広いということです。「こんなことまで」と思えることまで、確認しなければならないということがたくさんあるのです。そしてその確認は、地道で成果効果などとは一切縁のないものなのです。それを職員に教えていない管理者によって、働いていた3人の人が前科や前歴が付いてしまうことになったのです。

 今日、福祉施設では、職員の人員不足が続き、厳しくすると辞められては困るからと注意することも出来ない管理者も増えています。しかし、安全は人の手によってしか確保できないという原理原則の元、職員には、自分を守るリスク回避の方法を教えることは管理者の責務なのです。利用者を守ることを職員に押し付けることではなく、自分を守ることが結果として利用者を守ることに繋がっていることを指導できない管理者は失格なのです。職員に、守備の方法を丁寧に教えられないなら、管理者になるべきではないのです。自分の部下に、前科や前歴を持たせ人生に影響を与えるような事態になった責任を元の管理者は今も自覚できないかもしれませんが、職員を守れる管理者も今の福祉は求めていると思うのです。

 

 余談ですが、コスモスアースの広報誌に「 (前略)開所式を行い、当日の件は、マスコミ関係者にも案内いたしましたが、どの社もお見えになりません。世の中の本当の仕事というものはこのようなことだと思いますが(下線部筆者)、まだ世間の認識はそこまで届いていないようです。」という文面がありました。下線部の様な自分たちは「良いことをしている」という傲慢な態度が根底にあったと思います。結局マスコミは事件の時に何社も集まり、新聞には大きく記事となって出ました。福祉は、人の生活です。コスモスアースという施設は名前を変えました。

父が旅立った話(医療と家族の調和の話)

 父がいよいよ旅立つようだと言うので、何年かぶりに会いに出かけました。晴れ晴れとした空だったので、地上の風景がネットかと錯覚するほどきれいに見えました。ただぼんやりと眺めていましたら、やがて雲が一面を埋め尽くす状態になり、その造形も日常生活がイメージできる感じで何年かぶりに上から見る雲にさらにぼんやりとなっていました。やがてアナウンスがあり飛行機は降下をはじめ雲から出ると、なんと吹雪いている雪景色の中に着陸した。この時期にこんな筈はないと思う程の積雪に驚きながら転ばぬよう気にして歩いて着いた四人部屋の病室に父は横たわっていました。寝ているのかとのぞき込むと、傾眠的だったのか気づくように目を開けました。少し白濁した九十六歳の目にどれほどに見えているのかわかりませんでしたが、笑った気がしました。

 それから、長い時間を一緒に過ごして学ぶことがありました。

 父が何かを言うのですが、入れ歯をつけていないせいなのか、何を言っているのかわかりませんでした。さらに、補聴器もつけていないので、聞きなおしている声も届いているとは思えませんでした。日ごろ介護している姉が来ないと無理かと諦めていましたが、偶然、わかる言葉がありました。それは「水」でした。判ったという喜びに満ちて周りを見渡しましたが、よくある吸い口などが見当たりません。判ったことが嬉しかったので、看護室まで出向いて、水を飲みたがっているのですがと報告するとあっさりと、だめですと言われてしまいました。すでに食物は口から食べていず、点滴で対応しているだけでなく、口の中も荒れていますから水は飲ませないでくださいと言われて、すごすごと病室に戻り、「ダメだってよ」というだけけしかできませんでした。看護師としては、食物を摂取しなくなった時から唾液も十分に回っていず、口呼吸している現状で、口の中は潰瘍による出血と血だまりだらけになっていることや、嚥下もろくに出来ない状態ですから、水といえども、誤嚥して、誤嚥性肺炎になってしまう危険性が高いということなのだろうと取りあえず自分に言い聞かせました。看護師としては、飲んでいいということは、死んでもいいということと同じ意味になってしまうリスクに、絶対に良いとは言えない立場なんだよなとも理解はしました。水飲んで、それで死んだら誰が責任をとるんだ。そうなんですが、家族としては、医師がすでにあと何日も持たないと宣言するほどすでに内臓の臓器は疲弊し心臓の一方の弁は機能せず逆流しているとも言うほど老齢による機能不全が全身に及んでいるということですから既に覚悟は出来ています。そんな中で、たった一つの救いは意識が明瞭だということです。天寿を全うしようとしている父親が、最後に水を飲みたいとハアハアしながら言っています。ここで水を飲ませば旅立ちを早めるかもしれない。それも数日。ここで我慢させても数日しか生きてはいない瀕死の状態。結局、何の足しにもならない習ったことのある終末ケアのことを考えながら、ベットのそばでうろうろする程度しか能はありませんでした。姉が来てみると、「起こせ」と言っていると言って手動のギャッジベッドをくるくる回して少しだけ起こしました。大丈夫かと見ていると案外本人の希望に添えたのか、穏やかな顔になっていると感じていたのですが、その後やってきた看護師は、今日は血圧が低いので頭は下げないとだめですとあっさりと戻してしまいました。医学的には正しい措置なんですよね。そう、ここは自宅ではない医療施設なんですよ。だから、点滴や酸素マスクを勝手に取り外してしまうという悪行を散々行っていたせいで、父は、骨しかないような両腕を、拘束されていました。面会の方がいる時は外してもいいですよと看護婦さんは優しく言ってくれましたが、外したからと言って父には何も出来ないのでは思っていましたが、意外と父は父らしく、拘束を外すと布団を自力で剥いでいました。姉の通訳によると布団が重いからだそうです。なるほどと感心していましたが、体力の落ちている父には湯たんぽが入っていて、外は吹雪の現在体温の低下を招かないように布団は掛けていなければならないというのが看護としてのルールでもありました。そういえばいつか帰省した時これは軽いと購入した羽毛布団を自慢していたなと思いだし、この布団は重いだろうなと再び剥ぎ取る父に父らしさを感じました。むしろ悪いことしている訳でもないのに、剥いだ布団の代わりにタオルケットをかけたこっちの方が看護師が来ると、ポーズとしてちょっと布団も掛けたりして何のアピールしているんだ俺はと自嘲気味になりました。そもそも、ここは病院で、自宅では看取れないのだからということに行きあたります。そんなことしか出来ない不甲斐ない兄と違って弟はとても逞いものでした。何と、10cmにも満たないスプレーに水を入れてきて、父の求めに応じて口に霧水を提供していたのです。しかも、看護師には見つからないように隠れて上手に。

 日本の医療は、今死ぬとしても最善を尽くすが基本ですから、病院に入院させているということは、病院のルールに従わなければなりません。高齢の父の親族としては、明日死ぬなら今日好きなだけ水を飲ませて今日死すともそれも天寿と覚悟は出来ているのですが、それは自宅という環境ならではと考えると食事が全く口から取れない状態で点滴で生きている父親を病院から連れ出すというのも迷うところです。実際、普通に考えたら、人生ではたった2回しかない実の親の旅立ちになんか手助けしたいと思っても何も出来ないんだなと感じました。それから2日後父は旅立ち多臓器不全の体を捨てました。

嘘つき薄葬令から、権力者の裏事情を邪推する話

 日本書紀によると、大化2年(646年)の改新のなかで薄葬令が規定されたと書いてあります。内容は、中国の故事に習い、民衆の犠牲を軽減するため、王臣と庶民の身分に応じて作ってよい陵墓を制限し、人馬の殉死殉葬を禁止し、陵にかける時間を7日以内に制限するなどの制限が加えられたというものです。この記述を元に歴史学では、古墳時代は終わったというのです。ここからが邪推なのですが、では何で古墳を作っていたかということから考えてみたいのです。一般的には、権威の象徴と言われますが、広報媒体のないこの時代では、現地へ行かなければ壮大な古墳も見られませんし、多くの地方の住民は旅行で移動などしませんから、視覚的権威としては何の効果もありません。首長クラスでも戦争でもない限り自国を出ることはあまりありません。第一、死んだ人間にそんな大工事をして見せなくても、現在権力を握っている人間にしてみれば何の意味もありません。この時代は、まだ権威や象徴で権力を手に入れる環境ではなく、戦いで入れ替わる時代ですから、父はすごかったなどとでかい墓を作ったところで近隣豪族や人民を含めて古墳を見てひれ伏すなんてことは考えられません。むしろ、日本書紀の記述にもあるように、民衆の犠牲や資材が多くかかる負担の方が多いものですから、権威の象徴にはならないと思うのです。むしろ権威の象徴として、装身具もたくさんつけていた時代ですから、死んだ人間のために墓に金を掛けるより、装身具や武具で権威づけして示威行進でもしていた方が遙かに効果的と思うのです。ところが、古墳と同様に装身具も無くなってしまうのです。つまり、権力の象徴と考えられる古墳も装身具もこの薄葬令によって禁止されたのでなくなったというのです。大化の改新で、地方を従わせる中央集権国家を目指すには、権力の誇示が必要なのに、否定したというのです。このことからも、古墳は権力の象徴ではなかったと思われるのです。現在の視覚技術だから上から見たり出来てすごいと思われますが自分たちの目しかなかった時代には多くの人に視覚的偉大さの強調にはならなかったと思うのです。

 そこで古墳はなんのために作られたかと考えると、古墳は墓ではなく、復活のための施設だったと考えることも出来ます。つまり、中国では、死後も生前と同様の生活がつづくという考えがあって、秦の始皇帝の陵墓に附設された兵馬俑が有名なように、偉い人の復活のために現実で使用される道具のミニチュアや紙でつくった貨幣などが副葬されるということがあります。ビラミットなども復活のための施設とも言われています。ですから、古墳にも生前と同様の武具や生活用品、殉葬としてあの世で仕える人が副葬として必要だったのです。死んだから終結としての墓ではなく、復活してくるための城だったとしたなら貴重な武具や装飾品を入れなければなりませんし、他者に攻め込まれないように厳重にしなければなりません。しかし、そんな復活思想を持たない人々からすれば、古墳なんて無駄以外の何物でもありません。そう、朝鮮半島における王陵の発掘成果によると、中国的発想はむしろほとんどみられないとされています。この当時日本は百済と交流がありました。そして、百済新羅に滅ぼされます。百済の貴族を含めた難民が日本に来ています。仏教は百済からもたらされました。仏教に復活の思想はありません。大化の改新などにより大和朝廷は地方豪族を押さえ中央集権国家へと変貌したと言われますが、その実務を担当したのは百済の人間で、もともと百済で実施していた土地の領有を宣言し全ての土地と人民は天皇(百済王)に帰属するとした公地公民制を大和朝廷の中で行ったとしても不思議ではないのです。地方分権から、中央集権に変わるのですから、地方の反発は相当あります。それを正当化し従わせる武力とイデオロギーが必要ですが、内部から沸き上がったとは思われないのです。もっとあります。持統天皇は703年に崩御したのですが、彼女は天皇で初めて火葬されただけでなく、自身の墳陵を持たず夫の天武天皇の墓に合葬されたのです。火葬されてしまったら二度と復活することは出来ないのです。それを後継者が行うというのは異常です。しかし、反対もなく出来たということです。これらのことは何を意味するかと考えると、権力機構の交代があったのではないかと思われることです。実は、古代政権は、親密だった百済の亡命者たちに平和裏に乗っ取られた可能性が高いということです。同じことは、明治維新でも起きていて、陰でイギリス、ドイツ、フランスが動いていたことは事実でその後の憲法だけでない実施内容は、地方分権から中央集権へのおおきな変革です。よく見る聖徳太子の左右にいる皇子の髪型だった先祖伝来の髪型もちょんまげに変わりますし、服装も大きく変わります。伊勢神宮遷宮は復活であり、若返りであるように、天皇が変わるたびに遷都していた宮殿も首都として固定されていきます。日本書紀に根の国、古事記には黄泉国という表記で表される地下の世界が実は否定されることが起きているのです。歴史の記録は、自分の正当性を表現したものですから、自分の都合よいように書くのが当たり前ですが、この時代には、歴史なんて認識はありません。しかし、中国と付き合うには、中国同様に、国書として国家の記録があることが必要でしたから、中国などに見せるために作られたのが、古事記であり日本書紀なのです。ですから、そんなもんがあることさえほとんどの人は知らなかったのです。その程度ですから、史実が適正に書かれているわけではありません。特に、どんな資料に基づいて書かれたかの記載もほとんどありませんから照合することさえできないのです。ところがその中で資料として使用したと書かれているのが百済の国書なのです。

 とまあ、こんな風に邪推しながら歴史を見てみると面白いですよ。