知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

言われなければやらない、言われた事しかやらない、言われたとおりにやらない話

 客観的にその集団では最下位に位置している人物でも、一人でも後輩や部下ができると、自分がその集団に所属した時には、こうだったああだったと云い、後輩や部下に愚痴なのか武勇伝なのか無口な人でも語ります。しかも、自分は上手に出来ていなくとも上から要求されたことを評価の基準にして自分の成績は、隠したまま後輩や部下を評価します。他者からは最低の評価を受けている者でも、自分が上位にいると錯覚して語ることもあります。過去には、空気が読めないやつなどというあいまいな評価もありましたし、覇気がないとか、やる気がないとか、情緒的な言い方から、ひっくるめて現代っ子なんて言い方や最近のゆとり世代まで様々です。どんな組織も、いつの間にか自分を中心に上から下まで他者評価(愚痴を含めて)を延々と行っているものです。それがその組織の家風でもあるのですが、当然馴染める人と馴染めない人は出てきますから、順送りの様な家風に順応した人が上司となっていくのです。つまり、よくある上司無能の批判はそんな人を上司に据えるような選択をする人の家風の組織なのです。よく、新設会社は、5年以内にほとんど消えると言いますが、集められた人材の運用もさることながら、他者を見る目に失敗することが多いことも要因に挙げられます。どんな事業も一人では限界がありますから、他人を雇うのですが、事業の遂行能力と人物を見極める目は全く異質で有能そうでダメなやつと無能そうで非凡なやつを選別できないから、自分が現場を指揮していた時から、現場を離れ他人に任せるうちに潰してしまうのです。優秀な企業家は沢山いますが、自分に合った参謀を確保できる企業家は少ないのです。

 さて、自分が上司となって部下を持つと様々な時代の風潮や評価基準が気になるものです。そして手引き本なんかに興味を持ちながら評価します。自分が部下の時は、上司が無能だからと愚痴っていましたが、自分が上司になると部下の駄目さ加減ばかりが見えて仕方なくなります。結局は、自分にはすごい上司にも、出来る部下にも恵まれていないのだと勝手に思いこまなければやり切れません。他者はかっこよく、どんな上司でも上司になった要素はあるのだから良いところは見習い、悪いところは反面教師として学ぶべきだし、部下は育てなければならないといいますが、良いところなんて一つも見つかりませんし育つなんてこととは程遠いとしかお思えない状況ですと声を上げたくなるぐらいです。第一、部下を育てるといったって、本を読んでも、研修も受けてみても、そんなにうまくいったら苦労するかということぐらいしか成果はありません。飲みにケーションなんて言って酒を飲んでも、結果として成績が上がるわけもありません。

 実は、現代の組織はまだ底流に、終身雇用の習慣と残存があるのです。終身雇用の仕組みは人と人の「縁」の深さです。殿様の国替えがあっても国衆は延々と続いていたように経営者が変わっても雇用は続くという思考は底流として今でも流れているのです。現代の縁というのは、深さではなく、広さに変わってきています。異業種交流を含めて、いかに広い縁から利益を作り出すかという手法に変わり、労働者も広い縁の一つでしかなく縁がなかったものとリストラするのは当然の帰結なのです。ですから、一人一れの「モチベーションアップ」などといっても上がるわけはないのです。勢いのある風の吹くままに、流されている方が時には有利であることが本当に多いのが現代なのです。そして、そんな世相を反映しているのが、「言われなければやらない、言われた事しかやらない、言われたとおりにやらない」というのが現代ではないかという話です。個人の、モチベーションや頑張りを求めるのは、言わなくてもきずいてくれる、プラスアルファの仕事は当然、自分の話を聞いていると幻想を持っているからです。そうではなく、現代は、人は、言われなければやらない、言われた事しかやらない、言われたとおりにやらないを認識していれば一つでも自主的にやってくれると嬉しく思えるのです。そうなれば、やっと部下や後輩を褒められるチャンスに出会えます。

奴隷という視点から国を考える話

 クルドのことやロヒンギャのことは、簡単なことではないのですが、国を持ちたいという思いを奴隷という視点から考えてみたいのです。今日の日本では、奴隷というとアメリカの黒人奴隷のこととしか学校では学ぶ機会がないので、日本にも古代から奴隷はいたということやヨーロッパもイスラム圏も奴隷が一つの価値ある商品だった時代かずっと長かったことを学ぶことはありません。さらにアメリカの南北戦争で黒人奴隷解放が高く掲げられたのは人種差別に起因すると学ぶのは本当は適切ではなくて、白人も奴隷として売買されていたし、戦争だけでなく、略奪や誘拐・拉致などで民族そのものが奴隷として売買されていたことを知ってもらいたいと思うのです。アメリカの奴隷は、初めから黒人ではなく、インディオや白人を導入しただけでは労働力が不足し、さらに南部の気候に適応せず死亡が多かったために気候に適したアフリカの黒人を連れてきたということなど、決して人種差別一点で進んだことではありません。人間は労働力として長く、年季奉公の様な奴隷と変わらない期間契約労働だけでなく、奴隷として所有することが認められていた時代を持ち、今でも世界にはまだまだ根絶されたとは言えないのです。奴隷を必要とした社会は古代のギリシャを含めて、ヨーロッパでありイスラム社会でした。ギリシャの奴隷は同じギリシャ人が多かったとも言われていますが、スレイブ(奴隷)の語源となったスラブ人は、国家が弱かったので、他民族の侵略や略奪を繰り返し受け、中世・近世と長く奴隷狩りの対象となっていたと言われています。その原因は、貿易という商品交換の対象だったからです。私たちは教科書などで、イタリアの都市国家は貿易で繁栄した等と習うのですが、貿易は、商品の交換が基本ですからお互いに同じものを持っていたのでは貿易は成り立ちません。双方が欠損していて欲しいものを交換するのですが、欧州の国家が欲しいものは、香料、絹、宝石など沢山ありましたが、欧州からはこれに匹敵するような物品はなかったのです。そこで、労働力としての奴隷を認め必要としていた、イスラムに販売していたということです。イスラムは、香料や絹を中国やインドから取り寄せることのできるいい地域だったし遊牧的生活では、運送手段を持っていて、商人としてシルクロードを活用していましたし、同一宗教内の奴隷を認めない教えの中でキリスト教徒は売買の対象として適切だったのです。それはキリスト教でも同じでしたが、欧州の他民族の中ではとにかく弱い民族は、簡単に侵略者の奴隷にされてしまったということです。そして、男はガレー船(昔の戦艦で地中海の制海権がかかっていた)の漕ぎ手や鉱山の人夫、農夫という労働力だけでなく、傭兵という戦力にも組み込まれています。女も、娼婦よりも、家内奴隷として家事をもっぱらやらされています。日本人には理解できない民族というくくりを言語系統で大きく分けただけでも、ゲルマン系、ラテン系、スラブ系、ケルト系、その他と分けられ、民族の攻防が延々と続き、その中で捕虜や誘拐があって人身売買も正当な商売とされていた時代があったということです。事例としてクリミア汗国では、ウクライナ人の村を襲って住人を奴隷にして売ることを生業としていたとも言われていますし、イギリス王が、3万人の牢獄者をアメリカに奴隷として売ったことがアイルランド奴隷貿易の始まりとも言われています。その後、アイルランドの囚人達は、海外在住のイギリス人入植者へ売られるようになり、イギリスは、このアイルランド奴隷貿易を100年以上にわたり続けたと言われています。それは、1798年アイルランド暴動後も、何千ものアイルランド人奴隷がアメリカやオーストラリアへ売られたとまで言われています。つまり、アメリカの黒人奴隷は、すでに行われていた欧州の奴隷売買の延長線上にあって決して人種差別問題だけの正義の戦いではないのです。白人とか黒人ではなく、国家を持てなかったり、軍事力が弱かったり、治安が安定していなかった地域の住民は、突然の襲撃ののちに奴隷として売買されることが国家間でも行われていたということです。それは日本も同様で、古代には、中国に人間が貢物となっていますし、戦国時代では、乱取りの一つとして住民を拉致して奴隷として売ることが広く盛んに行われていたのです。理由は、武将には報酬として占領地の分配がありますが、明確な報酬規程のない兵士には報酬代わりとしての乱捕りと言う金品を含めた略奪・拉致なんでも戦利品として自分たちの物とすることを了解していたからです。ですから、戦場の近くには、そんな商人たちが常に待機していたり随行していたのです。戦国時代の日本人奴隷は非常に有用で、女は売買婚の妻、男は傭兵として、東洋のポルトガル船や後期倭寇の戦闘員になったりもしています。ですから歴史上、最も古い職業は傭兵と娼婦、最も古い商品は奴隷などとも言われています。人間は有用で、国を持たないと自分を守れない時代が今もあるのです。ユダヤ人が立国した国を守ろうとするように、クルドやロヒンギャにとっても自らを守る為に立国しようとする意識は、日本人には理解できない深い希望だといえると思うのです。多民族国家として成立している国では、国内の民族対立や迫害がないと独立などとはならないのですが、民族として自分たちが守れないという危機感が強くなれば独立という要望が強くなるのかもしれません。今日のクルドなどの課題は、第二次世界大戦前後の植民地問題による線引き国家が問題とされてもいますが、たとえ自治が拡大されても、奴隷的生活を強いられたり、そのように感じる扱いを受ければ、民族はは独立へ向けて歩き出すのかもしれません。

 

芸術はコミュニケーションではないの話

 芸術は、国際共通の言葉などと説明されて納得している人は多いのですが、芸術は一方的で言葉のようにコミュニケーションを、図る道具とは全く別物です。言語は、相手に自分の意志を伝え相手との確認をすることの道具として最良ですが、芸術は、一方通行で感じ方はさまざまで意志を伝えることは出来ません。一枚の粘土板の文章は古代の意志を読み解くことは出来ますが、古代の彫刻や絵画からはその意思を読み解くことは出来ません。また、言語は技能を必要としませんが、芸術は技能を必要として日常生活用品ではないのです。そして、芸術は、絵であれ、音楽であれ、時代背景や状況で解釈さえも変わってしまいます。例えばワグナーはドイツでは、注意すべき音楽ですが日本人の多くは関心がありません。しかし、日本の軍歌がテレビの懐かしのメロディーとして特集を組まれることがないように戦前と戦後では評価は一変しています。軍艦マーチにパチンコ店を思い浮かべるのは年代で、軍歌は、カラオケ店か、街宣車でなければ接することはほとんどないぐらいに、特定の考え方として一般的とは言われません。特に、政治として利用された芸術は、その作品としてではなく、政治の広報媒体として特定の解釈がされてしまうからです。芸術作品は、作品としての自己主張があっても、言葉として話さない限り、相手には伝わらず、相手の都合のいい解釈によって、利用されてしまう危なさを持ち合わせています。

 人間の感性も、生きている、生きてきた環境で、感じることも、表現できることにも大きな違いがあります。むしろ、人は感じたことを、思うようには表現できないのです。言葉であれ、身振りであれ、絵や、音楽を使っても、自分が感じていることを何かを使って表現しようと試みますが、結果はいつも納得できないのです。特に、相手に分かってもらおうという企てを含むと、尚更に、自分の感じたものを表現しているつもりでも、歪曲してしまうし、歪曲して感じられてしまうのです。ですから、二人で、同じ風景を見ても、同じ感動にはならず、近似値としての状況の中で、それを双方が表現すると相当の違いが出てしまうから、素晴らしいとか、美しいとか、短い言葉でしか表現しないのです。現代の芸術教育は、このように感じるべき、このように感ずると訓練されることによって共有できるようにしているだけで、ピカソの絵を見てなるほどとは中々思えないのはその為です。例えば、西洋の楽器は、比較的人間の感情表現を再現しようとしていますが、日本の雅楽の楽器は、人間相手ではなく、神であったり自然を表現するものです。それを東儀さんは、西洋音楽の楽譜を当てて、楽器としてなんにでも使えるよと証明してくれますが、それでは雅楽器も世界の珍しい楽器の一つになるだけです。なぜなら、雅楽器のひとつ篳篥(ひちりき)は、西洋楽器で言えばオーボエとも言えますから、演じるならオーボエの方が優位です。しかし、篳篥が演じるのは、「龍」ですから、オーボエでは龍は演じられません。龍が、西洋旋律を演じることはカラオケのごとくできますが、信仰としての龍の声は、全く別物なのです。また、和太鼓のサークルも沢山あるのですが、打楽器としての凄さはわかっても、結果として何を表現しているかを、もし聴衆に確認したとしてもほとんど望むような回答を得ることは難しいと思われます。アフリカの太鼓に会話ができるシステムがありますがそれはお互いがすでに確認しているだけで、突然では理解不能になります。つまり、楽器には、人の思いということ以上に時代背景や信仰ということとの関わりがあって、聴衆に聞かせるものから、神に捧げるものなど様々で、今では土産店でおもちゃのように売られているアイヌムックリは、自然や神との交信であって観客が聞いて感動し理解できるものではありません。

 芸術というのは、何かを促す効果はあります。風と音は、自然にあり、叩いても、引いても音は出ますし、岩に線を書いても、土を塗り付けても形は確認できます。声を出し、体を動かせば、様々な表現も出来ます。ですから、芸術は、呪術的で宗教的に多く利用されてきましたし、雰囲気づくり気分の統一には便利なだけに政治にも、戦争にも常に活用されてきました。だからこそ、芸術は世界の言葉などと、綺麗なものにしてしまうと、詐欺にあってしまいかねないのです。芸術は、自然と同じように、常に一方通行でコミュニケーションにはならないことを知っておかなければならないと思うのです。一方通行だから相講釈師がついて、利用されてきた歴史があると思うのです。だから人間は、音を言葉にすることで、コミュニケーションを考えてきたと思うのです

こんな研修で人は育たないの話

    東京都の相談支援専門員の資格研修に参加して、演習のあり方について苦言を言ったら、会場から排除されるという経験を持った私しが、縁あって他の県の強度行動障害の研修に参加する機会を得ました。この研修も厚生労働省の代理研修なので、講師となっている県の担当者は自分の自由に出来るものではありませんから、歯がゆいものなのですが、東京都のような高飛車で強引な押し付けをしないだけでも県の講師に同情する研修でした。しかし、内容はこんな研修で人は育たないと思ったので、長い文になりますが 報告したいと思います。

 

 研修当日のテキストから長い引用となりますが、まず提示しようと思います。(下線部は紫藤)

1、演習のねらいとテキストで説明されたのは、以下の文です。

 この演習では、2人の事例について、行動の背景を分析し、支援計画に活かすた

めの方法を学ぶことを目的とします。具体的には、①行動の背景を意識する周囲か

ら見える行動のみに着目するのではなく、行動に関連する障害特性や環境面の影響

などを踏まえて、本人の支援ニーズを探る。②支援のアイデアを柔軟に考える。

人の行動をより適切にし、また生活の質を高めるために必要な支援を、障害特性や環

境要因を意識して支援計画を立案する。

2、演習の方法は、氷山モデル方式によるグループ討議です。

  重度の知的障害のある人や自閉症の人が、本人が理解できないような指示を受

けたり行動を促されたりしたときに、激しい自傷行為や他害行為、または金切り声

をあげたりかんしゃくを起こすと、支援者の中にはそれらの行為を、本人の「問題

行動」として捉えてしまう人が少なくありません。(中略)一方、その行動が本当に問

題行動なのかを整理して考えることも必要です。

  たとえば、本人にとって、「その行動の意味は何なのか」、「他人に迷惑をか

けていることなのか」、「場面によっては、問題でなくなることもあるのか」、など

といった視点で見ることよって、問題となる行動の背景を探り、より適切な対応を考

えることに繋がっていきます。

  その行動の困難さ理解するために、氷山に例えて見立てるという考え方があり

ます。氷山は、水面上に見える部分だけでなく、水面下にある部分の方が大きいこ

とから、全体像を見る時には、その氷山の一角に注目するのではなく、水面下の隠

された部分を見ることが重要であるということです。この考え方を『氷山モデル』と

言っています。かんしゃくや奇声、他害・自傷為、不適切な行動、強いこだわり

といった行動を水面上に見えるものとして考えた場合、水面下にはそれ以上に多く

のあるいは大きな要因があることを想定して支援を検討していくことが必要となり

ます。

  自閉症の人の問題行動への適切な支援方法として、この水面下の背景を、障害

の特性(情報処理の困難さ、社会性・対人関係の特性、般化・関係理解の困難さ、

感覚処理の偏り…)と環境面(行動を引き起こす様々な状況、周囲の刺激、複雑な

環境)の両方の要因から検討することが大切だと言われています。(以下略)

3、演習として何を行うかをテキストでは以下のように言います。 

 この演習では、感覚過敏がある人たちの行動の背景を考える視点と支援について

考えていきます。重度の知的障害のある人や自閉症の人たちの中には、自傷、他害、

異食、かんしゃくなど危険を伴う行動を頻繁に示す人がいます。支援者は、その表

面的な行動だけを見てしまうと、その行為を止めさせようと考えることばかりに注

意が向いてしまうことが少なくありません。

 そして、適切な対応がされないことで、行動はさらにエスカレートしてしまいます。

  強度行動障害のある人たちは、周囲からの働きかけや刺激を取捨選択できず、

自分の中で整理することが苦手なため、結果として社会生活の適応に大きな困難を抱

え混乱した状態になっているものと考えられます。(感覚過敏の説明のため省略)

 長時間我慢すれば慣れるというものではなく、調節したり折り合いをつけたりし

ながら、本人が生涯付き合っていくものになります。本人が自らコントロールできる

手段や方法を検討することも大切ですが、支援者が特性を正しく理解し、配慮する視

点が欠かせません。

 

4、上記前置きの上で提示されたのが演習としての問題事例が、以下です。

●みゆきさんの、もっとも大きな課題は「テレビや物を破壊してしまう」ことです。

●みゆきさんは、地元の中学校の1年生で特別支援学級に在籍する知的障害を伴う自閉症

の女性(13歳)です。

●みゆきさんの特徴としては、言葉の表出はありませんが、教師の指示を受けて行動するこ

とはできているようです。

●入学して間もない頃に、ある問題が発生しました。みゆきさんの問題となっていることは、

食べ物の偏食が強く、特定のもの以外食べないことです。好きな食べ物はトンカツで、小

学校の頃にも給食時には他の児童のものまで食べようとすることがありました。また、ご

飯は冷たいままだと食べないため、レンジで温めていました。

●ある日の給食時間のことです。午前中、落ち着きがなかったことで、いつもの交流学級で

はなく、特別支援学級で給食を食べることになりました。ちょうどその日はトンカツが出

ました。体を揺らすなどの興奮状態が見られ、すぐに食べようとしなかったので、教育支

援員がトンカツソースをかけて本人に食べるように促したものの、食べようとしませんでし

た。結局、その日は給食を食べずに休憩時間となり午後の授業を迎えました。その時、み

ゆきさんが椅子から急に立ち上がり、教室内に設置してあったテレビを押し倒して破壊し

てしまいました。

●本人の興奮が収まらないので、数名の教員で本人の行動を取り押さえる事態になりました。

補足の説明 

○コミュニケーション(理解):言葉の意味を理解することは苦手。支援者のジェスチャー

反応しやすい。一部の単語は理解している。また絵や写真などには理解を示す。

○コミュニケーション(表出):言葉での表出はない。動作や物を指さすなどの動作が見ら

れる。

○社会性・対人関係:あまり自分から人に関わっていくことはないが、自分の思い通りにな

らないと人に対して叩く、つねる等の行動が見られる。

○学習面:見本があれば書くことができるが、意味を理解することは難しい。

○時間の整理統合:やるべき活動の優先順位をつけることが難しい。

○空間の整理統合:自分の持ち物や場所と、人のものとの区別や境界が分からない。

○感覚処理:偏食傾向がある。

○微細・粗大運動:ハサミを扱うことはできるが、粗大運動はぎこちなさが見られる。

○感情コントロール:興奮すると奇声が出て、体を大きく揺らすことがある。

○記憶に関すること:ルーチンの保持がある。

 各施設から集まった研修参加者は、主催者のグループ分けに従い6~7人のグループで、話し合うのです。大きな紙がグループごとに配られて、KJ法よろしく付箋に個人が書いて貼り、項目ごとにまとめていく、その間、県内の施設の責任ある立場の人たちが、ぐるぐると回りながらアドバイスをしていき、時間が来たら、グループごとにまとめたものの中から、どこかのグループが発表します。それを講師は、講評し、そしてまとめます。

 発表したグループは、ソースを勝手にかけたことが問題であるとか、冷えたご飯を温めるべきではなどの対応の不備とか、様々な討議の内容を発表しますが、感想の域は出ません。なぜなら、業務の職種が、児童から成人、通所から入所と様々で、施設の規模も、運営形態も全く違うだけでなく、実務経験も大きく離れた今日初めて会ったメンバーですから、お互いに交流会の範囲を超えられないのです。少しでも知っている人が説明役になるか、自分の施設での経験談になる程度で、演習としての論議にはならないのです。

 テキストでの演習のまとめは、こうです。(下線は紫藤)

重度の知的障害のある人や自閉症の人を支援するためには、表面的な行動や言動に着目するのではなく、その背景として考えられる障害特性や環境にフォーカスを当てる視点、すなわち全体像をアセスメントすることがとても重要であることが理解いただけたと思います。

 背景を含めた全体像を分析することで、支援者間で情報を共有すべき手がかりが見つけられたり、情報から本人を取り巻く周囲の環境を調整することで、強度行動障害と呼ばれる本人の混乱を回避できる可能性のあることが、改めて認識できたと思います。

 チームで支援を考えるためには、それぞれのスタッフが独自の考え方で対応してもうまくいきません。課題となる行動に対して、障害特性や環境・状況といった行動の背景を明らかにする共通のフォーマットは、チームで行動支援計画を立てるときに、情報の共有にズレが生じないようにするのに役立ちます。(以下支援者のあり方についてなので略します) 

そして、最後にわざわざスライドを用意してまで、講師が全体に説明したのは次のことでした。

 

  この課題には、正解というものはありません。この事例では、本人がソースの好みがあって、その後は自宅から好みのソースを持ってくることになりました。関西なのでソースの種類が沢山あり(7本程度のソースのスライドを見せながら)本人はこのソースが好きなんだそうです。

と、にこやかに笑ってお疲れさまでした。なのです。

 これだけの大仕掛けで、この演習で、正解とは言わずとも実はソースの問題でしたで、一体何が学べますか。

 氷山モデルの方法も、Kj法も正しい方法です。しかし、適切に活用したならという言葉が注意書きになければ何の意味もありません。あくまでも方法ですから、目的達成のために使用する手段であって知識をひけらかすものではありません。

 つまり、演習の目的や方法、演習の意味で語られたような内容に基づく考え方が例示されなければ、テキストの言う演習まとめのような学習にはならないと思うのです。事例があり、背景や本人の表現できない感情を見なさいと言って、最後はソースが違っていたでは、まるでクイズの様なものです。背景だとか、環境調整だとか、チーム支援だとかの支援を考える演習の目的や解決・考え方は全く示唆さえされていないのです。少なくとも、こんな考え方もできますよということを示さなければ論議にもなりません。まして、強度行動障害の対応という普通ではない障がいに対する考え方を演習する場で、お金も時間もかけた挙句に、講師の最後の説明が、「ソース」の種類でしたというのは、あまりにも情けないと感じました。

 

 もし私が講師だったら、この事例では、こんな話をしてみたいと思うのです。(偉い講師を批判したのですからから自分の考えを明示しなければフェアーではないので)

 

 私の考え

(1)分析として(提示された事例文書だけから考える事)

①給食の献立は、通常学校では事前に配られていてたまたまと感じたのは教師であって

 本人は知っていた可能性がある。

②記録には、交流学級でのトラブルや拒否の報告が無いので、予定に関して構造化されていたな

 ら、本人は行くものとして行動に組み込まれていた可能性がある。

③食べ物の偏食があるということは、食事量に影響があるので、献立は事前にチェックされているはずで、給食の強制をしないためには、対策が取られていたはずで、この日は好きなものなので食べると予測していたはず。

④午前中、落ち着きがなかったとしているのに何の取り組みもなく、教師は勝手に不安定だと決めつけています。行動障害の一つは感情表現が適切ではないということが理解されていれば、この落ち着きのなさの原因を探らなければなりません。給食の献立が好きなもので楽しみでハイになっていたかもしれません。つまり、不安で落ち着きがないのではなく、楽しみがあって落ち着きがなかったのではないかという視点です。同様に、朝、家庭で何かあったのかとか、朝の交友で何かあったのか考えますが、落ち着きなさを常に不安定と考える考え方は禁物です。人間は楽しみが待っているだけでも落ち着きなくなるのです。感情表現を本人視点で見直さなければならないと思います。

⑤構造化という視点からすれば、本人の予定行動を突然変えてしまうのですから、最も行うべきではないことをいとも簡単に行っています。強度行動障害には、構造化が大切だと散々座学で講義しながら、演習事例に明らかにおかしいことが載っているのに一言も言及がないのは、構造化を理解していないと思われます。

⑥予定をお前が落ち着かないから、お前のせいで変更したという教師の言い分に、どんな表現で抗議が出来ますか。私は、大好きなものを食べないは、本人の出来る最大の抗議だと思うのです。ここで、どうしたのと確認すべきなのに、早く食べろよとソースを掛けるということは、本当に構造化という視点がありません。行動障害の人には、その行動に本人なりの作法があって、例えばソースは右から左へと掛けるとかもあるものです。特に好きなものでは、私たちでもこだわる場合があって、人に触られたくない感情もあります。強度行動障害では、そんなことさえ配慮して対応することが日常的に望まれるのです。

⑦給食を食べずに午後になったということは、その給食はどうなったという視点が私は重要です。

 施設で、もし廃棄したなら、虐待事例として処罰の対象となります。食事は工夫して少しでも食べていただく努力が優先されます。当然本人の好きなものですから、根気よく働きかけることが基本です。しかし、この事例記述では、食べていないのです。普通怒って当たり前ではありませんか。

⑧抗議の意思表示で拒食しているのに、気が付きもせず、食事がかたずけられたら怒りませんか。静かな抵抗では駄目なら、机をひっくり返すしかないのではありませんか。本人はより効果的なテレビにしたようですが。

⑨そして、教師が何人もで抑えなければならなかったという、本人が暴れたという事、講義で否定している問題行動だけが強調されてしまっているのです。

⑩しかし、講師は、これはソースの種類だったと結論づけるのです。

⑪演習ですから、強度行動障害の人が、問題とされる行為に至った、原因や背景を考える時、一番重要なのは、側にいる人間の刺激です。この場合には、刺激のもととなっている教師です。つまり、教師はどんな刺激を与えたかという視点で検討し、その刺激は適正であったかの検討をしなければ、現場での具体的な支援の演習にはなりません。

⑫大事なことは、問題行動が発生した時は、謙虚に支援者は適正な刺激を提供できたかという考察です。失敗とかミスを探したいのではなく、どんな刺激が本人を傷つけるかという視点なのです。当然強制や決めつけは厳禁です。

⑬演習では失敗は許されますが、現実では失敗しない方がいいのですから、事例を通じて理念と実践の接点探しの視点での検討がされなければならないと思うのです。

 

私のストーリーは、こうです。

 みゆきさんは、今日は交流学級で大好きなとんかつを食べるということで、ハイになっていま

した。教師は、ハイの原因を探ることなく、ハイで交流学級に言ってトラブルでも起こされると

かなわないと考えました。過去には、好きなとんかつで給食時には他の児童のものまで食べたと

いう情報もあり、ここは、リスク回避として特別支援学級で食べていただくことにしました。

しかも、そのことを事前に言うと本人が興奮するかもしれないので、給食の時間になって言いま

した。すると本人が好きなはずのとんかつに手を出さないので、すきでしょ。おいしいよなどの

声掛けをしましたが、食べようとしません。時間が、無くなってしまうので、本人の作法とは関

係なくソースを掛けて食べることを促すだけでした。お落ち着きのない行動の原因を探っていな

い教師は、不安定が続いているとクールダウンのためにも出来るだけ関わらず、本人の気持ちを

確認することをしませんでした。ハンガーストライキの思いで、体まで揺らして私は怒っている

と意思表示しましたが、教師は、状況把握もしてくれない、話も聞いてくれない。終いには、食

べないのならと大好きなトンカツまで片付けてしまった。もう、これ以上我慢できない。人を押

せないからテレビを押しただけなのに、教師が寄ってたかって、押し付けるから抵抗したら、暴

れた興奮状態だとされました。こうして、多くの強度行動障がいの人は、興奮抑制剤を飲まされ

ことになるのです。

 

  私は、提示された事例で、こんなことを考えながら、東京都のように排除されないように、

みなさんの言う通りとしていましたが、講師のまとめに、驚き、こんな研修で人は育たないと再び

残念な気持ちになりました。

 

 

 

 

 

馬印を今こそ挙げてほしい「社協」の話.

 自治会を通じた寄付金や会費集めは、社会福祉協議会(社協)や共同募金会(共募)、日本赤十字社(日赤)などが行っています。社協も日赤も、組織としては会員となって会費を納める仕組みなのですが会費集めのほとんどを実は自治会頼りりで行っていました。そこに、異議を唱えた人がいて、08年に最高裁の判断で社協・日赤・共募などが一括した集金はダメと言われました。全国社会福祉協議会は、仕方なく判例の抜け道の様な住民の意思が尊重され自治会の決議がされていたなら一括でもいいと各都道府県社協などに伝えなければならないほどの集金マシンだったのです。ここには、自分たちの正規活動費であり、組織としての基本会費さえ自分たちの手では集められず、地域の自治会を集金マシンとして依存してきたことを明確にしました。それを可能にしたのは、日本の自治会が行政の下部組織みたいなものだったことを利用して、社協の理事や評議委員といった経営陣に自治会の偉い人を並べることでした。結果、社協の理念や現場の声はとても小さくなって、組織経営は、自立としての自己資金を如何に集めるかということよりも、行政の下請けとしての仕事を受諾することで生き残る道を多くの社協が選びました。そのため、社協のことを第2の福祉事務所なんて言われることもありあったぐらい、行政が出来ない現場仕事を人件費込みで引き受けて社協は肥大化していくのです。ですから、今日の社協の予算を見ると、委託金や助成金ばかりで、その委託事業先は都道府県や市町村なのです。しかも事業費のおおかたはそれぞれの事業に携わる人の人件費にあてられているのです。そうやって委託事業にばかり手を出しているうちに、本来行わなければならなかった地域に根差した活動はおろそかになって、自治会に任せっきりの会費徴収も自治会の衰退とともに減少していくのです。自治体によっては、社協の事務局長が自治体の職員の出向だったり、社協で働く事務局員の人件費が補助金で、待遇も自治体職員に準ずるというものということも珍しくなくなりました。社協労働組合は下請け業務の経費要求のマシンとなって、民活と言われた時代には、社協も民間社会福祉法人なのに、自分たちが行っていた現場事業が民間福祉法人への移譲対象になってしまったほどです。

 委託金と補助金で運営する社協は、民間といいながら独自の活動を展開する資金をほとんど持たず、独自の人件費も持たないので、社協マンなどと鼓舞しても、実際はやりたいことさえ出来ない組織になってしまっているのです。地域が衰退し、何も言わずに協力してくれた優良会員は、減少し、地域住民との連携の糸は極細になってしまっているのです。実際役所に勤めたつもりの職員も多くなり社協の過去の栄光は、貧しい時代の武勇伝程度にしか伝わらなくなっているのかもしれません。戦後の福祉で社協が活躍していた時には、プレハブの様なところや市役所の片隅にひっそりでしたが、今や一戸建て住まい並みのビルの中ということも珍しくなくなりました。社協は安定した良い勤め口の一つになってしまいました。再び活躍の場を求めて、現状の分析や方向性調査はやたらとやっていますが、しがみつき社協は、自立しようとしていません。介護保険のその前、おむつ一枚から集めて老人福祉に貢献していた社協は、法の整備とともにその存在を失ったように思えますが、世界に類を見ない高齢社会が日本で現れている今日、「逆境にどのように対処していくのか」を自ら見せることが社協の役割だと思うのです。実際、地域社協の中には、自立して、独自に福祉事業を立案したり、地域の福祉振興に貢献している社協が細々とあるのです。議論ではなく、馬印を今こそ挙げるべきです。なぜなら、社協は「逆境の人々の味方」をしてきたのですから、自分たちが逆境の時こそ旗を掲げて自立とは何かを見せるべき時だと思うからです。

金をやるから自分でやれという福祉は社会的には閉鎖的になるの話

 重症心身障害児や、日常的に医療的ケアが必要な「医療的ケア児」向けの施設が、全国で大幅に不足しており、仕方なく障害児を育てる親が自ら、障害児を預かる施設を立ち上げるケースが増えているという報道がありました。確かに、茨城県ひたちなか市のビルにある多機能型重症児デイサービス「kokoro」を運営する社団法人の代表理事は、原因不明の難病で寝たきりで胃ろうから栄養を取り、夜間は人工呼吸器が必要な子の親です。鹿児島市の和田朋子さんも先天性の代謝異常で気管切開し、胃ろうもあった子供がいて、自身が転んで足を骨折したことを切っ掛けに、同じような立場の母親らに声をかけ、NPO法人を設立し医療的ケアを必要とする重症心身障害児を預かる「生活支援センターえがお」を開始し、現在は市内で三つの施設を運営しています。「医療的ケア児」は2016年6月の児童福祉法改正で初めて法的に明記され、政府は20年度末までに各市町村に1カ所以上確保することを目指して自治体に支援強化の努力義務が課されました。しかし、放課後等デイサービス施設は、全国に約1万カ所ありますが、重症心身障害児を預かる施設は354カ所(昨年5月現在)で、不足しているというのは事実です。重症心身障害児は、厚生労働省によると、全国に約1万7000人(19歳以下)いるとされ、05年度の推計9400人からは約1・8倍と増えているといいます。この状況に、全国重症児デイサービス・ネットワーク(名古屋市)は、母親たちに自ら事業所を運営するよう促し、設立や運営のノウハウを提供してネットワークに参加する事業所160カ所のうち、障害児の家族が主体の事業所は23%になるそうです。促しの理由は、「母親は障害児のケアの知識がある。研修を十分にすれば、社会進出にもつながる」としていますし、母親が自ら施設を立ち上げなければならないほど切迫しているとも言います。

 でも、考えてみると、母親が作ったという美談でもいいからこの課題を終わらせたいのは行政だと思うのです。実際このタイプの重症心身障害の施設は、まず看護師を確保しなければ成り立ちません。次にいつ医療的処置が必要で死ぬかわからない重心の利用者を見ても怖がらない支援員が必要です。寝たきりならば10人乗りの車両でも車いすで2名しか乗れませんから、定員5名なら、送迎だけでも最低2台が必要ですし、その運転手、駐車場、必ず添乗する介護者とこの人手不足の中で、人集めは通常の施設よりずっと大変です。しかも、運営が始まっても看護師を含めて一人でも休めば利用者にも休んでもらわなければならないぐらい、代替で誰でも出来るという業務内容ではありません。だから不足しているのですが、「ないなら作る」として障害児の親が施設を作るということは素直に喜べないものもあります。それは、それまで自分の子どもを無償で介護していた親が、今度は子供から給料を貰って介護する関係についての整理が十分ではないからです。現在の福祉の考え方は、利用者がサービスを買うということですから、親が経営する施設のサービスを障がいのその子が買うということになる時、親が経営していることの偏りはどうしても出てしまうからです。例えば、今日では、人手不足で看護師なんてめったに雇えないこの時代、親が自分でやってくれて、一生懸命友人等を口説いてママ友施設ぐらいになれば、人手不足で募集を掛けても問い合わせも来ないと悩んでいる法人施設に任せるよりずっと効果的ですが人材や労働条件などは片寄ります。また、支援上も親が伝えた通りのケアをしてくれないとか、ベッドに寝かせきりになっているなどの苦情やリスクも親ですから来ません。そして、親も自分の思い通りの介護をしているだけで給料となるのです文句もないはずとも言われてしまいます。福祉施設運営で、一つの柱となるのは、専門性も大事ですが、普通の職員でも介護は可能だということを証明することでもあります。というのは、障害を持つ人にとって「親がいなくなったら誰が守る」と言う不安に対して、今日では個人ではなく社会に委ねるが基本となっていますから、利用者にとっては、親ではない他の人との接点や社会・地域とのつながり方が必要なのです。そして、地域で暮らすには、地域の障害児通所施設などで必要な医療的ケアを受けられる環境が必要です。しかし、医療ケアは怖いと思っている、地域の障害児通所施設等は、ほっとして自分のことと考えることさえ失わせる原因ともなると思われます。今の学校でも行われている少しでも異質だと特別支援学校を薦め関与しないことでリスクを避けようとするように特別な人は、特別な環境に住んでもらうという絶好の言い訳になってしまう危険があるからです。さらに、親の運営する施設では特別が発生し、職員も特別な職場環境となりますし、他の親に対しては、親同士という親への押しつけが多くなります。そして、親が運営・経営している施設は他人が引き継ぐことは難しく、親族経営的になると管理も不徹底となります。子供の視線で考えてみると本当にいいのか疑問です。金をやるから自分でやれということになったら福祉は社会的には閉鎖的になります。医療的ケア児を育てる親は、24時間かかりきりで親は「働けない」「休めない」「兄弟の行事に参加できない」などの悩みを含めて負担の軽減は必要です。しかし、子供には親以外の人との関わりの中で成長できる場にしていかないと、障害がある子どもたちが地域で暮らしていける社会はずっと遠くなると思うのです。親に、お金を渡して自分たちで何とかしろの発想は、厄介者を金で押し付ける発想と変わらないと思うのです。

 

翡翠(ヒスイ)の話

 古代の権力に繋がる装飾品の勾玉が遺跡から出てきも、実際はなんの形を模倣したものなのか、何を意味しているのか分からないのが実態ですが、勾玉の原料として最高級品だったヒスイ(翡翠)が、実は、日本産だったというのは、昭和13年になるまで常識ではありませんでした。それまでは、学者が海外産と言い張っていたのです。この勾玉は、宗教的国家だった時の儀式には欠かせない重要な宝石だったのですが、奈良時代以降は、全くただの石同然の扱いになってしまうという不思議な宝石なのです。金なんかは、古代から現代まで続いて価値あるものですし、サンゴやべっ甲など脈々と続いているのにヒスイは最高から普通へ格下げされた希少な宝石なのです。つまり、その時代では希少価値があり誰もが憧れたものも、時代が変わってしまうとそこにあっても他の物と交換したくなるほどの価値がなくなったということです。今風に言うと、過疎地のアーケード街みたいに、そこにはあるのに、商店として開店したいとは思われなくなった店舗。過去に最盛期にはそこで営業していることが地元の名士ででもあっただろう栄光と価値が、その役割を終えたかのように、社会の中での価値も失われたと云うことです。ヒスイは、「玉」とも言われ、身近では、将棋の駒の点のついている玉将であったり、天子(天皇、皇帝)の尊称で使う言葉で、戦後の天皇玉音放送はここからきています。中国でも尊重されていて、秦の始皇帝の遺体もヒスイで覆われていたそうです。また、ヒスイの産出は日本が最古だったとか、日本の宝石の始まりはヒスイだとか、世界最古のヒスイの加工は、縄文時代中期(約5000年前)の新潟県糸魚川だとか、世界最大のヒスイは日本産だとか、本当なら日本びいきの人々によって世界的で国宝的なお宝と言ってもいいぐらいなのにこのことに、国が気づいたのは、2016年9月に日本の国石と認定したことぐらいです。それも大々的に広報されていませんからクイズの問題としてもいいかなという程度の知名度なのです。実際、ヒスイの産地産出は偏っていて、日本の新潟県富山県の他には、東南アジアの一部、ロシアの一部の他はアメリカなどからしか産出しない希少価値の高い鉱物でもあるのです。しかも、日本で祭祀・呪術に用いられたように、アメリカの古代文明とは全く交流などなかったと思われるのにヒスイの仮面が出ていることから、ヒスイは古代の感覚なら誰が見ても呪術的な、魅力的な緑の石だったのかもしれません。中国では、不老不死および生命の再生をもたらす力を持つと信じられていたようで、秦の始皇帝が、ちょうど縄文時代の後期で日本の高級勾玉ヒスイを見てしまい、不老不死の薬を求めて日本に徐福を派遣したのは、中国では取れない良質のヒスイを求めてきたからかもしれません。

 国家的な行事に使用されていた、勾玉も埴輪も古墳も、政変と共に全否定されて、飛鳥・そして奈良への時間の中で消えていきます。神仏混合という言葉があるように、日本は、神様も仏さまも共存することが出来る不思議な国なのに、古代に栄えたヒスイなどを使用した価値観や権威が突然のように天地替えしてしまうのです。それは、戦後の日本にも似ています。つまり、日本人は、それまで信じていた権威や権力だけでなく精神的な価値観さえも、ひっくり返してしまうことのできる民族とも言えるのです。古事記日本書紀にさかのぼる民族だといいながら古事記日本書紀に出てくる神様や神様の三種の神器(鏡・玉・剣)の一つ玉としてその後も利用しているのに、一切真似ようともしないのです。例えば皇室の神事・行事は古代からの稲作の行事など沢山あるのに、古代の服装や装飾を使用することはありません。どんなにご先祖を敬うとしても、先祖がやっていたことは否定しているのです。薄葬令(はくそうれい)が出て金のかかる古墳が作られなくなったといいますが、古墳はダメでも埴輪や勾玉ぐらい信仰心があれば作れます。にも関わらず地方に至るまで否定されてしまうのです。だから、支配層が丸ごと変わったのではないかという推測も出てくるのです。ただ支配層が変わったとしても、価値観の変更まで簡単に庶民に浸透するのは難しいことだと言えます。でも、出来たということは、一人一人の自立感は弱くて、全体としてふあっとした繋がりで価値観よりも強いものに従うことが得意な民族なのかもしれません。今とは想像もつかないぐらい、呪術的な世界の中で、大切な呪術的な石の価値を完全に葬り去ることのできる力が日本人にはあるのではなく、恐れさえも知らないぐらい自立心が弱いのが遺伝子なのかもしれません。ヒスイは人工的に加工された縄文時代から日本の歴史を見てきた数少ない証人です。