知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

金をやるから自分でやれという福祉は社会的には閉鎖的になるの話

 重症心身障害児や、日常的に医療的ケアが必要な「医療的ケア児」向けの施設が、全国で大幅に不足しており、仕方なく障害児を育てる親が自ら、障害児を預かる施設を立ち上げるケースが増えているという報道がありました。確かに、茨城県ひたちなか市のビルにある多機能型重症児デイサービス「kokoro」を運営する社団法人の代表理事は、原因不明の難病で寝たきりで胃ろうから栄養を取り、夜間は人工呼吸器が必要な子の親です。鹿児島市の和田朋子さんも先天性の代謝異常で気管切開し、胃ろうもあった子供がいて、自身が転んで足を骨折したことを切っ掛けに、同じような立場の母親らに声をかけ、NPO法人を設立し医療的ケアを必要とする重症心身障害児を預かる「生活支援センターえがお」を開始し、現在は市内で三つの施設を運営しています。「医療的ケア児」は2016年6月の児童福祉法改正で初めて法的に明記され、政府は20年度末までに各市町村に1カ所以上確保することを目指して自治体に支援強化の努力義務が課されました。しかし、放課後等デイサービス施設は、全国に約1万カ所ありますが、重症心身障害児を預かる施設は354カ所(昨年5月現在)で、不足しているというのは事実です。重症心身障害児は、厚生労働省によると、全国に約1万7000人(19歳以下)いるとされ、05年度の推計9400人からは約1・8倍と増えているといいます。この状況に、全国重症児デイサービス・ネットワーク(名古屋市)は、母親たちに自ら事業所を運営するよう促し、設立や運営のノウハウを提供してネットワークに参加する事業所160カ所のうち、障害児の家族が主体の事業所は23%になるそうです。促しの理由は、「母親は障害児のケアの知識がある。研修を十分にすれば、社会進出にもつながる」としていますし、母親が自ら施設を立ち上げなければならないほど切迫しているとも言います。

 でも、考えてみると、母親が作ったという美談でもいいからこの課題を終わらせたいのは行政だと思うのです。実際このタイプの重症心身障害の施設は、まず看護師を確保しなければ成り立ちません。次にいつ医療的処置が必要で死ぬかわからない重心の利用者を見ても怖がらない支援員が必要です。寝たきりならば10人乗りの車両でも車いすで2名しか乗れませんから、定員5名なら、送迎だけでも最低2台が必要ですし、その運転手、駐車場、必ず添乗する介護者とこの人手不足の中で、人集めは通常の施設よりずっと大変です。しかも、運営が始まっても看護師を含めて一人でも休めば利用者にも休んでもらわなければならないぐらい、代替で誰でも出来るという業務内容ではありません。だから不足しているのですが、「ないなら作る」として障害児の親が施設を作るということは素直に喜べないものもあります。それは、それまで自分の子どもを無償で介護していた親が、今度は子供から給料を貰って介護する関係についての整理が十分ではないからです。現在の福祉の考え方は、利用者がサービスを買うということですから、親が経営する施設のサービスを障がいのその子が買うということになる時、親が経営していることの偏りはどうしても出てしまうからです。例えば、今日では、人手不足で看護師なんてめったに雇えないこの時代、親が自分でやってくれて、一生懸命友人等を口説いてママ友施設ぐらいになれば、人手不足で募集を掛けても問い合わせも来ないと悩んでいる法人施設に任せるよりずっと効果的ですが人材や労働条件などは片寄ります。また、支援上も親が伝えた通りのケアをしてくれないとか、ベッドに寝かせきりになっているなどの苦情やリスクも親ですから来ません。そして、親も自分の思い通りの介護をしているだけで給料となるのです文句もないはずとも言われてしまいます。福祉施設運営で、一つの柱となるのは、専門性も大事ですが、普通の職員でも介護は可能だということを証明することでもあります。というのは、障害を持つ人にとって「親がいなくなったら誰が守る」と言う不安に対して、今日では個人ではなく社会に委ねるが基本となっていますから、利用者にとっては、親ではない他の人との接点や社会・地域とのつながり方が必要なのです。そして、地域で暮らすには、地域の障害児通所施設などで必要な医療的ケアを受けられる環境が必要です。しかし、医療ケアは怖いと思っている、地域の障害児通所施設等は、ほっとして自分のことと考えることさえ失わせる原因ともなると思われます。今の学校でも行われている少しでも異質だと特別支援学校を薦め関与しないことでリスクを避けようとするように特別な人は、特別な環境に住んでもらうという絶好の言い訳になってしまう危険があるからです。さらに、親の運営する施設では特別が発生し、職員も特別な職場環境となりますし、他の親に対しては、親同士という親への押しつけが多くなります。そして、親が運営・経営している施設は他人が引き継ぐことは難しく、親族経営的になると管理も不徹底となります。子供の視線で考えてみると本当にいいのか疑問です。金をやるから自分でやれということになったら福祉は社会的には閉鎖的になります。医療的ケア児を育てる親は、24時間かかりきりで親は「働けない」「休めない」「兄弟の行事に参加できない」などの悩みを含めて負担の軽減は必要です。しかし、子供には親以外の人との関わりの中で成長できる場にしていかないと、障害がある子どもたちが地域で暮らしていける社会はずっと遠くなると思うのです。親に、お金を渡して自分たちで何とかしろの発想は、厄介者を金で押し付ける発想と変わらないと思うのです。

 

翡翠(ヒスイ)の話

 古代の権力に繋がる装飾品の勾玉が遺跡から出てきも、実際はなんの形を模倣したものなのか、何を意味しているのか分からないのが実態ですが、勾玉の原料として最高級品だったヒスイ(翡翠)が、実は、日本産だったというのは、昭和13年になるまで常識ではありませんでした。それまでは、学者が海外産と言い張っていたのです。この勾玉は、宗教的国家だった時の儀式には欠かせない重要な宝石だったのですが、奈良時代以降は、全くただの石同然の扱いになってしまうという不思議な宝石なのです。金なんかは、古代から現代まで続いて価値あるものですし、サンゴやべっ甲など脈々と続いているのにヒスイは最高から普通へ格下げされた希少な宝石なのです。つまり、その時代では希少価値があり誰もが憧れたものも、時代が変わってしまうとそこにあっても他の物と交換したくなるほどの価値がなくなったということです。今風に言うと、過疎地のアーケード街みたいに、そこにはあるのに、商店として開店したいとは思われなくなった店舗。過去に最盛期にはそこで営業していることが地元の名士ででもあっただろう栄光と価値が、その役割を終えたかのように、社会の中での価値も失われたと云うことです。ヒスイは、「玉」とも言われ、身近では、将棋の駒の点のついている玉将であったり、天子(天皇、皇帝)の尊称で使う言葉で、戦後の天皇玉音放送はここからきています。中国でも尊重されていて、秦の始皇帝の遺体もヒスイで覆われていたそうです。また、ヒスイの産出は日本が最古だったとか、日本の宝石の始まりはヒスイだとか、世界最古のヒスイの加工は、縄文時代中期(約5000年前)の新潟県糸魚川だとか、世界最大のヒスイは日本産だとか、本当なら日本びいきの人々によって世界的で国宝的なお宝と言ってもいいぐらいなのにこのことに、国が気づいたのは、2016年9月に日本の国石と認定したことぐらいです。それも大々的に広報されていませんからクイズの問題としてもいいかなという程度の知名度なのです。実際、ヒスイの産地産出は偏っていて、日本の新潟県富山県の他には、東南アジアの一部、ロシアの一部の他はアメリカなどからしか産出しない希少価値の高い鉱物でもあるのです。しかも、日本で祭祀・呪術に用いられたように、アメリカの古代文明とは全く交流などなかったと思われるのにヒスイの仮面が出ていることから、ヒスイは古代の感覚なら誰が見ても呪術的な、魅力的な緑の石だったのかもしれません。中国では、不老不死および生命の再生をもたらす力を持つと信じられていたようで、秦の始皇帝が、ちょうど縄文時代の後期で日本の高級勾玉ヒスイを見てしまい、不老不死の薬を求めて日本に徐福を派遣したのは、中国では取れない良質のヒスイを求めてきたからかもしれません。

 国家的な行事に使用されていた、勾玉も埴輪も古墳も、政変と共に全否定されて、飛鳥・そして奈良への時間の中で消えていきます。神仏混合という言葉があるように、日本は、神様も仏さまも共存することが出来る不思議な国なのに、古代に栄えたヒスイなどを使用した価値観や権威が突然のように天地替えしてしまうのです。それは、戦後の日本にも似ています。つまり、日本人は、それまで信じていた権威や権力だけでなく精神的な価値観さえも、ひっくり返してしまうことのできる民族とも言えるのです。古事記日本書紀にさかのぼる民族だといいながら古事記日本書紀に出てくる神様や神様の三種の神器(鏡・玉・剣)の一つ玉としてその後も利用しているのに、一切真似ようともしないのです。例えば皇室の神事・行事は古代からの稲作の行事など沢山あるのに、古代の服装や装飾を使用することはありません。どんなにご先祖を敬うとしても、先祖がやっていたことは否定しているのです。薄葬令(はくそうれい)が出て金のかかる古墳が作られなくなったといいますが、古墳はダメでも埴輪や勾玉ぐらい信仰心があれば作れます。にも関わらず地方に至るまで否定されてしまうのです。だから、支配層が丸ごと変わったのではないかという推測も出てくるのです。ただ支配層が変わったとしても、価値観の変更まで簡単に庶民に浸透するのは難しいことだと言えます。でも、出来たということは、一人一人の自立感は弱くて、全体としてふあっとした繋がりで価値観よりも強いものに従うことが得意な民族なのかもしれません。今とは想像もつかないぐらい、呪術的な世界の中で、大切な呪術的な石の価値を完全に葬り去ることのできる力が日本人にはあるのではなく、恐れさえも知らないぐらい自立心が弱いのが遺伝子なのかもしれません。ヒスイは人工的に加工された縄文時代から日本の歴史を見てきた数少ない証人です。

 

自転車操業雇用から屋根ある雇用への話

   受け狙いという言い方がありますが、求人情報で、少し前なら、スタッフそして最近は、クルーなどと言って募集していることを、経営コンサルタントなんかが称賛しています。そのメリットとして、求人募集を出したときに、良いイメージを持たれやすい、応募が増える、仕事に対する意識を高める、一緒のチームの一員として、チームワークに貢献してくれるなどと持ち上げています。しかし、そんなイメージ戦略でとっかえひっかえ学生を集めていたマクドナルドも今では外国人を採用することでパートアルバイト不足に対応せざるを得ないぐらいに人手不足となっています。確かに、パート・アルバイトから、社長や管理者になったという人もいますが、それは豊臣秀吉が下っ端からトップになったと同じで、偶然や奇跡と同じぐらいまれな話です。実際に戦国の世の戦闘員は徴兵制以上に男は動員されており武将までのし上がった比率は、宝くじより低いのです。ですから、パートアルバイトの中にも優秀な人はたくさんいて、その中の誰かが社長になっても不思議ではありませんが、確率で言えばずっと低いということは言えます。ただ、この「クルー」という呼び方や東京ディズニーリゾートの「キャスト(役者)」、スターバックスジャパンの「パートナー(仲間)」という呼称で集めているのは、主にパート・アルバイト職ばかりで使い捨ての雇用ばかりです。法に守られているという側面から見てみれば、実態は、非常勤、臨時雇用でしかないのです。にもかかわらず、仕事内容は、正社員並みやそれ以上の責任や業務が求められ、「一緒にがんばってゴールを目指しましょう!」などとあたかも船の一員のように言われこの集団の一員でいることが鼻たかのように思わせていますが、企業という船は格差社会そのものだということがすぐにばれてしまうものなのです。結果として、パートアルバイトの回転率は高く引っ切り無しに採用をしなければならない状態となるのです。もちろんそれを見越して、企業は業務をマニュアル化して採用してすぐに店頭に立てるぐらいの体制を構築しています。だから、辞めたって代わりはいくらでもいるなどとたかを括っていたら、ブラック企業などと叩かれる企業まで現れて使い捨ての実態が判明してしまったのです。このようなイメージ戦略での雇用は、単純なマニュアル化できる一部の物品販売等では可能ですが、働きたいという人の雇用の場では、不適正で正直だとは思えませんし、現代の通信機器の発達の中では、働く人もそんなにイメージに騙されやすくありません。呼び方を変えただけで人は変わるという雇用は幻想で、使い捨てを前提としながら、プロ意識を持ったとか、正規社員並みに働くとか、雇用主にとって都合のいい雇用関係は、信頼関係がどんどん低下して数年も働くと離職することになってしまうのです。人ならいくらでもいるという時代ならそれでもいいと国も正規雇用よりも人件費抑制と国際競争力のために、パートや非常勤で良いなどと言う政策を行ってきました。ところが、その歪が大きくなりすぎて、今頃になって働き方改革などと修正しなければならなくなりました。一番問題なのは、本来の働き手である年代層の使い捨て雇用の経験者は、働くことへの疑問が生じて働くこと自体に意欲の低下を来していることです。例えるならば、止まると倒れてしまう自転車操業の様な雇用の中で疲れ切ってしまった人たちです。終身雇用が批判されて企業に都合のよい非正規職員で経費を削減したはずですが、何のことはない安定しない生活の中で本来中核で働ける人たちが、働く魅力を失って結果として人手不足の社会を招き、日本企業の特色だった、人は石垣、人は城という人材育成は失われ、今や人による石垣は築けないという事態になってしまいました。公務員の様な安定は、人をダメにする非難され、活性化すると取り入れられた、業務評価も民間の活力も結果として一人一人の働く人の生活向上には結びつかずみんなが、自転車操業雇用の中に投げ出されてしまったとしか言えません。誰もが小さくても雨露を凌ぐ屋根があり、止まっても倒れない労働環境の中で、家族を持ち働けると思える労働環境はごく一部の人しか得られないような社会になりつつあります。

 労働環境では、身分保障は重要です。大きな企業が、イメージ戦略で使い捨て感覚でいると日本人気質である帰属意識や集団の一員意識が、育つことはありません。気質というものは代々受け継がれる遺伝子ではなく、その社会が醸成していくものだと思うのです。日本人の気質は、大きく傷ついたと言えます。ボロやでも守りたいものがあっての日本人気質の中に守りたいものが見えなくなるような、労働環境を大きな企業ほど行っていることは残念なことです。

 

高校野球は大人の壮大なマリオネットの話

    夏の青春と言われる高校生の全国野球大会が終わりました。連戦連勝でないと優勝できないシステムで一ステージごとに半分が負けて去っていくという徹底した一発勝負の世界で、敗者復活などということはありません。もう一つ、建前では高校生主体ですから、教師の監督は、グランドに出てはいけないとなっていますから、ベンチから学生を伝令なんて間接式の方法で指示ばかり出しても直接指揮していないという言い訳もしています。結果、、学生を、まるで将棋の駒のごとく、額面通りに行動させれば、名監督ということになるのです。どんな勝負でも、定石とか正攻法なんてことがあって、盾と矛の関係の様な戦術や戦略も昔から研究されていますから、このような場面では、こうした方が有利だという指南書もたくさんあります。しかし、双方が勝てない将棋の千日手となればやり直しになってしまう勝負の世界では、「あいこ」はありませんから、どんなに事前研究をしても必勝などということはなく、時の勢いや時の流れに応じた柔軟な思考が優勢になることの方が多いと思われます。しかもそれは、プレーする一人一人の選手の、状況や情勢に合わせて、判断する力や手段や方法を変化させ得る思考と経験値が大きく左右していると思われます。このような視点で、高校野球を見てみると、スポーツの中でこんなにプレイヤーの自主性の無いスポーツはないなと思われるのです。例えば、ノーアウトでランナーが出ると、次のバッターはほとんど、バントしようとします。これは自分が犠牲になって、得点圏の二塁にランナーを進めようという作戦らしく、訓練されているのか地方大会などを見ていてもほとんど成功しています。でもバントは成功して、二塁に進んでも、その後ヒットが出なければ残塁という結果が残るだけで、得点には至っていないことの方が多いのです。つまり犠牲は生かされることが少ないのです。

 選手が一つのゲームで打者となれるのは、3回ぐらいしかありません。その少ない打席で何故もっと自由に打たせないのでしょう。ほかのスポーツでは、試合が始まってしまうと、一人一人が繰り返し練習し習得した技能や作戦を自己判断してタイムでもかからない限りプレー仲間の動きを頼りに頑張ります。ところが、野球を見ていると、打者は、投手が、一球投げるたびにベンチを向いて確認しています。守備の場合はどうでしょう。バッターが打った球をどう捕獲するかは、他のスポーツと同じ選手に任されます。ですから成功も失敗も選手の自己責任です。しかし、得点しなければ勝てない攻撃になった途端に一球ごとに確認するという動作が加わります。その最たるものがバントです。自己犠牲にしてまで一ベース進めても得点にはまだまだ長い道のりがあるのです。長い道のりなら、一発勝負の世界なら、どんな打席でも学生の自己責任で一球に思いを込めて戦わせるのが基本だと思うのです。監督という大人が一番大事な時にいちいち口出しするのは、最も避けるべき時だと思うのです。長い練習の中で習得したものすべてを一発勝負の試合に持ち込むのなら、どんな場面であれ試合が始まれば自己責任で自分の判断を信じて仲間とプレーすればいいと思うのです。バントするかしないかぐらい選手の判断でいいのであって、マリオネットとしか思えないような大人の口出しはほどほどにした方がいいと思うのです。余談ですが、野球は、監督を頂点としたミラミットになりがちなのは、結局大事な舞台が始まっているのに、舞台袖から監督が大人が口出しばかりしているような体制だからではないかと思えてくるのです。女性部員を、マネージャーとして雑用させた挙句にグランドには立たせないなんてこともこんな環境だから出来るのだと思うのです。高校生なんだから、一発勝負なんだからこそ、一人一人が思い切りやってみるチャンスにするべきだと、久しぶりに高校野球の何校かをみて感じました。

 

避難訓練は、効果が無いの話

 法律にも、年に2回以上の避難訓練が定められていて、福祉施設では監査の時も必ず実施状況が確認される避難訓練。効果はあるのかと聞かれることがあったら、私は、はっきりと言えます、「効果はありません」むしろ、訓練で事故が起きるリスクの方が高いと思っています。災害は忘れたころにやってくるという諺がありますが、忘れたころにやってくる災害だって前回と異なっており、同じ状態など一つもないというのが実態だと思うのです。どんなに想定して訓練しても人間が想定できないような災害の方が多くて、発生時に素人が年に何回かやったことがある程度の訓練経験で対応できることはとても少ないのです。例えば、消火訓練。大きな器に入った油に火を付けて消火器を握って消火剤を発射する訓練があります。誰もが真剣にピンの抜き方から、ホースの狙い方まで丁寧に説明される消防署員に従いながら一生懸命にやるのがこの訓練内容です。でも、この訓練の会場や現場を見ればわかりますが、事故が起こらないように周りに可燃物がないように排除した火災現場では絶対ない安全な条件確認がされているのです。ですから、この訓練では消化器の操作訓練で十分なのですが、気分や雰囲気として油に火を付けているにすぎません。実際の火災では、まず熱くて火元に近づくことさえ簡単ではありません。さらに煙が迫り来ます。そして燃えながらはじけるパンパンという音は爆発につながるのかと恐怖感さえ湧いてきます。そんな火災場面に遭遇して冷静に訓練通りに対応することは誰でもができる事とは思えません。特に今日の福祉施設等は、スプリンクラーなど付いているのに、素人が頑張って初期消火などと手間取っているうちに火災は拡大してしまいます。むしろ、少ない職員で障害のあるかたや高齢者を守っているなら、安全な場所への避難を最優先で行ったほうが適切だと思います。にもかかわらず、避難訓練避難訓練とまるでアリバイ作りの様な避難訓練と消防署へ届け出たという文書を行政は求めるのです。あのけたたましい警告音、気持ちを苛立たせる警告音が出ても、イベントのような防災訓練だから我慢できるのです。実際になれば、不安と恐怖感を煽り立てるだけのイライラ御以外の何物でもありません。つまり、何のサインか理解している人には重要なサインですが、意味を理解していない人にとって見れば警戒音は、不快音そのものです。冷静に避難など出来るものではありません。ですから、工夫しているところでは、職員だけに分かる暗号が使用されているところもあります。

 秋田のアパート火災て5人が死亡し10人がけがをしたという事故がありました。ここは公的資金を使用していませんでしたが、管理人1人を含む中高年の1人暮らし25人の男性が住んでいて、精神科の救急指定を受ける病院の通院者が17人いたし、生活保護の受給者も少なくとも12人いたということです。この経営者は、経営する同様のアパートが2年前に火事になったことから、入居者の避難訓練を行ったり、建物内の禁煙を呼びかけたり、管理人を配置するなどできるだけの対策はとってきたつもりだと話、消防の改善指摘などもなかったようです。が、現実に死亡事故の発生になりました。ここで重要なのは、危険察知、自己防衛、避難の判断ができる人に有効な設備や訓練は、危険回避の判断や理解に課題がある人には役に立たないということです。つまり、避難は移動ということですから、移動することについて自ら必要だと思う人は避難するでしょうが、移動の必要性を感じなければ動かないということです。ましてや安全な移動などということを自主的に判断してはくれません。管理的に言うと、避難なのですが、一人一人の行動では単なる移動なのです。大雨であったり津波であったりしても、動作としては移動なのです。速やかに所定の安全圏に移動してもらうにはどうすればいいか、出来るだけ自主的に移動してもらえるのはどんな方法があるのか考えることもなく、単なる避難訓練をして、消防に届けていればいいというのは役人的アリバイ作りにすぎないのです。人を動かすということは、そんなに簡単なことではありません。形式的な避難訓練を押し付ける行政が変わらなければ、効果もない避難訓練に無理やり参加させられる対象者だけが迷惑をしていると思えるのです。

介護依存と非難される時代が来るという話

 来年度には、介護状態を改善すると自治体への交付金が増額されるという話が現実になりそうです。介護依存がはびこって、自立しようという気持ちが薄れ、重度化する例があるので、サービス支援計画段階から甘えを許さず、他人の集まりである「地域ケア会議」で検討して押し付けるというものです。そして、一定の効果が出たら自立支援・重度化の予防に取り組んだご褒美として、自治体に国から交付金が優遇されるということが、今度の介護保険法改正でひっそりと決まりました。つまり、介護保険では、年寄であっても訓練する意欲がないとか、リハビリを頑張って保険のお世話にならないように努力しない人には、自治体から圧力をかけて保険利用を遠慮させようとたくらみです。もともと措置という行政命令だった日本の福祉を財政危機を迎えた時に誰もが利用できる制度にすると言って介護保険を強引に導入したのですから、誰でも使える保険をどのように使おうと個人の問題です。なのに今になって、使い勝手を悪くするだけでなく、使わないように努力を強制する制度へと変わろうとしているのです。その原因は、一にも二にも財政難です。基礎構造改革で、制度を変更するときは、みんなのためだと説明して、みんなが使い始めると使いすぎだと制限するという何とも身勝手な話なのですが、制度を変えた時も財政難が原因だったように、財政という裏付けがない制度は何時も漂流することになる典型事例のように介護保険はなりつつあります。

 ごく普通の人は、介護なんか受けるより自力で生活する方を誰だって選択します。年老いてまで、他人に生活まで指示されたいと思う人はいません。にも関わらず、出来ないことがあるから仕方なく介護保険を使うと、リハビリをしなさい、重度化しないように訓練しなさい、最後は、やる気があるのかと責め立てられることになるのです。この時代ですから、本人に直接そんなことを言うと虐待となりますから、国は、地方自治体、担当者、ケアマネ、施設と言うように関係する人に少しずつ圧を掛けて、回り回って本人を委縮させる方法を使うのです。実際、福祉では地域密着などという旗を立てて、国の負担はどんどん減らし地方自治体に肩代わりさせる方向で進んでいますし、国の負担分に対しても出し渋るような状況も出ています。例えば生活保護では、窓口となる自治体に対して、認可に当たっての精査を強く求めて受給の増加を留めようとしたり減少を促すような事も行っています。確かに、生活保護では、生活保護依存症と言われるような、生活保護から抜け出そうという意識さえ失い、どっぷりと浸かってしまっているという事例もあります。しかし、介護保険というのは、保険ですから使用しないで暮らせるならそれに越したことはないと誰もが思っています。また、使用するならよりよくと活用法を考えている場合もありますが、積極的に介護保険を活用した生活を望んでいる人はごく少数だと思うのです。生活のぎりぎりまで頑張って、恥を忍んで介護保険を申請したのに、自立しろ、リハビリしろ、寝たきりになるぞと脅されるのでは、心まで病んでしまいます。介護保険に、成果主義が持ち込まれることは、やがて福祉全体にも波及し、改善見込みのない人はサービスの提供さえ拒否されることも現実になってしまいます。だからと目先の財政難に振り回されない福祉の在り方を現場が提案しても権威ある先生でないと検討さえもされないのが現実です。多くの人は、福祉に寄与したいと思っていても、福祉で利益を受けたいなどとは思っていません。それでも、年老いて加齢の中で身体機能が低下して介護保険を使うかと遠慮勝ちに決断したのに、もっと遠慮しろと言われる福祉が着実に進んでいます。

 

有給全部取って辞めてやるの話

 ベテラン職員が、他の職員に吹聴していました。「嫌なことがあれば辞めたっていいんだ」「福祉なんてどこも人手不足で働くところいくらでもある。」さらに「経験があれば御の字で、資格があればもっと良し、どこでも選び放題だよ」その通り。時代は人手不足の真っただ中、福祉施設は、選ぶところか募集しても一件の問い合わせもないと言われています。昔コメディアンのクレージーキャッツが歌った歌の一節に、「・・ひとこと小言を言ったなら、ぷいと出たきりハイそれまーでーよ」と夫婦のことを歌っていましたが、今はそんな歌が福祉の現場の現実です。福祉はサービス業となったとは言え、そのサービスを受ける利用者は、生活の必須要件で、サービスがなければ生命さえも維持できない人もいます。つまり、レストランや販売店、ホテルなどの上乗せのサービスではなく、暮らしそのものを支えるサービスなのです。笑顔は無料といったサービズではなく、人生を支えるサービスなのですが、就職先など選り取り見取りにあると云えるベテラン職員に、目の前の利用者は何に見えていたのでしょうか、恐れ多くて聞くことは出来ません。職員の、退職は手続きさえ踏めば労働法からいっても自由です。だから、福祉施設では職員の離職率はとても高くて、直接支援サービスを受けている利用者は、またかという諦めの中で冷ややかに見ています。私の失敗談である東京都の相談支援専門員の講習、受講さえすれば誰でも資格が取れます。しかし、個人では受講できず、事業所の推薦がなければなりません。事業所が雇用を保証して受講するのですから、現に働いている人や働くことを前提としているだけでなく、既に持っている資格にもよりますが実務経験が既に3年以上、5年以上、10年以上なければ受講さえできないというほど、福祉に関してはそれなりに知識も経験も持ち合わせている人たちが受講します。その講習会で一回に400人から資格を与えているのに、実際に働いている人は、資格保持者の三分の二も実務についていないのです。だから、毎年毎年応募多数で、足切りしなければならないのです。確かに、結婚とか様々な理由で継続できない人もいるでしょうが、開設されている事業所の数から当てはめるなら、順当に、そのまま就労しているなら養成がどこかで追いつくものなのです。しかも、福祉の経験者なのですからその業務も知っているはずなのです。それでもその資格に魅力がないから離職してしまうのです。例えば弁護士、少ないという要請にこたえて司法試験制度を変えました。結果人数は増えましたが仕事の量や既得権の収入は減りました。教員の資格を持つ人は沢山いますが、教員に採用されるのは希望者全員ではありません。福祉に関わる多くの資格は、資格があるなら希望は全員採用されるぐらい有効です。にもかかわらず資格の受講者の足切りをしなければならないのは、就労後にやめていく率が高いから、いくら資格を与えても足りないのです。すでになくなりましたが、ヘルパー2級という資格がつい最近までありました。この制度が出来た時は、受講者が殺到して全国で何万という人が資格を自腹を払って取得しました。そして、就労してみたら、ほかの仕事のパートに行った方がましだと資格を持っていても就労しない人ばかりになりました。

 公務員が足りないということは聞きません。大企業が足りないとも言いません。足りないのは、底辺なのです。労働条件が悪く労働環境も悪い、賃金もよくないそんな現場が人不足なのです。福祉施設を渡り歩く職員は過去にも沢山いましたし、「マンパワー不足」と大騒ぎもしました。しかし、この時も、職員の給与が上がったわけではありません。職員厚生を充実しようなどということがありましたが、結局は大した改善もないままに経過しました。その原因は、福祉の支出の大半が人件費だからです。ほとんどが税金で賄われている福祉にあっては、職員の給与を上げることは、せめて公務員並みにすることをするには、サービス費に転嫁しなければならないからです。東電は、原発廃炉の費用を電気代に上乗せすることができるそうですが、福祉はすでに上限が決まっていて、収入を上げるために何ができるということはほとんどありません。収入は安定しているのですから倒産もないのですから、人が集まりそうですが、収入を給与として分配すると、業務に見合ったような給与にはならないのです。だから、人が集まりません。人が集まらないから、少しぐらい我慢して雇用すると、体罰だったり、人の支援には向かない人が混ざってしまいます。そして、注意すると、叱ると、「有給全部取って辞めます」となるのです。職員数が揃っていなければ今の法律では事業停止もあります。ですから、そこは目をつぶっていれば、見てみぬふりをしていれば基準の数を無理やりでも確保することも不可能ではありません。でも、自分を守れない障害を持つ利用者が、見つめる瞳を逸らすことは出来ないのです。