知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

癒しが人工音に取って代わった時代の話

音は、想像や空想によってイメージとして組み立てられます。音は向こうからやってきて、通り過ぎていきます。とどめることは出来ません。一方視覚から、音を想定することは出来ません。古代の楽器を見てもどんな音を奏でたかを想像することは困難です。日常生活の身の安全は、視覚と聴覚の総合判断ですが、睡眠している時の身の安全は、聴覚が起動して行っています。聴覚は、入力された音を、自然音、人工音、言語などと選別し、確認したい音を選択するために脳と直結し、音を認識する中で安全や注意などと判断して、身体の動きの指令を出しています。この判断となるのが経験値で、これまでにどんな音を聞いて、それはどういうことかを学習したことで判断されます。それを徹底して研究工夫したのが、効果音ということになるかもしれません。ですから、効果音も時代とともに変化しています。例えば、時代劇で有名な、馬が走るパカッ、パカッという音も、砂にお椀を伏せて鳴らすなどと聞いことがあると思うのですが、現在では、電子音でよりリアルに作られています。効果音として流さなければならなかったのは、過去の録音技術では、実際の複合的複雑な自然の音を正確に録音・再生出来ませんでしたから、人間の脳は、映像に対して思い描く経験値からくる想像音と実際の録音音が合致しないと違和感を持つことからでした。脳は、意外と視覚に左右されて疑似音の方が本物だと思いこむこともあるのです。今日の録音技術では、正確に微小な音まで取り込んだ総合的な音を録音できますし再現できる技術の進歩があるのですが、それでも人工的に作られた音や操作された音を使わないと、視覚と聴覚の誤差が感覚として出るということがあります。俳句や文学では、音は出ていない、微かしか聞こえない自然音でも、視覚映像として想像させる表現方法として、言葉でしんしんと降る雪とか、ひらひらと舞う蝶とか、さらさら流れる小川とか、の表現方法を使いますが、この表現の原点は、視覚で確認していたことを言葉にするとこんなことということですから、音もなく降る雪を見たことがあるし、蝶が飛ぶところを見たし、きれいな水の小川を見たことがあるのが前提です。しかし、今日では、そんな自然そのものに接して、音を聞くとか、音を想像してみるなどということの経験は少なくなりました。また、経験者が、風の音や水の音、鳥の声を聴き分けて話してくれるということも限られてきました。その結果、日常生活では、自然音より、人工音やスピーカーから流れる音の方が遙かに経験値として学習されていく時代となりました。

自然音も、音は、一方通行で、通り過ぎていくだけです。同様に、音楽も一方通行でコミュニケーションにはなりません。しかしその音楽が、日常生活の中にすっかり浸透しました。再生機器は、小さく携帯できることから、イヤホーンを耳に当てている人も普通に見かける時代となりました。そして、音楽を含めた人工音の経験が自然音を聞く機会より増えて、聞いた音への安心感は、人工音の方が強くなってきました。それは逆に、自然の音に対して不安を抱き、人工音の方が安心出来るかのような状況です。育った環境に自然音が多かった時には、自然音の中に、癒しを求めることもありましたが、人工音の中で育てば、名も知らぬ鳥の声や触れたこともない小川のせせらぎの音では癒されるなどという共感は出来ません。育った環境の中で聞いた音の方が、安心や情緒に深く関わっていますからスピーカーから出てくる音に依存する生活がますます増えていくように思われます。肉声よりも、スピーカーからの音が優位に立つことが起きるかもしれない時代ともいえます。

 

 

宗教の感染力の話

 宗教というものは、日常は落ち着いていますが、時代の変わり目や変革期に弾けるように広がることがあります。そしてそんな時は、考える暇も与えないような感染力を持って広がることもあります。宗教の危険な部分は、教義を最終的に突き詰めていくと同じようなことを言っているのに、それぞれは、それぞれの主張が正しくて、相手を敵として攻撃することがあるということです。哲学や思想などは、政治とか権力とかが関わってこなければ考え方として対立があっても攻撃的になることはまれで、偉そうにしているということはありますが、一般的には無害な場合が多く見られます。ところが宗教は、経典が一つでも、その中のどの部分を柱にするかで宗派の分裂ということが繰り返されたり、同一宗教の中でも、相手を攻撃したりすることが見られます。つまり、同一であることを求めることはいいのですが、同一の中身が少しでもずれると制裁などということもあります。その為、宗教集団は、時として人間性さえも否定するような行動や行為をすることがあり、ニュースになることもあります。日本の歴史でも、一向一揆など宗教集団が利用されたりもしていますし、世界史の中でも、宗教による争いやトラブルは繰り返されています。原点となる宗教では人間の生き方について指し示しているのに、どんな解釈をすればそんな行動が許されるのかというぐらい、自分たちの正当性のため相手を攻撃することもあります。そこには、原点としての宗教よりも、後世の人間が宗教という遺産を現世の自分たちの利益のために使っているのではないかという悪用とも思える利用もあります。つまり、宗教の総体をみるなら、良いことばかり教授しているように思えても、部分としての解釈では、攻撃も正当化されてしまうのです。宗派というものも同様に、原本があっても部分は、バラバラに活動し、互いにけん制しているということまで見られます。

 そんな宗教は、社会の不安や漠然とした恐怖、個人の悩みに付け込んで一気に広がるということがあります。この時の感染力は壮大で、政治権力も脅かすということが歴史の中でも見られます。人の心は、何かの切っ掛けがあると、一気に吸い込まれるように凝縮するように集合しその中に紛れ込むことで自分を守ろうとすることがあります。平穏な時期にはそんなことなど起きないと誰もが、人間の理性が止めると思っていますが、その時が訪れると誰も知らなかったような、泡沫の宗教が急激に拡大し理性ある人々が吸収されていくという事態が発生します。現代の日本では、得意げに無宗教だという人が多くいますが、実際は宗教として活動している人は沢山いて、聞いたこともないという宗教団体は数限りなくあるのです。何かの事件があって初めてそんな宗教があったんだという人も多いのですが、宗教団体はいきなり出てくるのではなく、日常地道に活動をしていることを知るべきです。そして、何かの切っ掛けで感染力を持つと一気に拡大し、個人や家庭をも飲み込んでいくのです。それは、逆に無宗教だなどといっている人の方が新鮮に吸収しやすく、何かの宗教に関わっている人の方が免疫があることとも言えます。混迷する社会にこそ姿かたちの見えない宗教は感染しやすくなります。その宗教が排他的でなく攻撃的でなければいいのですが、現実には、感染力を持つ宗教の方が、強い攻撃的志向がある場合が多いのです。感染しないためには、無宗教であることではなく、免疫をつけるためのいろんな宗教を学ぶ機会も必要だと思うのです。宗教の自由とは、学ぶことの自由だと思うのです。

 

福祉のマークは何のための話

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 上のマークは、福祉に関わるマークです。このマークをすべて答えられる人は素晴らしいとしか言いようがありません。最下段のリボンはほとんど形が同じで、色だけでそれぞれに意味があるのですが、これもすべて答えられる人は素晴らしいとしか言いようがありません。福祉のマークは、上にあるだけではありません。まだあるのです。クイズ番組に提供してもいいかと思うほど実は、種類があるのです。実際、生活するうえでも、環境や生活物質、そして、交通からなにから、マークはさらに沢山氾濫しているのです。マークは、一目瞭然という位に相手に伝わると言う事が一番で、印し、標識、商標、レッテルなどと、様々に利用されていますが、相手が理解して意味のあるものです。高価なブランドと言われる商標でも、誰も知らなければただのマークにすぎません。それが高価な価値あるものだなんて知らない人は何の認識もしません。

 福祉のマークも、みんなが一生懸命、理解と支援のために考えているのでしょうが、相手に理解されていなければ何の役にも立ちません。また、マークを周知することが福祉でもありません。障害がなんであるかを事細かに伝えなければ理解と支援が得られないというのもちょっと違う気がするのです。障害があるというマークを利用することさえも嫌う人もいます。それは個人のプライバシーでもあるからです。障害という一語で、理解と支援の得られる社会、マーク一つだけで理解と支援が得られるようになることもマークを作る前に考えてみる必要があると思うのです。

教育勅語の利己的利用は歴史を知らないの話

 歴史を調べてみればどんな政治にも哲学にも思想にも、巷の教えにも、時代の背景を背負った良いところも、悪いところもあるというのが事実です。悪ければ、歴史には残りませんし、良い物なら、現代にも延々と引き継がれています。つまり、時代を背負って作られたものには、その時代として求められるものがあるから作られるのであって、その役割を時代が求めなくなれば、目的を失い歴史の一つの資料でしかなくなってしまうということです。最近話題の教育勅語も、作ったのは当時の政治であり、学者の意見や過去の民生を考慮しているでしょうから、現代に通じる文言が入っていても何ら不思議ではありません。いわゆる、徳目なんて言葉が並べられていますから、大臣までが良いことが書いてあるのだと言い出せば、なんとなくそんなに悪く言わなくてもいいかな。なんてことにもなります。しかし、ちょっと違う視点から見てみると、自分の都合よく利用しているのだなと気が付くのです。教育勅語は、明治天皇が出したものとされて、保守にとっては天皇の言葉として重要なはずです。ところが戦後孫の昭和天皇は、これを否定するのです。否定した事情が米軍に言わされたとしても、そうでなかったとしても、教育勅語を持ち出す連中は、トップの昭和天皇が否定しているのに爺さんが言っていることが正しいと主張して反抗しているのにすぎません。侍ならば、現殿様が戦に負けたので爺さんの言っているやり方では駄目だ新しいやり方で国を守ると言っているのに、爺さんのやり方を復活させたいと主張しているのと同じです。天皇を仰ぐのなら天皇の言葉に従えとしか言いようがありません。そんなに素晴らしい徳目なら、天皇の権威を借りて言わなくても、自分の言葉で主張すればいいのです。実際、民法では、戦前のままの条文が戦後70年たっても生きています。法務官僚を含めた怠慢でもありますが、トップが否定しなければならなかったのは、中身ではなく何の目的に使われていたかということにつきます。その目的が失われたから否定し、歴史の資料となったのです。

 同じことは、歴史の中にたくさんあります。歴史に出てくる偉人達も良いことも悪いことも話しています。どんな本を見ても、いいことも書いてあるし、否定されていることが書いてあることもあります。大切なのは、一部の部分ではなく、総体として何を言いたいのかを読み解く力が必要だということです。ところが、利己的な人は、全体を読み解くよりも、自分に都合のよい言葉だけを選別して強調するということがたくさんあります。ですから、自分の都合の良いところを組み合わせて利害が発生することもしばしば起きるのです。利用する方は、自分に都合よく解釈し、その知名度を引き合いに出して権威づけようとします。悪用されたと相手が思っていたとしても、利用する方は勝手です。結果として、自分の利益のために使います。天皇を利用する、復古としての保守にも、そんな輩がぞろぞろといるのです。天皇を尊敬するのならすべてに従えばいいのですが、こういう人は自分の都合の良いところだけ従ったふりをします。昭和天皇は、確実に戦後これを否定し、米軍から自由になっても、教育勅語を否定しました。その事実だけで十分なのです。そんなに教育勅語が好きならば天皇という権威を利用しないで自分の言葉で再生すればいいのです。教育勅語の、一番よくないところは、日常生活の徳目を実践させる部分は、総体のためにあるということです。つまり、総体というのは部分から成り立ってはいますが、部分にはそれぞれの役割があってその役割を果たすための訓練が徳目になっているからです。よく言われる例えで言うなら、人体で、リーダーは頭で、その他は内臓であり、皮膚なのだから、それぞれの部位で最大の力が発せられるように訓練しておけというものであり、多少のケガが、手足にできても仕方がないし、不要なら切り取ることもあるということでもあるのです。頭は偉く替えはないが、手足の傷ならいくらでも替えはあるという臣民意識の習得が目的となっているから否定されたのです。権威づけに歴史の資料を持ち出して利益を求める輩は繰り返し出てきますが、そんな輩に振り回される現代の社会があるのも事実です。

成年後見制度を利用すると施設に入れられるの話

    成年後見人を決めたのでもう安心だと思った人がこんなはずではなかったと後悔と苦情になりやすいのは、会ったこともない弁護士等が裁判所から指名された成年後見人ですと現れた初対面から案外始まります。成年後見人は、裁判所が指定しますから、身内にしてみれば期待しているのですが人物の当たり外れがあるだけでなく、制度と期待の誤差が大きいことにこの時になって気づくのです。なぜそんなことになるかというと、成年後見制度を推奨する法務省の広報が誤解を招くようなものだからなのです。もともと、成年後見制度は、平成12(2000)年4月1日、介護保険制度と同時にスタートしたように老人の資産管理を前提としたものですし、明治31年施行の「禁治産・準禁治産制度」の法律を廃止して改良型として制定されたという経過があるからです。禁治産などの制度は「判断能力が不十分な人の財産を管理する制度」で、そこでは、心神喪失者は「禁治産」とか、心神喪失者より症状の軽い、心神耗弱者は「準禁治産者」として、「禁治産者」には後見人、「準禁治産者」には保佐人が選任されました。ですから成年後見制度でも、「判断能力が不十分な人を保護する制度」として、知的・精神障がいや認知症等の精神的障がいが該当しますが、身体上の障がいのみで精神的障がいを有しない人は、対象外となっているのです。つまり、高齢社会、人権社会、世界的な社会福祉の推移に対応して初めから作ったものではなく、理念や考え方は、禁治産の財産管理が根底にあって、人権などというものではないのです。介護保険制度の運用が開始された時に、福祉サービスの提供方法が「措置」から「契約」へ変わるにあたり、契約を結ぶ際、本人の財産を使用する契約を結ぶとき都合がいいのが後見人制度ともなってもいたのです。ですから、現制度でも「欠格条項」と云って公務員になれないなどの条項が沢山付いているのです。若い障がい者が知らずに後見人制度を利用していると、努力しても公務員にはなれないのです。さらに、後見人になれるのは、身内だけでなく公正ということから、弁護士や行政書士社会福祉士などが成れるのですが、報酬も家庭裁判所が決めていて、障がい者の経済状態にも拠りますが、公には月額2万円から6万円程度と言われており、一人で10人以上持たなければ生計を賄うと言う事は困難です。それだけでは無く、成年後見人(法定後見人・任意後見人)等の辞任には家庭裁判所の許可が必要で、本人が病気などの正当な事由がなければ辞められないし、辞めさせられないのです。障がい者本人との人間関係に問題があろうと、申請した親族等からの解任請求があろうと、成年後見人に不正な行為や著しい不行跡などの余程の事が無い限り辞めさせられないのです。 

 ここで、大事なことは、成年後見制度は、禁治産から始まっていますから、一族・家族の資産管理と言うことが基本で、一人の人間の人権保護には始まっていないということです。にも関わらず判断能力が不十分な人の権利を擁護し、本人の意思を尊重しつつ、本人の財産管理と身上監護(=生活、療養看護に関する事務)を行う制度だなどと誤解するような事を宣伝するから、身上監護もするのだと申請者たちが思い込んでしまうことです。本当は、身上監護の事務をすると言っているだけなのです。この制度を利用しようとした人々は、財産もさることながら、障害や痴呆等になった人の生活という事が今日では大きいのです。しかし、生活介護の事など知りもしない弁護士が後見人になることにもなるのですから、揉めるのは当たり前なのです。障害の理解も無い、本人の生活歴の理解も無い人が、後見人になると本人の生活を維持するために本人の財産を使用すると言う事よりも、事務的が仕事だとして、生活の面倒は仕事では無いと、施設に入れたがるという結果になるのです。身上監護ならびに財産管理の二つが達成できる支援だと言って施設へ入居させるのです。まして、後見人の基本報酬は、被支援者の金融資産が多いほど、家族後見人よりも、専門職に就いている第三者の方が報酬が高くなる仕組みですから、施設入所させれば、、施設に金を払う事務手続きだけで数万円の報酬になると言う事になるのです。一度就任した法定後見人は悪い事でもしない限り解任されることはありませんから、本人が死ぬまで施設へ金を振り込む事務だけで収入を得られるという仕組みなのです。もし、本人が自宅で暮らしたいなどと言い出したなら、日々の生活用品の買い物のヘルパーやら支援サービスやらと細々な手続きや対応に手間と時間が掛かります。レシートの山も大変です。病院への対応も必要になります。でも、施設なら全て一括で済みます。NPO法人や一部の行政などがよりよいものとしようとしていますが、現実には、こんなはずじゃ無かったと思うような事態は増えているのです。成年後見制度が、障害を持つ人の人権と生活を守るためにあると云う誤解をしてはならないのです。

料理が食品ロスを作る話

 日本料理は素晴らしいとか、出汁が効いているとか、テレビだけでなくネットでも料理のことは日々紹介されますし絶賛されることも多数あります。手の込んだものから簡単なものまで、とにかくおいしい料理や変わった料理の料理本も、新刊本が繰り返し提供されています。ところが、その一方で、食品ロスが大量に出ていることが報道されて、コンビニなどでは、期限が切れた弁当などの廃棄が多いと取り上げられたりもしています。時間の経過が重要な食品の大量生産、大量販売の現場では、廃棄による損失以上に収益が見込めるなら、販売戦略からすれば廃棄は織り込み済みの必要経費でしかありませんから、勿体ないとは思ってもシステムとして実施するしかありません。購入する方も、多種並んでいれば選択するという満足感があるし選択するときは、新しいものとか、美味しそうなものとか、手作りだとか、調理方法にこだわったものなどに意識がいってしまいます。結果として、売れ残りをスーパーは閉店前に割引して少しでも原材料代・人件費の足しにしようと販売しますが、24時間営業では、そうもいきません。つまり、売れ残った弁当やパンなどが、廃棄される場面をテレビ等では報道して、まだ食べられるものが廃棄されていることを食品ロスとして取り上げられているのですが、私は、実際の食品の扱いを見てみると、完成品の廃棄より、調理という過程の方がはるかに廃棄が大きいということを考えるべきだと思うのです。現在の調理では、食材が人体に不具合を起こすことのある部分を廃棄するのではなく、見た目や味付け、触感ということのために廃棄させられていることの方が多くなっています。そして、それが調理だと誤解されるようになってきたし、料理ということにこだわれば拘るほど、食材からの廃棄部分は多くなっているのです。今日では、リンゴの皮を剥くのも、野菜の皮を剥くのも常識です。栄養学では皮と果肉のところに栄養があると言いますが、今どきメロンの皮がひらひらになるほど削って食べませんし、スイカの皮を漬物にしてまで食べようともしません。煮干しで出汁をとっても、出汁を取られた煮干しをおやつのように食べていた時代はずっと遠いものです。ジャガイモであれニンジンであれ、廃棄率をいかに低くするかと薄く皮が剥けることが技能だった時代は遠いことです。食材は食べきるといった空腹の時代の日本では、食材の汚れを落とすは重要でしたが皮を剥くは重要ではありませんでした。苦みや渋みなどの食べにくい部分を分離して、あく抜きとか渋抜きなどとしてでも食べていました。だから、大根や蕪に葉っぱがついていても食べられるから困らなかったし、ニンジンやキュウリが曲がっていても皮を剥かなければ困らなかったのです。しかし、懐石などと言われるような料理となると、食材の元の形をそのまま使用はしませんから、形を揃えるだけでも廃棄部分は多くなってしまうのです。ニンジンで花型を抜いた残りを微塵切りにしてハンバークやチャーハンにでも入れるかという時代ではなくなったのです。おいしい料理だけでなく、見た目も大事でそのためにたくさんの食材が廃棄させられる時代なのです。過去には廃棄食材も豚の餌にしたりしていましたが、今どきの日本ではそんな飼育方法も否定されています。健康に良い豆腐を作るための大豆、しかし豆腐にするとおからという残り物が出てきます。それが、今では産業廃棄物です。ひと手間かければ食べられるという時代ではなく、ひと手間かけて見栄え良くするために廃棄するという時代です。

 先日、ゴリラなど生物学的にヒトに近い霊長類が、主に人間の活動が原因で絶滅の脅威にさらされているという報告がありました。その原因は、狩猟や違法ペット取引、森林伐採、道路建設、採鉱、耕作といった人間の活動とされています。特に地元の方が生活費を稼ぐための農業として、豆腐の原料である大豆や、コーヒー豆を生産するために開墾されているということです。現地で消費されるのではなく、世界各地に輸出し換金するために農地にされることで、多くの森林や原野がなくなっているのです。スウェーデン大手イケア(IKEA)の家具など、世界展開されている工業製品を購入するときに、森林破壊などと考えることもありませんし、コーヒーを飲むたびに、自然を破壊し野生動物を絶滅に追い込むリスクがあるなどと考えませんが、貧しい国にとって売れるものが自然を破壊することに繋がるとわかっていても、今の生活のために必要なこととされいます。つまり、消費者向け製品と販売が、種の絶滅を助長しているとまで言われています。グルメの時代の中、食材の廃棄率は、年々高まっています。にもかかわらず、その食材が国内で生産されたものより、国外の物がますます増えているのです。折角海外から購入したのだから、全部丸ごと食べきるという意識にならなければ、見えないところの食品ロスはますます大きくなると思うのです。コンビニの弁当廃棄はわかりやすい提示かもしれませんが、一人一人の調理によって出てきている食材の廃棄率の方がはるかに大きな食品ロスだということも考えるべきだと思うのです。

組織ではなく人に未来を託せない行政の話

 或る都市の福祉行政として、福祉の活性化のために市内の様々な福祉団体の関係者を集めて、連合組織を、公的補助金までつけて半官半民のように設立しました。しかし、その組織は、行政の期待に反して障害の枠を超えた福祉のために燃え上がることもなく、参加した個々の団体はそれぞれの理念や会員の利益のためには頑張っても、連合体としての活動はお客様状態だったので、やがて、親睦会の域さえも失われ、参加者も減少してしまいました。ついには、組織を活用しているのは、補助金による身分と給与の保障を受けた職員だけだとの悪口さえも出てきました。市内に活動する福祉の団体や支援者たちの中から縦の行政では出来ない横の繋がりを構築して、福祉の柔らかい部分をケアしたいと、何人もの人がその志を実現しようと組織に飛び込んで努力したのですが、一時的に上向きになっても再びすぐに低下して、むしろ行政の職員よりも仕事の出来ない組織とまで陰口を言われてしまうことさえも発生しました。補助金は、職員の給与として消費され続け、設立した行政自体が何とかしなければならないと危機感を持つような状況とまでなってしまいました。行政職員は、福祉団体が横のつながりを堅固にすることをしなければ、障害者の経済的社会的自立のための賃金や工賃のアップを図ることは出来ないと、民間の施設を集めて新しい組織の構築を始めました。今度は、お金を出してお任せにするのではなく、市がバックアップしていると証明することで組織の活動を支えることとしました。福祉施設が販売会をしたいと言えば会場を借りるのに市が介在して信頼を持たせることで無償・格安にしたりすることや市の後援や共催という名を使用させることで市民への広報を行ったりしました。交渉時に市の職員が同行していることは、相手に対して相当の信頼に繋がり、様々なイベントや販売会が行われ売れるとなれば参加する施設も増えてきました。しかし、活動拠点どころか机一つ持たない組織で、すべてみんなの持ち寄りで行うには限界がありました。電話連絡も、メールも、世話人となる施設の間借りとなりますから正にやる気のある人が支えている時はいいのですがそんな人が抜けるともろに影響を受ける虚弱な組織体でした。

 期待通りの活動が出来なかった組織を活性化させる事と、何も持たないが活動はしている組織をコラボさせてより活性化した組織運営ができないかと考えた行政担当者は、その構想を実現に対応してくれそうな施設の長に話を持っていきました。すでに実績のあった施設長は了解しそのための準備もしました。行政担当者は、既得権的になっていた業務委託先を公募とする為に上司だけでなく、議会を含めて納得させる長い苦労を経て福祉の為とできるだけのことはしました。ところが、蓋を開けてみるとなんと、新しい組織には組織としてちっとも協力してくれない大きな法人が受諾したのです。この法人の職員は新しい組織に積極的に関わり実績もあったのですが、組織からは支援されていませんでした。結局人事異動で協力的な職員はいなくなり、消極的な人材しか派遣してくれなかった大きく安定した組織を、小さくても頑張ろうとした施設長より、偉い人たちは選んだのです。福祉の歴史を見ても、組織より個人がより良いものを目指して牽引してきました。組織は、その功績に乗っかって安定した提供を保障してきたににすぎません。福祉はこれからも大きく変わらざるを得ません。その時も、組織ではなく、人と人材が大きく関与します。組織を変えることができるのも人材です。困難な課題があるからこそ、組織ではなく人に託さなければならないとして下から積み上げてきた企画は、行政の偉い人によって流され、長年の活性化というチャレンジのチャンスをつぶしてしまいました。