知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

縦割り行政が分かりやすい事例の話

    厚労省は、2005年「次世代育成支援対策推進法」の施行により、労働時間の短縮や子育て支援などに取り組む企業に「くるみん」マークという認定マークを与え自社企業の広告などに働きやすさをアピールしても良いとしています。そして、厚労省は、91年に新任職員の過労自殺死があり係争となって2000年には最高裁判決で敗訴している電通と言う日本の大手広告会社に、この「くるみん」マークの認定をしているのです。電通は、日本で初めて過労死を最高裁が認めたと言う会社ですから、過労死などの責任を認めないで最高裁まで争い続けた会社で自説を曲げない会社です。その結果、13年には30代男性社員の過労死が再び発生しているのです。にもかかわらず、過労死があった13年も「くるみん」マークが認定されているのです。そして、再び、電通の新人女性社員が過労死自殺となり、東京労働局の強制調査が全国の同社に行われましたがそれでも「くるみん」マーク保持企業なのです。労基署は、前年にも労基法違反で行政指導の是正勧告をしていることも明らかになりましたから、これは俗に言うブラック企業じゃ無いのと言う体質ですが、厚労省は、働きやすい職場だと認定していて、この事態になって、認定取り消しと言えず撤回の検討に入ったと行って実態は、電通からの辞退を待っていると言う事なのです。

 厚労省は、電通に対して怒って騙された酷い会社だと自ら撤回すれば良いのですが、撤回となると認定した責任が問われるので、ひたすら電通の方から辞退してくれるように待ちに入ったのです。結果として11月1日に電通より辞退の申し出がでて、厚生労働省は異例の早さで待ってましたと「承認」した上でホームページでも辞退を承認し認定が失効しましたと広報しました。くるみんマークそのものはみんなが余り知らないマークでクイズに出てきたらへぇ-と言ってしまいそうな事なのですが、ことし9月末の時点で全国で2657社が認定されているということです。そんなに働きやすい会社があったのかと驚く数字ですが、厚生労働省はちゃんと調査して認定しているのか誰もが疑いたくなります。それに対して、厚生労働省は「企業の子育て支援の取り組みを促進したい思いでやってきたが、今回の電通の承認失効は残念でならない。真に取り組んでいる企業に対してきちんと認定が出せるような仕組みにしていきたい」とコメントしているように仕組みが元々ちゃんと出来ていないことを認めています。しかも、電通の承認失効は残念でならないと言っていますが、残念の対象は厚労省を信じて電通に就職した人や就職しようとしている人への謝罪では無いのです。国の機関としてのお墨付きが間違っていたというのに、自ら切り捨てることもせず、願い出てきたので承認してやったとまるで時代劇の代官と越後屋のような対応で、庶民には謝罪もせず、間違いも認めないのです。この失敗は、東京労働基準局が、強制調査するというほど、前々から継続した問題あり企業としてマークしていたことを全く共有していなかったと言う事につきます。しかも労働基準監督署というのは、厚生労働省の管轄の組織です。常識的に考えるなら、くるみんを承認するときに、日常的に労働状況を監視している同一組織の労基にちょっと確認してくれないと名簿を渡せば簡単に評価できることだと思うのです。なのに、決して横の関係に書類を回してチェックすることはしないのです。つまり、こんな事が縦割りとして日常的に行われているというのが行政なのです。同じ厚生労働省の中でさえこんな状態ですから、他の省庁間では縄張り争いでとても横の連絡など取れません。その中で、実際、女性社員の自殺が過労による労災と認定され、東京都労働局などは強制調査にも着手し、法令違反を確認したなら行政指導する方針と言いますが、電通は、越後屋以上に、メディアにも大きな影響力を持ち、敵に回せば広告減少という報復をされかねずテレビの報道番組もひっそりと流れたように、厚労省の他の部局から声が掛かれば労働局の刃はさび付いて抜けないなんてことにもなりそうです。「労働時間の短縮」が看板のくるみんで、過労死させる企業を認定して、企業広告に使用させた責任なんて絶対に取らないだけで無く、自分の組織の横の関係が無かったことがチェックミスとなった原因だとも思わないのが縦割り行政なのです。

ノーベル賞も、一発屋じゃないのの話

 ニュートリノの観測でノーベル物理学賞を受賞した小柴さんが賞金を含む4,000万円、個人の寄付6,000万円を基本財産として平成基礎科学財団を設立し基礎科学の振興を目指しましたが、財政難で解散となりました。理由は、地方自治体や個人などからの賛助会費で賄われた運営費は、ノーベル賞の輝きが減ると共に退会者も増え、自治体からの会費も減少して続けることが出来なくなったと言う事です。今年も、ノーベル賞の受賞があり、口々に基礎研究が大事だとの話が出ましたが、ノーベル賞を貰った偉い研究の説明を受けてみると、何千何万という微生物の中の一つの研究だったり、それが何の役にたつのと問われ続けて何十年と言うものだったりしています。つまり、基礎研究という分野は、果てしなくて研究者が研究していると言えば基礎研究で、路傍の雑草に過ぎないと言えばそうなのかとしか思えない事としか思え無いことばかりです。実際大学で研究している学者が、世の中人の為になったと評価される研究はどれほどあるのか分かりませんが、ノーベル賞を取るためには人と違う独創的な研究をしなければなりませんから、どう見ても変人・変わり者と言われるぐらいでないと何十年も地道な基礎研究など出来ないと思うのです。すると、逆に何十年やっても成果効果は無く退官していった学者の方がどう見ても多いと思うのです。大学や研究所に採用されている学者はそれでも生活の保障と研究の保障はありますが、市民で研究している人は、全て自腹で延々と頑張っても光が当たることはまれだと思うのです。通常科学の場合は仮説を立ててそれを証明すると言う事ですが、ファーブルの昆虫記では無いけれど、観察を続けることで発見したり、他の研究中に偶然見つけたりと言う事も聞きます。ノーベル賞を狙おうと韓国は世界一力を入れていますが、その成果は上がっていません。村上春樹さんは今年で11年もノーベル賞だと言われながら受賞には至っていません。科学の世界でも、研究は独創的で無ければなりませんし、何十年研究したって、先に発表されてしまえばそれでおしまいです。世界中の科学者が研究しているのです。しかも、物理学なんてとっくに相当の設備が無ければ出来ない状態になっていて、素粒子の研究ができるのは先進国の巨大な最新鋭の実験装置がなければノーベル賞なんてとても取れない状況とも言われています。そして、さらに世界に通用する論文として書き上げて発表しやなければ、賞まで届かないのです。

 しかも、基礎研究なんて善悪どっちへもなびく事は出来ます。核兵器だって素粒子物理学という基礎研究の上に成り立っています。先日、新聞に「鳥インフル論文、テロ懸念で米誌掲載見合わせ」という記事があって、内容は、強毒性の鳥インフルエンザウイルス「H5N1」に関して生物テロに悪用される危険を理由にサイエンスという研究誌が掲載を見合わせました。でも、研究している人は、純粋に鳥インフルエンザウイルスや、その変異したウイルスが人間にうつることを防ぐ新薬や新しい治療法の研究をしていたのかも知れませんが、生物兵器にもなる可能性があるほど進んだ研究だったと捉えられたのか発表さえ拒否されました。一生懸命やっても、悪に利用されそうな研究と判断されれば、科学雑誌や学会への発表をさせないだけでなく、研究費を絞ってしまうなんてことで制限されることもあります。病気の治療薬になれば、人類や世界にとっての有用な研究成果として賞に結びつくかも知れませんが、兵器のように、忌むべき結果に結実したものはノーベル賞級の研究で終わってしまいます。つまり、基礎研究と言っても人間にとって有利な研究なら、ノーベル賞と一気に評価は上がりますが、人間にとって不利だと判断されると純粋な研究だとしても拒絶されるのです。基礎研究なんて裾野が大きくて結果何十年も研究して何の足しにもならなかったと言う研究も多いと思うのです。研究者は、基礎研究から何が出てくるか、それは誰にも分からないが、基礎研究がないとそもそも何も出てこないと言いますが、その為の研究費はどこから出てくるのかと問う必要はあると思うのです。日本の、基礎科学・芸術等は、主に国からの財政支援に依存していて、欧米諸国のような寄付によって成り立っていないとも言います。でも、寄付こそ成果効果を求めており、なんだか分からない研究に欧米だって寄付が集まっている訳ではないと思うのです。電子の発見によって、何の役に立つのか、発見された時には誰も分からなかったけれど、いまエレクトロニクスがなかったらどうなりますかと言うのですが、スマホやICレコーダーがあるから利用していますが無ければ無くてもいい暮らしがあると思うのです。つまり、基礎研究で、分かったから、便利になったのだから基礎研究が大事だと説明しますが、インターネットも兵器として開発されたように武器の多くが基礎研究の成果でもあるように基礎研究は、善悪どっちにも進める事が出来ることを考えれば、ノーベル賞ほしさに基礎研究こそ大事だとは言えないと思うのです。まして、ノーベル賞の選考内容を聞けば、受賞から漏れた優秀な研究も数多あることからすれば、受賞できたのも一発屋と同じ土俵のような感じがするのです。受賞はめでたいけれど、それは全く芽が出ないけれど努力続けた芸人が突然売れたけれど次のネタが無くて忘れられていく一発屋と同じな気がするのです。受賞の熱が冷めたらもう寄付も集まらなくて潰れていくのですから。

関わりは自負を土台に重ねていけば良いの話

 人が、求めているものは「関わり」だと思っています。関わっていたいと言う思いであり、関わっているという感触だと思っています。ところが、大事な場面やみんなでやることから排除され、あんたは良いから見ていなさいと、関わらなくても良いでは無く、関わるなと言う事ばかりが続くと、関わり方が分からなくなります。出来ないと言うことと、関わるなと言う事は大きく違います。同じ仲間であり家族であるのに、みんなは怒鳴り合うような忙しさの中にありながら、「あんたはやらなくていい」と大事にされているのではなく、棚上げされていることに、気づいて本人なりにどうしたら関われるのかと、様々なチャレンジをするのですが、全て失敗し、最後は出来無いんだからやらなくて言いと断言されてしまう経験を持つと、人は対人関係不安定と言われる人になってしまいます。ですから、対人関係不安定な人を作り出すことは簡単に出来ます。対人関係は、量的接触よりも、質的な接触経験によって個性として形成されます。対人関係不安定な人は、現代ではますます増えてきています。そして、状況によっては、障がいというレッテルが貼られることもしばしば見られます。対人関係不安定な人の対人関係は、関わりが、苦手で生きていくには、誰かに代替的に依存することとなります。その依存心は関わりの失敗を再現するように依存者に向けられ、依存者の負担が多いと、行動障害とまで言われることになります。人との関わりは、経験を積みながら上手下手はありますが、誰でもが変な人、変わった人としてでも、自分の方法を確立していくものですが、環境にその受容力が無ければ対人関係自立は中々大変です。依存性が非常に高くなると自分の不満も高くなり依存者への敵対的攻撃も増えて、結果は、病院での拘束などと言う事になってしまいます。本人は、人と関わりたくて行うことは、周りが困ることばかりで、拘り行動と言われ嫌われます。その結果、関わる人が限定され、さらなる対人関係自立の道は狭くなっていきます。現代のように社会性というルールが曖昧で変化が大きい社会では、応用力よりも適応力が求められますが、対人関係不安定な人ほど人との関わりの適応力が乏しいのです。こうして人との関わりが不得手な人が、障害者や精神的疾病者のようになってきています。

 人は、社会的に何をしているかと言う事ではなくて、この事に自分は関わっている、自分が関係していると言う事に喜びがあると思うのです。そこには評価では無く受容が必要だと思うのです。日本の社会では過去にも対人関係のルールがあってそれなりに機能していました。しかし、今日では、欧米風に自分の意見をきちんと言うことが正しいとされながら、過度の自己主張は駄目、論議をすべきと言いながら相手を非難するのは駄目、断言した言い方は駄目、自分の意見は言ってもみんなの意見に従うなど、欧米と日本風が都合の良いように使用されています。つまり、評価や非難は、力の強い人の考え方に左右されていて、自分の本音や相手が困ることは言うなという日本風の考え方と自分を表現する西洋風の考え方のバランスを純然たる感覚で取ろうとしている状態ではありません。結果として、どうか変わって良いのかわからない人間を多く作り出しています。変化しすぎる、他人の評価に振り回されてしまうことが日常的に多くなっているのです。だから、本人は、頑張っているのですが、他者の評価を気にしすぎて対人不安定となっているのです。だから私は、敢えて「自負」を持つべきだと言っています。自負というのは「自分の才能や仕事について自信を持ち、誇りに思う」ことで、他人の評価を必要としません。自分を誉めて、自分を確立していく過程を大事にして欲しいと思うのです。

 

土人と言った警官の我慢の話

    沖縄の基地問題に政府の警備員として派遣された大阪府の警官が、沖縄の人に向かって土人と言ったと言うことです。「土人」は、差別用語として、差別意識として問題なのですが、私は違う視点から、関係者の厳罰が必要だと思っています。それは、土人という意味さえ分かっていないと思う若い警官には「無知」という言葉ですみますが、職務としての業務や立場が理解されていないことは無知ではすまされません。警官というのは逮捕という人を拘束できる権限を持っているのですが、その根源となる権力が有って成り立っているのであって、自分が偉いからでは無いことの理解です。つまり、権力の先端にいる事は事実ですが、自分が偉くなったつもりでいたなら警官という職業には適さない人だとしか言いようがありません。関西では、過去から部落差別問題などがあり、公務員への研修としても差別とは何かについて相当の蓄積があるはずです。なのに、「部落」という言葉が「土人」と言葉が変わっただけのような事さえ理解出来ない人が権力の先端にいる事は大変危険です。差別や差別意識は、個々の事例から応用的に理解出来なければ、自覚しないままに相手を傷つける行為ですから、研修の事例から何を学ぶかが身に浸みていないのです。差別や差別意識は、無知が引き起こすことは実証されていて、学習の機会が一番大切である事も実証されています。少なくとも、いじめを含めた学習や研修の中で、差別や差別意識は「無知」によって生まれ、無意識に相手を攻撃する手段になって仕舞うと云う事は頭の中では理解しているはずです。そしてこの警官も、勤務外には沖縄の街に出かけ、食事をし人とも接して自分たちと同じ人間と言う事を感じていたはずです。なのに「土人が」と言ったり、また他の警官は「シナ人が」と言ったりしているというのです。それを上司である大阪府の松井知事は「現場では相手からも散々言われる職務をしているのだから、本人達をたたきまくるのではなく、一生懸命やっているのを認めよう」と反省は必要だが責めるべきでは無いと本人をねぎらう発言をしています。私は、差別発言の前に、知事は上司として、職業人の心構えを話すべきだし、心構えなしに送り出したことを謝罪すべきだと思うのです。でなければ大阪の公務員意識改革は、トカゲのしっぽ切りだったのかとしか言えなくなってしまいます。

 民間の会社員は、相手にどれだけ罵倒され、辛い憤りを感じても、会社のためにただ耐えて我慢していると言う事はいくらでもあります。理由も分からないような理不尽な攻撃にもひたすら会社の為に我慢しています。この度の大阪からの派遣は、事前に分かっていたことですし自分たちがどんな状況の中で業務を行うのかも事前に学習できたはずです。沖縄の人達では無く、事案に反対している人からは敵の手先としか自分たちが見られないことも、どういう情勢なのかも学習しているはずです。だからこそ警官は、国家のためにどんな挑発にも負けずに我慢するのが基本と教わったはずです。警官は、職務として給料を貰って命令でそこにいるだけの職業人です。しかし、現地で反対している人は自腹で生活を掛けて願いを掛けて闘っている住民です。現地で根性を据えてて闘っている人に接するのですから、警官は恐怖も不安も興奮も最高に高まるのは当然です。だからこそ、職務として我慢の出来ない警官や挑発に乗ってしまう警官など不要なのです。もしこれが国と国が関わるような警護だったらたった一人の警官の暴言・暴走が戦争になることだってあるのです。現に過去の戦争では一発の銃声から戦争が始まったこともあるのです。人間として我慢している沖縄の人に比べたら、大阪府警という看板を背負いながら短期間職務として勤務時間しか対峙しない警官が、じっと我慢できないというのは未熟者そのものです。海上保安庁が中国・韓国・ロシアと接しながらじっと我慢しながら国を守っているのからすれば意識が低すぎます。警護や警備は、我慢が基本にあるぐらい理解させて派遣すべきで、そんなことも出来ない職員を派遣した関係者も処罰されるべきだと思います。

隔離・拘束するしか犯罪への罰は無いのかの話

   小説などでは、完全犯罪がメインテーマとなっていますが、現実には案外犯罪として認知されていない死亡は多くあります。正確ではありませんが、日本の年間死亡者数は約120万人ぐらいで、警察が扱う「異常死」は約17万人ほどいて、この中に3万人とも4万人とも言われる自殺として処理された人数が含まれていると言われています。異常死だからと言って、テレビドラマのように死因究明の解剖が行われることも無く、自殺か殺人かなんてことも死体を見た警察官の感で犯罪だと言えば捜査が決まるとも言えます。さらに、これほど管理されているような日本でも、行方不明や死亡者の身元がわからないということが年間800人程度いるとのことで、事件性が無いとされれば、死体があっても淡々と処理されてしまうのです。ですから、現実には、小説よりももっと多くの犯罪があって、犯人として捕まるのはその一部なのかとさえ思えてくるほどですし、死体の見つからないままの死もあって、何かの切っ掛けで見つかる犯罪もあります。行方不明、迷宮事件、色々ある中で、犯罪として捜査され逮捕された人の罰は、刑務所というところで、社会からの隔離、拘束するだけの方法が長く続いています。確かに、過去の政治犯なんて言うのは、拘束しておかないと反政府活動をするからと言う理由がありますが、犯罪者を長く拘束したからと言って再犯率が下がるかというとそうでもなく、国家に強制された罰としての隔離・収容にただ我慢するだけで矯正教育効果は案外低いのです。つまり、軽犯罪と言われる犯罪から、重犯罪まで犯罪者の刑罰が、基本拘束・隔離収容すると言う罰の方法だけで、犯罪者から社会防衛が出来るとは思えないのです。しかも、犯罪者の人権保障と言われ、体罰や強制的対応も減少しています。確かに、拘束しているのですから、犯罪を犯すことは出来ませんが、国が拘束隔離すると言うことのために、犯罪者の生活と安全の保障に実は多大な額の税金負担が行われているのです。極論で言えば、壁の中では生活を保障し被害者からの報復や災害からの安全や医療まで保障するというまるで壁の中で飼育しているような状態で、その単価経費は生活保護費より多いのです。さらに、刑務所内で働いた場合は単価は低いとは言え報奨金もあり自費0で貯金も出来る仕組みになっています。建て前としての矯正・更生教育も行っていますが、犯罪者の多くが自己の欲望の実現を社会ルールに反してでも可能にしようと被害者が出ても実行した人達で、基本的な人間関係の考え方に問題がある場合が多いのに、欲望の誘惑の無い特定の人間としか接しないのですから訓練にも教育にもなりません。自由を拘束して、更生教育と言っても、欲望誘惑の刺激の少ない拘束された中で、何十年生活しても、社会の多刺激の中に戻れば、再犯と言う事になる可能性は高いのです。犯罪者を隔離・収容するために、刑務官の人件費だけで無く、受刑者の生活費、刑務所の維持・設備費、裁判官や検察官、弁護士の費用も刑務所に何年拘束するというだけのことのために多大なお金を掛けています。それは、刑務所で隔離収容期間を決めるという罰のためだけの裁判でもあるからです。もし、罰の方法が変われば、裁判も大きく変わります。死刑反対という意見もありますが、死刑では無く終身刑だとしても、一生刑務所で飼育することもは生殺しみたいなものだと思うのです。

 現代では、過去の時代以上に、個人の欲望を満たす範囲が広がっています。薬物を含めた精神に異常のある犯罪も増えています。一般市民に対しての不安や恐怖、害なす存在に対しての、犯罪の抑止効果として刑務所という罰があるのですが、この処置は、犯罪を犯した場合であって犯罪を犯していなければ、一般市民が不安だと思っても拘束は出来ません。実際暴力団も存在しますし、捕まっていない振り込め詐欺師達も沢山います。つまり、被害があっても犯罪として立件されなければ拘束されませんし、罰としての刑務所の自由と時間の拘束が苦痛ではない人に対しては抑止効果は一段と低下しているのです。実際刑務所の中では、働かせているとは言え7時間労働程度です。何故なら刑務官が8時間労働ですから、仕事場への往復引率の時間や食事の時間の監視など組み合わせれば、交代勤務でもその程度がやっとで、刑務官を増やすか超勤でもさせなければ、社会と同じにはならないのです。それだけでは無く、武器や凶器になる様な仕事は厳禁ですから、刑務所の仕事は意外と限定されています。過去には、北海道の鉄道建設など屋外での過酷な労働もありましたが、今では殆どが室内です。労働時間は少ない職種も少ない、しかも職場で一番大事な対人関係も限られている社会に、長く拘束していれば人は変わるかと言う事ですが、かなり困難だというのが私の考えです。何故なら、人間は環境適応型の能力を持っていますから、隔離拘束という生活にすぐに適応し慣れてしまいます。後は我慢しているだけですから、社会不適合要因が消滅することは本人の成長にも拠りますが容易ではありません。過去の罰は、身体的痛みや身体機能への罰でしたが人権と言う課題から、今は、隔離・拘束しか無いと言うのが現実です。外国では、マイクロチップを身体に埋め込んで社会に出し行動監視するという方法も一部では行われていますが、被害に遭った人からすれば、加害者が存在する空間は不安です。私刑が禁止されているように罰は権力が無ければ実施できないものですが、社会の防衛として犯罪の抑止効果としての罰が、隔離・拘束だけでは効果が薄れた時代に入ってきていると思うのです。罰のあり方、罰とは何かを考える時に既に来ていると思うのです。

御用学者の自覚はないの話

 政府や自治体と言っても常に専門家を抱えているわけではありませんから、専門委員とか諮問委員とかやたらと委員会を作って専門家と言われる大学の偉い先生を招いて専門家の意見ですと権威を付けて施策を実施するというのは、日本では常識です。一般的には、その学会に推薦を求めたり、行政関係者の知り合いだったりするのですが、選定の段階で恣意的に選ぶのは当然で、公平なんてことは無く、招集する側の都合のいい人が集められます。都合の悪い人や何か問題のある人や政治活動の可能性がある人は除かれますし、当然行政の趣旨に批判的な人も除かれます。しかし、この段階で、本人は御用学者なんて感覚は全くないと思うのです。むしろ行政に自身の研究が認められたということで光栄ですぐらいの感覚だと思うのです。つまり、行政を利用しようと言う学者なんてそんなにいるわけがなく、声を掛けられて嬉しいぐらいに参加したら、まんまと行政の盾代わりに使われてしまうと言う事が多いと思うのです。それは、社会問題が起きたときの、テレビに出演している学者と同じだと思うのです。テレビが盛りあがるような反応をしてくれる学者が出てきて、その発言の責任もその後の処理も無く消えていくというパターンです。違うのは、行政というのは、もっとはっきりとした目的や到達点を設定していてちゃんと事務局がそこまで手を引いて連れて行ってくれると言う事です。ですから招集された学者は御用学者だなんて少しも思わず、行政が議会や市民に専門家の意見ですと言って、自分たちの施策があたかも専門家がお勧めしているものだと言う事にすり替えるためのイベントにすぎないこととは思ってもいないのです。しかも特定の研究となるともっと狭められて、研究者が一族郎党皆同じで師匠と弟子の関係になっているなんて事もあります。最近では、東京電力福島第一原発原発震災以来、原子力ムラとまで言われたのも、多大な設備や核開発にも繋がるような研究は、東大や京大など拠点大学が一手に握っていて、原発の建設や運転に役立つ人材や科学者を育てていましたから、この大学の師匠と弟子が東電原子力発電所にも大学にも、行政の専門官にもなっているだけのことです。原子力については、全部御用学者の集団みたいな所しか日本には無かったのですから、本人達だって御用学者だなんて思ってもいないことです。しかし、この中にいれば、政府の審議会の委員になったり、他の大学でそれなりの職にも就けますし後々まで研究の設備利用も協力してもらえます。こうして、実態は知らぬ間に御用学者になっていくのです。

 御用学者が市民を苦しめた典型的な事例は水俣病にあります。水俣病発生当時、チッソが原因と研究者が証言しても、当時の政府や国策企業(チッソ昭和電工)の意に添って原因をはぐらかせ、その結果、被害と人々の苦しみや差別を拡げてしまったのは御用学者たちでした。日本化学工業協会や医学会などの業界や科学者の組織も、国や行政の味方をしました。その後も、専門家として間違っていましたとは言えないから、そこに人が苦しんでいても御用学者の列を離れたりはしませんでした。同じように、今豊洲の問題が発生したときも、飲んでも大丈夫とか、基準値を超えていても大丈夫と言うことの出来る学者は御用学者なのです。つまり、自分の研究が誰のために役立てるべきかの判断が出来ていないのです。出来ている基準が、研究者として最低基準なのか最高基準なのかも理解出来なくなって、自然界でも同じ程度にありますと簡単に言って行政の盾になるのです。水俣の時も福島の時も専門家が大丈夫と言って大きな被害が出ましたが、行政も専門家も責任は取りませんでした。石油化学だけでなく、今人間は元々自然界には無かった物質を作り出しておりその安全性なんか誰も保障できない領域に入っています。自分の研究は誰に役立てて欲しいのかという原点を忘れてしまって自分が御用学者になってしまってるかも知れないというと自覚出来ない学者が、行政に頼りにされていると自惚れていると歴史の中で批判される御用学者に名を連ねることになるのです。

進化は幻想、進化では説明できない人間の性の話

   まず、多くの生物で性が存在する理由は分かっていません。子孫を残す方法として大まかには、雄と雌という個体に性が分離している有性生殖、単純に自分が分裂などして個体を作ることを無性生殖、受精を経ずに、卵が単独で発生することもできる単為生殖などと言うものが有りますが、いずれが進化形なのかは分かっていません。それは、ある学者が、有性生殖は無性的な生殖に比べて生存に不利であると言ったときから、発情の無い人間の性が進化の結果という説明が出来なくなってしまったからです。単純に言うと、無性生殖の大人は、勝手に自分の欲しいときに自分の分身となる子どもを作り続けられます。しかし有性生殖では、異性を探し、そいつを品定めして、妊娠となりますが、生まれてくる子どもは雄雌半々で妊娠できる数は無性生殖の半分で、この雄の中で育児に参加する種はほんの一握りで受精後は役にたたないだけで無く、もしこの個体が感染症にでも罹っていたら完全に感染してこっちまで死んでしまうというリスクも持っているのです。梅毒やエイズなんてこともあります。さらに、遺伝子情報は混合するので、優秀な遺伝子が伝わるとは限りません。無性生殖ならアインシュタインアインシュタインを作れたのですが有性生殖では、天才の脳を保存するような子を作ることは出来ないのです。よく自然界で雄同士が闘って強い子孫を残すと言いますが、経験値は遺伝しませんからどんなに強い歴戦の動物でも、有性生殖では、その一部しか遺伝はしないのです。有性生殖の方が、無性的な生殖より、人間の進化の根源のように性を考えている人からすると、残念な結果となるのです。そこで、様々な学者が有性生殖の価値を導き出そうと説明するのですが、進化としての説明には至っていません。面白いのは、原生生物の中で、餌不足などの環境悪化による「共食い」から性の起源を説く考え方まで出てきます。その説で原生生物から「性」が始まったとしても、その後引き継いだ菌界、植物界、動物界の中で、生殖と完全に一体となった性を行うのは動物だけだそうです。身体の変化は、後戻りの出来ない変化で、鳥は飛ばなくなっても始祖鳥の前の姿へ変わっていくことは出来ないように、一度変化することは 元へ戻れないというのが生物の変化とも言えます。ですから、様々な動物の中にも、役に立っていなくても、やめることができなくなった身体機能や行動様式も沢山あるのです。今のところ、発情しない人間の性が、進化の結果だと説明することには無理があるのですが、人間の歴史では、どうしても発情しない人間の性が良くも悪くも文明としても大きな役割を果たし、文化から性の痕跡を抜くことは出来ないほど貢献していると思うだけに、進化したシステムだと証明したいのです。人間は進化の頂点にいるとする人達には、発情しない性も動物との違い、文化や文明の根源として進化した性として証明したいのです。確かに、文明後の歴史で性は大きな構成要因ですが、子孫を残す方法として進化したものなのかは怪しいのです。

 現代の性から考えると確かに発情する動物とはあまりにも違う感じがしますが、文明だとされる数千年前よりももっと長いマンモスがいるときから生きていた旧石器文化の人類にも適合するかと言えばもっと性は、動物に近い状態だったとしか思われません。ちなみに、雌雄別が主流な生物群は動物のみで、他の生物群では雌雄同体(同一個体が大小2種類の配偶子をつくる)や性差がない(配偶子の大きさがほとんど変わらない)が主流ですから、生物としては、性や性差がなくても困らないとも言えます。逆に何で性を分離したり性差を付ける必要があるのかと言う疑問の方が大きくなります。人間の細胞の組み合わせ・役割などや神経繊維、脳の構造などは確かに、複雑になっている事は事実です。特に脳は進化したと証明できますが、他の動物と大きく違いのない性に関しては発情が無いことが、進化とは言えません。二足歩行、言語、文明の確保など進化の頂点は人間だと証明する方法は色々ありますが、性の進化の形態は説明されていないのです。つまり、性が分離していなければ、現代社会の性問題は全て無いのです。性が何故発生したかも不明ですし、性が滅びずにつづいてきた事が進化とは説明できないことからも、性が環境に適応した進んだ子孫保存の方法と言うより、性と生殖が結びついた生物が何故か繁殖したと考える方が適切に思うのです。人間は何でも一番のように振る舞おうとし、説明しようとする魔法の言葉に「進化」を好みますが、実際は、複雑化と例外ばかりの自然の中では少数派の生き残りにすぎないのです。現代の人間の繁栄は偶然の賜物で、性や性差は進化では説明出来ない事柄で、生き残りのためには進化していない性に関しての課題を考える必要があるのです。