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知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

成年後見制度を利用すると施設に入れられるの話

    成年後見人を決めたのでもう安心だと思った人がこんなはずではなかったと後悔と苦情になりやすいのは、会ったこともない弁護士等が裁判所から指名された成年後見人ですと現れた初対面から案外始まります。成年後見人は、裁判所が指定しますから、身内にしてみれば期待しているのですが人物の当たり外れがあるだけでなく、制度と期待の誤差が大きいことにこの時になって気づくのです。なぜそんなことになるかというと、成年後見制度を推奨する法務省の広報が誤解を招くようなものだからなのです。もともと、成年後見制度は、平成12(2000)年4月1日、介護保険制度と同時にスタートしたように老人の資産管理を前提としたものですし、明治31年施行の「禁治産・準禁治産制度」の法律を廃止して改良型として制定されたという経過があるからです。禁治産などの制度は「判断能力が不十分な人の財産を管理する制度」で、そこでは、心神喪失者は「禁治産」とか、心神喪失者より症状の軽い、心神耗弱者は「準禁治産者」として、「禁治産者」には後見人、「準禁治産者」には保佐人が選任されました。ですから成年後見制度でも、「判断能力が不十分な人を保護する制度」として、知的・精神障がいや認知症等の精神的障がいが該当しますが、身体上の障がいのみで精神的障がいを有しない人は、対象外となっているのです。つまり、高齢社会、人権社会、世界的な社会福祉の推移に対応して初めから作ったものではなく、理念や考え方は、禁治産の財産管理が根底にあって、人権などというものではないのです。介護保険制度の運用が開始された時に、福祉サービスの提供方法が「措置」から「契約」へ変わるにあたり、契約を結ぶ際、本人の財産を使用する契約を結ぶとき都合がいいのが後見人制度ともなってもいたのです。ですから、現制度でも「欠格条項」と云って公務員になれないなどの条項が沢山付いているのです。若い障がい者が知らずに後見人制度を利用していると、努力しても公務員にはなれないのです。さらに、後見人になれるのは、身内だけでなく公正ということから、弁護士や行政書士社会福祉士などが成れるのですが、報酬も家庭裁判所が決めていて、障がい者の経済状態にも拠りますが、公には月額2万円から6万円程度と言われており、一人で10人以上持たなければ生計を賄うと言う事は困難です。それだけでは無く、成年後見人(法定後見人・任意後見人)等の辞任には家庭裁判所の許可が必要で、本人が病気などの正当な事由がなければ辞められないし、辞めさせられないのです。障がい者本人との人間関係に問題があろうと、申請した親族等からの解任請求があろうと、成年後見人に不正な行為や著しい不行跡などの余程の事が無い限り辞めさせられないのです。 

 ここで、大事なことは、成年後見制度は、禁治産から始まっていますから、一族・家族の資産管理と言うことが基本で、一人の人間の人権保護には始まっていないということです。にも関わらず判断能力が不十分な人の権利を擁護し、本人の意思を尊重しつつ、本人の財産管理と身上監護(=生活、療養看護に関する事務)を行う制度だなどと誤解するような事を宣伝するから、身上監護もするのだと申請者たちが思い込んでしまうことです。本当は、身上監護の事務をすると言っているだけなのです。この制度を利用しようとした人々は、財産もさることながら、障害や痴呆等になった人の生活という事が今日では大きいのです。しかし、生活介護の事など知りもしない弁護士が後見人になることにもなるのですから、揉めるのは当たり前なのです。障害の理解も無い、本人の生活歴の理解も無い人が、後見人になると本人の生活を維持するために本人の財産を使用すると言う事よりも、事務的が仕事だとして、生活の面倒は仕事では無いと、施設に入れたがるという結果になるのです。身上監護ならびに財産管理の二つが達成できる支援だと言って施設へ入居させるのです。まして、後見人の基本報酬は、被支援者の金融資産が多いほど、家族後見人よりも、専門職に就いている第三者の方が報酬が高くなる仕組みですから、施設入所させれば、、施設に金を払う事務手続きだけで数万円の報酬になると言う事になるのです。一度就任した法定後見人は悪い事でもしない限り解任されることはありませんから、本人が死ぬまで施設へ金を振り込む事務だけで収入を得られるという仕組みなのです。もし、本人が自宅で暮らしたいなどと言い出したなら、日々の生活用品の買い物のヘルパーやら支援サービスやらと細々な手続きや対応に手間と時間が掛かります。レシートの山も大変です。病院への対応も必要になります。でも、施設なら全て一括で済みます。NPO法人や一部の行政などがよりよいものとしようとしていますが、現実には、こんなはずじゃ無かったと思うような事態は増えているのです。成年後見制度が、障害を持つ人の人権と生活を守るためにあると云う誤解をしてはならないのです。

料理が食品ロスを作る話

 日本料理は素晴らしいとか、出汁が効いているとか、テレビだけでなくネットでも料理のことは日々紹介されますし絶賛されることも多数あります。手の込んだものから簡単なものまで、とにかくおいしい料理や変わった料理の料理本も、新刊本が繰り返し提供されています。ところが、その一方で、食品ロスが大量に出ていることが報道されて、コンビニなどでは、期限が切れた弁当などの廃棄が多いと取り上げられたりもしています。時間の経過が重要な食品の大量生産、大量販売の現場では、廃棄による損失以上に収益が見込めるなら、販売戦略からすれば廃棄は織り込み済みの必要経費でしかありませんから、勿体ないとは思ってもシステムとして実施するしかありません。購入する方も、多種並んでいれば選択するという満足感があるし選択するときは、新しいものとか、美味しそうなものとか、手作りだとか、調理方法にこだわったものなどに意識がいってしまいます。結果として、売れ残りをスーパーは閉店前に割引して少しでも原材料代・人件費の足しにしようと販売しますが、24時間営業では、そうもいきません。つまり、売れ残った弁当やパンなどが、廃棄される場面をテレビ等では報道して、まだ食べられるものが廃棄されていることを食品ロスとして取り上げられているのですが、私は、実際の食品の扱いを見てみると、完成品の廃棄より、調理という過程の方がはるかに廃棄が大きいということを考えるべきだと思うのです。現在の調理では、食材が人体に不具合を起こすことのある部分を廃棄するのではなく、見た目や味付け、触感ということのために廃棄させられていることの方が多くなっています。そして、それが調理だと誤解されるようになってきたし、料理ということにこだわれば拘るほど、食材からの廃棄部分は多くなっているのです。今日では、リンゴの皮を剥くのも、野菜の皮を剥くのも常識です。栄養学では皮と果肉のところに栄養があると言いますが、今どきメロンの皮がひらひらになるほど削って食べませんし、スイカの皮を漬物にしてまで食べようともしません。煮干しで出汁をとっても、出汁を取られた煮干しをおやつのように食べていた時代はずっと遠いものです。ジャガイモであれニンジンであれ、廃棄率をいかに低くするかと薄く皮が剥けることが技能だった時代は遠いことです。食材は食べきるといった空腹の時代の日本では、食材の汚れを落とすは重要でしたが皮を剥くは重要ではありませんでした。苦みや渋みなどの食べにくい部分を分離して、あく抜きとか渋抜きなどとしてでも食べていました。だから、大根や蕪に葉っぱがついていても食べられるから困らなかったし、ニンジンやキュウリが曲がっていても皮を剥かなければ困らなかったのです。しかし、懐石などと言われるような料理となると、食材の元の形をそのまま使用はしませんから、形を揃えるだけでも廃棄部分は多くなってしまうのです。ニンジンで花型を抜いた残りを微塵切りにしてハンバークやチャーハンにでも入れるかという時代ではなくなったのです。おいしい料理だけでなく、見た目も大事でそのためにたくさんの食材が廃棄させられる時代なのです。過去には廃棄食材も豚の餌にしたりしていましたが、今どきの日本ではそんな飼育方法も否定されています。健康に良い豆腐を作るための大豆、しかし豆腐にするとおからという残り物が出てきます。それが、今では産業廃棄物です。ひと手間かければ食べられるという時代ではなく、ひと手間かけて見栄え良くするために廃棄するという時代です。

 先日、ゴリラなど生物学的にヒトに近い霊長類が、主に人間の活動が原因で絶滅の脅威にさらされているという報告がありました。その原因は、狩猟や違法ペット取引、森林伐採、道路建設、採鉱、耕作といった人間の活動とされています。特に地元の方が生活費を稼ぐための農業として、豆腐の原料である大豆や、コーヒー豆を生産するために開墾されているということです。現地で消費されるのではなく、世界各地に輸出し換金するために農地にされることで、多くの森林や原野がなくなっているのです。スウェーデン大手イケア(IKEA)の家具など、世界展開されている工業製品を購入するときに、森林破壊などと考えることもありませんし、コーヒーを飲むたびに、自然を破壊し野生動物を絶滅に追い込むリスクがあるなどと考えませんが、貧しい国にとって売れるものが自然を破壊することに繋がるとわかっていても、今の生活のために必要なこととされいます。つまり、消費者向け製品と販売が、種の絶滅を助長しているとまで言われています。グルメの時代の中、食材の廃棄率は、年々高まっています。にもかかわらず、その食材が国内で生産されたものより、国外の物がますます増えているのです。折角海外から購入したのだから、全部丸ごと食べきるという意識にならなければ、見えないところの食品ロスはますます大きくなると思うのです。コンビニの弁当廃棄はわかりやすい提示かもしれませんが、一人一人の調理によって出てきている食材の廃棄率の方がはるかに大きな食品ロスだということも考えるべきだと思うのです。

組織ではなく人に未来を託せない行政の話

 或る都市の福祉行政として、福祉の活性化のために市内の様々な福祉団体の関係者を集めて、連合組織を、公的補助金までつけて半官半民のように設立しました。しかし、その組織は、行政の期待に反して障害の枠を超えた福祉のために燃え上がることもなく、参加した個々の団体はそれぞれの理念や会員の利益のためには頑張っても、連合体としての活動はお客様状態だったので、やがて、親睦会の域さえも失われ、参加者も減少してしまいました。ついには、組織を活用しているのは、補助金による身分と給与の保障を受けた職員だけだとの悪口さえも出てきました。市内に活動する福祉の団体や支援者たちの中から縦の行政では出来ない横の繋がりを構築して、福祉の柔らかい部分をケアしたいと、何人もの人がその志を実現しようと組織に飛び込んで努力したのですが、一時的に上向きになっても再びすぐに低下して、むしろ行政の職員よりも仕事の出来ない組織とまで陰口を言われてしまうことさえも発生しました。補助金は、職員の給与として消費され続け、設立した行政自体が何とかしなければならないと危機感を持つような状況とまでなってしまいました。行政職員は、福祉団体が横のつながりを堅固にすることをしなければ、障害者の経済的社会的自立のための賃金や工賃のアップを図ることは出来ないと、民間の施設を集めて新しい組織の構築を始めました。今度は、お金を出してお任せにするのではなく、市がバックアップしていると証明することで組織の活動を支えることとしました。福祉施設が販売会をしたいと言えば会場を借りるのに市が介在して信頼を持たせることで無償・格安にしたりすることや市の後援や共催という名を使用させることで市民への広報を行ったりしました。交渉時に市の職員が同行していることは、相手に対して相当の信頼に繋がり、様々なイベントや販売会が行われ売れるとなれば参加する施設も増えてきました。しかし、活動拠点どころか机一つ持たない組織で、すべてみんなの持ち寄りで行うには限界がありました。電話連絡も、メールも、世話人となる施設の間借りとなりますから正にやる気のある人が支えている時はいいのですがそんな人が抜けるともろに影響を受ける虚弱な組織体でした。

 期待通りの活動が出来なかった組織を活性化させる事と、何も持たないが活動はしている組織をコラボさせてより活性化した組織運営ができないかと考えた行政担当者は、その構想を実現に対応してくれそうな施設の長に話を持っていきました。すでに実績のあった施設長は了解しそのための準備もしました。行政担当者は、既得権的になっていた業務委託先を公募とする為に上司だけでなく、議会を含めて納得させる長い苦労を経て福祉の為とできるだけのことはしました。ところが、蓋を開けてみるとなんと、新しい組織には組織としてちっとも協力してくれない大きな法人が受諾したのです。この法人の職員は新しい組織に積極的に関わり実績もあったのですが、組織からは支援されていませんでした。結局人事異動で協力的な職員はいなくなり、消極的な人材しか派遣してくれなかった大きく安定した組織を、小さくても頑張ろうとした施設長より、偉い人たちは選んだのです。福祉の歴史を見ても、組織より個人がより良いものを目指して牽引してきました。組織は、その功績に乗っかって安定した提供を保障してきたににすぎません。福祉はこれからも大きく変わらざるを得ません。その時も、組織ではなく、人と人材が大きく関与します。組織を変えることができるのも人材です。困難な課題があるからこそ、組織ではなく人に託さなければならないとして下から積み上げてきた企画は、行政の偉い人によって流され、長年の活性化というチャレンジのチャンスをつぶしてしまいました。

日本の空を返してもらう話

 日本の空域は、日本の「航空法」により法治されてますが、米軍機は日米安保条約地位協定などによりほぼ自由に使用できます。それは、国際連合の軍隊が優先する仕組みになっているからで、ほぼ治外法権の扱いがされています。そんなことはない日本の管制の下にあるという人がいるかもしれませんが、軍隊というのは、移動そのものが軍事機密と言われてしまえば何も言えないのが実態で、軍事上必要だ、軍事訓練だと言われれば日本の管制など口を出すどころかその輪の中にも入れてもらえないのが現実です。たとえば米軍のヘリが墜落したからと言って日本の警察が優先的に究明することは出来ません。この状態が日常的に表面化しているのは基地周辺の地域ばかりなのでほとんどの人は無関心というよりそんなことさえも知らないというのが本当のところです。ところが、オスプレイに関する新聞記事でそれは今も日本全国同じだということが明かされました。オスプレイは、配備される基地周辺で訓練するだけでなく、日本全国に優先的に訓練できる空域が何本も設定されているということだったのです。しかも、低空飛行訓練や夜間訓練を、日本の防衛省に伝える程度でどんなふうに何機飛ぶかなんて云うことも計画を話すことも必要ないのです。時々報道で、横田空域があってと言われますが、この横田空域は在日米空軍横田基地が進入管制を行っています。空に関しては、管制区域 航空交通管制区 とかいろいろあるのですが、自衛隊や米軍が管轄する空域があって、自衛隊の管轄空港(松島、浜松等)や米軍との共用飛行場(千歳、札幌、三沢、百里、小松、美保、徳島等)、 米軍の管轄飛行場及びその周辺の空域(横田、岩国等)等々についても、制度上は、在日米軍に許可をとれば飛行は可能とされています。しかし、商業航空会社が一便ごとに許可をとるのは難しいため、臨時でない限りは費用が掛かっても、大半は横田空域を避けるルートを取っています。六本木にある在日米軍ヘリポートでは、毎日何回も離着陸するので、低空飛行も騒音も繰り返されています。こんなことは、基地がある全国の都市町村はいくらでもあることで、軍の基地利用が米軍から自衛隊に代わっても続いていくことです。なぜなら軍事行動というものは、日常の訓練量がものをいう世界だからです。特に空軍は、どれほど航空機に乗る機会があったかで戦闘員の実力差が大きくなります。ジェット燃料は非常に高価ですがケチっていたのでは実力は上がりません。さらに、機体の機能ぎりぎりまで使い込む訓練をしますから、戦闘機の維持管理費はむちゃくちゃ高いのです。保有して飾っておいただけでも費用が高いのに、訓練で飛ばせば飛ばすほど費用が嵩む様になっています。戦闘機を乗りこなすことはお金を積み上げることでもあるのです。

 トランプ氏になる前までは、自主防衛だなどと言っていた政治家が、同盟が大事だと大騒ぎしているのを見て、費用負担を求められたら、日本の空を返してもらういい機会だとなぜ思わないのか不思議です。膨大な費用が掛かって迷惑だと言われたなら、黙って自分で考えますとなぜ言わないのか不思議です。防衛の専門家という人たちは、中国・ロシア・北朝鮮の脅威をあれこれ挙げて現状維持が一番いいというのですが、隣人との付き合いは、自分が考えるべきもので、喧嘩に強い友達がいるから大丈夫だというだけではないと思うのです。アメリカの世界戦略の一部に日本があることと、日本の空は日本が管理していることは別だと思うのです。戦後の労働運動が、学生が、あんなに頑張っても出来なかったことが、トランプ大統領という変わった人が金を払わなければ、面倒見ないというなら、太平洋戦争で負けたことで続く見えない占領政策を終わらせるのも選択肢の一つだと思うのです。政治家なら、トランプ氏の一挙手一投足に慌てることなく、大人としての考えを述べてもらいたいと思うのです。 

 

 

人の話は聞かない弁護士の話

 テクニカルタームという言葉は、特定の職業に従事する人や、ある特定の学問の分野、業界等の間でのみ使用される専門用語のことを云うのですが、私が出合った弁護士が語る話はそんなものばかりでした。例えば、「不法な行為」と「不法行為」とは意味が違うというのです。不法な行為と云うのは、「法規に違反する行為」の意味で、「不法行為」は民法709条の要件を満たす場合で、何らかの法律上の制裁が課せられる行為だというのです。具体的には、ティッシュ1枚を盗む行為は、盗むという不法な行為ですが、窃盗罪として処罰しなければならない社会的相当性に当たらないので「不法行為」には当たらないということのようです。犯罪として処罰に該当するだけの「構成要件」が満たされていなければ、犯罪行為でも犯罪にはならないということです。弁護士は仕事として法律に照らして不法行為に当たらないと弁護することが多いのでしょうが、その習性のまま、社会参加されると周りはとても困っているということが起きます。弁護士というだけで社会的地位がありますから、日本の風潮として肩書の偉い人を並べたい様々な法人の理事や諮問会議の委員などに選出されたり依頼されたりすることも多いようですが、現場を全く把握もせずに引き受ける人も実際にいるのです。私の経験では、社会福祉法人の理事や福祉関係の諮問会議などにも必ずと言っていいほど弁護士という肩書の方が並んでいることがあります。そして、その発言は自信たっぷりで、押しつけ的なのですが、現場を何も知らないんだなということが度々ありましたし、反論でもすると、ムキになって長々と語ることが多く、誰もが触らぬ神にたたりなしで対応していました。

 大変難しい司法試験と言うぐらいですから、弁護士は頭のいい人だと誰もが思っていますが、私の経験では、以外と自己主張が強くて人の意見を聞かない人で、口論で負けることが大嫌いで、専門家のための専門家の世界みたいな論議をする人達と言えます。そして、なんでも知っているように誰もが接するからなのか、それこそ知ったかぶりの話をテクニカルタームの習性丸出しで語るのです。こんな事は、一般の人には関係ない言葉遊びの世界だと思う様な事を本人は、得意満面で教師のように語るのです。ですから、こんな話になるのです。借金をして返さないのは民法上「違法」ですが、返すと言っていればこれは犯罪ではありませんし、賭博は犯罪ですが、パチンコは、「ただちに違法とはいえない」と言います。現場は今解決しなければならない事に苦労しているのに、その現場の雲の上の会議ではこんな習性の人たちが専門家として言いたい放題なんてことが起きていたりしました。考えてみれば、独立して事務所を持っている弁護士は、依頼があって仕事となりますから、資格はあっても依頼がなければ収入には繋がらず、顧問弁護士など一定の収入が確保されなければ、誰でもが訴訟なんて簡単に起こしませんから案外不安定な職業の一つとも言えます。それに広告活動もしにくいでしょうから、名を売る場として法人の理事や諮問会議の委員は都合がいいのかもしれませんが、現場の介護なんてしたくもないと思っている弁護士の自己主張に困ったことがありました。訴訟では、人権派という弁護士が体罰職員を弁護しているなんてこともありましたし、障がい者施設が建つといっただけで、地価が下がると苦情を言ってくる弁護士もいると聞きます。私があった弁護士が特別なのかしれませんが、テクニカルタームの様な話では、現場は理解できないと思うのです。弁護士との相談が時給何万円なんてことで仕事していると人の話をじっくり聞く習慣さえなくなるのかもしれませんが、地に足の着いた話ができるようになってから社会的ポジションに名を連ねてもいいのではないかと思うのです。日本の風土として、肩書があれば仕事に困らないということもあるのでしょうが、肩書で信頼や尊敬を得られるとは限らないということも現実だとも思うのです。肩書のない人間がこんなことを言えば、遠吠えのように聞こえますが、自画自賛の肩書からもの言うのではなく、相手が贈りたい肩書を自覚したならテクニカルタームではない物言いもできるようになると思うのです。

地域活性化は金儲けだけの話

    地域活性化とか地方創生などということの中身を見てみると、地域の価値を高めるとか、それぞれの特徴を活かした自律的な社会を創生するなどといっていますが、その中身をよくよく見てみると、結局、地域へのお金の流入を増加させることで、人口を増やしたい、若い人に働く場を作りたいということばかりです。だから観光を含めて、「まちおこし」などの言葉の裏には、金儲けさえできれば地域は幸せになれるし元気になれるということに結びついています。それは過去の企業誘致ということでも同じでした。働くところが地元にあったなら人は出ていかず、活気ある住みよい街になるはずとあの手この手で誘致合戦とまで言われたことをしましたが、結果は散々でした。その失敗から学んだことが、外から連れてくるのではなく、地域にあるものを活用するという「地場産業の振興」ということですが、どこも一時期良くても長続きしているところは少なく、衰退する地域の方がはるかに多く見られます。一度住み始めたなら、その土地にどれだけの資産があるのかわかりませんが、しがみついて人が住み続けなければならないものなのでしょうか。人間と野生動物のことでは、人間が野生動物の住む地域へ侵入していくことが問題だと言いながら、一度人間が住んだところは絶対に人間の住むところだと縄張り死守みたいな考え方は、どうなのでしょう。人が住むことが必要なくなった土地は、自然に返すことも考える時代が来ているのではないかと思うのです。

 人間活動は、人間の数と構成が重要です。つまり、人口が多いほど経済活動は活発になり人口構成に偏りがないほど社会活動は活発になります。そのため、人口の流出や高齢者だけの地域は、経済活動も社会活動も低下し、さらなる低下を招くとされ、やがては消滅するという危機感を煽ってもいます。その土地には、資産価値があり、建物にも所有者がいるとしたら、地域が衰退することはそれは損失以外の何物でもありません。でも、その所有権は人間同士の中でのものであって自然との関係での権利ではありません。所有者の生活を支えるものであっても自然からするなら、貸しているようなものです。過去には、その地に生きるために移り住んだのでしょうが、その地では生きることが出来なくなっているから出ていくことになっているのに、金儲けさえできれば、一山当てさえすれば住み続けられると、もがいていることが地域活性化の実態に思えるのです。自給自足 地産地消の生活は、常に右肩上がりを求める経済活動という物流の中に飲み込まれて、外からのものを金で買わなければ生活できない環境に田舎の隅々までもたらしました。ライフラインという電気だって、水道だってみんな金がなければ供給してもらえません。もう、昔の生活には戻れないのですから、今の生活を享受出来るところへ行くしかないのです。過去には、にぎゃかだったのはそのことに適していたからだけで、今はもう適していないのです。そして、地域が活性化したように思える現象が起きても、上納金が入るのは都市で、少しずつ都市に吸収されていることは変わらないのです。金山を見つけよう、一山当てようと「地域活性化」と叫ぶことよりも、役割を終えたなら、大地に返すことで 静かに幕を下ろすことも大切な時代になりつつあると思うのです。

 

 

慰安婦像と偶像崇拝の話

 キリスト教イスラム教も偶像崇拝を否定しています。仏教もはじめから仏像があったわけではありませんが、伝搬する過程で国家との結びつきもあって、偉大さの強調として建築物と共に仏像も信仰の対象として発展しました。日本でのもともとの祖先崇拝は、自然が対象で、山だったり海だったり岩だったりと元々あるものですから作る必要はありませんでしたし、形も千差万別で形にするということ自体の発想はありませんでした。ところが仏教が入ってきて、伽藍などと格好つけたので、ご神体の前にお参りする本殿などを作っていますが、言霊というように魂が宿っていることが大事であるというのが日本の信仰にはあります。ですから、葉っぱ一枚でも魂が入っていれば信仰の対象であり、壮大な仏像でも魂が抜かれていればただの物体となるのです。そうでなければ恐れ多い仏像の掃除などできません。

 日本の偶像崇拝の基本は、魂の宿るものは、畏怖して丁重に扱いお祀りするということになります。韓国作者が慰安婦像だと言っている慰安婦像が今は世界に40体ぐらい配置されていると言われていますが、偶像崇拝の習慣のない国では単なるモニュメント的に思われてその作品の出来栄えが評価の対象となる程度の感覚だと思うのです。しかし、日本的発想での偶像崇拝の習慣からすると、あの像を見て、慰安婦の像とも呼べず少女の像と言っているのですが、少女の像ならどこに誰が設置しても逆にいいではないかとなってしまうと思うのです。慰安婦の像だと作者が言っても、日本的偶像崇拝の感覚からすると御霊を慰め慰霊したいと思いますから、戦いの前線に設置するなどということはありません。しかし、韓国では、あの像を嫌な奴の前に置くことが抗議であり戦いであり効果があると信じているようです。私は、日本的感覚で偶像崇拝のことを考えるなら、撤去する事より、花をたむけ慰霊することが日本的ではないかと思うのです。実際、政治とは別に戦争の中で性的犠牲になった人は大勢いるのですから、慰霊することは必要です。しかも、作者が韓国の人で、韓国の人がそこに設置したのなら、政治とは引き離れた偶像に関する日本の感覚で一礼することは大事だと思うのです。なぜなら、日本的感覚では、魂のこもったものを戦いの道具にすることは、冒涜で、守護することが美徳だからです。