知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

ボランティアは人の不幸の上にある話

 福祉関係者の調査で、最近5年間で何らかのボランティア活動に参加したことのある人の割合は、約3人に1人、 今後のボランティア活動への参加に興味・関心がある人は8割以上に上るという好意的な報告があります。さらに、見知らぬ人や友人・知人が困っているときに、手助けをしたいと思っている人は8~9割に上るとこの報告を信ずるなら、「お互いさま精神」「助け合いの習慣」が日本ではまだまだ健在と言えそうです。しかし、同じ報告の中で実際に行うとなると、今度は、「日常生活の中で無理なくできる」、「人間づきあいが煩わしくない」、「特別の知識・技能がいらない」、「個人で気軽に参加できる」など気軽さ・手軽さが求められて内容によって実行には二の足が増えています。また、ボランティアの目的では、相手からの感謝の言葉や評価を求め、ああ、人の役に立っているなと感じるボランティア活動を求めていることも報告されています。ですから反転すると、PTA、自治会の役員、子供会の役員などが敬遠される理由ともなります。ボランティアと言う意味では同じ無償での地域活動であっても、子供や地域の関係のある活動のように文句や苦情や押し付けられ感もなく、感謝の言葉をいただけるボランティアならやってもいいかなと思っているということです。実際、災害などのボランティアは大変ですが遣り甲斐も感謝も申し分ありません。しかし、日常の中のボランティアは、「おたがいさま」と言いながらも、受ける方は、人の世話になる、人手を借りると言うことで卑屈であったり、対応が煩わしいと感じる場合もあります。時には、他人の家庭に深くかかわってしまいそうな状況も発生するようなボランティアはどんどん衰退しています。その為、スタンプ制度だとか、ボランティアバンクなどと言うアイデアも出ていますが、ボランティアと言うイメージが徐々に変わろうとしています。過去の福祉施設や福祉関係では、ボランティアが行政を含めて叫ばれ、そんな盛んな頃は、せめて飯ぐらいとか交通費だけでもということに始まる、有償・無償論議がありましたが今では、それも聞かれなくなりました。つまり、福祉関係者が、何がボランティアかと論議している間にボランティアがいなくなったということです。盛んに論議されていた時の、実際のボランティアの内容と言えば、不足する職員のお手伝いが主流で、日本風に適切な言い方をするなら、労働奉仕の枠を出ることはありませんでした。日本では、過去から労働奉仕と言う地域活動が存在して、そのイメージを避けて名前を変えただけのボランティアは、なーんだ労働奉仕じゃないかとバレて継続的な意識を培うことは出来なかったのです。地域の共同体が共同体を維持管理していく基本は、無償の労働奉仕で、道普請に始まって祭りまで行政として賄えないことを支えてきた仕組みでもあります。行政は、国際福祉年などを含めて、福祉が脚光を浴びた時、膨大にかかる福祉の経費を賄う一助としてボランティアを推奨したのですが、行政が現業を民間業者に下請けさせる中で、単純労働奉仕は、一部にしか行われなくなりました。ですから、金が無いときに都合よく旗振りをしたボランティアと言う活動を利用する段階は過ぎたので行政はボランティアを言わなくなってきました。つまり、行政的な労働奉仕のボラは実質根づかなかったと言えます。その理由として、介護保険や福祉事業への民間企業の参入などの社会的事情もありますが、災害でのボランティアを除くと日常的なボランティアは実質低下しているのです。中には、有難迷惑な行為や押し付けや評価を求める行為があったりして、迷惑ボラなどと言われることも出てきました。そこには、ボランティアが出来たことを感謝するのではなく、感謝されるために行うボランティアが求められる時代がずっと続いていたと言えます。

 本来、日本風の「お互いさま精神」「助け合いの習慣」は、基本は宗教的教えの中にあると思うのです。つまり、宗教的な、善を積むという人間関係では、基本人間の評価ではなく、神や仏が見ていてくれれば結構なこととして、心の問題であったり、道徳心などから始まるものです。それは、どんなに自分に余裕があっても、不幸な人がいないと善は積めませんし、困っている人がいないと親切は出来ないのですから、自分がそんな人助けができることは、その機会に恵まれたことなのだということにまず感謝しなければならないということから始まっていると考えられるのです。労働奉仕と言う考えに立てば、交通費ぐらい貰ったって、弁当ぐらい出してくれてもとなりますが、どんなに希望しても、手助けを求めている人がいなければ何も出来ないという考え方に立てば、自分のやりたかったことを提供してくれた人に対して感謝こそすれ、お礼の言葉などもらうことは恐れ多いことになるのです。だから不幸な人がいなければ、ボランティアは成り立たないのです。災害で苦しむ人がいなければ、スコップを持っていても使うことは出来ないのです。同情論であったとしても、同情する対象者が存在しなければ、空論なのです。ボランティアと言う言葉を散々いじくりまわした学者も今は多くが口を閉ざしていますが、結局、感謝を求める、人のためになっているなどと言う自己満足の様な事ばかりのボランティア観を残しただけに思うのです。人の不幸があるから、自分が出来ることがあることに感謝し、たとえ言葉であっても報酬を求めない関係がボランティアの源流だと思うのです。

不幸の手紙が昔あったという話

 人は不幸という言葉を嫌います。幸福はどうですか。言葉には、イメージがあって、人は好む言葉と嫌う言葉を持っています。言われたくない言葉と、言われたい言葉があります。日本の言霊という感覚は特別です。言葉には魂が宿ると考えています。だから、悪い言葉を使うと悪いことが起きると思い込みます。忌み嫌われる「不幸」という言葉ですが、口には出さない本音だと思うのです。そしてそれは、個人の心の真の言葉で周りが推測することも押し付けることも出来ない領域ですが、もっと声に出して考えるべき言葉だと思うのです。

 例えば、障害の親が、障害を持った子供を育てることに幸福を感じたとしても、障害を持っている子本人は、幸福ではないと思うのです。家族の、生きていて欲しいという願いは、重篤な障害や疾病を持つ本人にとっては、不幸の連続への願いになりかねないと思うのです。7歳で亡くなった染色体異常の子の親の幸せは、子の成長する姿であり、何としてもこの笑顔を守ろうと頑張ることができたといいます。幸せだったといいます。しかし本人は、4歳の時に、胃にチューブで栄養を注ぐ「胃ろう」の造設手術をうけ、胆のう炎や尿路感染症になって入院し、7歳頃から心臓の働きが低下し、むくみと脱水をくり返し、腎不全を引き起こし、原因不明の吐血をするという壮絶な闘病生活をするのです。

 医師たちは、治療と生活全体や家族丸ごとを視野に入れるような見方をして、家族に勇気を与え、子の底力を引き出してくれたように感じると母親は言います。

 しかし、障害の親が幸せだったといっても、本人は、痛みと苦しみに理由もわからず他の生き方も知ることなくただただ医療と言う名の元に体に薬物だけでなく注射やら管やらを突き刺され生かされ続けたとしたなら、不幸な人生だったのではないかと思うのです。

もし、健常ならあれも出来たこれも出来たと思うのです。他人以上に欲しい物はなくても、他者が何もしなくても得ている最低の健康や身体について、公平であるべきだと平等であるべきだと思うと思うのです。誰もが、与えられるべきものが与えられないことは、不公平で不平等で、不幸なことだと思うのです。知的障害が無ければ、絶対にこんな扱いを受けないような状況にあるとき、魂は不幸を感じていると私は思うのです。  

 欲を満たすことが幸福とは言えませんが、煩悩と言った欲が無くなることも幸福とは言えないと思うのです。宗教でも、欲があるから悩みが出てくる、だから欲を制限することが必要だとは言いますが、欲が無くなることが幸福とは言っていません。極楽浄土には、悩みは無いと言っていますが、幸せになれるとは言ってはいません。なぜなら幸せは一人一人違いすぎるからです。キリスト教では自殺は厳禁されていますが、神の元が幸せならば、簡単に幸せになりたいのなら方法は自殺になってしまいます。つまり、小さな幸せも大きな不幸も、小さな不幸も大きな幸せも、現生で生きる人間の思いでしかないのですが、それは全て本人だけが感じるもので、周りが期待するものではないと思うのです。

 重篤な障害の中で痛めつけられている本人が表現できない不幸を、周りはもっと気付いてもいいのではないかと思うのです。先の例でも、親はやりつくした満足感は残るだろうし、周りからもよくやったと評価されるのだろう。障害の子どもを持つ親が、この子は私の太陽だと言って出版したり、公言したりしていることに何度も出会ってきました。時には、不幸にして障害になったと表現したら、一斉に非難されたときもあります。では、障がい者は、なぜ保障されるのかという問いをすると、人間の権利とか、人間らしい生活とかいろいろ言いますが、障害があっても公的支援を受けることなく普通の生活をしている人もいます。その人たちに幸せか不幸かを聞いたことはありませんが、推測では無駄な質問と言われると思うのです。何故なら、幸せか、不幸かは、全く個人の問題で、生活の中には幸せな時も、不幸だと感じる時も混在して平均化も、総量化も、比較も出来ないことだからと思うからです。

 だから公的支援は、障害や生活の中で不幸と感じる人に幸せになってもらうために使用するものだと思うのです。たとえが、障害や疾病で、人が振り向くような顔だったりして不幸だというなら、幸せを感じてもらえるまで整形美容の費用を支援すべきだと思うのです。中途障がいは、沢山の不幸を感じますが、幸福になる人もまた沢山います。人は、不幸を感じるから幸せになりたいと願い、祈り、努力するのだと思うのです。重い障害があっても生き生きと暮らしている人の方が多いかもしれません。でもそれは障害を受容しているのであって、幸福になったのではないと思うのです。不幸という言葉を封印して様々な言い方をするのが日本風ですが、自分の中の不幸を追い出し幸せになるには、自分の不幸を表現して、幸せ追求権を行使すべきだと思うのです。障害を持つ人は、周りの人のためではなく、自分自身が幸せになるなる為に、支援が必要だと思うのです。

 

年寄りの往生際の悪さが意識を変えるの話

 決定的証拠はないけれど、状況証拠は沢山あって誰もが灰色と言うより真っ黒だと思える状態でも、本人たちは絶対に認めないという年寄りの往生際の悪さが目立っています。真実が分かったからそれが必ずしも規則に抵触するということではなくても否定し続けます。倫理規定や道徳観で言えばアウトでも法に触れるという証拠がない限りは嘘をついてでも否定し続けます。言い訳は言いません。なぜなら、言い訳を言うとそこから、誰かがありもしない糸を手繰り寄せるかもしれないと危惧しているからです。過去に言う「沈黙は金」の如く話さないは今日重要なのです。上位の椅子に座ったなら一度でも立ち上がると、横取りされてしまうという恐怖の方が勝って、椅子にうずくまって濁流が去っていくことを待っている無責任な年寄りが闊歩する時代なのです。

 その原因を作った一つは現代のテレビ放送にあると思います。一般にキー放送局と言われる放送局でも5局以上あるのに、一つのテーマを延々と同時間に放送し続けるということが頻繁に今日では起きています。お互いに、独自性を語るのでしようが、同一テーマで数局を比較検討して評価して選局している視聴者は限定されますから、一般にはどこを見ても同じと独自性なんかには理解してくれません。放送は、一つの話題で一斉に始まり一斉に引いていくのです。あの事件は、その後どうなったなんて思ってもテレビで知ることは出来ません。一時的なお祭りの様な盛り上がりなら今日のテレビに期待できますが、継続的な経過や終結の話題は見られないのです。ですから、当事者は、大騒ぎになっても、じっと何もしないで逃げ隠れして、絶対に認めないということをしているうちに、テレビの方が勝手に消えていくのです。どんなに真っ黒と言われても、ただじっと待っていた方が確実に、地位もポジションも守り切れるのです。また、テレビのコメンテーターがショーになるように無責任なことを言い続けるということもあります。ショー仕立ての編集と話題を優先するテレビは、現代マスコミの早変わりの代表で、どんな悪人でもテレビに話題を長期間にわたって提供し続けることは困難なぐらいです。そして、口々に真実をと言いながら司会者も出演者もその情報量は本当に上辺だけでしかないのです。即時性よりも、掘り下げた報道を行おうという姿勢がありませんから、真っ黒な人でも自分が真実を喋らない限り、バレやしないという自信さえ持ってしまうような環境なのです。それに、真実を状況証拠から導き出そうということには危険がともない、冤罪を生む可能性も否定できません。

 こんな状況に昔はこんなじゃなかったという人がいるかもしれませんが、今や地位ある人の背景が大きく変わったことを知れば納得のいくことです。古来の日本では、往生際の美学があって周りに突きつけられて引退するのは恥とされ、出処進退は本人が、周りの状況を察して決めるという暗黙の了解がありました。その背景には、家父長制を含めた、家制度、氏族制度があったからです。その中では、個人ではなくその組織のために身を引くということが日本の礼法だったからです。そこには、個人ではない、家、氏の代表としての自分がいて、自己の保身ではなく、家や組織の継続のために自分が存在し、よりよい状態で次の人に渡すために、往生際が規範としてあったのです。守るべきものを自分が傷つけてはならないということが、続いていくための大事な方法であり、集団の代表としての統治意識でもあったのです。つまり、個の継続ではなく、集団の継続としての礼法があったのです。ところが今日の地位は一代限りで、「氏」と言われるような繋がりでのし上がったのではないのです。すると、一代限りの地位ですから、しがみ付くことが出来るなら少しでも長くと考えることは普通の成り行きなのです。昇り詰め過程わ見ても、一度も一族の支援など受けず、自己の努力でここまで権力を確保してきたのですから、誰に何と言われようと手放したくはないと思っても不思議ではないのです。

 つまり、礼を重んじた日本の礼法は基本が崩れてきているという事です。一代限りの立身出世に関して、けじめを付けさせるシステムも作法も日本にはないのです。その為、年寄りの往生際の悪さが最近になってやたらと出てきているのです。しかし、日本の意識の底辺に残存していた家族制度の根幹は、こうした地位ある年寄りの無礼によって瓦解しているのです。日本文化を誇り自慢していた地位を持った年寄りの往生際の悪さによって、その根本礼法は否定され、意識の変革が今進んでいるといえるのです。

 

スポーツ利権がある限り選手は道具にすぎないの話

 あるスポーツの指導者の話に、過去のこととして『子どもたちに勝たせたい』ではなく、『俺が勝ちたい』でした。自分が認められたくて、目の前の結果にこだわっていました。と言う告白があります。実際のプレーをしていない応援団だって初めは「勝たせたい」と応援していても、「勝ちたい」に感情移入するから勝敗に拘り時には行き過ぎを起こします。この度の日大アメフト部の問題もそんなことの表れで、私からするとそれ見たことかのスポーツの話しとしか言えません。結局、スポーツに関わる大人は、勝つことで、良い指導者という肩書を貰い、「勝利の喜びを与えられる」ことで、良い指導として尊重されるだけでなく、監督、コーチなどとして生活の保障にも繋がっていきます。どんなに良い指導者であっても、勝利しなければ立身出世どころか、評価もされないのです。

確かに若者を含めて競技者は、一生懸命かもしれませんが、裏方をしているはずの大人たちは、スポーツに対して純粋でも、懸命でもないのです。マスコミを含めて舞台の派手さは強調しますが、舞台裏でスポーツを金もうけの一つとしていることはマスコミも変わらないのです。日本では、スポーツは、企業や大学の広報の一つに組み込まれています。その理由は、スポーツは金が掛かるからです。野原があれば出来るものではなく、着衣から道具そして、練習場まで、金銭が掛かるのです。選手は手弁当で道具まで自費で行っていたとしても、練習する会場は、学校以外なら、公的な体育施設、企業の施設などどこかに所属していなければ確保できないだけでなく、既得権のように公的な施設などは団体登録組織が確保していて一コマも渡す気などないのです。そんな、利権や既得権の温存と継続を図っているのが大人なのです。ですから、現状ではスポーツは、どこかに所属しなければ練習も出来ないし、所属先はスポーツを維持するためにの営業の一手段の地位しか与えていないのです。どんなに、美辞麗句を並べても、現在の日本のスポーツは、根底に営業があり、金集めが出来なければ維持していけない都合があるのです。そのしわ寄せが、学生を道具のごとく手先にして悪事を働いてでも勝たねばならないということに繋がっていくのです。そして、こんな大人に限って、選手の前では、サムライを語り、何かあれば俺が責任を取るからと言い続け何かあったら責任なんか絶対に取らずに逃げまわりほとぼりが冷めるのを待つ大人なのです。そんな大人は、嘘も、つきます。

現代のスポーツは、世代交代が早く、選手寿命は短いと言えます。そして、情報社会の今日、どんな指導方法もみんながやっていて、残るは才能ある人材の確保に尽きるのです。人材確保には、勝ったという実績か、勝てる監督がいるということが、今や必須条件となってしまうのです。勝てない指導者の下には人も集まらないだけでなく、同じ世代の中にいるごく少数の才能ある選手を獲得できるはずもありません。勝てなければ、監督として認められないし、その上層組織上層部にひいきされる様にならないと、選手を終えるときには、競技を終えることになります。スポーツは、教育的だという評価を、利益を得ている大人が、大々的に宣伝していますから、誰もが教育的とぼんやり思い浮かべますが、決して学校の体育の延長線上にスポーツはないのです。プロスポーツは現代の賞金稼ぎで、賞金を出すスポンサーなしには成り立たない状況ですし、スボーンサーが付かなければ会場の確保も大会の運営も出来ない状態なのです。その確たる証拠として、オリンピックでさえ競技のベストチャンスに行うのではなく、テレビ放映の時間に合わせていることでもわかりますし、金がもうかる方へルールまでもがはいつも変わっているのが日常です。見世物スポーツは、勝つためにドーピングを含めた、ずるも醸成して健康を害する選手もいます。これは、現代スポーツビジネスが利権とお金のために、人間の欲や快楽を満たす要素を巧みに取り込んでいるからです。利権が発生する要素をたくさん持っている現代スポーツビジネスは、戦っている選手の後ろで、大人たちがごそごそとうごめいて、名声と金がそこにあると大々的にアピールするのです。国技とも言われる相撲で“土俵の鬼”といわれた名横綱・初代若乃花は「土俵の下には銭が埋まっている」という名言を残しましたが、土俵の下に銭を埋めているのが大人であることも知るべきです。選手は最高に努力しているのですから本当は強いチームなんてぞろぞろいるのでしようが、勝敗を決めなければ現代ビジネスススポーツは成り立ちませんから、大人たちはそこまで介入し、プロジュースしているのが現状です。大人のために、選手を競わせ、壊れたら次、日大の問題は、スポーツビジネスの実態が見えただけだと思うのです。

虐待の加害者は被害者意識に溢れているの話

虐待の父母が、罪悪を告白し悔い改めることなど想定しない方がいいの話

 虐待する人には、それなりの理由があります。社会からは非道、人間じゃないと言われようと本人にはその感覚を失わせるほどの理由があるのです。東京都目黒区の船戸結愛(ゆあ)ちゃん(5)が虐待を受けて死亡したとされる事件でも、子どもの書き残した親への謝罪の言葉のメモが繰り返し読まれることによって、聞くものからは親への非難と罰は当然だと誰もが思い、刑務所で反省すべきと考えています。そして、逮捕された父母は今になってとんでもないことをしてしまったと後悔と懺悔に打ちのめされていると思い込んでいます。しかし、そんなことはありません。

 私の想像では、父母の思いは、「あの子さえいなければこんなことにはならなかった」です。母親は、あの子を産んだことが間違いだった程度ですし、父親は、あいつのために俺の人生は台無しになった程度だと思います。なぜなら、子供はいつでもかわいい存在ではないからです。時にはにくったらしい時もあるのです。そんな時は、親として怒り、体罰を含めて支配者として対応します。障害がある子はこの時この支配関係を学ぶことが出来ませんが、能力と環境によって子供はこの支配関係の中でどのような態度が自分を守ることになるかを学びます。上手な子供は親に嫌われないように適応しますし、下手なこは、にくったらしい子になってしまいます。そんなことは兄弟間でもありますし、家族の中でもある事です。しかし、今日の家族単位の密室的環境で、にくったらしいが時々起きると、親は自分の支配権が脅かされているという不安と危惧のために攻撃的になります。小さな抵抗でも憎しみとして感じてしまいます。そんな感情がある家庭の子どもを、児相が二度も施設の一時保護をしたということは、親の子どもに対する憎悪をあおったとしか言えません。一般的には、親には愛情があると信じていますが愛情は本能ではなく経験です。特に父親には、経験によって育まれるもので、父親としての機能が子供が生まれたことで発動するものではありません。その一方で、父親ですという意識だけは高くて、自分の支配権の中で指示すれば何とかなると思い、子供を小さな大人としてしか見ないので、泣き止まなければ殴るというのもこの思考の範囲です。小さな大人感覚は、言葉で言い、罰でコントロールしようとするのです。そして、そんな誤った考え方でも、他人にとやかく言われたくないと思いこむのが父親の支配権でもあるのです。

 そんな意識しか持ちえない父親や母親に対して、他人である児相が介入するということは、現代では、親失格というレッテルを張られたという意識を作り出していると言わなければなりません。反発できない児相や世間体への不満は、にくったらしいお前のせいで、こんな個ことになったと爆発的に子供に転嫁していくのです。子どもの支援にかかわる自治体職員が「子どもを長い期間見守るためには、親との信頼関係を築くのが一番大切。警察と訪問した途端、態度を硬くする親も多い」と話すとの記事もありましたが、本当に信頼関係が築ける間ずっと虐待は続いているということに着目されていません。自治体職員が帰るたびに、子供に仕向けられる「お前のせいで」と言う虐待に子供は痛みと苦しみに晒されているのです。そして、児相と信頼関係などきれいごとで、そんな関係が出来るぐらいの能力のある父母であるなら親が疾病でもない限り児相が介入する状態にはありません。なぜなら役所の人間は人事異動があればあっさり変わります。人間関係の引継ぎなど出来ません。しかも、虐待関係では、児相に従うか従わないかの関係が基本にありますから、上下関係の中で、信頼関係など出来るはずがありません。児相は、言葉、物腰は優しいかもしれませんが、育児については、結局、親に説教し、虐待行為を止めろ人間的な心を取り戻すという監視役でしかなく虐待者としてのレッテルを張られた親の憎悪をあおるのです。児相が訪ねてきただけでも、世間からは親失格なのですから、仲良くしていても疑われるでしょうし、子供の泣き声が聞こえれば通報するでしょうから大声で泣けば、泣くなと殴られることにもなります。

  そのいい例が、先日発表された、厚生労働省の資料です。この資料によると、08~15年度の8年間で心中以外の虐待で亡くなった子は408人で、その中の約4人に1人は、児相が関わったことがある子どもだったということです。つまり、児相が関与することが、小さな命を救うことには繋がっていないという統計なのです。それなのに、今だに、専門家は、児相と関係機関の連携の必要性を指摘するのです。今、児相の出来ることは、せいぜい説得と監視と親子の分離だけです。本当に必要なのは、父母の保護とプログラムなのです。近所を含めて育児失格と評価された父母の保護が出来ていないのです。子供は危険だと一時保護するのですが、親には、お前が悪いのだから自分で反省しろとして世間に晒すだけなのです。まして、父親だというだけで家庭の中で支配権を持つだろう、夫の為のプログラムはないのです。日常生活の中で子供が「にくったらしい」と感じた時の対処の仕方や子供がかわいくない、手に負えない態度の時にどう自分の感情をコントロールできるかを学習する機会はないのです。世間もマスコミも、子供が正義で、親なのだから当たり前だと総論として強制するだけで、各論はなく、子供は我儘で手に負えないときもある時の手段方法は教えてくれないのです。しつけなんて曖昧な言葉が虐待の言い訳になっているのに明確な否定もしない専門家と世間があるのです。そして、独自の方法が失敗すると、子供に対して態度が悪いといい、育児の失敗として、取り上げることしか出来ないのです。

 ですから、児相の思いとは逆に、親から子供を取り上げることで一番傷を負うのは子供なのです。多くの子どもは、自分が悪いから親が叱られたとしか解釈しないのです。。子供は適正な育児の比較は出来ません。自分の家の方法しか知りませんから、自分が虐待されているということよりも、自分の性で家族が社会から制裁を受けているということに申し訳ないという感情の方が醸成されます。つまり、被害者が自己嫌悪に陥ってしまうのです。それに反して、親はあの子のせいでという憎悪を強く意識し始めます。そのような感情を持つ双方を再び一緒にすれば、子供は親の支配下の中でもがき、お前のせいで俺が、社会から非難されたという思いのままに、虐待へと向かうのです。

 つまり、子供が死んだということで、誰もが子供を助けられなかった児相や関係者を非難し、児相を強化すれば、人数を増やしさえすればと思っていますが、私はそうは思えません。子供を保護するということが、家族を保護することでなければ、子供を虐待する環境は変わらないのです。そして、いじめであれ、虐待であれ、学習の心理学で見破れるほど簡単ではありません。児相の職員んであっても、支援者であっても、分かっていないのです。いじめも、虐待も、初めは「にくったらしい」と感ずるちょっとした感情のずれ程度から始まっていきます。そうなると、被害者の抵抗は、反逆であり攻撃に見えます。すると被害者を支配下に置くまで徹底するし、支配下に置くほどに不安感が増してきます。被害者への洗脳が続いていくなかで、加害者も麻痺していくのです。虐待と言う学習と経験によってエスカレートするのです。

 結愛ちゃんが、「もうご飯を食べられない」と死亡する数日前、食事を与えようとした母親に声を振り絞って弱々しく話していた時に、母親は、ぼんやりともう死んじゃうんだなと感じたはずです。でも、病院へ連れていこうとか、何とか食べさせなければという感情はすでに麻痺していたと思うのです。あばら骨が浮き出るほどやせた体を見ていた母親には、もう何かをしようとする意思はなくなっていたと思うのです。だけど、父親も母親も、ちゃんとご飯を食べて、風呂にも入り、時には笑っていたと思うのです。そこに死にかかっている子供がいるということではなく、存在を否定したい「子の子さえいなかったら」の思いが支配しているからです。こんな環境の、ゆあちゃんは、児相が関与しなければ将来、弟の召使いのような生活となるぐらい差別と格差の生活を強いられていたと思います。

 現代の子ども保護制度は、親子を分離するだけで、親は悪役です。親に、反省させ、立ち直る機会を与えるように見えますが、親に子どもへの憎しみ醸成し、子供を追い込んで帰る家をなくしていきます。だから、家族丸ごとの保護が制度として必要ですし、家へ帰すのなら、虐待された子供が、親の憎しみに対峙でき、支配下から抜け出た時まで待つべきだと思うのです。

 

虐待にクレーゾーンなどないの話

 県の説明会で、障がい者施設指導に当たる部署の職員が、虐待の説明をしたときに、グレーゾーンとは何かという説明になって「利用者を作業室に移動してもらおうとしたが、移動してくれないのでコーヒーで移動させるという行為」が該当すると例示しました。質問もできる状況ではなかったのですが、明らかな間違いだし、虐待を理解していないとしか思えないので機会があれば提起しようと思っていますが、まずは記録としてまず残そうと思います。

 上記のような考え方に偏るのは、「褒めて伸ばす」型の指導法が、最善と考えている方が陥りやすい、「物で釣るのは良くない」と言う考え方によるものと思われます。そして、食べ物で行動させるのは、動物の調教と同じで、人権に対しての配慮が行われていないという事が根拠だと思われます。中には、癖になるや甘やかしになる、けじめがなくなり歯止めがなくなるなどと言い出す人もいます。しかし、言葉による「褒める」も行動を促す強化因子の一つにすぎず、「褒め言葉」も「物・飲食の提供」も行動に対する「ご褒美の種類にすぎない」と言うことが理解されていません。

 つまり、自発的行動ではない、他者からの刺激で行動するのは、受動的行動と云えますから、刺激を発した人の刺激内容を刺激を受けた本人が自分にとって、利益があるか、害があるか判断し、反応することです。本人に不利益を与え可能性のある刺激としては、言語による注意や叱責、物を与えないや取り上げるから、身体への加害、拘束、そして、精神への不安や恐怖を与えるなどが上げられます。一方、本人に、利益を与える可能性のある刺激は、言語で褒めるや賞状を与える、物を与える、身体へスキンシップをしたり、精神的な安心感、満足感を与えるなどになると思われます。この様に、物であっても言語であっても、精神的なことでも、他者が本人に刺激として働きかけることで行動を促すために、罰や褒美を駆使するのは、ごく一般的な社会の方法の一つにすぎません。もっと言うと、説明している公務員は、そのポジションと待遇という利益を与えられているから働いているので、無償で働いているわけではないのと同じです。自分がご褒美としての賃金を得る為に働きながら、物を与えて人を動かすことは虐待のグレーゾーンに当たるというのは、見当違いです。つまり、障害を持つ方が、賃金や工賃も褒美として理解してくれるなら、働くことへの導入や、仕事としての行動の意味を理解していただく、第一歩となります。この様に、行動を促す働きかけの方法としてみるなら、移動行動に移行していただくために、コーヒーを提示した事が、グレーゾーンの虐待に当たると結論付けることは適切ではないと思います。

 問題となるのは、方法論として計画されたコーヒーを提示したのではなく、移動の拒否にあって職員が困ってその場しのぎに発言しまったとか、それに関わる費用が職員のおごりだったり、利用者を動かすためにウソを云ったとするなら、確かにアウトです。それは、虐待と言う事より、組織としての手続き手順や、支援の基本に反する行為で、間違いだからです。繰り返しになりますが、移動支援は、目的ではありません。目的地で様々な行為や行動をするために通過しなければならないことですから、安全に手早く行動していただければ最良で、重要なのは作業場で、自発的に、持続可能な作業を展開していただく導入につなげればいいのです。ですからこの場合のコーヒーの提示は移動支援方法論の問題であって方法そのものが虐待ではないのです。移動支援は、安全確保という観点からみると非常にリスクが高く、施設などの集団異動では、待ち時間があると他者に高いストレスを与えますし、所在不明や他者とのトラブルなど、二次的リスクの発生が高まります。ですから、移動方法は、目的地へ安全に到着すればよくその手段は多様であっても問題はないのです。逆に、この時の働きかけが、「コーヒー」ではなく「工賃が上がる」と言葉での「褒美」で釣る場合はどうですかと問いたい。職員の安易な方法の選択は、虐待に直結するという意味では正しい意見と言えますが、ただ物で釣るのはよくない程度の考えで、虐待のレッドゾーンとして提示したのなら虐待防止には役立たないといいたいのです。なぜなら、国は施設に対して、施設で働く障がい者の工賃が一向に上がってこないことに怒り、平均工賃が高い施設には、ご褒美として基本報酬を高くし、平均工賃が低い施設には罰として基本報酬を下げるという施策を始めています。こんなことをしたなら、経営のために平均工賃を下げている、障害の重い人や障害があって毎日通えない人、量をこなせない人などが排除されるだけでなく、自立できる優秀な人がいなくなって生産が低下しないように自立を妨げるような囲い込み等々の、利用者に不利益を及ぼすことが明確なことを始めました。これは、明らかに国による施設へのグレーではない虐待行為です。でも、県は国の指揮下にあって国には何も言わず、施設のできの悪い職員の支援の不備をグレーゾーンとして指摘するのです。

 大事なことは、移動時のリスクを回避し、所定の場所へ移っていただくために職員の力量がそこまで達していないならば、利用者の利益を守るために、褒美を付けることもあるという事です。褒美の考え方としては、ポイント制(トークンシステム等)などの間接的な方法を含めて事前に検討し計画されていれば問題はありません。むしろ施設のような場所では、出来る様になると出来ていることへの称賛より、出来ないことへの罰の方が横行して、結果虐待となることからするなら、合理的に褒美が提供される環境になっても、まだ、一般的生活に追いつかない程度とも云えます。移動支援に当たって職員の、心の中にある思いが、作業場で一緒に作業をしたいではなく、移動させられないと、自分が困るからだったり、自分の評価が問われないように、目の前の結果にこだわってしまったと言う意味で、コーヒーと言ったのなら、支援としては失敗です。移動時は、流動的対応ですから、危険やリスクが高まります。それだけに、安全な移動方法として罰よりは、褒美の方が安全な方法と言えなくもありません。反面、褒美方式は職員の個性を見せず誰でもなんとかなることから、技能の向上には貢献しませんし、職員が安易に依存しがちという欠点も自覚しなければなりません。そして、場面場面での、手段方法は、その時に考え付くのではなく、計画性と導入・展開・終結が事前に学習していなければなりません。また、支援が継続的に持続することが重要です。虐待は、相手への不利益、不快な気持ち、心身への苦痛等々を与える行為ですから、職員が出来なくて物に頼ったとしても利用者に不利益がないのならば虐待のグレーゾーンなどと言って禁止すべきことではありません。障害があっても理由なく拒否なんてことはありません。ですから、移動を拒否をしている方の気持ちさえわからない、理解できていないような職員が、今今の解決として無理やり移動させる方法を選択するより、すり替えであってもリスクの少ない方法を選択していただいた方が安全です。むしろ拒否の原因究明をしなければ作業にも影響が出てしまうということを指摘すべきです。利用者に働くことの動機づけそのものが出来ない職員に、虐待のグレーゾーンなどと言って頭ごなしに禁止事項を並べ立てることは、困った職員は陰で行うだけです。職員が、自分の不備を利用者に転嫁して、利用者が不利益を背負わされないようにするためには、一部分だけを取り出して評価するのではなく、総体としての理念が根付いていかなければ虐待もなくなりません。虐待のグレーゾーンなどと言うこと自体が曖昧で、虐待の範囲は関係者が設定するものではなく、不利益を受けたという利用者が引くもので、加害者がグレーなどと言って逃げられるような曖昧な設定をすること自体が虐待被害者の気持ちが分かっていないのではないかと思うのです。

 

組織の人材活用法は、間違っているの話

     研修に行くと、マネジメントだとか、コミュニケーションだとか、横文字が一杯並んで押し付けられまくるのですが、日本語で言いなおすと、昔から言われている程度の事で、そんなに違っていないことが分かります。そして、過去には会社のために働けと直言していたことが、かなり間接的な言い方になっているだけと云うことに気づきます。

逆に、労働者の視点に立つなら、安い賃金でも、常に高い意識を持って、組織のために働き続けさせるための方法ばかりとも云えます。

流行は、アメリカの心理学者、エドワード・デシ氏らの言う、内側からの動機が、最も力になり、『できないと罰を与える』とか『できたら報酬(賞状も同じ)をあげる』という『アメとムチ』的な指導よりも、『やること自体が楽しい』という自律的な取り組みを引き出すのが良いと言われたからです。さらに、アンダーマイニング効果という論があって、自主的な行動に対して、報酬を与えるなどの外的な要因を加えると、報酬が目的になってしまい、報酬がなければ不満になるという人間の行動心理を、働くことに置き換えて、賃金や賞与、福利厚生といった「外発的要因」によって動機付けをすると、より高い賃金や待遇を要求して、際限がなくなると脅すからです。しかし、これらの言い分は、人間の行動を研究している心理学などを、雇う側に都合よく組み立てなおしたにすぎないもので、人間の心理の一面でしかありません。内的動機論もアンダーマイニング効果も、労働と報酬の関係を論じたものではありませんし、労働の様な一生や長期にわたる意識を研究したものではなく、短い期間に単数の課題に対しての反応を調べたものにすぎません。そして、人間は際限なく個人の欲望にしがみつくということもありません。もっと社会的行動をするものです。実際に労働の現場では、十分な報酬を得ていたのなら自発行為も当然のように起きます。しかし、今日では、日本風の年功序列制も高度成長を果たした後の反動でなくなり、終身雇用制度よりも、成果主義のほうがやる気が出ると言い出して、評価制度や個人能力開発を進め、ダメなやつはリストラすると脅し続けたのです。つまり、労働者の地位を不安定にしたことから、働く人が自己防衛的になって、日本的な評価制度もすぐに疲弊してしまったのです。かといって今更、元へは戻れないことから、次の手として生まれたアイデアが、内的動機付けにすぎません。

確かに、戦後から高度成長までに培ってきた日本的労働環境は、世界とは異質でしたので、世界標準ではありませんでしたから、貿易相手からは「ずるい」と言われたのも事実です。が、その変革が日本的な独自性を模索するのではなく、米国的な制度のつまみ食いを経営にとって都合いいように導入したことから、行き詰まりや目標さえも見えなくなってきて、働く人の自己防衛感が高くなったと思われます。明確なのが、会社に対しての帰属意識と言えます。帰属意識の根幹は、自己犠牲があっても会社を守るということにあります。当然、我慢することや長期の忍耐と努力みたいなことが美徳のように扱われます。この帰属意識を育成するのが、自前で職員を育てるという生え抜き感覚です。ですから、転職回数が多い人間は評価そのものが低いということがありました。しかし、今日では、即戦力なら素性は問わない方式へと大きく変貌しましたから、研修でも、理念を教えろ、内的動機につながる遣り甲斐を発見させろ言い続けるのです。日本の組織には、家風が今でも残っているのに、コスト低減や経費低減を図る為に、即戦力などと今だけ必要な人材を求める方向へ向かったのです。だから、働かせるためのテーマ設定をしなければなせなくなったのです。個人の能力開発論も、グローバル化論も、組織が自前で人を育てることを放棄して、目先の使い捨て労働の確保が主力になりかねないために研修が必要になったのです。自己防衛に走る労働者は、組織に加わっても不安定な位置だから、組織への貢献はほどほどにします。結果、日本風である組織力は低下します。日本では、スポーツも集団で行うものが好まれるのは、チームワークが好きだからです。そして、日本風の組織は、個の力を集合し、チーム力として結集することこそ「力」になると結論づけます。それなら過去の日本風に自前で育てなければならないのですが、それはすでに放棄していますから、組織にとって都合のいい人材研修がはやるのです。

「できないと罰で働かせる」も「褒めて働かせる」も時代遅れと言い、内から出てくる動機付けがマネジメントの重要な仕事といい、様々な研修で、「やる気を引き出す」ことばかりが強調されるのはこのためなのです。ですから内的動機づけもアンダーマイニング効果も働かせる効率のために利用されて人間の成長には関係ないのです。人間の行動を分析することは間違いではありませんし、組織が望む行動を促す研究も研修も間違いではありませんが、本当は、職員をもっと大事にする日本風の労働環境も必要なのです。理念や信念は、長い体験や蓄積された職員間の技能の継承に裏打ちされている必要がありますし、生活や家族を考えるなら、職員の外的動機付けは現実の社会では内的動機づけより大きな比率を占めます。さらに、内的動機づけと言ってもスピード感が大事だと語る組織は、自ら動機づけをする時間を待てずに、動機づけてしまおうという手段の研修を行うことさえあります。それは、洗脳です。ですから研修担当者自身が、成果を問われますから、心の中では、内的動機が芽生えてくることよりも、研修後には内的動機を語れる職員にしなければならなくなります。目の前にある結果を出さなければならなくなります。だから、内的動機を語りながら、結果に向けて洗脳の様な事をしていることが目的になってしまいかねないのです。