知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

でん粉人間の話

でん粉は、ほとんどの植物に存在する大事な要素ですから種類も豊富です。身近な、トウモロコシから抽出するとコーンスターチ、じゃがいもだとばれいしょでん粉、さつまいもだとかんしょでん粉、キャッサバを原料とするとタピオカでん粉などありますが、日本では、8割がばれいしょでん粉で片栗粉とも言われて販売されています。でんぷんは水に溶けず、比重も重いので、植物を磨り潰して、水に晒すと底に白く沈殿します。沈殿するから澱粉とも言われています。沈殿物を乾燥させると白色の無味・無臭の粉末となります。その粉末を水とともに加熱すると、でん粉は吸水し、膨潤して、糊状になり、冷却すると、白濁したりゲル化します。でん粉は、現在では、異性化糖や水あめ、ぶどう糖などの甘味料(糖化製品)の原料になるほか、水産練製品、菓子類、麺類、ビールとさまざまな食品にも使用されていますし、錠剤などの医薬品や、製紙や段ボールなどの工業用を含め、その特徴を生かしながら身の回りにあるさまざまな物にでん粉が利用されています。つまり、澱粉は、多くの植物の中に質・量の違いは大きいのですが、どこにでもあって、現代の生活の隅々にまで行き届いた原材料でもあるのです。でん粉の性質と言われれば、熱を加えた糊状の反応が一般的に知られていますが、もう一つの性質は、ダイラタント流体と言う事です。でん粉代表の片栗粉と水を1:1くらいで混ぜ合わせたものを、そーっと流すと、水のように流れますが、これを強くかき混ぜると、ぎゅっと締まって流れにくくなります。グッと掴むと固まり、力を抜き手を離すとドロドロな液状になります。この様な、液体の状態から固体に変化する現象のことをダイラタント流体と言うそうです。ですから、先の片栗粉は、強く握り絞めれば、団子のように丸まっているのに、手を開いて載せただけにすると、ドロドロと流れてしまいます。料理をする人なら誰でもが知っている現象ですが、解説となるとやっかいなのです。何でも、この現象が起きるのは、非ニュートン流体の一種ですとなってくると簡単な説明ができるほど理解できません。ただ、なんででん粉の話をしているかと言うと、最近の人間がでん粉のこの性質に随分似ていてまるで「でん粉人間」といったほうが特徴を適切に言い表していると思えているからです。具体的に云うと、面接等では、無色無臭でそれなりの履歴もあり、個性もある人ですが、何らかの思想信条的なものを持ち合わせている風でもなくて、宗教的な雰囲気も全く感じられないなど、こちらからすると、正に白くて、粉のようにふあっとしていて、何かに染まっていず柔軟性もある感じですから、でん粉の白い粉で、無味無臭な感じなのです。ところが、入職後に組織の在り方や対応方法を水の如く注入すると、初めは吸収しているように見えるのですが、途中から突然に、ダイラタント流体の如く、仕事のことなのに強く推すと、固まってしまい受け入れようとしないばかりか案外簡単に拒絶します。でも、話を世間話的に戻すと、後引くこともなくどろどろと流れてしまいます。世間話ならどこを突いてもタプタプなのに仕事の専門性になると、どこを突いても頑なに自己主張しますしなかなか曲げません。組織を拒否しているのではないのですが、混ざることはあっても溶け込まないのです。一時流行した、自分探しなどと言うような浮遊性もないし案外しっかりしているのですが、保っておくと確実に底に沈殿しているのです。立身出世と言う言葉は既に死後のようになりましたが、過去には、肩書が付くということは職場では大きな意味がありました。しかし、人材不足の今日では、何の努力もしなくても肩書をお願いされるようになりました。就職して1年もしないのに店長になったなんてことも多くあり、逆に肩書を付けられて責任を押し付けられるのなら、いらないという人も増えてきています。そればかりか、福祉の世界では、出来なくても役付けにしてでも辞めさせないことの方がまかり通る時代にもなってきました。組織として、人材育成は急務だと言いながら、実態は「でん粉人間」がだんだん増えて、理念も経験も技能もコーチングしようとしても断られ、普通がいいと言われてしまいます。植物なら誰もが持っているでん粉、今日の人間社会の必需原料として生活の隅々に活躍しているでん粉、どこにでもあって個性も持ち合わせているのに、溶け込むことはせず混ざるけれど何かをさせようとすると固くこだわり、自由にさせればどろどろと流れていく、そしてちょっと目を離していると、沈殿しているのを見ていると、やっぱり「でん粉人間」なんじゃないかと思えてくるのです。

擬人化した隣国と仲良くは一方通行の話

 テレビのコメンテーター達は、韓国の事になるとみんな揃って隣国なんだから仲良くすべきだと話します。しかし、世界を見渡せば、隣国と仲良くと云うのは幻想で、隣国だからこそいがみ合ううというのが現実です。実際、理由はともかくアメリカは、メキシコとの国境に壁を作っていますし、インドとパキスタンは、カシミールを巡って部分戦争状態を何十年もしています。アフリカでは、内戦という隣人同士の戦争も起きています。中東ではイスラエルと隣国は繰り返し戦争行為をしています。にもかかわらず、韓国とは隣国なのだから仲良くと言っているコメンテーター達も、ロシアと仲良くとは言いません。コメンテーターが口を揃えて、仲良くしたい隣人は、ロシアや中国では無いのです。その理由は、ロシアや中国は、社会・共産主義国という社会体制で長く日本の仮想敵国だからです。そして、ロシアに対しては、第二次大戦の終わりになって不可侵条約を一方的に廃棄して漁夫の利的に日本に被害をもたらせたという恨みつらみを言う人もいますから、ロシアとは、領土問題だけでなく、第二次大戦の終結もしていません。第二次世界大戦後日本は戦争に加担はしても実戦はしていませんが、世界では戦争が繰り返し起きています。そして戦地になってしまうと、住民が生活していようと、軍事的に踏み荒らされ占領されたりしてしまいます。ゴラン高原は占領されたままイスラエルに合併され、クリミアはロシアに合併されました。仲良くしたい韓国は竹島を韓国軍が占拠しています。隣国と仲良くの実態は、軍事的なパワーバランスによる大きな固定化の中で、小さないざこざが繰り返されていることに対して、同盟という仲良しグループなのだから、仲良くしようと言っているにすぎないのです。様々な条約があってもなくても、戦争は起きますし、隣国だから問題は発生しているのです。にもかかわらず、人間同士の付き合いなどと言う日本国内で慣習化されている曖昧な言葉で国の利害関係とすり替えてしまう外交ばかりの日本はいつも後ずさりばかりすることになるのです。団体と団体の利害関係の中に、個人と個人の人間関係が存在するかの様な錯覚を持ち込むことは危険なことです。一人一人はみんないい人かもしれませんが、集団になってもいい人なら人間同士の戦争なんて起きていません。人間は個人よりも集団を大事にし、集団になると狂気も巻き起こしてしまう存在なのです。ですから相手はどんな集団を形成しているかと言うことが大事で、人間同士などと日本的道徳的態度にみんなが成れるなどと言うことは情勢を見誤る原因としかなりません。日本的外交では首相でも絶対に許されないちゃぶ台返しの如く壊してしまうトランプ氏を外交として非難すればいいのに日本の外交は何も言えないのです。日本流のコツコツ積み上げてきた実績などと国民に説明している足元から、ひっくり返されているのにパワーバランスの下位国家の外交は黙って国民には内緒の裏工作に必死にしがみついているしかないのです。日本の外交が駄目だという事は、内々の含みみたいなこと、腹の探り合いなんて外交しているから、こんなはずではなかったばかりになるのです。隣国と仲良くは、倫理や道徳では無く利害の状況で決まっているのです。心情的なこととは関係なく、国際的な利害で情勢が流動的に動いているという事をもっと明確にすべきです。問題があるから仲良くできていないのに、隣同士なのだから仲良くするのが当たり前だなどと言っているような外交官僚の甘い情勢分析が実効支配を許してしまうこともあるのです。仲良くで問題を曖昧にすべきではありません。力の強い方が結局押し切るのです。最近はマスコミ等が使わなくなりましたが、死の商人は今でも健在で、商品の武器を豊富にそろえて購入者を待っています。どんなに平和な憲法を持っている国にもちゃんと販売しています。戦争の原因は当事者よりも裏で利益を得る人によると言う事は普通のことです。過去には、日本の学生運動が過激となるように資金援助したのは、右翼的資金を持つ人たちだったという話もありました。確かに、過激になって国民が嫌になり法整備が簡単に出来て、取り締まりが容易になったと言われれば都市伝説の様な感じですが、そんな罠みたいなことを過去のアメリカCIAは世界各地で実際にやっていました。テロ防止と言って中東やアフリカでアメリカが始めた戦争で難民が大量に出て沢山の国が困っていても、利益を得ている人がいるということも事実です。コメンテーターを初めとした日本の官僚は、お互いが言うべきことを言うだけでは交渉は成り立たない、落としどころが必要だと言うのですが、歴史の過去をうんざりするほど言い続ける国との交渉が適切に出来なければ、北朝鮮の戦後賠償も、ロシアの戦後賠償も掘り返される大変なことになりかねないのです。いつまでも、世界の大国のつもりで隣国を見るのは止めた方がいいと思うのです。あたかも兄貴分の様な態度で隣同士なのだから仲良くしょうよと言うコメンテーターの言葉には、見下したような感覚が見て取れます。隣国と仲良く出来る政治・経済の環境を作るのは、仲良しグループだからではなく利害をもっとはっきりとすべきですし、一方通行ばかりのテレビ解説も一段落して、問題課題を真摯に取り上げていくべきだと思うのです。

獣の雄の論理で性犯罪者に味方する裁判官の話

 法は正義ではありません。裁判官が、過去の判例に則ってしか判決が出せないのなら、AIに任せた方がましだという判決が出ました。記事では、名古屋地裁岡崎支部の鵜飼祐充裁判長が、娘と性交した父親に娘が抵抗できない状態にあったとは認めず、無罪としたというものです。内容はと言うと、娘が嫌がっているのに実父が性交を5年以上強要したというもので、普通に考えれば、強姦同然なのですから、犯罪そのものなのに、法律解釈の末に雄の論理を根底に持つ裁判官は無罪としたのです。江戸の奉行大岡裁き風なら、実父を畜生道に落ちた雄の狂気としか言いようがないと一刀両断で済むような事が、現在の法律をこねくり回して、無罪としてしまったのです。検察は「中学2年生の頃から性的虐待を受け続け、専門学校の学費を負担させていた負い目から心理的に抵抗できない状態にあった」と主張したのに対して、弁護側は「同意があり、抵抗可能だった」と反論していた裁判で、この裁判官は、「性交は意に反するもので、抵抗する意志や意欲を奪われた状態だった」「抵抗を続けて拒んだり、弟らの協力で回避したりした経験もあったとして」、娘の同意はなかったと認定しましたが、抵抗は可能だったという弁護側の主張は認めるのです。その認める理由が、「以前に性交を拒んだ際に受けた暴力は恐怖心を抱くようなものではなく、暴力を恐れ、拒めなかったとは認められない」「被告が長年にわたる性的虐待などで、被害者(娘)を精神的な支配下に置いていたといえるが被害者の人格を完全に支配し、従わざるを得ないような強い支配、従属関係にあったとまでは言い難い」と言い出し「抗拒不能の状態にまで至っていたと断定するには、なお合理的な疑いが残る」として被害者が抵抗不能な状態だったと認定せずに、無罪判決を言い渡したのです。まずこの裁判官は、中学2年の実の娘と性交すること自体が虐待であって犯罪だということが理解できていません。さらに、拒否に対する実父の暴力を、恐怖を抱くような暴力とは言えないと否定するのです。こんな裁判官は、人に殴られればいいとしか思えません。恐怖感の度合いは状況で全く違います。家庭と言う密室で実父に性的虐待を受けている娘にさらに暴力と言う虐待を加えることは、複合的攻撃であって恐怖どころか絶望と自暴自棄に追い込んだと考えるのは普通の事です。家庭から未成年が逃げ出せないという条件の上に、簡単に人に話せない実父との性交問題を抱えさせられた挙げ句に暴力まで受けている女の子に、暴力を恐れず抵抗しなかったお前が悪いとこの裁判官は言い放つのです。さらに、精神的な支配に置かれてはいたが、強い支配・従属関係とは言えないと言うのです。経済的にも、精神的にも、身体的にも保護されなければならない年齢で、保護する義務のある実父が娘に虐待を繰り返していても、奴隷の如く自由を奪われ拘束されてもいないのだから、実父の支配下には無いとこの裁判官は言い放つのです。父親に家族が、支配されたり従属していることそのものが否定されなければならないのに、裁判官は問題があるほど強くないと言い出すのです。程度問題ではなく、家族関係において支配や従属があること自体を否定しなければならない立場の裁判官が、支配・従属関係があっても人格を完全に支配し、従わざるを得ないような強い支配でなければ、娘を強姦しても犯罪ではないというのです。実父との性行を拒否して暴力を受けていても支配されていないというのです。実父の支配とは、家族が従属しているとは何かとするなら戦前の家父長制しか考えられません。さらに裁判官は、虐待を繰り返す父親に対して、娘には他者に訴えるとか、助けを求めることの出来る自由があったのにそれを実行しなかったことは、娘の落ち度でもあると確定してしまうのです。つまり、裁判官は、娘にはこの虐待から逃れるべき方法はあったのに、ずるずると関係を続けていたのは、娘にも非があるという考えに固執するのです。被害者を守るという視点はどこにもありません。それは、加害者に寄り添った獣の雄の論理の視点だけだからです。

 日本の刑法論争となれば、性交では被害者が同意していなかったということだけでは罪にならないとか、2017年の刑法改正により親から子どもなどへの性的虐待を処罰する「監護者性交等罪」も導入されているとか、本人が19歳で訴えたので、罰する法律が無いとか法律の専門家は言い出します。しかし、法が正義であるならあらゆる法律を掘り出してでも罰することが出来なければ法の裏をかいた犯罪者はいつも無罪になり被害者には一矢も報いることが出来なくなってしまいます。無罪と言う事は、何年にも亘った被害者の被害事実はあるのに、加害者には加害してはいなかったということになってしますのです。公が犯罪を罰する権限を持っているのは、被害があったことに対して私的報復を許さないという観点から公が行うものですが、時代劇ドラマの仕置き人の如く、公が裁けないなら私的報復も許されるとなっても仕方のない判決と言えます。この事例では、虐待は存在し、被害者が存在し、加害者が判明しているのですから、無罪という判決は絶対にないと言える裁判でゼロ回答をした裁判官は普通とは言えません。こんな裁判官にかかってしまうと、被害者が、絶望して、自暴自棄になって被害を我慢して耐えていたなら、それは受け入れていたからだということになるのです。同意がない性交と認めた段階で犯罪としての要件は一つ満たしているのに、抵抗しなかったという要件を満たしていないから認めた要件さえも無効にしてしまうのは、被害者を救済しなければならないという裁判そのものを否定しているようなものです。完全に拘束されて外部との連絡も取れず、死ぬほど身体に被害を受けて、ロボットの如くコントロールされていなければ、抵抗は出来ると言い張るのです。だから、同意はしていないが抵抗していないのだから、受け入れていたということで無罪としてしまうのです。性交の場面での、消極的な抵抗は積極的な拒絶ではないという思考は、獣の雄の論理そのものです。今日では、畜生道にも劣る行為なのに、それを支持している裁判官がいるのです。法的解釈が自分に都合がいいと、その判例を崇めるような事もありますが、法は結構不備だらけで道徳としては、欠陥ですし、社会の常識としても欠陥は多くあります。その欠陥を修正できるから、裁判官であるのに、欠陥を増幅させる判断をするような裁判官は、欠陥裁判官としか言いようがありません。性犯罪では、獣の雄の論理を深層に持っている裁判官は排除すべきです。そうでないと公正な判断は出されません。実父は、娘に虐待をしたということよりも、性交は、娘の同意のもとだったのだから無罪と言うお墨付きをもらったと吹聴することが出来てしまいます。すると、娘はこの後もずっと非難と軽蔑を受けるような生活をしなければならないという加害を受け続けなければならなくなることは容易に想像できます。犯罪者の更生のための裁判で犯罪者を増長させ、被害者にさらなる加害が起こることも予測できないような裁判官は、自分が他人の人生の加害者となってしまうことがあるという自覚は出来ないのでしょうが、そんな裁判官を業務評価するシステムは日本にはないのです。

養護施設で学習する悪い事、子ども間の性的問題の話

 厚生労働省の統計では、虐待や貧困などの理由で親と暮らせず施設や里親家庭などで生活している子どもは全国に約4万5000人とされ、2017年度にこうした子ども同士で性的な問題が起きたか2429の施設を対象に調査したところ、分かっているだけで1371人の子どもが加害者や被害者といった当事者となっていたということです。問題が発生した時間帯は養護施設などでは昼間から夜にかけて、里親家庭などでは下校後から夜間にかけての割合が高かったということです。何故この様な調査をしたかというと先例として三重県の事例発表があったからです。三重県では、600人超の子どもが児童施設を利用しており、2008~16年度の9年間に性的問題が、111件あり、性被害に関わっていたのは被害者、加害者を合わせて計274人で、平均すると年間に約12件、約30人が関わっていたということでした。12年度までの5年間の計51件については被害の概要も判明していて、2~19歳の144人(男88人、女56人)で、キス、下半身を触る、性器をなめるなどのほか性交もあったということでした。このことから、新聞社が東京都に情報開示請求して判明した子ども間の性的事故は、15年度63件、16年度74件、17年度は4~12月に60件あったことが分かりました。この様に報告があっても発表されてこなかったのは、児童福祉法では、施設職員による暴行は自治体に報告しなければなりませんが、子ども同士の暴行は義務付けられていないからです。ですから今回の調査でも、アンケートに回答した数字というだけですし、三重県や東京都でも、事故報告があった数字というだけで、報告されずに施設内で内々に納めてしまったものは数字となってはいません。このことが示す本質は、実態として養護施設は、児童を守れてはいないということが証明されたということです。虐待を含めて、家族から取り上げた児童が養護施設に入所させられても守られる制度や体制にはなっていない実態の一部がさらけ出されたということだと言えます。本当は、法改正が必要なほど改善が必要な状態になっていると私は思っています。養護施設には、負の意識を背負わされて児童が入所します。しかしそこには、職員の権力が強く、他人の合宿集団生活の場であるだけでなく、児童という年齢だけで、非行の子どもから、障がいの子、虐待の子、貧困の子なんでも一色単に入所となり、利用内容による環境設定分離はしていないのです。つまり、児童という括りであれば、被害者だった児童も、加害者だった児童も一緒に暮らすことになるのです。まだ、善悪や社会通念、ルールやマナーを確立していない未知数の子供たちが、通常の生活では関わることのない、様々な問題を抱えた児童の集合体である施設で混合して生活するのですから、、学習効果が逆転することもしばしば起きるのです。例えば万引きする児童の自慢話の方が、職員の説教よりはるかに魅力的です。性的被害を受けた児童の体験は、テレビや雑誌の性的刺激など遙かに超えた悲惨なものですが聞いてみたくなります。それが、児童の判断力以上に性的身体の変化を含めた性関心が勝ることもあります。他人の集まりなのに思春期の子供たちが密着した狭い生活によって家族的愛情要求が恋愛感情に変質してしまうことも起きるのです。一方職員の能力技能は、問題の広さ深さに追いついていきません。虚言や過剰防衛心、猜疑心、愛情欠乏、非行、障がい等々情熱があったとしても何でも対応できる職員がどこにでもいるわけがありません。にもかかわらず、様々な問題課題が繰り返し波状に生活では起きてきますから、積極的な良き学習を提供できる環境を設定することは困難です。つまり、児童が持っている背景に合わせて環境設定をしなければならないのに、個々人が要請する環境が著しく違うのに同一環境の中で暮らすことになれば、正に悪いことの方が浸透しやすいのです。再犯した犯罪者が刑務所でやり方を習ったという話があるように環境を整えなければ、悪いことだって学習してしまうことは可能なのです。だから、児童が求める必要な環境ごとの専門的施設が必要だと思うのです。性的問題だけでなく、子供同士の問題は施設と言う中で隠ぺいされ子供の将来のためと言う印籠の元穏便に穏便に隠されていますが、それでは子供は、本当に守られているとは言えないと思うのです。社会の不備から保護したつもりが社会の問題の縮図を背負ってきた子供同士の中で苦しみを増幅させていることにもなると思うのです。それは、グループホームであっても里親であっても同じです。家庭から分離しなければならないほどの過酷な体験をしているからこそ、普通すぎる暮らしを提供すべきだと思うのです。問題児だけかき集めて社会に影響を及ぼさないようにする方式は、もう、終わりにしてもいいと思うのです。児童ならなんでもかんでも入れてしまう万能ではない養護施設対応ではなく、一人一人が求めている環境を用意している施設に暮らせるようにすべきだと思うのです。

不公平だ、損してるの話

  福祉の仕事では、人間に関わるだけに際限なく業務は広がりますし、嫌な仕事も多くあります。例えば、排泄支援と言われれば当然だと思いますが、障がいによっては、自分の便を撒き散らしたり、壁に塗ったり、する方もいます。そうなった後のトイレや居室や廊下の清掃や介護は、どんなに気持ちの良い人でも楽しい仕事とは言えません。ついつい愚痴も出ますし、負担感も大きくなります。それがさらに、チームの他の人より自分が多いと感じるとなんとなく、不公平だ、損してると思いこんだとしても致し方ないことと言えます。そして、苦情として公平にしてほしいと言い出します。しかし、仕事は、職員に与えられた負担ではありません。仕事が負担と感じてしまう雰囲気や気持ちになりがちな環境にいるなら、問題の整理を初めからやり直す必要があります。仕事は、確かに身心の疲労や困難を伴いますから、仮に仕事に負担感が生じたままで遂行していると、無意識に少しでもその負担を軽減しようと行動し、仕事を減らすことが希望となってしまいます。仕事は、生活費を得るということもありますが、自分が選んだ生き方にも通じています。ですから一般的には、仕事を習得したい、習熟したい、と言う考え方のもと仕事ができるようになって負担を減らそうとします。ところが、その中に自分が嫌悪していることや苦手意識気があることが含まれると、不安と共に負担感を増幅するものとなります。つまり、福祉を利用する方との関わりで成り立つ仕事に於いて、利用せざるを得ない方の症状に負担感や不安感を持ってしまうことになってしまいます。すると、症状や障害の程度が軽度がいいとか手のかからない人がいいという気持ちが本音になっていってしまいます。この様な感覚が強くなると、同僚と自分の仕事の見える部分での量的内容について不公平感を感じてしまうのですが、それは、間違いです。福祉の仕事は、負担の分配では絶対にありません。なぜなら、福祉を必要としている人には、必要な内容そのものが生活と一体だからです。少しの余裕もゆとりもなく支援そのものが最低生活の一部ですから、無ければ生活は成り立たなくなってしまいます。職員の目線で仕事・業務を感情的感覚で、見てしまうと同僚より自分の方が嫌な仕事が多いかなと感じる瞬間は必ずあるのですが、それを不公平と感ずるか、処理の仕方も未然の対応も経験の多い自分の方が習得していると感じるかで仕事の感性は全く違ってきます。福祉の仕事は、交代制が多いので、チーム内では負担を均等に対応すべきではと発言する職員もいるのですが、仕事に平等はないと思います。チームに同質同量の仕事を分配するという考え方は人間相手ではしません。理由は、一人一人違うからです。ローティションは、平等にするためではありません。円滑な、支援提供の為ですから、勤務のローティションに於いて、負担を均等に割り振るという考え方はしません。それに、チームプレーは、集団統制ではありませんし、チームメンバーは、支援の展開を有効にすべきパワーやエネルギーの塊にすぎません。生活として必要な支援を職員の負担の平等のために出来ない人が担当としてやってきたら当事者はとても悲しい思いをします。できる人だから、安心して身心を委ねられますが、できない職員のために身心を硬直させていたなら尚更に職員は負担にしか思えません。対人関係の仕事では、自分ばかりが損してると思うような場面がとても多くて、泣きたいのはこっちだと叫びたい時が繰り返しあるのが実情です。でも、あなたの支援だから安んじて任せられると待っている人がいることも実情です。ですから、同僚と比較して自分が損してると感じる瞬間が訪れたなら、止まって深呼吸して、支援を待っている利用者をしばらく見ていてください。あなたを待っています。

 

電車の中で酒飲むなの話

 電車の中で通勤帰りの楽しみなのか、ビールにハンカチを巻いておつまみを食べながら乗っている人がいます。しかも、それは、座席に座れなければ、立ってでも行われます。現代では、電車の中は大変綺麗になりました。過去の、電車の中は、網棚に雑誌や新聞が捨てられていましたし、ガムが床に附いていたり、飲み物の空き缶が通路を転がっていることもよくありました。そんな網棚の雑誌を拾い集めて駅前の路上などで安価に販売することも見られましたが、今は電話機を見つめる人ばかりで、雑誌を読んでいる人までも見かけなくなりました。そして、たばこを吸う人は誰もいなくなりました。それなのに、アルコールを飲む人は、続いているのです。酒はもともと神との共食の大事な要件ではありましたが、現代の酒は、個人のし好品以外の何物でもなくなりました。ですからどこで飲もうと個人の勝手でしょと言うことですし、税金を払って飲んでいるのに何で文句言われるんだという人もいるかもしれません。でも、飲酒による事故やトラブル、暴力行使は、意外と続いています。そこで気になるのが、社会の飲酒事故に関する許容の範囲が広いということです。今では、飲酒運転は犯罪ですと言われますが、これまでは酒の上だからと加害行為があっても大目に見るという状況が続いていました。ですから飲ミニュケーションなどと会社が終わってから酒席を設けてコミュニケーションを図ることが推奨されてもいました。しかし、現実にはこの酒席で女性が被害を受けるなどと言うことも多発していましたし、接待や黒い交際の隠れ蓑となり、政治を含めて酒席は決して明朗なコミュニケーションの手段ではないことは日本人なら誰もが知っていることです。なぜなら、アルコールもまた人間の意識に作用して理性を緩慢にさせ自己の判断力を薄める力があるからです。飲んで和やかになるというのは、飲酒が好きな人の言い訳で、酒に頼らなくても和やかな雰囲気など作れますし、実際の表の労働の現場では酒など飲みながら働いてはいません。仕事に欠かせないという人でも、仕事の中では飲酒はせず、仕事外で酒を使ってうまくやろうとしているにすぎません。それは、すり替えなのです。仕事中に使用できないものが仕事に欠かせないものだとしたなら、裏社会と同じになります。水清ければ魚が住まないという言い訳をして仕事の中に不適正なものを正当化する方法もありますが、今日のコンプライアンスと言う考え方ではリスクが高すぎる考え方です。逆に魚の住める清流ではないような濁った流れでは会社は潰れる時代とも言えます。被害者を前に、酒を飲んでいたので覚えていないと言う加害者の言い訳を理解するような社会通念は間違っています。飲酒での事故には、同情すべき余地はありません。なぜなら、酒は、本人の意識を正常値を維持できなくするものなのだからです。そして、正常値の範囲で留まれる人は酒に頼ることはありませんが、繰り返し酒で失敗する人は正常値からすぐに一脱してしまうのです。酔っぱらいは、酔っていないと強情を張るのは、既に客観的に自分の状況を把握できなくなっているからです。それが分かっていながら飲むのです。酒での失敗談を武勇伝などと言わしめる環境が良くないのです。酒は、百薬の長も酒飲みの言い訳にすぎません。自己の判断力を阻害する薬物を飲んだのと同じなのですから、事故や事件を起こせば刃物を持っていたのと同じですし、酒癖が悪いと言われながら飲んだのなら計画的な悪いことです。酒の上での事で許されるから、トラブルも絶えないし、被害者も救われないのです。電車の中では何があるか分かりません。結果として酒酔いでのトラブルがあった時、電車は遅れそのトラブルに巻き込まれると被害者が出るのです。電車の中で飲まなくても、飲むところはいくらでもあります。敢て飲む必要はないと思うのです。

朝日新聞夕刊、無理せず廃刊した方がいいの話

 朝日新聞の夕刊を購読することを止めました。それは、あまりにも新聞らしさを失ったものになったと思ったからです。新聞社にはどんな新聞を作るかの方針がありますから、一読者が何を言ったところで関係ない話ではあるのですが、お金を払っていたのだから一言ぐらい言ってもいいかなと、止めるついでの捨て台詞を言っておこうと思うのです。元々夕刊は、文化的側面が強いことがありますが、普段は掘り下げられないニュースの側面や人物を解説するという意味では朝刊をバックアップする地味な存在として重宝して購読していました。ところがこの4月ごろからか、紙面は、文化・趣味・インタビュー・コラム・エッセーなどの記事に埋め尽くされ、この程度ならネットでも見られる内容に変わってしまいました。雑誌並みの紙面一杯のカラー写真を乗せられても新聞の紙質なのですから雑誌のきれいさからすれば格段落ちます。雑誌なら切り抜いて壁に一枚と感じることがあっても新聞の写真を切り抜いて貼りたいなんて余程の人でなければ思いません。それでも、どうなるのかな、どうしたいのかなと様子を見ていたのですが、状況は悪化するばかりでなんだこれと言わざるを得なくなって新聞店に夕刊は止めると申し入れました。新聞の楽しみは、好きな時間に好きな時に読めるですが、それは現代では電子版の方が簡便で利便性からも、とってかわられています。しかし、紙ベースなので切り取れるという便利さはわざわざ印刷しなければならない電子版よりもあります。新聞社は社としての方針がありますから、政治的に右寄り、左寄りを初めとして、スポーツに強いとかそれぞれの特徴もあります。メディアとしても老舗で、テレビよりも格が高そうに振る舞っています。しかし、受信者は、宗教の広報誌ではありませんから一方的に記事に対して受容したり賛同しているわけではありません。さらには、受信者は、記事の比較や検証もしており新聞が真実であるとも思っていません。多様な媒体の一つとして認識しているのですが、記事としての深さや広さと言うことでは蓄積された上澄み液の様な良さがあります。しかし、朝日新聞の夕刊は、大きな会社が広報で製作している小冊子や雑誌並みの軽量薄さになっています。新聞社としての蓄積された重みが感じられなくなっているのです。この程度のことは何かで見たこと読んだことがあるな程度の内容なのです。同じ内容を話しても聞いても、その人の持っている知識や視点、そして感性によって与える影響には違いが出るものです。新聞社と言う会社では記事に対して経験値や人材により繰り返される点検によって厚みや重厚な内容になっていることが他のメディアにはない良さだと思っていたのですが、朝日新聞の夕刊は、軽量で薄っぺらくなりました。経費的にも、宅配ですから人も足りないでしょうし夕刊の刷り上がり時間・配布時間を考えたならこの内容ならなくてもいいとしか思えませんでした。変わらなければならないことは多くありますし、変えていかなければならないのが現代ですが、有り余る情報の中で、新聞社と言う看板を背負った記者が書き、経験ある上司が確認したものだから、一つの論点として柱が建っていると感じるのです。だから、その記事を起点として他のメディアを確認してみる大事な目明日ともなっていたと思うのです。ところがどこにでもありそうな記事になってしまうと、柱構造ではない、面構造の創りと同じで、役割的要素はなくなりますから、面の中の一つとしてもがかなくても、あっさりと撤退してしまう方が適切ではないかと思うのです。購読者増加は、基盤の上に乗せるものでなければ下から基盤が崩れてしまうという事を考えるべきだと思うのです。