知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

手足のない児相を強化しても何も出来ないの話

 児相には、介入のほか、子どもや家庭に寄り添う支援の業務もあります。昨年3月両親から虐待を受けて5歳の子が謝りながら殺された事件では、児相が、保護者との支援関係構築を重視している間に起きました。今年1月には、介入の失敗から10歳の女の子が実父に謝りながら殺されました。途端に、政府や行政は、介入と支援を担当する部署を分けるとか、介入時に、弁護士ら専門職の協力を得とか、児童福祉司を二千人程度増員するとか、通告から48時間以内に子どもの安全確認ができなかった場合は、警察と連携するとか緊急対策を決定したり検討していると報道されています。しかし、児相を強化しても児相は、オールマイティーで対応できるようにはなりません。どれだけ児相を強化しても、児相は何時も限界なのです。2017年度に全国の児相が児童虐待の相談や通告を受けて対応した件数は13万件を超えたと言われ、その対応が問われていますが、もし仮にこの中に介入が必要だと思われる児童がいたとして、児相が次々に介入して家庭から分離したとしてもその人数に見合う、毎日の生活を見ていくための具体的手段を児相は持っていないのです。つまり、児相の独自に決められる一時保護施設は、一か月程度しか居られませんし、社会福祉法人の養護施設に児相が勝手に入れられませんから、次から次へ家庭から児童を分離できるものではありません。それだけではありません。児相は、児童の事なら何でも受けますが、子供の事というのは、もれなく回りに大人が存在しています。戦争孤児等がいない日本の子供は単体では存在しません。子供には父母に始まる家族だけでなく、祖父母を含めて大人が常に存在し、この大人の方が厄介な場合が多いだけでなく、むしろ大人が問題を起こして子供が引きずられている場合の方が多いのです。にもかかわらず、児相は児童に対する対応手段しか持っていないのです。例えば、虐待の親を再教育する手段や機能や施設は持っていません。親が貧困や生活保護の場合の生活に関する支援の手段も持っていません。親子を分離しても、子どもが帰るべき環境整備をするための職権も機能も持っていないのです。ですから児相は、今虐待を受けている児童を現場から分離できても、虐待する親の教育をして子供が良かったと思える環境を作ることは出来ないのです。虐待する親に話をすること程度しか出来ないのです。それで親が改心できるはずなど無いのです。だから逆に家に帰すと子供が報復されて虐待が陰湿に繰り返され、次には子どもが帰れなくなるのです。単体ではない子供にマトワリついているお大人を変えなければ帰せないのに、原因となった大人を変えることは児相の守備範囲とされていないのです。児相は大人の他の機関と連携しなければならないことも多く、子ども優先で対応することが出来ない事例は多いのです。緊急的に大人を含めて児相が対応できるなら、児童の環境調整は、子ども本位に対応できますが、他の機関の判断が遅れたり、事態の共有が出来なければその間に進展する事態に児相は何も出来ないのです。だから手足のない児相を強化しても何も出来ないと言えるのです。繰り返しですが、子供は単体では存在しないのです。ですから、現在児相は、子どもという点で対応していて、原因となる大人を含めた面で対応できる機能も手段も持っていないのです。児相は大人用のアイテムも手段も持たずに子どもを救う事例と闘っているにすぎません。課題を持つ大人は、面接やコミュニケーションだけでは変わりません。例えば、しつけと言う逃げ場を社会が容認しています。家庭のことに公的な関与は出来るだけ控えるべきと言う学者がいるだけでなく社会の制度としても親の懲戒権などと言い出す人もいます。現実に今苦痛を与えられている子どもが、いるのに大人は子どもが死なない限り、ああでも無いこうでも無いと虐待の親を援護するかのような偉い人が沢山いるから、子どもを守るという一点に立った施策や制度の構築へ結びつかないのです。躾であっても、苦痛を与えるのは処罰されると否定するだけで子どもは守れます。つまり、躾とはなんぞやなどと言う話では無く、苦痛を与えない方法ならまだ検討の余地はある程度でも良いから、子どもに苦痛を与えることをまず否定すべきなのです。親の権限というものを容認する一定の社会の勢力に児相は対抗できません。そんな大人に適切な対応できる職権や手段や育成設備やプログラムを持たない児相を、手足の無い状態と思うのです。子供の環境を整えるための手足を持たない児相の対応だけで、心身ともに強い、親の権力下に弱い児童が、帰ったところでいいことなどありません。

 

情報源秘匿を死守出来なかった大人の見殺しの話

 10歳の女の子を実父の虐待で死なせてしまうということがありました。この子が死ぬまでの数年間多くの大人がいましたが、狡く、凶暴な父親を前に何度も、救うチャンスがあったのに関与した大人がそれぞれに不適切な対応をしたから見殺しになったんだと報道されています。しかし、私は今回の原因はたった一つだと思っています。それは、情報化時代の中で個人情報を守るなどと騒いでる一方情報源を守るという事が非常に軽くなっているということだと思います。今回の事例では、虐待からの救出作戦ですから、情報統制は当然であるのに、情報源秘匿が何も行われていなかったという事に尽きると思っています。根拠は、アンケートの実施が6日で一時保護されるのが7日という速さです。これでは誰でもアンケートに原因があったと感じます。対象児が幼児ならともかく、10歳なら話も聞けるし対応も出来ますから、普通は、面談調査や事実確認を行って、本人の意志を確認し、緊急度をまず検討します。本人が家へ帰るのは困難だというならその場で保護もありますが、緊急事態でないならば、父親には秘密の緊急用連絡先、支援者がいることを伝え、選択肢の一つとして保護があることを伝え、虐待の証拠集めをまずはすべきです。特に実の親の場合は、躾として虐待を認めず、訴えた本人が報復を受けたり、家庭に居場所がなくなる危険があります。ですから分離救出作戦は、極秘に慎重な準備を進めるものです。ところが翌日には保護されてしまうのですから、突然の保護が父親にとっては、どうして家庭内のことが「ばれたのか」「誰が言ったのか」「告げ口の犯人は誰だ」が一番の課題になり、主訴である娘の苦痛なんて全く考えてもしないと思うのです。実際保護中に8回行われたという面談でも虐待を否定しています。そして、父親は面談で、何故保護に至ったかのその情報は、何だったのかのを詮索し続け、アンケートに娘が何か書いたことが引き金であることを知ったと思うのです。ですから、一時保護解除後には母親を連れて児相ではなく、学校、教育委員会に抗議に行くのです。なのに、学校は、情報源がアンケートであることを認め、アンケートの開示を本人の了解がないと断るのです。つまり、この段階で、父親は一時保護と言う不名誉な恥をかかされた原因が自分の虐待行為ではなく、娘が学校のアンケートにいらぬことを書いたためだとすり替えて確信してしまうのです。告げ口犯人探しをしている父親に、情報源がアンケートだと悟られた時点で虐待事例としての救出作戦は、失敗と言えます。本来、救出は失敗するリスクを考えて行いますから、その情報源が相手に知られてしまうと失敗後は、極端に警戒されて二度と同じ手が使えなくなります。特に内部通報と悟られると、情報源の内容を知っている人は限られますから犯人捜しされれば特定される可能性の方が高まります。虐待者は、情報が外に漏れて自分が加害者であると非難されるのを防ごうとしますから、内部通報者を見つけて口封じすることが優先課題となります。この場合だと、初めに妻を殴り問い詰め、次は娘となります。つまり今回のように本人の訴えの場合は、本人ではなく外部情報であると装い本人からの情報を今後も確保する処置をして対応するのが普通なのです。どんな事情があろうと、本人からの訴えの場合には、加害者が、被害者の口封じなどと言う行為が起きないようにしなければ報復加害行為が増加するのは当然なのです。今回のように加害の父が否定するのは当然ですから、父親が娘に二度と訴えられないように対応する可能性が高いのです。だからこそ、本人が発信できる環境を作らないと緊急事態が発生しても救出できないことが明らかです。にもかかわらず、学校はアンケートの内容を伝えて説得しようとするのです。情報源の死守なんて全くなく、学校に抗議までしてくるような怖い父親に、子供の訴えがあったからと対応の根拠を一番弱い立場の子どもに押し付けてしまうのです。逆に言えば、訴えがなくなれば何も出来ないと証明しているのです。虐待は本人の訴えに関係なく犯罪として傷害罪として対応できます。自己申告罪ではありません。ですから、学校は、本人の同意がないと拒否するのですが、その3日後には女の子の同意書を持ってくる教育委員会に訪れ、まんまと教育委員会からコピーをせしめることに成功するのです。一番弱い立場の女の子の同意など全く関係ないことで、学校は責任回避するのです。私がアザを見たから女の子を問い詰めて学校の判断で通告した、アンケートなど知らないと言いきればいいだけのことなのです。アンケートについても、情報源を守るという事が貫かれていれば、教師として生徒からもらった手紙を他人に見せるつもりはないと断ればいいだけのことです。学校は本人の申請があっても内申書を含めて本人にも開示拒否をすることがあるのに成人していない保護しなければならない児童の秘密に対して本人の同意があればいいなどと言うこと自体が大人の対応ではないのです。アンケートを回収するために全力を出している父親ですから、本人に同意書を書かせるのは簡単で、告げ口をして俺に恥を書かせた証拠品をこうして確保するのです。内部通報制度で一番大切なのは情報源が悟られないことです。絶対に分からないという事が絶対です。それでも、情報の共有者は特定され、その周囲の人間だという事は該当者には推測が出来るものなのです。柏児相が、保護するときに保護の原因を隠すための細工をしなかったことが最大の原因でもあります。情報源を死守するどころか加害者に開示した挙句に、「一時保護に対する怒りを抑えるため」「子供が虐待と感じていることを知ってほしかった」などと自己弁護の言い訳をしていますが、加害者の報復が始まることは普通の感覚なら誰でも分かることです。勝ち誇ったようにアンケートのコピーを面前に置かれたとき、この女の子は、絶望しただけでなく、もうおしまいだとすべてを諦めたと思うのです。そして、お前の性だと父親から責められたとき、一番悪いのは自分だと観念するのです。女の子の心情は、家族として父親に受け入れてほしいです。虐待されている本人は、家庭の支配者がすべてですから、自分の家庭が普通ではないとは思わず、支配者に受け入れてもらう事だけに専念しています。ましてや実の父親であれば、父親に受け入れてもらえるように努力するのは当然です。そして、父親は、本人が悪いから愛情として叱っていると洗脳しているのですから、アンケートに父親の悪口を書いた本人が悪いというのは当然の結果です。悪い子だから父親が叱ったのに、その父親の悪口を他人に云って父親を悪者にするという事は、女の子が悪いことをしたという事に他なりません。家庭の中では、父親が怒るのも無理はないと思わざるを得ない結果になったのです。だから、女の子は、その後口を閉ざすし、傷があれば自分から隠すし、暴力があっても逃げないのです。学校で裸にして身体検査をしてアザがあっても否定します。子供は、父の支配下なのです。それしか知らないのです。父親は否定のまま、本人は怖いと面会を断ったその後帰宅を希望したのは、子供は家族として父親の方を見ているからです。父に受け入れてもらいたいと必死なのです。自分が悪いと思っているのです。ところが、父親には、子供を大切にするという本能はありません。子供は所有物と言う事はいくらでもありますが、子供を大切にするは本能としてありません。父親の愛情は学習によって育成されるのです。ですから、過去にも、現在でも、貧困のために子どもを売り飛ばすなどと言うことは世界にはまだまだあるのです。現に、日本の法律には、親の懲戒権があるのです。それだけに、家庭内の虐待を考える時、被害者本人が訴えた場合は、被害者保護の第一は、情報源を秘匿するという事に尽きるのです。そうしなければ、元の場所へ戻せば確実に報復されます。加害者に外部の者の通報であると被害者に目が向かないような工夫をしなければこのような事件になるか、子供は帰る場所を失うことになるのです。

「すごい木」選考会の話

 百年に一度しかないという「すごい木」の選考会がありました。

会長のモミの大王が、

「では、始めます。すごい木の推薦をお願いします。」と言いましたが、だれも手を挙げません。しばらく待ちましたが、だれもが空を見上げています。

モミの大王は、

「情けないことですが、会長なのに私が推薦する木は、実は一本もないのです。ごめんなさい。誰か、推薦してもらえませんか。」というと

桜の大王が言いました。

「100年前には、私は三本も推薦できたし、選ぶのが大変だった。でもな、近頃は、切られたり、枯れたり、散々なんだよ。前に、推薦した三本も、一本も残っていないし、会長と同じだよ」

「同じた」とカシの大王も言い出しました。

「この100年で、山の木は、切られてしまった。第一、木が立っている場所なんかなくなっている。俺様だって、いつまで立っていられるか」

 空を見上げて、

「ちぇんそーはすごいね。昔は切られる木も大変だった。のこぎりや斧でギリギリとやられるんだ。痛いのなんのって。最後にはひどい悲鳴を上げていた。ちぇんそーは、一瞬だよ。一瞬。百年頑張ったって一瞬。あっという間に、薄暗い森が、太陽サンサンだよ。」

 と言って空を見上げながら涙を流していました。

少し間をおいて

「私もだ」と杉の大王も言い出しました。

「100年前は、どうしても表彰したい木が、10本もあった。次回には必ず推薦する約束で待たせるぐらいだった。なのに、待たせたその木も、切られたり、土地開発で弱くなった地盤なんでもない災害だったけど倒れてしまった。残っちゃいない。」と空を見上げました。

「山や森の話だけじゃない」とイチョウの大王が話しだしました。

「秋には、紅葉並木だ何だと騒ぐけど、普段の並木なんてコンクリートに覆われて、息も絶えだえで、狭い地面の植木鉢に入れられて道路に並べられているようなものさ。空気は悪いし、雨が降ってもこっちが吸う前に側溝とやらにみんな逃げていく。その挙句、いきなり電線の邪魔だ、信号が見えないと、丸裸ぐらいまで切られてしまう。もう、限界なんだよ。元気な木を探す方が、くたびれてしまう。」

クスノキの大王が、続けて

「そう、街路樹なんて言われて、駅前で立っていると、ヒヨドリのやつがやってくる、それでうんこをするというだけで迷惑だ、迷惑だと、ヒヨドリが来ない様に、丸太みたいに、枝を切られるし、スピーカーを取り付けて音を出すし、眠ることも出来ない。精神的に追い詰められているよ」

「それなら、俺も同じさ、」とヒノキの大王が

「俺なんて、クリスマスシーズンだとなると、一か月もの間、イルミネーションなんてキラキラにされて、じわじわと熱いし、眠るなんて全く出来ないよ」と

ぐったりと枝をさすりながら、ヒノキの大王は、空を見上げました。 

黒松の大王が、大きな息を吸ってから言い出しました。

「俺たちは、岩を砕いて根を張るし、潮風にも負けない。なのに、外国から来たあの小さな松くい虫にやられてしまう。渡り鳥には気をつけろとは言っていたが、今は何がどうしてやってくるかもう予測もつかない。どうしたらいいのか、分からない」

と言って空を見上げました。

槇の大王は、

「俺たちは、人間に好かれて、人間が好きな形に枝を切られても曲げられても我慢してきたけれど、家の建て替えなんて言い出すと、あっさりバッサリ切られて、もう、庭で見てもらうなんてことなくなったよ。見てほしかったら、盆栽になれ。てことさ」

樺の木の大王は、

「山や並木だけじゃない、みんなくたびれている。風や雨、雪にも耐えられるような木はもう少ない。空からは、あの酸っぱい雨が降ってくるし、暑かったり寒かったり、もうお天気までが俺たちをいじめてるって感じ」というと空を見上げて、

「もうこの会議の大王たちだって、次回は会えないんじゃないの」

とじろりとみんなを見渡しましたそして

「雨降れ、雨降れ、百年前と同じおいしい雨降れ」と謳いだしました。

「俺も体がムズムズ息苦しい。次回はもうこれない。ただ、後継ぎがいないんだよ。俺の代でしまいなんだよ」

 と桐の大王は、空を見上げながら、

「本物の木が立っているところなんてもうない。すごい木なんて夢だよ。この会も、今日が最後になったと、みんなに言えばいいさ」と、顔を上げたまま

「しょうがないんだ」と言いました。

 

そんな大王たちが見上げた空には、100年前と同じ雲が、ゆっくりと流れながら、

「人のいなくなった村なら、立派な記念樹が育っているよ」と言いました。

 

系統樹から生命の誕生は消え、新しい種は出てこないの話

 ほっておくと悪さをするのがホモ・サピエンスです。正当性を述べながら、自分の利益ばかり考えて行動しているのもホモ・サピエンスの特徴で、集団行動するたびに、知らず知らずに他人まで巻き込んで、悪さの片棒を担がせます。日本の戦前は、今の北朝鮮並みに酷かったのに、国民全体が戦争に連れていかれました。戦後に気づいたとしても再びろくでもない人に振り回されてもいます。地球の最強生物として地球を制覇したのにゆとりもなく、敵が来るという妄想から抜け出すことが出来ないのが、ホモサピエンスなのです。ホモ・サピエンスの子孫は、この200年位で生活を大きく変化はさせましたが、裸のひ弱な人類の種の一つとして誕生し多くの捕食者を含めた敵におびえていた数十万年前の恐怖から今だに抜け出すことは出来ないのです。その、ホモ・サピエンスの不安感が、地球を痛めつけすぎて、新しい種が発生する機会が無いほどに傷つけてしまったとも言えるのです。進化は、世代のように受け継がれていく間に起こるものではなく、たくさんの種が発生する中で、残っていくものの中で起こります。ですからこのままずっと時間が立てば、ホモ・サピエンスが進化して新しい種に変化していくと期待していたなら間違いで、進化した種は全く別のところで生まれるということです。分岐分類学というところが作成した、系統樹という図を誰もが見たことがあると思うのですが、進化の関係を樹木状に表現した図で、共通する祖先から、枝分かれしたとされるものです。そこでは、系統の分岐と枝の長さ・高さで、進化の程度や時間経過を表しているのですが、これは現在残っている生物を遡っていくと、という前提で見なければなりません。本当はもっとたくさんの枝があるのですが、すでに絶滅してしまったものや確定出来なかったものを除いてわかりやすくしているだけの物という条件で見なければなりません。化石などの形で残っていないものは空想も出来ないのです。この系統樹で学習すると、簡単には、私たちホモ・サピエンスは、ネアンデルタール人の進化系だなどと勘違いしますが、そんな順番で進化するものではありません。誤解する人は、私たちの中から次の人類が生まれてくると勘違いしてしまい、超能力の子供が生まれると間違えてしまいますが、そんなことにはなりませんし、もし、次の種が生まれるのなら、ホモ・サピエンスが生き残れるのかは不確実です。猿の惑星ではありませんが、新しい種は、地球の片隅のどこかで突然のように生まれ、私たちホモ・サピエンスを駆逐していくかもしれないのです。新しい種は、数万年と言う地球の時間の中で出現していますが、新しい種が生まれる環境を、ホモ・サピエンスの子孫は、この200年程度の時間の中で地球規模で破壊するという行為を行い、アフリカにも、アメリカにも、ユーラシアにも新しい人類が生まれるような条件を著しく低下させました。もっと言えば、自分たちでさえ生き残れないのではないかというぐらい、地球をいじめているとも云えます。絶滅と誕生を繰り返した地球の生命の歴史は、新しい種の誕生を待たずに現生物で終わろうとしているかもしれないのです。ホモ・サピエンスはヒト属で唯一現存している種とされ、他の種は全て絶滅していると言われています。逆に言うなら、奇跡的に地球に生かされてきたということも出来ます。それなのに、お礼を述べるより先に地球に仇なすことをしているのですから、ほっておくと悪さをすると言ってもいいと思うのです。しかも、地球の活動の中で、多くの生物が死に絶える中、1000組から1万組程度しか残らなかったという夫婦の子孫が、こんなにはびこったと言われています。ホモ・サピエンスは、ネアンデルタール人などよりずっと地球にかわいがってもらったのに、新しい新種の人類が発生できないまでに地球を痛めつけています。系統樹に命があるとするなら、新しい種が誕生する環境は失われ、生命の樹は、枯れたとも言えます。

歴史に悪役はいないの話

 歴史は、一方的な好みで見た方が面白いのですが、その見方で歴史から教訓を捉えようとするなら、絶対に間違えます。歴史に、もしもが無いように、歴史の中には教訓はありません。その時その場所その人だからそうなったのであって、必然無き存在はないからです。例えば、井伊直弼は、確実に悪人と言われています。最悪の評判は、日米修好条約に始まって、安政の大獄等々国に被害とろくでもないことをしています。ところが、彼が行った海外貿易の許可が、各大名家の海外貿易を促進し、それが討幕の資金になったことからすれば、案外会社のリストラを進め、不利益な取引をした取締役のせいでみんなが奮起して会社が再建されたという言い方も出来ます。信長は、比叡山を焼き討ちしたので無神論者で信心もない人間と思われますが、そうではなくて、神仏は信じていたけれど、神仏の使いという人間たちを信じていなかったという解釈をすると見方は変わります。この時代、戦いの時の本陣は、野営よりも門や塀があり、敷地が広い寺社に置かれるのは普通です。だから敵を攻めるという事は、本陣のある寺社であることも多く、信心深いという上杉謙信でさえ、敵領国の何百という寺社を焼き討ちしています。一揆を起こすときも寺に集まってからというのはよくあることで、寺社は争いの時の砦的役割を持たされてもいました。ですから、その大親分筋であった比叡山を焼き討ちすることに関しても織田軍団としてそれほどの悩みも異論もなく出来たと思うのです。今の宗教と当時の宗教の違いを認識できなければ大変なことのように見えますが、政治と宗教が密接だった時代では、宗教も政治勢力の一つにすぎなかったのです。ただ、それまでは特権を持ち勢力が強すぎて武士ごときが手を出せなかったという事情があることは否定できません。ですから、叡山焼き討ちが明智光秀の義憤に繋がったというのも間違いだと思っています。それに、宗教は他宗教に対して残虐で、自派しか認めませんから、一向一揆を含めて権力の一翼に参加していたなら織田信長てなくとも覇者との戦いは避けられなかったと思うのです。それは、当時も今も、宗教の存在は認めても、宗教を生活の糧としている人間が必ずしも信じられないということは続いており、自分に対して敵対しているのは、生身の人間であり神仏ではないと確信できれば、戦うことは何の不思議もないことと言えます。現在の日本では、対立は否定されみんな仲良くが基本ですからその発想で歴史を見ると、対立するという事は、勝ったほうが正義で、負ける悪人がいなければならなくなりません。そうして大化の改新蘇我氏は大悪人に仕立てられましたが今では全く違う見解の方が正論となってきています。日本人が歴史を何故ヒーローショーと重ね合わせ様になったのは、平和になった江戸時代の、歌舞伎などの芝居小屋から始まると言えます。芝居では、主役を強調するためには悪人が必要ですし、残虐でないとヒーローショーは盛り上がりませんから、歴史の事実より盛り上がりで興行します。つまり、主役と悪役が際立つほど面白さが増しますから、悪人探しをしては正義のヒーローづくりをしてきたことが歴史の人物像を大きく誤解させてきたとも言えます。さらに、権力を握った方が、相手を悪役に仕立てるための様々な隠ぺいや資料の廃棄が後世の評価をゆがめてきたことも間違いありません。時代に生きることは会うこともない後世の人間の評価など気にして活動はしていません。みんなそれぞれの思いで行動しており対立はあっても誰もがヒーローでも悪役でもいなかったと言えます。出た結果で、後世の商売のためにヒーローにも悪役にも後出しで役付けされてしまうだけです。ですから、歴史は、一方的な好みで楽しむもので、歴史から教訓を得ようなんて考えたなら、間違えてしまうと思うのです。

困った一等地意識の人々の話

 番付好きな日本にあって一等地に住むという事は、憧れであり価値あることだとは思うのです。ここは、一等地なのよと言える人にはその響きに素晴らしい価値を見出していると思うのです。だから、一等地であることを守るために戦うというのも理解できることです。さらに、価値観は個人のものですから、本人の価値観を非難すべきではありませんし尊重されるべきものだとも思うのです。それは、逆も同様で、一等地という価値観を隣人にも押し付けるべきではないと思うのです。隣人はまだまだ上があると上を目指しているかもしれません。つまり、あなたにとって一等地だとする価値観を地域で共有していくには、日常的な地域活動などによる連携がなければなりません。問題が起きた途端に仲間だよねと云ったところで生活の違う地域の人が問題を共有したうえに同じ価値観で統一できるなんてことは困難です。一等地って、なあにと言われたなら、一等地番付は多種多様にあって、価値観の違いほど一等地はあるんですとも言わなければなりません。今、南青山に児童相談所が出来ることに反対している人達の報道を見てみると、こんな一等地に児童相談所は似合わないと言っているのですが、一等地に似合わないのは反対しているあなたですと某セレブの人が言っていたように、一等地に似合う似合わないは、他人が決める事ではないと思うのです。では、東京の一等地ってどことなれば、住宅地としての代名詞の様だった田園調布も今では一番ではないと言われていますし、昔の大名屋敷のあったところが有名などとも言われますが結局は、土地が高くて誰もが希望しても簡単に住むことが出来ない場所に落ち着くと思われますから、一等地なんて時代や背景で変わってしまうものだとも思われます。ですから、南青山も、一部の住人からすれば、一等地と思いたいのでしょうがそれは勘違いで不動産業者の口車並みの思いこみだと思うのです。元々、土地は国からの借り物です。土地はすべて国家の領土ですから、自分の土地を購入したから独立できるわけでもありません。借り賃としての固定資産税も払わされますし、自分の所有地なのに子供に譲るだけでも相続税が掛かります。公共事業によっては強制収用ということもあります。つまり、言葉の意味で言う本来の所有ではなく、自分専用に使用する権利を国と契約しているだけ、国土の一部を安く借りているだけのことです。そんな国は、国として国民に必要なものは、国土の中に設置するのが当然ですから、自治体として住民に必要なものと判断した機能を設置するにあたり近隣住民の私有地に配慮すべきことは限られているというのが常識です。ですから一部報道にあった土地の値段が下がるなんて理由に対応する必要など全くないと言うことです。しかも、こういった人たちの言い分の中心には、その機能は必要だけど、ここではなく他に建ててくれという迷惑施設観があります。迷惑施設というのは、社会的には必要だけど自分の家の近くには存在していて欲しくないというもので、ごみ焼却場や福祉施設を指す言葉です。福祉施設などは、迷惑施設として昔から、近隣住民の同意なしには立てられないということさえもつい近年まであったぐらいです。近隣住民が言い出す迷惑施設への不同意の理由は、昔から利用する人そのものが危険な人だとか土地の値が下がるという物言いですが、組織が運営する施設等の方が安全で、投機目的でなく生活のための土地ならなら値が下れば税金もやすくなります。確かに長い歴史を持つ地域が形成されているところなら、地域に暮らすということですから隣人との関係は配慮されなければなりませんが、大都会東京の地域的活動実績もない一部の人が、突然地域の代弁者の様な顔をしてこの一等地に児童相談所は似合わないと叫んでも、誰もが違和感を感じていると思うのです。そのような人たちの言い分や行動を報道から集めてみると、自分が気にくわなければ、なんでも迷惑施設にして自分の価値観を押し付けて反対しているとしか見えないのです。迷惑施設というパッケージで覆ってしまえば、地域の人の賛同が得られるだろうという目論見は、ネット社会の様な情報が広範囲に流れる社会では、単なる地域の問題ではなく社会性として取り上げられ、利己的な主張で隣人を排除しようという企みは我儘としか見られないと言うことに気付くべきだと思うのです。迷惑施設という考え方は、数十年前、公害という生命や健康を守るという事から始まり、行政等の大きな組織に対抗する個人の戦い方として様々なケースで有効な方法だったこともあります。公共事業であっても、迷惑施設という言い方で、反対を唱えることで設置を断念させることが出来たケースもあります。しかし、人の命が掛かった権利を守る方法を、今回のように、自分の利益保護のための武器に使用している人々が報道されると、世間の評価は批判的になってしまいます。児童相談所まで迷惑施設と言い出す人々は、現代の情報社会の中で、金持ちが沢山住んでいる土地にやっと住むことが出来たのだから、その価値が共有できない施設は立てるなという論拠は多くの人に否定されていることを理解すべきだと思うのです。ここが私の一等地という思いは否定しませんが、成上がりという言葉が差別的要素を含んでいるように、一等地という選別的な言葉に酔ってしまうのも、差別的意識に繋がるものだという事をお伝えしたいものです。

駅のエレベーター荷物より人優先じゃないのの話

 駅のエレベーター、クイズで出せば、車いすは〇、杖付き老人〇、高齢者〇、乳母車〇、障がい者〇などと簡単に回答してくれそうですが、キャスター付きトランクを引く人はどうでしょうか。中には、両手で大きなキャスター付きトランクを引いて結果として乳母車が乗れないと言う事があっても先着順で動きません。中には、引っ張りながら走って無理矢理乗り込む人もいます。それだけではありません。背負ったならリック程度で済むような大きさの鞄のようなものにまでキャスターが付いている程度でも荷物を持っているのでと言う顔で乗り込みます。キャスターとハンドルがついたおしゃれな旅行カバンや、色合いがカラフルなトランクが一気に広がり、キャスターなしを探す方が困難なぐらいな状況になってきました。呼び方としては、キャリーケース、キャリーバッグとも言うのでしょうが、キャスターとハンドルがついた鞄は、体に密着している鞄とは違い、立てたり、引いたりしているだけで、一人分とまで行かなくても確実に場所取りとはなっています。エレベーターを活用すると言う事では、誰でもが使用できて当然だと思うのですが、駅のエレベーターは、列車の到着や発車時間に人が集中します。特に到着の列車の乗り換えにはキャスターの使用できない登らなければならない階段が多く、エレベーターの方が便利です。しかし、エレベーターは駅のホームに一台程度で一度に乗れるのも4~5人程度です。乳母車では2台乗れない場合も見られます。そんなエレベーターも入口と出口が違うというものが多くなっており、出口側に先に乗り込んで前を向いていれば後ろがどうなっていようとお構えなしに居られます。ですから、キャスター付きトランクを立てて本人と零点何人か分を確保したまま後ろに障がい者がいようと乳母車がいようと配慮することもないという事も発生しています。状況を見て、お先にどうぞと言って、次ぎに乗るぐらいの感覚ならお互い様ということでもいいのですが、キャスター付きトランクを引いていることが、エレベーターを利用できる条件をクリヤーしているという顔でいることには、疑問が残ります。それに、エレベーターが必要だと誰でも思う人は、エレベーターへたどり着くまでに時間が掛かります。キャスター付きトランクの人は足早に先着しますから、障害の人や高齢の人、乳母車の方が到着した時には、先にボタンを押して一番に並んでいて私が呼んだエレベーターぐらいの顔でいます。そして、我先に乗り込むのですが、聞かなくなったエチケットという感覚が必要なのではないかと思うのです。法律でもないルールでもない、マナーでもない、何となく譲る様な感覚の作法があってもいいと思うのです。作法というと堅苦しいので過去には、エチケットという言葉で表現したこともありますが、人と人の接点の潤滑油の様な対応も残しておくべきだと思うのです。エレベーターが必要な人は、他に代替するものがありませんが、キャスター付きトランクを引いている人には不便でもほかの方法があります。なのに、遠慮も配慮もなく、我先に乗り込み、背中を見せて知らんぷり、駅のエレベーターは荷物より人の方が優先だと思うのです。重い荷物を持って商売をしていた時代は既に遠く、貨物と人の分離は既に定着しています。ですから、客車に乗る人が持てる範囲は、いざとなっても自分が対応できる範囲が基本だと思うのです。まして、先を急ぐのなら、自分で持てばいいと思うのです。私は、見ての通り、荷物を持っているのだから障がい者と同等にエレベーターに乗るのは当たり前の様な顔は、少し違うと思うのです。乗るんだったら、一度周囲を見渡して、ゆとりある対応で乗るのが作法ではないかと思うのです。