知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

辞めないことに感謝する時代の人材育成の話

 障がい福祉の人材育成は、業務評価を含めた、スキルアップ、キャリアアップなどを

主軸として、福祉の理念、理論、技能方法向上を如何に成し遂げるかという研修プログラムが今も行われています。しかし、今日の障がい者福祉の現場においては、基礎部分さえ不明な方の就労が普通になってきました。つまり、福祉業界には異業種からの参入が増えて福祉関係者の常識は通じなくなってきました。さらに、過去に労働環境の悪さとして云われた「休日がなくて、ボランティア残業だらけで、給料が安い」もそれほど改善されていず、精神的にきつい状況に追い込まれるケースも多い現場であるということもあり福祉は特殊な職場と言う感覚も一般的に続いています。この様な変わらない労働環境をさらに悪化させているのは、社会的な人手不足で中間的な経験者の不足は事業運営に影を落とすまでになっています。その一方で、福祉業界への企業の進出は、新しいサービスを実施したり、特定のサービスに特化したりと、社会福祉法人が必要としてきた人材ではなく、福祉に拘らない人材によって対応しているという事か始まっています。今後も労働環境が厳しい状況は変わらず、人手不足が続く中、障がい福祉の人材育成が、今までの様な、スキルアップ、キャリアアップなど中心でいいのかと言う懸念があります。そもそも、福祉の業界は、福祉の理念なり理論から派生する「やりがい」に依存してきた感があります。福祉を理解さえすれば、「やりがいある仕事」なのだから、誰もがスキルアップ、キャリアアップを求めると考えてきました。そして、「やりがい」に依存して、労働環境の他業種との遅れを放置してきました。福祉なんだからこれぐらいは当たり前、障がいある人が困っているのだから仕方がないだろう方式で、職員の善意を引き出して依存してきました。つまり、職員の「やりがい」は職員の「善意」を引き出す手段になり、労働との関係を二の次としてきました。結果、現在では「やりがい」を感じる前に退職する一方、福祉の理念や理論が門前で嫌悪されてしまう事が往々にして起きています。なぜなら「福祉を理解すること」や「やりがいを感ずること」が、ボラ勤、長時間労働、低賃金の温床であったり、「障がい者のためなんだから」が自己犠牲もありうる労務環境を維持している現状があるからです。入職動機そのものが福祉に関心があるということ程度である職員に、キャリアアップやスキルアップと訴えても、研修を実施しても、本人が望まないポジションや業務への通過儀礼のようにとられ、時間になったら帰れる程度のキャリアで結構ですという状況も出てきています。そこには、福祉は特別な分野、精神的意識が必要な分野と思いこんでいる過去の感覚に囚われている管理・経営者に対して、福祉は対人サービスの一つにすぎないという意識に基づくキャリアがあれば十分と言う職員との意識の違いとなって広がっています。福祉の主たる役割は、生活であり日常性であることから、一定の技能水準が満たされれば、誰もが働くことが可能な職種であり、評価が標準化できず、個性が最も大事にされる職種で、働きかけ一つをとっても、標準化、マニュアル化に最もなじまない職種だからです。福祉の人材養成では、対象者への支援や介護の専門性を追求することに基本が置かれていますが、それを求めることが困難な人材をも活用しなければ現場が回らない時代に遭遇しています。数年で離職する、資格を取得したら転職する等の環境の中で、キャリアアップやスキルアップと訴えていても、離職を食い止めることに繋がるとは思えません。一方、民間企業の参入が可能となったことで、福祉のプロとは何かが問われています。これまでの理念的なことより、サービス提供機能が問われています。サービス提供のプロとは何かが今問われる時代に入りました。にもかかわらず、株式会社のサービスと福祉法人のサービスの違いを、差別化することでの意義付けをすべき作業も行うことなく社会福祉法人は、株式会社の悪口を述べる程度の対応しかせず安穏としています。それが、人材の育成にも大きな影響を与えています。サービスの具体的内容の水準・標準化された内容もありません。つまり、キャリアアップやスキルアップを叫びながら、その水準も、ゴールも設定されていないのです。だから辞めないことに感謝する時代に入ったのです。だからと言って、辞めないだけで感謝していても事業運営が出来るものではありません。福祉は人材頼みである事から従前とは違う人を育てる方法が求められていることに社会福祉法人は気が付くべきです。もう、誰も支援してくれない時代が来ていることに社会福祉法人は気が付かなければなりません。人事評価制度も、給与などへの反映を構築することが出来ず、結果として、職員のモチベーション維持が「福祉のやりがい」に転嫁され、人事評価は根拠さえ失って、利用者支援のサービス向上に繋がるはずやその職員の成長の手助けとなるなどは達成できていないのが現実です。福祉のプロとは何かを、支援プログラムの水準や基準を明示出来ない社会福祉法人は淘汰される時代が来ています。

 

サビ管資格認定制度は、民間の趣味資格より安易だの話

 障害福祉サービスを提供する事業所には、サービス管理責任者を配置しなければならなくなりましたが、障害福祉のサービス管理責任者ほど、安易で酷い資格はありません。サービス管理責任者のことを略して、サビ管と呼ぶのですが、質は一切問われていません。資格を取得するには、決められた実務経験と資格認定の受講を受けるだけです。しかも受講内容は、講義とレクリェーションと見間違う演習しかなく、試験があるわけではありませんから、何も語らず、何も動かなくてもそこに存在さえしていれば認定されるのです。そんな資格は他にもあります。例えば、設置しなければならない防火管理者資格。講習を受講さえすれば取得できます。調理師資格、ラーメンしか作れなくても取得できます。それは、防火管理者は職場の防災のために必要な人材に防災の基礎を知ってもらい自覚していただきたいからですし、調理師は調理技術よりは食中毒により人に危害を加えないための衛生知識が重要だから、資格を与えることで認知させ底辺を広くしていくことを目標としているからでもあります。つまり、人命にも関わるこの様な資格は、取得を奨めて事故防止などの予防としての効果のために出来るだけ広く門戸を開けている資格です。しかし、障害福祉のサビ管の資格は、障害を有する人の人生を左右することもある業務なのに安易に民間の趣味の資格より簡単に取得できるというものなのです。障害福祉の現場では、業務内容のマニュアル化・標準化さえ国レベル、都道府県レベルで確立されていないだけでなく、業界としての支援水準も支援基準も示されてはいません。否定されている集団指導でさえ今のサビ管認定方式では出来ない程度のレベルなのに、求められる一人一人個別化した支援内容を計画し実施を管理監督することかできると人と受講さえすれば行政は認定してしまうのです。受講科目の構成も問題があるのですが、サビ管制度そのものにも問題があります。第1は、障がい利用者の個別支援の支援水準・支援基準がないことです。つまり、サービスの質や量の基準も示されないままに所定の障害福祉サービスの提供に係るサービス管理を行う者として説明されますが、一体所定のサービスとは何かは、受講の中では理想ばかり語られて実務としての最低限の指針さえ明示されはしないのです。明示されるのは、せいぜい体罰の禁止等々の禁止事項程度で資格を得た職員が基礎的な実務には程遠い状態で帰ってきても、有資格者配置として加算されるのです。それほどサービス管理責任者は粗製乱造されているのです。第2は、実務経験です。社会福祉法人と言っても全体としての標準サービス指針もありませんから、支援サービスは法人によって実に様々です。つまり、対人サービスとは何かを理解している法人から、虐待とは何かさえ理解していないのではないかと思われる法人まであって、同数の経験年数であったとしても、実際の職員のレベルには雲泥の差があると言えるほど知識・理論・福祉観・人権意識・障がい者観に違いがあります。にもかかわらず、法人が推薦さえすれば、何ら基礎知識について学習する機会もなかった職員であっても、現場に学習体制もなく職員を放置していた法人であっても、受講でき有資格者となってしまうのです。第3は、サービス管理責任者が有資格者の上位に位置付けられているということです。現場経験年数といっても、学びの多い法人とほったらかしにされた法人が混合している今日の状況で、基準は経験年数だけですから、基礎知識を学んだこともない方でも受講しただけで資格を得ることが出来ます。しかし、福祉の現場には、社会福祉士介護福祉士や保育士等の国家資格者所有者も珍しくありません。つまり、少なくとも福祉の基礎を学んで試験に合格した有資格者の上位にサービス管理責任者として指揮を取ることが出来てしまうのです。一定の水準が確保された有資格と、水準など関係なく参加することで得られる資格が混在することはありますが、支援水準に関係ない資格者が現場では上位に立つということが既に起きています。福祉の現場では、全く関係ない職種にいた方がいきなり施設長になっても大丈夫な業界ではありますが、少なくとも、国家資格に準じた試験を課して一定の水準を確保しなければ、現場法人・施設間の著しい支援レベルの格差を追認するだけになっています。第4は、サービス管理責任者には、不正をしない限りその業務の質や中身で責任が問われることが無いということです。障がい者の人生に関わっているのに、支援計画の責任者なのに、その中身で責任を問われることが無いということです。一端資格を獲得すれば、支援の資質レベルに関しての管理責任を問われることもありません。どんなサービス管理をしていようと書類さえ確実に用意していればそれで十分なのです。本人の能力が低くても、その事業所のレベルが低くても、利用者の変化もつかめない、劣悪サービスでも管理者として営業することが出来ます。この様な状態は、福祉業界としてのレベル向上にはなんら寄与するところがありません。第5は、あたかも施設長の次のポジションのように言われ、利用者の個別支援計画の策定・評価、サービス提供のプロセス全体を管理するとされているのですが、人材育成権も、人事権もなく、サービス内容の質・量を確保するための管理権も予算処置も確保されていません。組織の中で、何ら権限を持たないポジションなのです。現場においては、施設長とどう関与するのかと言う課題も抱え、サービス管理責任者は、請求のための、記録事務係になっています。こんな状態ですから、法人によっては、 体罰禁止や人権確保さえ唱えていれば、働きかけをしない支援や見守りと言う言い訳や、自己選択と言う責任逃れもまかり通り、本人への学習チャンスを奪うような支援さえも容認される元凶ともなっています。現場の専門性のレベルは静かに低下しており、中間位の人材は不足し、職員の離職回転は徐々に加速されています。介護保険との違いが明確な障害福祉の現場にまだまだ介護保険の仕組みが亡霊のように現れて、民間の趣味資格より安易な資格でも設置義務などとしているのは無駄遣いとしか言えないと思うのです。

 

弱者の恫喝になるとすごむ地域の話

 知的障がいのグループホームを建てようとすると、近隣の理解を得ているかと言う差別的なルールが今もあります。過去には自治会の承諾書を持ってこないと認可さえしないと行政に言われたこともあります。最近は同意書までとは言わなくなりましたが、設置の説明会はしなければならない状況は隠然としてあります。グループホームは、障がい者ばかりが住むということから近隣住民の理解を得なければならないというのは口実にすぎず、

反対者がいるという前提で後日トラブルとなるよりも事前に媚を売っておけと言うことに近いルールです。障がい者グループホームは、民間アパートの住民管理型でもありますから、結果として障がい者をちゃんと管理しますと周囲に宣言しろと言うだけのことです。迷惑施設がやってくるのだから、迷惑を掛けませんと約束して来いということです。不特定多数の個人が住む通常のアパートの方が如何に管理会社が確認していようともトラブルが発生するリスクは格段に高いと思うのですが、アパートやマンション建設で反対運動を行う人は多くはありません。ところが、障がい者の施設となった途端に、上から目線で高飛車に許可権でもあるかの如く、近隣住民が多弁になります。社会福祉法人だけでなく社員寮だったとしても、入居者に対しての入居条件や管理責任は組織が普通に堅持していますから、苦情は個人にではなく組織が受け取ることとなり、騒音問題やゴミ屋敷などと言うトラブルになることは基本ありません。ですから、今日のプライバシーなどを含めてどんな人が住んでいるかも分からない民間のアパートのから比べたら、ずっと分かりやすいアパートと言えます。さらに、施設となれば、定員とか施設設備とか決まっていますから防火設備などを含めて法令順守の建物が出来ます。にも関わらず、設置しようとすると、近隣住民に説明会をしなければなりません。近隣住民と言っても職業も生活もバラバラですから何をどこまで説明するのかさえ曖昧ですが、本音としての近隣住民が求めるメインは「安全か」です。工場でも作業場でもなく同じ人間が住むのにその人間は安全なのかと言う問いです。ですから説明会では、安全ですと宣言し、安全を担保することが求められるのです。確かに人間は不安の除去のために努力しています。つまり、安全の確保は、不安の除去に通じますから、不安は危険であり危惧の除去となります。障がい者グループホームを設置したいなら、安全を担保しなさいと言う要求の本質は、障がい者への不安と危険観です。漠然とした不安感それが嫌悪観でもあります。そんな近隣住民がいるところで、障がい者グループホームがなぜ必要なのか、何故ここに建てることになったのかをどれだけ説明したところで、嫌だなと思っている人は何かと粗探しばかりをして設置を断念させようとします。行政も障がい者の制度としてグループホーム設置を推奨するのなら、近隣住民の説明会などと条件など付けずに、法律の条件を満たしているなら許可すればいいだけのことですが、許可者の責任を問われないように話し合ってくださいとしか言いません。その結果当事者間の話し合いの末、結果として近隣住民の納得を得るために、地域に媚て利用者の権利を制限する約束をしたり、地域に利益を提供したりしていることもあります。その挙句に、設置反対の先鋒だった人が今では地域一番の理解者ですなんて美談は福祉施設にはいくらでもあります。福祉は地域の皆さんの理解と協力なしにはなり得ませんなどと手もみしながら進んでいくと、利益供応が解決の手段になって面倒見てやっているという住民と住まわせていただいているという施設の関係が固定化されて、結果のしわ寄せは利用者が支えることになるのです。説明もしないで強行突破が良いということではなく、何故障がい者がそこで暮らすと云っただけで近隣に説明しなければならないかの本質が、危険だからにあることを行政も認めている状態があることに違うと思うのです。実際その実例として、最近の関わりで自治会に事前説明に行ったところ、「家には娘がいる」「子供の通学路にある」「地価が下がる」「こんな交通の激しい狭いところではなくもっと緑の多い広いところがいいのでは」と平然と語り、障がい者は何をするか分からない不安な存在で、女・子供が被害者になりかねないと危惧する発言をします。その後に、説明会を開催すると、設計士に対して「この設計をすることに良心は痛まないのか」「敷地内目いっぱいに建物を建てて、法律さえ許せばそれで良いだろうという傲慢さを感じる」と依頼されて法律に則って設計しただけなのに悪人扱いをします。当然設置側には、「近隣住民に迷惑をかけて、ふざけていると思う。普通のアパートだったら猛反対している。あまりにも非常識だと思う。」「皆が普通に生活している場所。図示された立面図を見て、呆れている。なぜこの場所を選定したのか。駅前にも川向うの田んぼの中にも物件はあるのに。」とまで非難します。そして脅すのです。「近隣住民と上手く付き合えないと、住むことになる障害者に罪はなくても、恨みを買うことになりますよ。」「グループホームを建てるにあたって、誓約書を差し出してもらいたい」「知的障害や精神障害ということが心配。とくに、ある程度自分たちで身の回りのことができる人の方が、昨今の報道にあるような悪いことをするのではないかと心配になる。建物にも反対だが、一度にたくさんの障害者が住むことになる不安がある。」なとと録音しておきたいような言葉を並べ立てるのです。あまりに酷い言い方をしたことに、差別的なことは言わないで欲しいと言うと、今度は「被害者意識は止めていただきたい。弱者の恫喝になる。」と恫喝します。それなら、ここで言ったことをみなさんの前でも言ってみるが良いと言ったら脅し合いになりますから黙りましたら、「反対運動の資料になるから図面のコピーをよこせ」と本音を言いました。そんなことを口にする、連中は自治会だの、子供のスポーツ会だのの幹部であり地域の名士でもあるのです。だから、口では、障がい者理解も語りますし、地域の自治も語りますが、本音は、安全確保のためには、障がい者グループホームは迷惑施設でしかないということです。

 

 

これだけ一票が踏み台になっても選挙は成立しているの話。

 NHKから国民を守る党(報道ではN国と言われている)が参院選比例代表で1議席を得ました。この代表の立花氏は一票の重みを語る知識人より遙かに現実的な方法で、結党して6年という月日で、国会議員の席を確保しました。報道された、本人が話す内容はこうでした。立花氏は、船橋市の市議に「NHKから国民を守る党」として立候補して初当選しますが、1年程度で、東京都知事選に鞍替えします。知事選では落選するのですがすぐに、東京都葛飾区議に立候補、当選して1年半ほどで、今度は大阪堺市の市長選に立候補します。そして落選。今回の参院選立候補となります。つまり、選挙で当選してもいわゆる腰掛程度の議員活動と地域とは関係なく少しでも上位と思える議員の座を求めて鞍替えしていくという方法で、次には衆議院に鞍替えすると明言しています。この間に、NHKから国民を守る党としての知名度は上がり、地方選では、26人の地方議員を当選させています。その地方議員にも議員活動などは本人任せで、目的は地方議員の給与から金を借りるためと言い、「国政選挙のための資金稼ぎ」と公言しています。確かに、参院選比例区に出るには10人以上の候補を有し最低3千万円を超える供託金を準備する必要がありますから、26人の地方議員を資金源とすると言うのは効果的です。現に、今回の参院選には、37人もの候補者を立てているのに「候補者が当選するとは考えていないが」「売名行為」ができればいいと明確です。NHKのテレビ政見放送でもひたすら「NHKをぶっ壊す」と言う一つのフレーズを繰り返し続けた候補者もいました。とにかく、数を確保するためにどうすればいいかそれだけに徹して、ルールさえ守れば何でもありという作戦で、選挙区で計3・02%の票を得て、国庫から約5900万円の政党交付金を受ける資格さえ得ました。立花氏の公約は、たった一つで、受信料を払った人だけがNHKを視聴できるようにするスクランブル放送の実現だけです。これまでの政党なら、数ある公約の中のその他に掲げる程度の小さい小さい事柄です。しかし、あの高飛車なNHKの態度と選択したい候補がいないと嘆いていた人には、面白いと感じられたのかもしれません。でも投票した人の思いなど関係なく立花氏は、民主主義は数の論理ですと数を求めて、世間から非難されている議員を含めて大勧誘を始めています。過去には、三公社五現業と言われた日本国有鉄道日本専売公社日本電信電話公社の三公社は民営化され、郵政・造幣・印刷・国有林野・アルコール専売の五事業も国有林野事業を除いて民営化または独立行政法人に移管されました。その流れから言えば、NHKも民営化されてもおかしくはない組織で、契約の義務は法律にあっても支払いの義務が書かれていないのに税金並みの取り立てをしたり、契約の終了の規定がないなど問題がありますから、不愉快と感じている人は沢山います。ですから、単刀直入なNHKから国民を守ると言われると何か期待してしまうかもしれません。こんな方法でも民主主義では選挙は成立し、立花氏に投票した船橋市民や葛飾区民は、ただ踏み台にされたという事実さえ非難されることもありません。そして、立花氏は当選会見の場で早くも「ぼくが衆議院にくら替えする可能性は極めて高い」と語ったことは、政党交付金を使えば衆議院に立候補する資金は得ましたという意味になります。立花氏は、立候補すれば、NHKの政見放送で、再び「NHKをぶっ壊す」を繰り返すことが出来、勢力拡大の為の広報活動になると確信しています。立花氏に投票した人の思いなんて何も語ることはありませんし、マスコミも立花氏に何か変だという表現はしても一票を踏み台にする不適切な方法だとは言いません。ただ、NHKから国民を守る党方式で、一点集中型の不満を票に結びつけて独裁的政権を生み出し全体を不幸にしたという歴史も日本にはあります。つまり、民主主義は、話し合いや性善説で成り立っていると説いている間に、選挙と言う権力掌握手段によって、戻れない方向へ向かうこともあります。民主主義は、人類の理想ではなく、過程にすぎないことを、選挙は民主主義の理想を叶えるものではなく、数の論理で成り立っていることを、マスコミも適切に話さなければ自分たちが否定される側にいつなるのか分からないということを認識すべきだと思うのです。

学校から体育をなくした方がいいの話

 独立行政法人日本スポーツ振興センター(JSC)」の災害共済給付制度には、全国の小学校、中学校、高校、幼稚園・保育所などの児童・生徒らの約9割が加入していると言われていることから、このデーターを国立研究開発法人「産業技術総合研究所産総研)」が14~16年度の約322万件を分析したという記事が出ました。その中では、国が対策を示した後も、児童・生徒らが命を失い、重い障害を負う事故はなくせず、且つ同じような事故が毎年繰り返されていると結論づけています。記事によると、事故は年間平均で小学校と中学校で各37万件、高校26万件、幼稚園・保育所など6万件が起きており、校舎内(教室、廊下など)21万件に対し、主に運動を行う校舎外(運動場、体育館、校庭、プールなど)が68万件と3倍起きていて、学校外の(通学路など)も16万件あったということです。JSCの災害共済給付制度では、医療費総額5千円以上のけがや一部の病気に対し、4割分が支払われる方式で、大半は給付額1万円未満の軽い事故となっていますが、1万円以上の重い事故が1割強の13万件もあるということです。事故の原因についても、小学生では、授業の合間や放課後などの休憩時間に遊んでいる時が半数近くを占めて子供なのでなんとなく仕方ないのかと思うのですが、次に多いのが授業中で、その大半を体育が占めるということなのです。中身も、跳び箱の着地の失敗や、マット運動で首をひねるなどは、あきらかな人災と言うべきことです。さらに、中学、高校生になると、運動部の部活動が半数を超えて、部員数が多いバスケットボールやサッカー、野球、バレーボールなどで事故が目立ち、重い事故は柔道やラグビーなどの体をぶつけ合うスポーツとなっています。事故は、学年が上がるにつれて増え、中学2年がピークとなり、部活動を引退する中学3年で減り、高校1年で再び増え、命に関わることもある頭のけがは1万2千件以上あるということです。この状況から見ても、学校の体育の在り方に問題があることは明白です。その論拠として、体育の授業の跳び箱事故は1万5千件も(中学・高校も含むと2万件余)起きていますが、跳び箱を飛べることは社会では何の役にも立ちません。日本の体育は、中央集権国家を建設するための青少年教育の意味で用いたことが始まりで、軍事教練がその伏線にありました。その意味では既に、徴兵もないのですから、スポーツは教育ではなく、余暇の選択でいいと思うのです。体育関係者を含めて、子供たちは体を動かすことが好きだとか、体操は子供たちの人気ある教科だとか言っていますが、それは体操好きな大人の思いこみでしかありません。ですから跳び箱が嫌な子供に対しても、いろんなスポーツを知るためとか、身体能力を向上させるとか、色んな経験を積むためとか説明しますが、それは、何故算数をやるのと言われたら国語も理科もやるのと同じだと言っているのと同じでなんの説明にもなっていません。身体能力は後天的に努力しても大きく変わることはないのに、クラスみんなが見ている前で一人一人が演武しなければならない体育に、公開処刑だと運動が苦手な子が言ったことがあります。体育とスポーツは既に大きく違ってきています。体育への異なる価値観、異なる視点から見るなら、クラス30人近くの児童に、十分な指導者の確保ができないにもかかわらず、敢てリスクの高い体育を行う必要があるのかと言うことです。体育のリスクを回避する対応は、学校の集団ではできる環境にはありません。子供同士のふざけ合いや、精神的高揚、闘争心、格好、見栄えに対してケアのできる体制にはないのです。この報告書でも、事故の対策後も情報が十分に共有されず、似た事故が繰り返されており、小中学校の授業でのプールの飛び込み事故も、学習指導要領で禁じられた後なのに3年間で計42件あったとされています。体育の授業は、クラス単位で行いますから、技能や能力に応じて配慮されて、行われるのではありません。出来ないから緊張し、緊張するから失敗するのです。そして失敗が事故に繋がります。JSCが結論付けているように、学校の体育では、国が対策を示した後も、児童・生徒らが命を失い、重い障害を負う事故はなくせず、且つ同じような事故が毎年繰り返されているという事は、学校の体育の授業で起きた事故は、人災なのです。この何万件もの事故を見る限り、安全であるはずの学校の授業で障害を持つことになることは健全ではないのです。どうしても、スポーツを体験させたいのなら、地域の中にスポーツクラブを認定し、単位取得が可能なようにすべきだと思うのです。

一票の重みより組織票はずっと重いの話

 選挙が近づくと選挙に行こうと様々な人が広報しますし、テレビや新聞でも一票の重みを熱く語ります。あなたの一票が社会を変えるかもしれないなどと言う声かけに心を打たれて投票に行った人も多いと思います。しかし、これはみんな欺瞞です。ですから、何回かの選挙に行って気が付くのです。自分の一票がいつだって死票の如く社会に反映されていないし、多数決で決めるという事は、みんなと同じじゃないと結局反映なんかされないということに。選挙の原理を調べれば分かることですが、組織票が絶対に強く、対立していたのなら、一票差でも負けた方の票は反映されないのです。そして、組織で過半数を取った政党が政治を動かしていると言う事実です。その結果、その政党を支持している人が全体の20%に及ばなくても政権を掴むことは可能となるのです。しかも、組織票は利益の分配ですから、優先的にその組織にまず分配があるのです。その実例は今のアメリカを見れば分かります。どんなに批判されてもトランプ氏は、大統領の権限をフルに生かして選挙で自分を支持する人のために施策を推し進めています。知識人と言われる人たちがいつも言うような十分な論議をすべきだとか、反対の人の意見もちゃんと聞いてなんてこともなくても権力は続いています。戦後アメリカの議会民主制方式を取り入れただけでしかない日本の選挙では利益分配組織が圧倒的に強いのです。何故なら、金権選挙は批判されても、人員動員は批判されないからです。選挙ではどれだけ人を動員できるかが当落に大きくかかわります。会社や団体を含めた組織が選挙活動を行えば、仕事中や業務中でも動員は可能ですが、組織を持たなければ、仕事を休んで弁当と飲み物を持って候補者の所へ来てくれる人を探さなければなりません。人がいなければ、公式な場への選挙ポスターさえ貼り終えることも出来ず、街頭や駅前でビラ・チラシを配ることさえままなりません。ネットを使用するという方法もありますが、今やネットの世界も溢れかえる情報で余程の有名人でなければ、選挙に出ているというだけで開いてくれるものでもありません。よく自転車に旗指物で行っている候補者もいますが、選挙地域が小さければ可能ですが、大きければ回り切れませんし人のいない野原を叫びながら走っても得票には結びつきません。お金を払うと選挙違反になりますから、現金ではない未来の利益還元を約束してただ働きをしてくれる人を探していくと、組織に出会うのです。例えば、100人の有権者がいて全員が必ず投票したとしても、候補者が2人で対立していれば、51票と49票になったのなら49票は反映されません。反対者の重みとか言いますが、当選した者が官軍なのです。さらに、候補者が3人とか複数になると選択に迷う有権者が増えると、多数決ですから当選のための得票数値は下がります。この時2割の支持しかないと言っても20人確保出来ている基礎票を固めている方が有利なのは当たり前のことです。つまり今の民主主義のルールでは、選挙では自分の権利を誰に委任するかと言うことですから、委任したい人が候補にいなければ投票しても結果は同じなのです。その意味では、当選者と支持者であっても、すべてが一致しているわけではありませんから、当選後の活動は当選者にすべて委ねられてしまいます。ほぼ全権委任なのです。その、議員だって議会で質問しても意見を言ってもそれで何かが大きく変わるわけではありません。法治国家と言われる日本では議員は立法府の一員で法案を法律にしなければ行政府としての官僚は動かないのです。どんなにいい法案でも、当選者の中で、多数派を構成しなければ法案を堤出すことも通過させることも困難になりますから、ここでも組織の一員であることが有利なのは当然です。つまり、一票の重みを語っている人々だって、直接選挙制でもないこの制度の中では、現実的ではない理想を語っていることを自覚しているはずなのです。選挙が終わるたびに、一票の格差に関する裁判が行われています。その裁判結果からしても、公式に、公が一定の範囲内なら格差があることを認めています。それは、一票の価値は、公平ではないと認めたものでもあります。ですから、一点集中政策であっても、不満の集中であっても、組織化しなければ議席は確保できません。マスコミ等に出てくる識者が選挙の理想を語り現実和を話さないことが、ますます自分の一票なんて本当はとても軽いということに気が付いて、選挙に無関心な人を増やしていると思うのです。あなたの一票で何かが変わるなんて甘い話をするから行くたびに幻滅を感じる人が増えるのです。選挙には、一人一人を大切にするという機能などないことをきちんと説明すべきなのです。そして、何かの施策を実現したいなら、徒党を組んで、多数派を構成しなければならないということをもっとはっきり説明すべきだと思うのです。

表現と作品は違うと思う、アート表現の話

 障害を持つ利用者の中にも、芸術的に優秀な人は確かにいますし、発想や作品が秀逸な人もいますが、それはほんの一部にすぎません。多くの障がい者は自己表現としてアートを活用することは勿論、作品として仕上げることが困難です。それは、健常者と言われる人も同様で、自己表現手段の一つとしてアート作品があるなんて人はほとんどいません。むしろ、絵で表現してなどと言われると困ってしまいますし、むなしいや愛しいなんてアートで表現しろと言われたって出来るものではありません。つまり、誰もが自己表現手段の一つとしてアートを先天的に持っているのではなく、その手段や方法に、出会い、学習することによって、習得し、色々な表現手段の一つにしているにすぎないと思うのです。ところが、障がい者に理解のあるアートセラピーの人々であっても、障がい者が作ると何でもかんでも障がい者による表現活動としてしまいがちです。初めはそれでもいいのですが、出来上がる作品が同じことの繰り返しであることから、始まりの頃の輝きが失われ数年の内に停滞期が訪れている場合が見られます。ですから、私は、障がい者が頑張ったのだからこれは立派な作品であるとか完成品だから他者が手を加えるべきではないという考えに反論しています。私は、障がい者が描けばそれだけで立派な表現だと過剰に褒め称えることは逆に見下した考え方だと思っています。特に知的障がい者の場合は、作品を完成させたいという要求よりも、製作中の過程の変化を楽しんでいると私は考えています。知的障がい者は作品作りを楽しみますが、何もアドバイスをしなければ、社会的に評価される終結点を認識して作品を完成させたり、自分自身の認知として作品の終結点を決定することが苦手だと思っています。つまり、知的障がい者だけでなく、アートの表現は必ずしも他者の評価を求めているものではなく、その製作過程を楽しみその活動状態そのものが表現活動で、支援者等が評価する状態も通過点に過ぎないと考えています。それは、誰かが、適当なところで終結させなければ、動画のように進んでしまいシャッターチャンスが失われるということでもあります。むしろ作品は完成品とするのでは無く、アイデアであり素材であると仮定した方が適切だと思うのです。アートセラピー等では、障がい者が製作した物の多くを作品として終結してしまいがちです。販売の場合にも、その作品を壊さないという視点を持っているために、キャラクター的に限定されて汎用力が非常に狭くなっています。私は、障害があっても成人が作りだすものは単独の作品に拘るのではなく、集合体の部分として一つの製品に生かされていることが重要と考えています。つまり、売れるモノづくりに関与することが大切だと考えています。何故なら、成人の障がい者がアート活動をしているのを見て、「お絵かき出来ていいですね」と言われることに大いに不満を持っているからです。みんなが働いているのに、障がい者は昼間も、お絵かきしていると言われることが不満だからです。そして、アート活動は、様々な方法で、障がい者も多様な表現力を持っているという証明は出来ても、今はまだ、表現されたものが一体何を言わんとしているのかを通訳し対応する技能を私は持ち合わせていません。それならば、未来にアート表現の翻訳機が発明されるまで、製作物として社会で「売れるモノづくり」に参加することの方が適切だと考えています。活動を支援する人たちの満足のためではなく利益が利用者にもたらされることで成人の障がい者のアート活動が仕事であり、働く場であることを知ってもらうことも必要だと考えています。ですから、創作としての作品ではなく、製作としての素材の一部として、その素材を自由に切ったり張ったり組み合わせたりすること、その素材の一部を構成することをプロデュースするなら、「売れるモノづくり」のデザイナーとなり得ると考えています。小さな声を合わせるとか、小さなものでも大きな力にと言う人たちも何故か、アート作品的になると個人の所有に拘ります。しかし、何かを作り上げても、生かされることに繋がらないと静止した物体にすぎませんが、アイデアであり素材となれば原資と言えます。福祉関係者は、売ることに抵抗感がありますが、売れることは啓発・広報することよりはるかに効果的だということを知るべきだと思うのです。