知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

就労免除・就労猶予の話    

    日本の国民の三大義務は、教育を受けさせる義務と、勤労の義務と、納税の義務と学校では教わります。簡単に言えば、勉強してちゃんと働いて税金を納めましょうと言うことです。日本人は真面目ですからこの事に疑問も不満も言わずに、学校へ行くのは当然、働くのは当然、そして、税金は少し嫌だな程度に理解し行動しています。ところが、特別支援学校などが整備されるまでの長きに渡り、障害者は、就学免除や就学猶予という形で、排除されてきました。そして、現在でも、就労免除・就労猶予と言う状態は続いています。当然働いていませんから、納税の義務も免除されて相手にもされていません。勤労の意思なきものには社会保障は与えないとまで言いながら、納税もした事がなくても障害者基礎年金と言って社会保障はしているのです。つまり、働いて税金を納めろと言いながら、お金をあげるから働かなくて良いよと言っているのと同じ事が世の中にはあるのです。何故そんなことが起こるかというと、勤労の義務を遂行しようとしても、勤労の意志が溢れていても、就労先がなければなりません。ですから政治や行政は、国民を働かせるために、仕事がある経済状態の確保や就労の斡旋として公的なハローワークなど施策を行っているのです。これは、親切ではなく、勤労の義務を保障する為の国の義務でもあるのです。本来の憲法の文は、国は勤労の場を提供し、国民は勤労の義務を負うと言う事なのです。ですから教育の義務を保障するために、国が学校を整備し、国が税金を集める機関を設置しているのです。ところが資本主義の経済界には別の論理があるのです。それは、生産効率の悪い人を無理やり働かせる為に生産効率のいい人の貴重な時間が無駄になるのは、生産効率が悪いと言う考え方で、極端に言うと、働く人の邪魔(迷惑)になるのなら、邪魔料(迷惑)を払ってでも働いて頂かない方が得だと言う考え方です。その矢面にいたのが障害者で、障害者に、働く場を提供する方が高くつくと、働く場の提供を政府も経済界も拒んで来たのです。例えばこんな事です。車いすの人を採用したら、トイレを含めてバリアフリーの工事だけで、罰金より金が掛かるという費用論理。障害者を雇用して不景気でリストラすると社会的非難を受けるより雇っていないという非難の方が軽傷論理。障害者は、扱いが難しく何かあると虐待だのと人権派の弁護士などが乗り込んでくる危険論理。等々一杯こじつけてきました。こうしてこの考え方が長く障害者に就労免除と就労猶予という対応になったのです。 

 それでも、働きたいという障害者には、働けるという証明をしろと要求を突きつけて訓練だの、実習だのと健常者と比較評価を押しつけて諦めさせる方法もとってきました。福祉の関係者は、仕方が無いから、如何に健常者の邪魔にならずに、健常者の補助が出来るかを見せることばかりを探していた時代もあります。法律により、障害者の働く場の提供として、現在は、企業に法定の就業率など、整備されているのも事実です。しかし、障害者を働かせるより、お金を渡した方がましという論理は今も健在で、余暇活動や時間の過ごし方のような福祉施設も沢山あって、働く意志があると言うことと能力により働く場さえ提供しないと言う事は全く違うことは理解されていない現実も続いています。福祉施設の中で、時間を過ごしていれば工賃として月に3千円程度が支払われて働いていると言わせているところもあります。それなら福祉施設を経営する為の経費である税金を施設を廃止して、利用者に分配した方が、一人10万円ぐらい支給できるのではないかとまで言われています。どんな障害があっても、自らの手で得るものには、自負が育ちます。現代では、自ら働くことによって得られた収入が、人と人を結びつける機会であり、場にもなっています。国民の義務を果たす意欲があっても、障害に応じた働く場が提供されなければ、その力を発揮することは出来ません。就労免除・就労猶予という環境が、今も続いていると思うのです。