知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

陸自のエンブレムは武士道への恥の話

 報道で、陸自が新しいエンブレムとして発表した図柄の中心は、交差する抜き身の日本刀とさやと言うものでした。簡単に「さむらい日本」などと言って欲しくないと思っている私には、なんと恥ずかしいことだと呆れてしまいました。簡単な表現をすると「裸で道を歩く裸の王様」並の刀を裸で道に並べるような侮辱だからです。刀は、戦国時代の終わり秀吉が刀狩りやその中で名刀などと選別したことから武器としてより工芸芸術品としての価値も高めました。そして江戸時代には、真剣で戦いをすることなど無くなった中で、武士道としての象徴的存在として刀は特別な位置を持つものとなっていったのです。ですから、殺すか殺されるかの切羽詰まった場面まで刀を抜くことは無かったし、例え、無礼討ちでも証人が居たり正当性が無ければ、殺人として切腹させられてしまったのです。よく言う武士の魂などと言われる刀を、抜き身で持ち歩くことなど武道として最低で、それは刀では無く、凶器であり狂気以外の何ものでもありません。さむらいは、刀を相手を威嚇するために持ち歩いたのではありません。

 日本人の奥ゆかしさ、慎ましさとしての「武士道」はひけらかすものではありません。刀は、さやに収まりでんと構えて、控えると言う事が基本です。私は、日本の軍人がアジアの中で軍刀という刀をひけらかして偽の武士を名乗って狼藉を働いた過去に遡って陸自を非難するものではありませんが、刀と武士道を理解しないで「かっこいい」みたいなノリでエンブレるとして使用することは、刀が泣いているとしか思えません。日本刀は、鍛冶職人を含めた武器ではありますが、高品質の美術工芸品でもあり、武芸を本当に行っている人にとっては、拠り所でもあります。さやという衣服をまとい、持ち主の心の支えとなるのが武士道の刀で、裸同然の抜き身で相手に恐怖や威圧するのが刀ではありません。こんなエンブレムは、日本の武士道の恥です。

新しい貧困を考えるほど日本は豊かでは無いの話

 殆どの人が、ネクタイは無駄だと感じていると思うのです。でも、正装という事からは外すことは出来ません。衣類は、長く身分を表す物でした。作業着なんかは、職業を表していますし、制服は所属を表しています。つまり、社会の仕組みとして服装はその人の社会的位置を表現したものとして考えられてきましたから、服装の乱れは、心の乱れとまで言われるほど、外見としての服装は今でも多くの人が気にしています。クールビズなどの例外はあっても、全く無駄なのに正装では明治以来ネクタイを着けることになっていて変える事が出来ないのです。ですから、みんな外見には気を遣っていて、お金が無くてもそれなりの服装をすることで外面を装っていると言う事があります。過去には、貧乏人は、継ぎ接ぎの服を着て、古着を着て、もらい物でしか着ることは出来ませんでした。それが、現代では、服装では貧しいのか貧しくないのかが分からなくなり、100円ショップでもネクタイが買えるので、貧乏でもネクタイぐらいは締めているのです。そんな中、NHKニュースで貧困が話題となり、実名で出た女子高生が随分攻撃を受けていることで、それは「貧困」の解釈が違うと弁護する発言も増えてきました。ただ弁護する方が、貧困には、「絶対的貧困」という食べ物も食べられない貧困と、人間的な生活と言う事から捉えた「相対的貧困」というものが有るのだと言う論理で弁護しているのですが、明治のネクタイのように欧米の受け売りを最先端の話にすり替えるのは良くないと思うのです。確かに相対的貧困の考え方は、絶対的貧困を克服した上で尚且つ隠れた貧困を考えるという視点では素晴らしい発想です。ですから、欧州で、「貧困を再発見した」と評価されても良いのですが、それが今回の事例を正当化する論理とはとても思えません。何故なら、日本は、みんなが中流社会と言われたように、会社の社長になっても大した給料ではなく、現在のように欧米に真似て何億円も貰う社長など居ませんでした。そして成金と言って金持ちになって派手に使用すると非難されたり揶揄されたりもしたのです。日本は貧富の差という事で言えば、戦前のような大金持ちという一部の富裕層と大多数の貧困層という事では無く、大部分がある意味の中流という位置を占める社会を構成してきたのです。ところが欧州には、はっきりとした貧富の差が日本など比べものにならない位今でもあるのです。そこで研究された相対的貧困の考え方を、何の条件も加えずに、日本に持ち込むことは間違っていると私は考えています。現実に先進国にも絶対的貧困は存在していますし、移民問題なども貧困の問題と切り離して考える事の出来ない欧州の抱える問題だと思います。つまり、子どもの貧困と言う事を考えるときに実名まで出して頂いたこのケースが適切だったのかという事の方が問題だと思うのです。相対的貧困という新しい概念を説明するのに、何故母子家庭で無ければならないのか、専門学校への進学断念で無ければならないのかだと思うのです。

 日本の大学短大への進学率は、6割弱で専門学校も含めると7割近くなりますから、みんなと同じでは無いと言う言い方も出来ますが、高校と違って特別な資格で無ければ高校からのストレート進学でなくとも、社会人の経験の上で、進学できる方法は多様にありますし、生活保護世帯や母子・父子家庭世帯では生活が苦しいと言う事は既に幾度も報道されていることなのですから、新しい貧困の事例にはならず、女子高校生という実態に攻撃や中傷をかぶせただけになってしまっています。例えば、一般家庭でも進学について、東大などの有名大学は裕福な家庭が有利だと言われています。その理由は、同じ能力でも、塾や家庭教師の指導を受けないと受験と言う特殊な技能を会得できず、その機会の無い貧しい家庭の子どもは不利だと言う事です。結局、母子家庭とか進学を諦めたとか、冷房がないとか、キーボードだけで練習したなどが、演出効果のようにしか見えず、新しい貧困の話にはなっていかないのです。日本には、現実に絶対的貧困が今も存在していますし、服装では貧富の差が分からないぐらいまできただけで、まだまだ貧しいことが山ほどある国だと言う事を考えるべきだと思うのです。

 

 

 

 

ペットは奴隷、それとも家畜、の話

    テレビでは、猫や犬の餌が繰り返しCMで流れます。過去には、家族の食べ残し、いわゆる残飯なんて言われる食事をしていたときの方が長かったと思うのですが、栄養素まで考えられた人間が食べても支障が無いという餌がスーパーにも必ず列んでいる時代になりました。そして、ペットショップは盛況で、殆どのペットは売買によって確保され、人間世界の所有権が発生して、所有者を中心として人間の為だけに対応し、行動範囲の制限や所有者からの要請にいつでも対応しなければならない立場にペットはあると言えます。つまり、家畜は、商品であったり、商品を生産するものであったり、労働力の一部であったりと人間の生活を支える手段や方法の一部です。しかし、ペットは、存在が価値あるもので、精神心理上の価値を持っているにも関わらず、売買によって入手し、その生命さえも所有者に握られ、所有者に隷属して生かされています。しかも、時には人間と同等の扱いを受けている場合もあったりするのを見聞すると、そんなペットの状態は、人間社会の中の奴隷制度と似て非なるものかもしれませんが、私は、奴隷とどう違うのか考えてしまったのです。 

 奴隷制度というと、教科書で習ったアメリカの黒人奴隷しか思い出せないと云う人も多いと思うのですが、古代ギリシャローマ帝国奴隷制度の国でしたし、日本にも奴隷制度はありました。有名な安寿と厨子王丸なんかが有るように、人身売買は日本の戦後も存在して、私の持っている戦後出版された「人身売買」と言う本では、農夫として農業に、舵子として漁業に、林業、鉱業、様々な産業に、労働力として、児童が売買れている事が記されています。ですから昔は、言う事を聞かないとサーカスに売っちゃうぞなんて脅しもあったほど、人身売買は日常にあったことでもありました。日本では、奴隷とは言いませんでしたが、金銭で買われ、所有権が国にも認められ、自由意志で行動は出来ず、所有者の虐待も正当化されたような状況の人々は、日本にもずっと居ました。労働力としての奴隷は、農業を含めた産業が機械化されるまでは意識されないぐらいに普通にあったのです。つまり、身分制度があるような社会環境があると、最下層としての奴隷を社会として容認しやすい環境が出来て、奴隷に落とすぞは脅迫として、奴隷よりましだは現状の維持として案外支配には有効な手段の一つでもあったのです。そんな奴隷の供給は、戦争で、戦争に負けた民族を奴隷として売り飛ばしたり、使役したりしていました。これがローマ帝国などでは一般的でした。次が、支配に邪魔になる犯罪者、思想犯や政治犯、宗教の違い、さらに、少数異民族と案外ヨーロッパは産業革命前は貧しかったので、主な輸出品が奴隷などと言う時代もあります。イギリスはスコットランド人を何十万人も売り飛ばしています。それが国家事業として本格化したのがアフリカの黒人奴隷です。タバコや砂糖そして、綿花などのアメリカの生産を支える労働力の確保として、膨大な需要が生まれたのです。遠くから奴隷を運ぶより身近にいた北米のアメリカ インディアン、南米のインディオなどが奴隷にされましたが強い抵抗やヨーロッパから持ち込んだ、天然痘やチフスに感染して先住民たちが次々と死んだことで貧しいヨーロッパ人まで奴隷としてつぎ込みましたが、足りなくてついには、アフリカ人にまで手をのばしたのです。学校で習うときには、いきなり黒人奴隷だけを言われるのでなんて酷い奴らが居たんだ、鞭を持って繋がれた黒人を威嚇する奴隷商人の絵を見て、こいつ等さえ叩きのめせば、こんな悲劇は起こらなかったのにと思うのですが、本当は、みんなが認めたちょっと際どいけれど正当な商売だったのです。つまり、奴隷の売買を生業とする連中や国家があってもそれが不当だとは言われていなかったのです。その結果、イギリスの貴族が、黒人の幼児をペットとして飼うと言う事まであったのです。人間と犬・猫の関係は深く、ペットなのか家畜なのか分からないところは沢山ありますが、明らかに物珍しさで野生で暮らすことの方が適正な動物や昆虫やは虫類等々が、ペットという言い方で、買われています。奴隷は、売買され、所有権が決められ、所有者により拘束され、所有者の命令に従わされ、所有者より虐待も受けます。人間同士の奴隷は今でも世界では、常識という国もあります。家畜とは違う生き物を自分の自由にするために自分の欲求を満たすために、拘束し意志を奪うことが、適正では無いと言われるときが来たなら、ペット所有者は、黒人の奴隷商人と同じように歴史書に出てくるのでしょうか。

24時間テレビの禁忌、障害への嫌悪の話

 24時間テレビが、今年も感動の涙の中で終わりました。このテレビによって、車両寄贈等の恩恵を受けている福祉施設は多くてとても感謝されています。障害があっても一生懸命努力している世間には、知られてはいなかった色々な人が社会に紹介され、人々への啓発もとても良く行っています。その功績はやはり計り知れないと思われます。テレビが家庭で重要だった時代から、今日まで継続していることも素晴らしい実績だと言えます。このテレビを通じて障害者も頑張っていると言うメッセージは十分に届けられていると思います。そして、はじまりとしての福祉への関心としてテレビを見る子ども達のこころへも深く関わっていると思います。

 さて、ではその次をどうするかです。そう、テレビを見てくれている殆どの人がその日常生活の一つのイベントとして高い関心を持ってくれるのですが、それが、次のステップへとは中々繋げていけない実態があるのです。テレビは多少の演出と共に本音や隠したいものをさらけ出すものではありません。実際に放送される物だって、沢山の映像の中から構成されて作られた部分も多くあるのだろうなと言うことは、疑い深い大人だけで無く、感じている人もいると思うのです。どんなことにも、舞台の上と舞台裏は少し違うと言う事を知っていますから、こんなに感動的な日常を送っているのだと思う事と、実際に関わってみたいと思う事は別々です。そして、無意識のうちに感じている障害への嫌悪に気づいてやっぱりイベント、テレビの中に留めておこうと一歩も二歩も後ずさりする感覚だと思うのです。それは、第一に障害で無かったと言う事と、もし障害があったらと言う事に関わっています。障害は、無ければ無いに超したことはないのです。でも一方では、保険の勧誘のように、もし万が一事故に遭ったら、年老いたらあなただって障害を持たされる可能性があるのですよ聞こえてくる、負のイメージ、負の価値観、負の不安によって、誰もが障害は憎むべきものであって寄り添うものだなんて思ってはいないからです。それは病気も同じです。病気は闘うものであって嫌悪の最たるものでもあるのです。だから、病気と闘う人は、美しく、たくましく、素晴らしく他人のことなら思う事はあっても、自分は関わりたくないという対象でもあるのです。実際の障害を持つ人に出会ったなら、差別をしてはならない、人権無視をしてはならないとみんな遠慮と警戒の中で接し、疲れと不安で、日常的なお付き合いは進みたくないのです。そんな、無意識に持つ負担感が、障害への「見えない段差」となっていることにはまだ気づいていません。テレビの向こうで起きている、障害者の感動に拍手はしても、その時だけにしたい気持ちは変わらないのです。つまり、人間は感動しても、行動と必ずしもなりませんから、どんなに感動しても、実際に会って紹介されて、紹介の次ぎの、お付き合いとならなければ、知り合えるということは出来ません。でも、感動的な障害者像には、尊敬しても、日常的な障害には、やっぱり嫌悪しているのです。奇声を上げ走り回っていない、車いすの障害者にだって、好奇の目で見てしまう環境はまだまだあるのです。パラリンピックのアスリートも少数者の中の少数者であり、障害者を晒し者にするなと言われるテレビの中では、素直な障害者支援の気持ちだけが、浮き彫りになるのです。本当は、社会が困った人だと思われている障害者に接するなら、視聴者は驚きと違和感を感じ、視聴者が本音で持っている障がいへの嫌悪に気づくはずです。これは方法論の話です。どんな切り口でどんな方法を選択するかは、実践者が決めることです。そう言う意味では24時間テレビは成功なのですが、その次ぎに、視聴者の思い込みに違和感を突きつけるような現実があっても、無意識に感じる嫌悪感がもやもやしないような関わりを作っていく取り組みは困難を続けているのです。 

 進化の頂点は人間と言う思い込みの話

    人間を進化の頂点と捉えて、人間の行動や身体機能、能力などの一つ一つに、人間こそ偉いという理屈付けが色々と行われています。その一つに、動物は発情という遅れた生殖活動をして、発情をしない人間の性は、進化した高等なものだと説明しようとします。ところが、有性生殖が生殖機能として進化形とは説明されていませんから、人間の性が進化の頂点として説明しようとすると大きな無理が出てきます。遅れた性としての発情による繁殖期は自然環境の中で最も育児に適した時を選んで、受精出来る様に行われると説明した上で、人間の場合は、火や道具を使用することで、季節繁殖は必要なくなったと言います。しかし、季節に左右されない温暖な環境の動物も沢山いますが発情はあります。次ぎに、人間は妊娠期間が長く、多産では無く、育児期間が長いと繁殖能力が低いので繁殖を効率よくするために、いつでも妊娠を可能にする為に進化したと言います。でも、象などの長命な動物も同様な条件ですし、人間と同じような猿だって、発情はあります。すると、今度は、女性が男性を繋ぎとめるための手段としてでは無いかと言う説か出てきます。人間は成人するまでに年数が掛かるこの間雌一人で育てるより食糧の確保を含めて雄がいた方が良いので「いつでも交尾できる状態」で雄をつなぎ留めておくのだと言う説です。しかし、一夫一婦制の鳥や動物は他にもいるのに、発情程度の交尾で満足しています。だから今度は、進化とは関係なく、人間は、性交時の快感が他の動物よりはるかに強い、海馬と大脳新皮質の発達によりその快感の記憶が、何度も生理的欲求を引き起こさせ、同じ快楽を得ようと性交を求めるのだという中毒症状のような説明まで出てきます。この説と同様に、前頭葉の働きが、本能的な発情期でさえコントロールする能力を発達していったのではないかと説明し、前頭葉の発達により、ヒトは性交を行う特定の相手を選び、場所や時間をわきまえて性交渉を及ぶことができるようになったと説明するのですが、文化人類学などの未開と言われる民族の研究でも自由な性交は認められておらず、発情しないことが進化だという説明にはなり得ていません。ねずみやうさぎなどは、短期間に発情がある事から、哺乳類の中で発情期がないと誤解されています。その理由として、ねずみやうさぎは、他の肉食動物から常に捕食されやすいことを上げていますが、他の捕食されやすい動物みんながそうではありませんので、適切な説とは言えません。  

 猿の中には直接生殖とは関係なく、コミュニケーションとしての性交をしたり、繁殖期でもないのに交尾行動をとったりする、人と非常に近い類人猿ボノボがいます。ボノボは、友人関係や仲直りするために、交尾を行うことがあって、研究者はコミュニティーの調和やコミュニケーション目的で交尾をする唯一の動物と言っています。つまり、生殖目的ではない性行動を行うのは、人間のほかごく一部の動物の特徴で生物としては、目的使用外の無駄な行動であって進化の証とは言えないのです。そこで仕方なく、人間の非生殖的な交尾にはオスとメスの間の結びつきを強める効果があるので、人間は、子どもを産む脳力のある年齢層以外でも、中年期以降、でも性行為が行われ、コミュニケーションの一つとして、性交渉を行った相手との結びつきを強くしているというのです。つまり、生物学的にみるなら非効率的行動も、家族やコミュニティの関係を深め合う目的を考えると合理的とまで言い、人間は、他の動物と違い繁殖を目的としない交尾、すなわち性交渉を発達させたと結論づけるのです。実際は、自然界での有性生殖は繁殖として効率は悪いし、生殖を目的としない性交も、進化の証明とはなっていないのです。第一、人間に発情があったとしてもネアンデルタール人クロマニヨン人も困らなかったと思うのです。現代の生活やこうあって欲しいと観念で考えるからそうなってしまうのです。動物の世界でも多くの動物が自慰行為を行うことがあり、チンパンジーやニホンザルの他、下腹部への接触刺激で射精に至るウマやウシなどいます。何でも自分が一番偉いとなったら、全てが一番で無きゃならなくて、何でも偉くしたがることが、独裁者にはよくありますが、人間が進化の頂点にいるのだから全てが頂点で無ければならないと考えて説明しょうとするから筋妻が会わなくなってくると思うのです。確かに、脳や手の機能は、一番でも、空は飛べないし、水中で暮らせないし、鼻は犬の方が優れています。進化って言葉に幻惑されて何か偉そうな気になってしまい、無意識に他のものより偉いと思う感覚が育ってしまっていると思うのです。畜生という言い方やけだものと言う言い方はそれを表していると思うのです。でもきちんと研究して貰えば、進化という言葉は無くなるかも知れません。つまり、偶然この時代で一番繁殖しているのが人間で、道具というサポートによって地球に害なすぐらい繁殖していると言う事だと思うのです。人間は進化の象徴では無く、一番複雑化した生物体だ程度に考えられると、複雑だからこそ、不備もあれば故障もあると言う事から学べば、障害だけで無く、共に生きる動物に対しても無意識な優越感が無くなるのでは無いかと思うのです。

東京都の相談支援資格研修沙汰を待っていたら不合格と言われたときの顔

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 研修日程9割5分以上参加してじっと耐えていましたが、やっぱりおかしいと一言言ったら、参加を否定され、待機を命じたのは、東京都なのに、結局、待機時間分不足で不合格になりました。やっぱり権力は強い。

 資格が欲しいのなら、黙っていろと言われて、我慢できることが社会性なんでしょうが、障害者問題では多様な考え方が出来ないと、極端な考え方に偏ってしまう危険があります。東京都の他の意見を認めない偏りはいつか、対立する偏りを生む原因になるとしか思えません。福祉は、広く深い多様性と複雑性の中で形作っていかないと反感を買うと言う事を行政とその仲間には分からないのかと残念です。

 いくら愚痴を言っても、自分の行動ですから、結局資格を取れずに就労するはずだった法人に迷惑を掛けて仕舞いました。

 

 

治水橋からの話

   ヒバリは、高く飛ぶと言う事を覚えている人は少なくなって、そのさえずりを聞いて、雲の中で、見えない鳥をヒバリと特定出来る人はもっと少ないのかも知れません。同じように、河川敷からは何種類かの鳴き声が聞こえても、その名を言い当てることは日常生活からはすっかり無くなってしまいました。河川敷に残された葦の中では、ヨシキリがやたらと鳴いていますが、あの有名な、カッコウの託卵の相手だとのことは知識では知っていても、葦の中からうるさく騒ぐ声がヨシキリ本人だと言う事を分かる人はさらに少ないかも知れません。結局、鳥の名、草の名、虫の名、等々 当てっこするぐらいしか遊びが無かった時代はとうに過ぎて、そこでどんなに大きな鳴き声で鳴いても姿を見せても捕獲しようとか、追いかけてみようなんてことはもとより、気がつくと言う事も無く、通り過ぎていく時代になりました。ここは、埼玉県の荒川に架かる橋の一つ、治水橋の丁度真ん中当たりです。長さが約800メートルもあり歩くと、20分は掛かります。大宮側の橋の袂までは、間隔が10分程度でバスがありますが、橋を渡るバスは一時間に一本程度しか有りません。時間に遅れれば、何も無い中で1時間近く待つか、仕方なく歩いて橋を渡るしかありません。治水橋は、鋼連続箱桁橋なので、鉄のアーチや鉄の太い吊りワイヤーはなく、欄干(手摺り)は1㍍少ししか無いので360度パノラマとして景色を見ることが出来ます。立木から推測して15㍍もあるのでしょうか眼下には、河川敷が広がり、 秋ケ瀬取水堰のバックウォターとして近郊緑地保全区域として、水田、ゴルフ場、運動場に利用されています。ですから、純然たる自然の河川敷が続いているのでは無く、人が作った景色が広がっているのです。さいたま市ふじみ野市所沢市を結ぶ主要県道との交差地点として、上流では入間川が右岸から合流する荒川ですが、橋の上からは、思ったりよ川幅も狭く流れる水の感じがしないほどに静かで、この川が何度も氾濫したなんてことは想像も出来ません。そして、ぐるりと見渡せば、東はさいたま市市街地のビル群が積み木を並べたように列び、西は富士山や秩父連山が本物のジオラマのように視線よりちょっと下かなと思えるように見えます。そして、一番は空が非常に大きく見えることです。地球は丸いと教わっているので、これだけ空が大きいと地球儀の中の中心より少し上にいて、地平線を上から見ているのかと思えるほどに空が大きく感じられる場所です。

  5月に歩いたときは、ついでに土手の中から雉子までいて、川岸の茂みになっている雑木横にとまるサギも見つけられ、連れがいたならその名を上げて自慢できそうな光景の連続で渡ることが出来ました。しかし、橋を連なって通りすぎていく車から見れば、歩く人もいない歩道で何を叫んでも聞こえませんし、時折急いで通る自転車の学生に聞かれたら逆に自分が気恥ずかしくなってしまうような本当は、日常の何の変哲も無い、何も無い景色でしかありません。名もなきではなく、名も知らぬものがあっても、素通りして仕舞うのが普通で、見えないけれど沢山の生き物がいるのだろうなどと、考えて暮らしてはいませんし、知ろうともしません。それは、雑草と山野草と野菜の差は人間の食物となるか、ならないかだけだというだけの価値観で、自然を大切にと思い、棚田などを自然の風景として絶賛する人も、自分たちの価値観で見て評価しているだけだと思います。人間にとって害なす昆虫や景観を壊す雑草までも受け入れているわけではありません。人の手が加わったものは、常に人の手によって守護されなければならず、人の手が加わっていないところへは簡単に見には行けないのです。人にとって都合がよくても、被害としか思えなくても、そこに暮らす生き物の名前を知っているならもっと違う自然を感じることが可能なのでしょうが、自分の都合のいい物を可愛がり、知らない生き物は無視する対応しか出来ないのに、まだ自然、自然と賛美しています。生活の中に自然があった時代、名前を知り、弁別できた時には、蜘蛛は嫌い、蛇は嫌だと選択できませんでしたが、今は、人が選んだ生物しかいないところで自然を満喫できるは場所まで出来ました。個性や多様性が必要と言いながら、もっと大きな自然に対しては、選択して好みのものだけに接する景色を作り続けているのが人間だと思うのです。