知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

治水橋からの話

   ヒバリは、高く飛ぶと言う事を覚えている人は少なくなって、そのさえずりを聞いて、雲の中で、見えない鳥をヒバリと特定出来る人はもっと少ないのかも知れません。同じように、河川敷からは何種類かの鳴き声が聞こえても、その名を言い当てることは日常生活からはすっかり無くなってしまいました。河川敷に残された葦の中では、ヨシキリがやたらと鳴いていますが、あの有名な、カッコウの託卵の相手だとのことは知識では知っていても、葦の中からうるさく騒ぐ声がヨシキリ本人だと言う事を分かる人はさらに少ないかも知れません。結局、鳥の名、草の名、虫の名、等々 当てっこするぐらいしか遊びが無かった時代はとうに過ぎて、そこでどんなに大きな鳴き声で鳴いても姿を見せても捕獲しようとか、追いかけてみようなんてことはもとより、気がつくと言う事も無く、通り過ぎていく時代になりました。ここは、埼玉県の荒川に架かる橋の一つ、治水橋の丁度真ん中当たりです。長さが約800メートルもあり歩くと、20分は掛かります。大宮側の橋の袂までは、間隔が10分程度でバスがありますが、橋を渡るバスは一時間に一本程度しか有りません。時間に遅れれば、何も無い中で1時間近く待つか、仕方なく歩いて橋を渡るしかありません。治水橋は、鋼連続箱桁橋なので、鉄のアーチや鉄の太い吊りワイヤーはなく、欄干(手摺り)は1㍍少ししか無いので360度パノラマとして景色を見ることが出来ます。立木から推測して15㍍もあるのでしょうか眼下には、河川敷が広がり、 秋ケ瀬取水堰のバックウォターとして近郊緑地保全区域として、水田、ゴルフ場、運動場に利用されています。ですから、純然たる自然の河川敷が続いているのでは無く、人が作った景色が広がっているのです。さいたま市ふじみ野市所沢市を結ぶ主要県道との交差地点として、上流では入間川が右岸から合流する荒川ですが、橋の上からは、思ったりよ川幅も狭く流れる水の感じがしないほどに静かで、この川が何度も氾濫したなんてことは想像も出来ません。そして、ぐるりと見渡せば、東はさいたま市市街地のビル群が積み木を並べたように列び、西は富士山や秩父連山が本物のジオラマのように視線よりちょっと下かなと思えるように見えます。そして、一番は空が非常に大きく見えることです。地球は丸いと教わっているので、これだけ空が大きいと地球儀の中の中心より少し上にいて、地平線を上から見ているのかと思えるほどに空が大きく感じられる場所です。

  5月に歩いたときは、ついでに土手の中から雉子までいて、川岸の茂みになっている雑木横にとまるサギも見つけられ、連れがいたならその名を上げて自慢できそうな光景の連続で渡ることが出来ました。しかし、橋を連なって通りすぎていく車から見れば、歩く人もいない歩道で何を叫んでも聞こえませんし、時折急いで通る自転車の学生に聞かれたら逆に自分が気恥ずかしくなってしまうような本当は、日常の何の変哲も無い、何も無い景色でしかありません。名もなきではなく、名も知らぬものがあっても、素通りして仕舞うのが普通で、見えないけれど沢山の生き物がいるのだろうなどと、考えて暮らしてはいませんし、知ろうともしません。それは、雑草と山野草と野菜の差は人間の食物となるか、ならないかだけだというだけの価値観で、自然を大切にと思い、棚田などを自然の風景として絶賛する人も、自分たちの価値観で見て評価しているだけだと思います。人間にとって害なす昆虫や景観を壊す雑草までも受け入れているわけではありません。人の手が加わったものは、常に人の手によって守護されなければならず、人の手が加わっていないところへは簡単に見には行けないのです。人にとって都合がよくても、被害としか思えなくても、そこに暮らす生き物の名前を知っているならもっと違う自然を感じることが可能なのでしょうが、自分の都合のいい物を可愛がり、知らない生き物は無視する対応しか出来ないのに、まだ自然、自然と賛美しています。生活の中に自然があった時代、名前を知り、弁別できた時には、蜘蛛は嫌い、蛇は嫌だと選択できませんでしたが、今は、人が選んだ生物しかいないところで自然を満喫できるは場所まで出来ました。個性や多様性が必要と言いながら、もっと大きな自然に対しては、選択して好みのものだけに接する景色を作り続けているのが人間だと思うのです。