知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

乙武氏が不幸を感じたと思う話

 障害者の性に関しては、慎重な部分で通常の社会感覚より配慮されています。それだけに興味本位で覗き込みたいと取り上げられることもありますが、個人の生活の事でありた普通の感覚で一般の人と同じ程度に、詮索をすべきことではありません。それだけにマスコミを含めて慎重な対応をしています。しかし、障害者で有名人の乙武氏が、敢えてこの事を世間に晒すと言う事を行いました。その行為によって、乙武氏もまた障害という困難に不幸を感じていたのだと思わざるを私は得ませんでした。乙武氏は、「五体不満足」と言う 自著で、障害者である事は不便ではあるけれど不幸ではないと言っています。つまり、障害ということは、不幸だと思う社会へ向けた障害者からの強いメッセージとして支援によって不便さえ克服できれば普通だと言う事を語っていたと思うのです。そして、乙武氏は、支援を受けながら社会的地位と名声を得ることで、自分は不幸ではないと言う証明をしました。家族を持ち、自立した生活を営まれることで、障害の社会的イメージを大きく変えることにも寄与しました。介護者や福祉関係者が言う言葉と違い当事者の言葉は、 大変な重みを持って社会的には受け取られていました。でも、私が関わってきた障害のある人々の中には、障害は不便ばかりで障害が幸福をどれだけ邪魔しているか計り知れないと言う人もいました。ですから、乙武氏の事例は、出来る優秀な障害者の言葉であり、障害があることで社会参加や生活で困窮している障害者から見れば、きれい事に聞こえて本当に、乙武氏は自分の体に不幸を感じていないのだろうかと思っていました。それと言うのは、乙武氏は、イケメンと言われるような顔立ちで、能力も、話術も達者です。もし、四肢障害がなければ、人生は大いに変わっていただろうし考え方によっては、それなりの大物になっていたのかも知れないと言えないこともないからです。それを一番に感じるのは本人だと思うのです。障害を持つ人は、もし、障害がなかったならどんな人生だったのかと思う瞬間が沢山あります。それは私たちも同じで、もっと頭が良かったなら、もっと背が高かったなら、もっとかっこよかったならと思うこと以上に諦めきれない「もしも」なのです。私は、もしもが強いほど不幸だと思っています。だから誰でもが日常に不幸を感じ、幸せを求め続けているのだと思っています。乙武氏は、家庭もあり生活にも困らないのなら、少なくとも不幸を感じることはないのですから、自分の社会的ポジションに影響を及ぼすような行為を行うはずはないのです。でも、「不幸」を感じていたから、のめり込んだと思うのです。有名になればなるほど、教育者として活動すればするほど、性は危険なものであることは本人が一番よく知っていたはずです。自分が社会的に認知されている反対側にある倫理的危険である事ぐらい認知していたはずです。にもかかわらず、「もしも」障害がなかったなら本当は、もっとすごいと言う事を自分に見せたかったのだと思うのです。私たちは、だれもが不幸を感じるから、祈ります。しかし、乙武氏は、自分で感じた不幸を性で解消しようとしたとしか思えないのです。乙武氏の事例からは、乙武氏の言う不幸ではないと言う言葉よりも、障害は出来たら自分には訪れて欲しくない人間の不幸の一つだと思わざるを得ないのです。